正月の反省
晩生種(おくて)の枝豆は黒豆だった
10月の中ごろ、弟が遊びに来たので、家の裏の荒れ地に父親が育てていた枝豆を収穫した。「枝豆は、晩生種の方がうまい」という父親は、8月にタネをまいた。が、けっこうたくさんまいたので、その時たべたのはごく一部で、1か月も放置して置いたら残りは枝豆として食べる時期を失してしまい、「このまま、大豆にしよう」ということにした。
まあ、知らない人もいるだろうから、ついでに言っておくと、枝豆というのは、未熟の大豆なのである。完熟すれば、硬い豆になる。11月の末に見たら、豆のサヤにも緑色から「枯れ色」が出て来て、大豆になりかかっていた。
大豆になりかけの枝豆 |
枝ごと日に干す |
12月18日に、東京で「第2回SA・PAメニューコンテスト」があって(このことは前回の日記で紹介した)、私はその足で房総半島、千葉県いすみ市の家に帰った。翌日、裏の荒れ地に行ったら、サヤの中の豆はもう十分に硬くなっていた。父親が、玄関わきにビニールシートを広げてくれたので、私は根元から茎を切って運び、シートの上に広げた。1輪車で3回運んだ。
ところが、一輪車にこぼれ落ちた豆を見たら、真っ黒だった。
「あの枝豆は、大豆じゃなかったの?」
驚いてきくと、父親は、「普通の大豆をまくには時期が遅かったから、黒豆をまいたんだ」という。なるほど、それで、なおさら枝豆がうまかったのか。
シートに広げた豆は、「3日くらい日光に当てると、カラカラに乾いて、棒でたたいただけで豆がサヤからはずれる」と父親が言うので、あとは任せて名古屋へ戻った。
正月休みで家に帰ったら、黒豆は殻から出されていたものの、まだゴミも分別されていなかった。ざっと水洗いして殻や小枝、ゴミを除き、良質の豆をより分けることにした。けれど、これが大変だった。どうしてこんなに虫食い豆が多いんだろう。乾燥が不十分でカビが生えているのもある。夕食があらかた片付いて、晩酌の続きを少々やりながら不出来の豆をよりわけたのだが、おせち料理には間に合わなかった。
より分けた黒豆。右側が虫食い豆 |
枝豆で食べた時には、虫食いなどほとんどなかったのに、わが家は消毒なんかしないから、10月、11月と、小さなうじ虫のような連中が「うまいな、これ」と大いに食いついたのだろう。人間さまが食べておいしいのなら、虫だってうまいと思うに違いない。
逆にみれば、店で売っている、ふっくらとして、ツヤツヤした大豆や黒豆は、消毒しているということでもある。虫除けの農薬などは、適期に適量を散布すれば1週間ほどで薬効は分解し、害の残るものではないけれど、「無農薬栽培では、売り物になるような豆は作れないんだ」と実感した年末だった。
元旦の十五夜
2010年の元旦、房総半島は快晴だった。でも、寒かった。畑には一面、まっ白に霜が降りていた。この辺りで雪が積もるのは数年に1度だが、この時期、霜柱は毎朝のことだ。無風快晴の朝は、とびきり大きな霜柱が育つ。
その夜遅くなってから、誰かが「元旦は、満月だ」と言っていたのを思い出した。凍える外に出てみると、美しい月が高いところにあった。
霜の畑に初日の出 |
元旦の夜は満月? |
「おお、元旦の満月!」と感激して撮影したのだが、あとで旧暦の暦を見たら、この日は「旧暦11月17日」、つまり満月の翌々日だった。
でも、いい。1月1日の太陽も、月も、こんなに美しかったのだから、今年は何かいいことがありそうな気がする。
作った、食った、飲んだ
実はこれまで、伝統的なおせち料理をちゃんと作ったことがない。毎年、「今度はやってみようかな」とは思うのだが、亡くなった母親もそういうことには無頓着だったせいもあって、「まあ、何かごちそうを作って、朝から飲んでいればいいや」ということになってしまう。今年もそうだったが、さすがにかみさんは、ちゃんと雑煮を作ってくれた。
私も、暮れに肩ロースの焼き豚を作っておいたので、まず、それで一献やって、雑煮を食べた。
カマボコと肩ロースの焼き豚 |
福島流の雑煮 |
