んだんだ劇場2010年4月号 vol.136
No70
日本最古の横断歩道橋

50年間守ってくれてありがとう
 「ああ、そうだった」と思ったのは、3月12日の金曜日である。「日本で最も古い歩道橋が、今年度末で取り壊される」ことを、思い出したのである。
 それは、名古屋市の中心部から西へ向かい、庄川を越えた清須市西枇杷島町の県道をまたぐ、昭和34(1959)年6月にできた横断歩道橋だ。昨年の夏、私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)広報部で、回覧されてきた自動車雑誌に小さな話題として載っていたのをコピーしておいたのに、すっかり忘れていた。
 いい天気になった14日の日曜、現地へ行ってみると、「50年間守ってくれてありがとう」と大書した横断幕が、歩道橋に取り付けてあった。歩道橋の北側には西枇杷島小学校があって、道路を横断しようとした4年生の女の子が車にはねられて重傷を負った事故がきっかけで、愛知県と、旧西春日井郡西枇杷島町が、当時としては大金の320万円をかけて建設した。それから50年が経過し、県道を拡幅して、歩道橋も架けなおすことになったのである。
 12日には、西枇杷島小学校の子供たち、卒業生、地域の人たちが1000人も集まって「渡り納め式」をおこなった。両側の階段には、そのためのアーチが造られ、私が行ったときも、近所の方々がたくさん記念撮影に来ていた。

もうすぐ解体される日本最古の歩道橋

「ありがとう」のアーチの下で記念撮影する方が数多く見られた
 ところで、「歩道橋の日」というのがあるのを、ご存じだろうか。私も今回、歩道橋のことを調べて初めて知ったのだが、それは4月25日である。昭和38(1963)年のこの日、大阪駅前に「日本最初の横断歩道橋が完成したから」だという。それは、松下電器が建設して大阪市に寄贈したものだ。まあ、そういう巨大資本が造ったから話題にもなっただろうし、場所も大阪駅前だから、大きな注目を集めたのだろう。でも、「日本最初の横断歩道橋」は、間違いなく、この西枇杷島歩道橋である。
 写真を撮ったあと、昭和22年からここ(西枇杷島町)に住んでいるという老婦人に、道端で話を聞いたら、「私がここに来たころは、大八車がたくさん往来していて、もっと幅の狭い道でした。だんだん車が増えてきて、それで歩道橋ができました」という。
 交通事故の死亡者が年間1万人を超えたのが、昭和34年である。この年の11月、東京都が「緑のおばさん」(学童擁護員制度)を始めた。そして、大阪駅前の大きな歩道橋が刺激になったのだろう、昭和40年代に入ると、横断歩道橋の建設ラッシュとなった。それを「自動車優先、歩行者軽視の思想だ」と批判する人もいるけれど、「交通戦争」という言葉さえ生まれた当時、横断歩道橋は、最も確実に子供たちを守る手段として歓迎されたのである。
 さて、話を戻す。
 なぜ12日の金曜、私がこの歩道橋を突然思い出したのかというと、マスコミから「NEXCO中日本が、解体した歩道橋を引き取ると聞きましたが、本当ですか?」という電話が入ったからだ。私はもちろん、広報部の誰もがそれを知らなかった。で、いろいろなところに問い合わせたら、道路に関する技術開発を手がけるグループ会社が、「研究材料にしたい」という意向を持っていることがわかった。「でも、具体的な話ではありませんよ」ということだった。
 「そうしたら、いいのに」と思ったのは、現地を見たからである。
 西枇杷島歩道橋は、鉄道の陸橋を参考に鉄骨とコンクリートで造られた。手すりに真っ赤なサビが出ているのは、サビ止めの塗装がおろそかだったのかもしれないけれど、階段のコンクリートが磨り減って、中の砂利が見えているのには「50年も人が歩き続けると、こうなるのか」と驚かされた。

鉄サビで赤い手すり

内部の砂利が見えているコンクリートの階段
 鉄とコンクリートの構造物が、50年も風雨にさらされるとどうなるのかということは、実験では推測しがたい。いま、NEXCO中日本には「100年使える道路をつくろう」という目標がある。私は技術的なことはよくわからないが、西枇杷島歩道橋は、鉄とコンクリートの劣化を知る貴重なサンプルになりそうだ、と思った。たとえ、結果的に資料としての価値がそれほどなかったとしても、このまま産業廃棄物として捨てられるより、「最後のご奉公」をしてもらった方がずっといいに決まっている。

御嶽山が見えた
 私の単身赴任宅がある名鉄・国府宮(こうのみや)駅前から西枇杷島町までは、車でもそう遠くはない。でも、写真撮影の間、駐車しておく場所があるか心配でもあったので、私は名鉄の電車で行くことにした。西枇杷島駅は、定期券の範囲内ということもある。
 が、これが、まあ、どこ行きの電車に乗ればいいのか、よくわからない駅で、国府宮駅のホームに入っていた普通電車の車掌さんにきいても、「さあ?」と、すぐには返事が返ってこなかった。「名古屋まで行ってしまって、こちらへ引き返す電車に乗った方が、わかりやすいですか」と尋ねると、「そうかもしれません。ちょうど今来た特急電車で、名古屋まで行ってください」などと言う。結果的には、これが正解で、特急電車を降りたホームの向かい側に止まっていた普通電車に飛び乗って、西枇杷島駅のひとつ手前、東枇杷島駅まで行くことにした。そこから、庄川に架かる枇杷島橋を歩いて渡っても、たいした距離ではないと、地図を見て思ったからだ。
 で、これが、大正解。一度は写真に撮りたかった木曽の御嶽山が、橋の上からきれいに見えたからだ。

