んだんだ劇場2010年5月号 vol.137
No71
酒のお燗は「チンしてきます」

酒もつまみも280円
 先日、ときどき昼飯を食べに行っていた会社の近くのとんかつ屋が、突然閉店した。名古屋ではかなり古い店だったはずで、いつも昼時は混んでいたのに……その店構えのまま、新規開店したのは、大手の居酒屋チェーンの新しい形態の店だった。

古いとんかつ屋のあとにできた居酒屋
 「一軒め酒場」と大書した大きな看板には、「毎日が激安」という文字も見える。
 私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の本社は、JR名古屋駅から地下鉄東山線で隣の駅、伏見にある。名古屋駅から伏見、次の栄あたりまでが、名古屋を代表するビジネス街だ。ここで昨年の今頃から、「激安酒場」の開店が相次いでいる。その多くが「酒でも、つまみでも1品280円」を売り物にしている2系統のチェーン店だ。それに刺激されたのか、私の単身赴任宅がある稲沢市・名鉄国府宮駅前に前々からあった、ファミリーレストランのような居酒屋も「ドリンク280円」という看板を出した。

「なんでも280円」の看板

対抗して「ドリンクなんでも280円
 名古屋に単身赴任して4年半が過ぎるが、こちらの酒場で気づいたことが2つある。
 1つは、手ごろな値段でおいしい魚を出す店のないこと。「伊勢湾でとれた魚は、まず東京の築地へ出して、売れ残ったのを持ち帰るんだ」と言う人がいるくらいで……まあ、これは、わざと自分たちのことを茶化して言いたがる名古屋人特有のジョークだろうが、それももっともだと思えるくらい、名古屋では、散財するつもりでなければ魚のうまい酒場には行き着かない。
 ただし、例外はある。名古屋駅からほど近い柳橋中央市場わきのすし屋には、4年前から通っている。握りが1個105円と、回転寿司並みの値段なのに、ネタは上等、特にアジのうまさは裏切られたことがない。しかも握りが小ぶりなので、最初から握りで酒が飲める。先日、連れて行った会社の若い人が、味の良さと、握りの小さいのに感激したのか、「100個食べてもいいですか」と言った。実際には食べられなかったが、胃袋に自信があるなら、そんなファイトもわくすし屋である。
 名古屋で気づいたもう1つは、酒代の安さである。
 単身赴任するときに、名古屋在住の経験がある友人から「世界の山ちゃん」という名前を教えられたた。「幻の手羽先」を看板メニューにしている居酒屋だ。

「世界の山ちゃん」のスタンド看板
 タレに漬け込み、たっぷりコショウをまぶした鶏の手羽先のから揚げが、1人前5本で400円。ビールによく合う。ほかのメニューも安いから、2500円も払えば心地よく酔える。「世界の山ちゃん」は、今や、東京にもチェーン店を進出させている。
 「世界の山ちゃん」を愛用していたら、「焼酎の1升ビンが630円」という店があるのを知り、度肝を抜かれた。しかも本格焼酎(焼酎乙類)である。焼き鳥がけっこううまくて、「なんでも280円」ができる前は、7、8人の飲み会になるとよく行った。たいてい、2000円でお釣りが来る。ある時、「あそこで、2100円も払った」と言ったら、会社の同僚に「それじゃあ、へべれけになっただろう」と言われた。
 だから最近は、たまに東京で飲むと、どうしてこんなに高いのか、と思ってしまう。
 しかし1か月ほど前の朝、会社でKさんが「なんだ、あの店は」と、プリプリ怒っていた。前夜、会社のすぐ近くに開店したばかりの「280円の店」に行ったのだそうだ。まず生ビールを飲み、店の若いお兄ちゃんを呼んで、「日本酒はないか」ときいたら、「ある」というので注文した。
 「持って来たのはワンカップで、おれの目の前でアルミのふたを開けたんだ」
 そこまでは、「安い酒場は、やはり、こんなもんか」と思ったそうで、Kさんはすぐに「これ、お燗できる?」と言った。
 すると、そのお兄ちゃん、「はい、チンしてきます」と、ワンカップの酒を持ち帰ったのだという。
 実際、店の内部で、酒の燗は電子レンジでやっているのだろうから、お兄ちゃんに悪気(わるぎ)はないのだろう。しかし、客に対する言い方は、ほかにいくらでもある。
 「チンして来る、は、ないだろう」と怒るKさんも単身赴任。独り、酒を電子レンジで温めるわびしさを思い出させられたのかもしれない。
 乱立する「激安酒場」の従業員は、大半が学生のアルバイトだ。客への口の利き方まで、ことこまかな従業員教育は追いつかないに違いない。
 かつて私は何年か、ある女子大学でその時期、就職活動の指導をしていたことがある。彼女らの中には、「接客のアルバイトで得た力を活かしたい」と言う人が多かった。けれど「チンして来ます」程度の接客力は論外にしても、全国展開しているファーストフードの店や、ファミリーレストランのような「完全マニュアル化」した接客経験で、「接客には自信があります」と就職試験の面接で言われては、その道のプロに笑われるに決まっている。