私が育った福島市の雑煮は、澄まし汁で、鶏肉、凍(し)み豆腐が入る。豆腐を寒中にさらして水分の凍結・乾燥を繰り返すと、豆腐の乾物ができ、東京の人などは「ああ、高野豆腐か」と思うだろうが、福島市では豆腐を薄く切って作る凍み豆腐が伝統的な食材だ。私も、これを食べると正月が来た気分になる。
で、2日には、弟一家が年始にくることになっていたので、かみさんと手分けして歓迎料理をこしらえた。かみさんは、デミグラスソースではなくて、トマトソースで煮込んだビーフシチュー、私は得意の厚焼き玉子を、まず作った。
トマト味のビーフシチュー |
得意の厚焼き玉子 |
厚焼き玉子は、出汁、みりん、砂糖を入れて甘くし、片栗粉を少々加えてなめらかな仕上がりにした。これは、1月1日のうちに作っておいた。
1月2日に作ったのは、サラダとパスタ。かみさんのリクエストで、白菜の柔らかい葉先と、畑から採り立ての水菜、それにクルミを刻んで混ぜ合わせ、オリーブ油、塩、コショウ、リンゴ酢で基本的なフレンチドレッシングを作った。「あなた、ドレッシング、上手でしょ」などとおだてられると、ついつい「任せとけ」と応えてしまう。
パスタは、ビーフシチューの付け合わせなので、食べる直前に出来上がるようにした。ゆでたパスタをオリーブ油と塩、コショウだけで味付けしたシンプルなものだが、これも、畑からパセリを採ってきて、水菜と一緒にみじん切りにして散らした。
白菜と水菜とクルミのサラダ |
水菜とパセリを散らした簡単パスタ |
弟の2人の子供たちは成人していて、食欲旺盛だから、これで足りなくなったら困るなと思い、前日に、バラ肉のかたまりで焼き豚も作っておいた。バラ肉をフォークでやたらと突き刺し、塩とコショウをすりこんで1時間ほど置く。凧糸でしばって形を整え、鍋に湯をわかして放り込み、まずアクをすくう。そこにショウガを1かけ、長ネギの緑の葉の部分、しょうゆ、砂糖、それに香り付けのスパイス「八角」(英語名はスターアニス)を2かけ入れて(八角形のままの大きさだと、甘い香りが強すぎる)、弱火で30分ほどコトコトと煮込めばできあがり。ふたをしてゆっくり冷ますうちに、味が中までしみ込む。そんなに面倒な料理ではないが、1時間以上煮込むと、肉がトロトロの角煮になってしまうから、火を止める時間だけは気をつけなければいけない。
そしてこの時期、翌朝まで寒い所に置いておくと、汁に溶け出した脂肪がまっ白に固まっている。これはラードとして使えるけれど、カロリーが高いから、私は、すくい取って捨てることにしている。
白髪ネギを散らした、バラ肉の焼き豚 |
……と、最後のところはもっともらしいことを書いたけれど、実は暮れから毎夜の酒宴、そして自分で作ったおいしい料理を食べ続け、とどめがこのバラ肉の焼き豚で……3日に名古屋へ戻り、恐る恐る体重計に乗ったら、もう、これは、「想定外」の数字が現れた。
反省している……猛烈に反省している。
12月に会った服部幸應さんも、岸朝子さんも「ダイエットした」と誇らしげに言っていたのが思い出される。岸さんが「4合の晩酌を2合に減らしただけで、どんどん体重が落ちた」などと言うのを、「80歳を過ぎた人が、そりゃあ飲みすぎでしょ」と聞き流していた自分が愚かだった。今年こそ、ダイエットする。
だから皆さん、私を酒席に誘わないでください。気が弱くて、酒の誘いは断れない私なので……。
(2010年1月10日)
亡き人ふたり
酒乱ではあったけれど……
昨年12月4日の夜、房総半島、千葉県いすみ市の家へ帰るJR外房線の列車の中で、A子さんから携帯へ電話が来た。
「テンコウさんが亡くなったらしいんだけど、知ってる?」
俳人の川崎展宏(てんこう)さんのことだ。その訃報を私は知らなかった。すぐに岩手県・雫石町のY子さんに電話してみると、「そうなの。新聞に出ていた」という。
A子さんも、Y子さんも、私の学生時代からの俳句仲間だ。テンコウさんは当時、私が所属している俳誌『杉』の編集者だった。テンコウさんは明治大学教授で教員生活を終えたが、確かそのころはK女子大の教授で、A子さんは、その教え子でもあった。
私が明治大学文学部日本文学科に入ったのは、1970年。その10月、加藤楸邨門下の森澄雄が『杉』を創刊した。縁あって翌年1月、私は森澄雄を訪ね、師と仰いだ。