名鉄の鉄橋の向こうに見える雪山が、御嶽山

名古屋と清洲を結ぶ橋として往来の多かった枇杷島橋を描いた江戸時代の絵
 手前に見える電車は、セントレア空港行きの名鉄の特急電車。私もこの路線で通勤しているので、向こうに見えるのが木曽の御嶽山であることは知っていた。橋の上で、通りかかった年配のご婦人に確かめると、「ええ、そうです」と答えたあとで、「あっちが伊吹山ですよ」と、これから行く西枇杷島方向を指差してくれた。伊吹山は、関が原の向こう、滋賀県にある山だ。たしか、芭蕉の弟子の内藤丈草が作った「木枕の垢や伊吹に残る雪」という句を、芥川龍之介が絶賛していて、それで昔から名前は知っていたが、東北人の私にはなじみの薄い山だった。最近、琵琶湖周辺にもよく行く機会があり、山容を即座に思い浮かべられるようにはなったが、枇杷島橋の上から見えるとは思っていなかった。ただし、手前の建物などがじゃまして、きれいな写真には撮れなかったので、今回は紹介できない。ごめんなさい。
 橋の欄干にはところどころ、この地域を紹介する銅版がはめこまれていて、その中に江戸時代のにぎわいを描いた絵があった。右手の奥に見える城は、たぶん、名古屋城だと思う。名古屋が発展したのは、江戸時代になって、御三家のひとつ尾張徳川家が名古屋城を築いてからで、それ以前は、清洲の城がこの地域の中心だった。名古屋と清洲を結ぶ枇杷島橋の往来は、この絵のようににぎやかだったのだろう。
 西枇杷島には大きな青果市場もあって、たいそう繁盛したそうだ。その名残が、歩道橋の思い出を語ってくれた中にある「昭和22年ごろは、大八車がたくさん往来して」という言葉になるのだが、この話の続きは後日にしたい。6月に、西枇杷島で大きな祭りがあるので、できたらそれを見に来て、改めて紹介したいと思っている。
 ……帰りは、西枇杷島駅から名鉄の電車に乗ったが、この駅、1時間に2本しか電車の止まらない駅だった。「名古屋まで行って、引き帰したのが正解」」というのは、そういうわけで、川1本をはさんで名古屋市に隣接している所に、地方ローカル線並みの駅があったことも、新たな発見だった。

1年後に「手前味噌」
 3月の最初の週末、房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ったら、かみさんが「力仕事を手伝って」という。味噌を作るので、ゆでた大豆をつぶしてほしいというのだ。
 3月6日の土曜日の朝、起きてみると、前日から水に浸していた大豆を、かみさんが2つの大きな鍋でコトコトと煮ていた。大豆がゆであがり、湯を切ってから「これでつぶして」と渡されたのは、ジャガイモをつぶしてマッシュポテトを作る道具。なるほど、これはかなり力が要る。私がそれをしている間に、かみさんは、米糀(こうじ)をほぐす作業にとりかかっていた。糀がほぐれたら、分量の塩を混ぜ合わせる。
 それから、つぶした大豆に、塩の入った糀を混ぜ合わせ、それを巨大お握りのような味噌玉にして、仕込み桶に底から並べて行く。最後にふたをして、新聞紙で覆って作業完了。できあがるのは1年後だ。

ゆでた大豆をつぶす

米糀を手でほぐす

味噌玉を作る

仕込み桶の底から、味噌玉を敷き並べる
 昔は、自分で味噌を作る人が多かった。「うちの味噌は、うまいぞ」と自慢することから「手前味噌」という言葉ができたくらいだ。最近、知り合いから「味噌屋さんから材料セットを取り寄せれば、だれでも簡単にできる」と聞いて、かみさんも作ってみる気になったという。「それ、どこの味噌屋?」と質問してくる人もいるかもしれないので、箱の写真をお見せしておこう。箱には、大豆1キロ、糀1キロ、塩500グラムのセットで、できあがりは3・5キロになると書いてある。かみさんは、それを2セット取り寄せた。

みそづくり3点セットの箱
 市販品と比べて、我が家の「手前味噌」がどれだけおいしくできるか来年にならないとわからないが、購入した「山永味噌」というのは埼玉県にある会社だから、東北人の私には、少なくとも単身赴任している愛知県の味噌よりはなじみのある味になるのではないか、と期待している。

 (ここからは、他言無用)
 かみさんはこのごろ、発酵食品に大きな興味を持っているらしい。その結果のひとつが、これ。

おいしくできた発酵食品
 前年の冬は、発酵の途中で表面がカビの生えたように黄色く変色してしまったが、この冬は、うまくできた。昔と違って今は、他人に売ったりしなければとがめられることもないけれど、あまり大っぴらにもできないので、「他言無用」に……それにしても、こういう「発酵食品」の大好きな私には、ありがたい「研究」である。
(2010年3月14日)


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