何回目かの句会のあと、いつものように何人かと酒宴となったときのことだ。そこで初めて、私は酒乱に接した。それが川崎展宏さんだった。
「じゃあ、言ってやろうか」
それが、豹変したときのテンコウさんの決まり文句で、目がすわり、辛らつな言葉が私にあびせられた。
「お前なぁ、大学生にもなって、ちっとも字が読めないじゃないか。それに、なんだ、あのヘタな句は。高校しか出ていない人だって、お前よりはずっとましな句を作るぞ」
句会に出てみると、たしかに字が読めなかった。躑躅とか、金雀枝、苜蓿なんて、高校を出たくらいの学力では、辞書をひくことさえできない。躑躅は「ツツジ」、金雀枝は「エニシダ」で、花が美しい木だ。苜蓿は「ウマゴヤシ」と読んで、これはシロツメグサ、つまりクローバーのことだ。読み方がわかれば、歳時記で調べられる。
私は、テンコウさんの容赦ない舌鋒に、涙が出た。酒宴後、一緒にいた仲間が「あの人は酒乱で、ここにいるみんなも、1回はやられてる。落ち込むな」と慰めてくれた。私は現場にいなかったが……それから何年かして、森先生も一緒に入った居酒屋で、座敷のついたての向こうに「文豪」と言っていい大作家がいるのに気づいたテンコウさんが、わざと聞こえるように「なんだ、あいつの小説は……」と悪口雑言を言い始め、とうとうその大作家が怒って立ち上がったそうだ。森先生が間に入って陳謝し、なんとかその場をおさめたが、あとで「彼の酒はねぇ……」と、森先生がつぶやいた覚えがある。
でも、私はテンコウさんとずいぶん飲んだ。私が学生なので、ごちそうになったことも多い。が、酒乱にはてこずった。山手線の電車が入ってくる直前に、新宿駅のホームから小便をしたりするのだ。「テンコウさん、よしなよ。危ないよ」と私が言うと、「大丈夫だ、あそこに電車の明かりが見える」と言って、悠々と線路に向かって小便をした。
池袋駅前の交番の後ろに回って、小便したこともある。「ほら、壁に鳥居の絵がある。これは小便するなというおまじないだ。そんなものが怖くて、酒が飲めるか」と言い、テンコウさんは交番の裏壁へ小便をひっかけた。
酒を飲むと、ある一瞬から、どうしてこんなにでたらめになってしまうのだろう。いつもそう思いながら、「おい、加藤、行くか」と言われると、ついて行きたくなるのが不思議だった。今は全国紙の俳句欄の選者になっているNさんと、テンコウさんの家まで押しかけて飲み続けたこともある。私は限界を感じて、枕元に洗面器を用意してもらい、案の定、夜中にゲエゲエやった。が、Nさんは外に吐こうとして雨戸が開けられず、窓に向かって大噴射してしまい、テンコウさんの奥さんに多大な迷惑をかけた。
ほとんど一日中、俳句ばかり考えていたおかげか、私は19歳で『杉』雑詠欄の巻頭になった。雑詠欄というのは、投稿された俳句を主宰が選び、できの良い順に並べて掲載する欄だ。それは、隠岐島で作った作品で、
牛追うて芒(ススキ)短き岬行く
唐辛子島の畑の長話
――など4句である。
あとで、「あれは川崎展宏さんが推薦してくれたんだ」と、俳句仲間にそっと教えられた。森先生が「今月は、これぞ、という句がない」と言うのに、テンコウさんが「加藤の作品がいいじゃないですか」と言ってくれたのだそうだ。
テンコウさんには、「400字原稿紙で3枚、それでビシッとした文章を書け」とも教えられた。エッセイというより、当時の私の力量では「雑文」をしばしば、テンコウさんに見てもらった。森先生にもたくさん見てもらったが、テンコウさんに「まあまあだな」と言ってもらえた時はうれしかった。
今、私の手元には、川崎展宏さんの句集は2冊しかない。第1句集の『葛の葉』と、次の『義仲』である。テンコウさんが亡くなったと知り、久しぶりに2冊を通読した。
川崎展宏さんの句集2冊 |
をみなえしといへばこころやさしくなる
葛の葉の日当たるを人わけ登る
鶏頭を毛ものの如く引ずり来(く)
秋の陽の差込む油絵の鰈(カレイ)
うしろ手に一寸(ちょっと)紫式部の実
今朝よりや鶯餅(うぐいすもち)とはり出して
戦船(いくさぶね)の如き鱸(スズキ)を包丁す
しゃれていて、でも、しっかり芯のある俳句を作る人だった。享年82歳。
記事に心がこもってないぞ!
1月の10日を過ぎて、名古屋へ戻っていた私に、かみさんから「酒巻さんの奥さんから寒中見舞いが来たよ」と、電話があった。「酒巻さんが亡くなったと書いてある」という。私は絶句した。
私は読売新聞社に入社して、最初の3年は校閲部にいた。それから取材記者になって、秋田支局に赴任した。そのときの支局長が酒巻達也さんで、私は秋田支局始まって以来の子連れルーキーだった。酒巻さんは、よく笑う人で、気さくで、部下の面倒見もよかった。
が、怒鳴られたことがある。
一般紙の記者はだれでも、事件や事故を追うサツ回り(警察担当)から始まる。そのほかにもいろいろあって、私は当時の国鉄秋田鉄道管理局も担当していた。冬に入ると、ちょっと雪が多めに降るたびに列車が遅れた。そのころの支局は秋田駅近くにあったので、夕方、鉄道管理局に寄って遅れの状況を聞き、それから支局へ戻って原稿を書くのが日課のようになっていた。
2月になって、原稿を出してからストーブのわきで同僚と話をしていたら、「貞仁(ていじん)、ちょっと来い」と、支局長に呼ばれた。
「なんだ、この原稿は!」
いきなり、怒鳴られた。
「いいか、2月になったら、大学の受験生も汽車に乗るんだぞ。汽車が動かなくなったらどうなるんだ。お前の原稿は、発表された数字を書き写しているだけだ。この遅れで、どんな人が、どれだけ迷惑したか、ちっとも書いてないだろう。記事に心がこもっていない。お前、これから秋田駅のホームに明日の朝まで立って、列車から降りる全部の人の話を聞いて来い!」
確かにその日は、いつにも増して大雪で、運休こそなかったが、上りも下りも大幅な遅れが出ていた。翌朝明るくなるまで、いつもは駅も寝静まっているはずの時間に、次々と列車が到着し、疲れた顔の人が降りて来た。その取材は、不思議に、ちっともつらくはなかった。そしてそのルポは翌日の紙面で、大きく掲載してもらった。
発表だけで書くのを、新聞記者の世界では「玄関ダネ」という。「何かありませんか」と玄関で聞いて、注文を取る御用聞きと同じだという意味だ。この時、酒巻さんから「玄関ダネ」しか書けないようでは一人前の記者にはなれない、と教わった。
酒巻さんにはもうひとつ、大変な仕事をさせられた。
1978年1月から週1回、連載を始めた「民謡の里」である。秋田県の民謡を1曲ずつ取りあげて読物にしろと言われたのは、取材記者になって正味4か月しか経っていない前年の9月。音楽は好きだし、私の母親は民謡の宝庫、福島県相馬郡の人で、相馬民謡は聞く機会も多かった。けれど、秋田県にどんな唄があるのかさえ知らなかったし、まだ秋田弁があまり聞き取れないのに、「困ったな」というのが正直な気持ちだった。
それで、民謡同好会の合宿に参加したり、テープレコーダーを持って山奥の古老を訪ねて歌ってもらったり……これは結局、1979年6月まで55回にわたり、66曲を取りあげる長期連載となった。79年4月、私は大曲通信部(現在の大仙市)へ異動となり、私が直接取材へ行けない地域の唄は、資料を作って、他の通信部の記者に取材、執筆してもらった。通信部の方が独自に発掘してきた民謡もある。さらに私は、曲目紹介のあとに「秋田県民謡小史」まで書いた。
あれは事件の多い年で、汚職事件、選挙違反が次々に出て来た上に、殺人事件や、神社ばかりを狙う奇怪な連続放火事件もあった。それはそれで、ちゃんと取材しなければならないのに、連載も休むわけにはいかなかった。
これを79年9月、無明舎出版の舎主、「あんばい・こう」さんが『民謡の里 オラが秋田の唄が聞こえる』という本にしてくれた。自分の書いたものが初めて本になるのがうれしくて、私は本の帯(腰巻ともいう)のコピーまで書いた。
連載が本になった『民謡の里』 |
そのころ、まだカラオケはなくて、秋田の酒席では、手拍子で民謡というのが当たり前だった。その文化風土に感激した酒巻さんが、この連載を企画した。『民謡の里』の序文に酒巻さんは、「その構想は、次第にふくらんできた。それは、私自身が秋田にのめり込んで行った過程だったかも知れない。そのうえ、この企画にぴったりの担当者を得た。加藤貞仁記者である。底抜けに明るくて、どんな仕事でも『ヨッシャ、ヨッシャ』と引き受けるタフな男だ。その明るさ≠ノかけて、この企画を託した」と書いている。
まあ、私はけっして特ダネ記者ではなく、へこたれないだけがとりえだが、記者生活の最初に「あとに残る仕事」ができたのは幸運だった、と思っている。
2006年10月に無明舎出版から出した13冊目の著書『幕末とうほく余話』を、酒巻さんにも贈呈した。福島中央テレビの副社長を最後に、悠々自適の生活に入っていた酒巻さんはとても喜んでくれて、その少しあとに開かれた秋田会(秋田支局の同窓会)で、「ていじんが、こういう本を書くようになったのも、オレが民謡の連載をやらせたおかげかな、ハッハッハ」と上機嫌だったと、その出席者から聞いた。そして「今度は、ていじんを呼んで秋田会をやろう」と言ってくれたという。
だが、昨年12月8日、奥さんと買い物に行こうと準備しているときに、急性心不全が酒巻さんを襲った。75歳だった。新聞の訃報を見落とし、葬儀に参列できなかったことが、悔やまれてならない。
川崎展宏さんも、酒巻達也さんも、私の人生の恩師である。
生せんべい……って?
いま勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の同僚、Mさんから「生せんべいを知ってますか?」ときかれた。Mさんは愛知県の人で、「子供のころ、よく食べて、今でも時々、むしょうに食べたくなる」という。その話をしたのは、名鉄名古屋駅の構内で、「以前は、ここの売店でも売っていた」というので探したが、見つからなかった。
それから2週間ほどして、「これです」と、Mさんがわざわざ買い求めてきてくれた。
「蜂蜜 生せんべい」と印刷されたパッケージ |
グニャグニャした感触 |
製造元は、知多半島の半田市にある総本家田中屋。お菓子の全国大会で何度か金賞を得たと印刷されているパッケージを開けると、茶色と白の2色の餅菓子で、グニャグニャしていた。主原料は米粉と砂糖で、「ういろうを平たく伸ばしたのようなものですよ」とMさんが言っていたのを思い出した。茶色の方は黒糖の味がした。でも、これのどこが「せんべい」なのだろう。似たような感触の「生八橋」は、焼けば「八橋」になるかもしれないと思わせるが、総本家田中屋のホームページを見ると、「焼かないで、そのまま食べてください」とあった。
その歴史は、徳川家康が、まだ今川義元の支配下にあって松平元康と名乗っていたころにさかのぼり、「ういろう」も、生八橋も、ここからできたとも言われる、とホームページには書いてあったけれど、にわかには信じがたい。
「せんべい」は、漢字では「煎餅」と書く。
「餅」(もち)という字があるけれど、これは本来、穀物を粉にして作った食品を指す字で、以前に「うどん」の連載記事を書いた時に、奈良時代に中国から伝わった「索餅」(さくべい)というものが「うどん」の原型だと調べたことがある。ただしそれは、手打ちうどんのように細く切り分けたものではなく、平べったく伸ばしただけのものだったらしい。
一方の「煎」は、薬草を「煎じる」、つまり煮出すときにも使われるが、豆を「煎(い)る」などのように、焼くように熱を加える場合にも使われる字だ。しっかり焼いて、草加せんべいのようにパリッとしたものを、大方の日本人は「せんべい」と思っているが、中国ではグニャグヤ状態のものも「煎餅」と言っている。米や麦のデンプンは熱を加えないと食べられないので、グニャグニャ状態は蒸して作る。
愛知県・知多半島の「生せんべい」は、そういうものだ。これから焼いて「せんべい」にするのではなく、これで完成形なのだ。面白い菓子だが、私にはちょっと甘すぎるように思えた。
(2010年1月31日)