春耕の頃
 房総半島、千葉県いすみ市の家で、春の彼岸を前に、父親が小さな耕運機で畑を耕し始めた。俳句の季語では、「春耕」(しゅんこう)という。

畑を耕す父親
 父親が今年、どんな夏野菜を作ろうと考えているのかは聞かなかったが、今まで乾いて白っぽく、表面の硬くなっていた土が掘り返されて黒々とした姿に変わって行くのは、いかにも春らしくてうきうきしてくる。
 耕した一角には、先日まで水菜(ミズナ)があった。かなり大きな株になって、外側から必要な分だけ切り取って食べ、放っておくとまた新しい葉が出てきて、冬の間ずっと食べられた重宝な青菜だった。そして3月の初め、水菜に花が咲いた。

花が咲き始めた水菜

アップしてみると、アブラナ科の花だとわかる
 水菜の花は、初めて見た。それまで、水菜がどんな植物の仲間などかと考えたことがなかったが、花をよく見たら、アブラナ科の植物だと、すぐわかった。アブラナ科は別名、十字花植物ともいい、4枚の花弁が十字形に開くのである。
 アブラナ科といえば、畑ではチンゲンサイ、家の周囲ではカラシナ(辛子菜)がたくさんの花を咲かせた。カラシナは畑に作っていたのが野生化したらしい。今では家の裏側の空き地を埋めるほどに、この時期は花が咲く。時々、父親が茎を切り取り、かみさんが一夜漬けにして、辛さが鼻にツンと来る春らしい味を楽しんでいる。

チンゲンサイの花

カラシナの花
 黄色いカラシナの花は、遠目にはアブラナの花(菜の花)と見分けがつかない。たくさんあったので、家の裏の土手に咲いていた黄色と白、2種類の水仙、川に面した庭のへりに植えてある雪柳と一緒に切り花にして、春の彼岸、母親の墓に供えた。
(2010年4月4日)



酔いしれた「高遠城址」の桜

花の雲と中央アルプス
 桜の季節、前々から一度は訪ねてみたかった信州、伊那市の高遠へ行った。4月10日の土曜日である。それが、どんな桜か、話より先に写真を見ていただきたい。

高遠城址の桜と、中央アルプス
 はるか向こうに見える雪嶺は、中央アルプスの山々だ。
 古くは諏訪氏の一族、高遠氏の城であり、それを攻略した武田信玄が支配した後、江戸時代は保科(ほしな)氏、鳥居氏、内藤氏と城主が代わって明治を迎えた高遠城。桜の歴史は明治8年、城址を公園として整備するため、旧藩士が城下のはずれにあった桜の木を移植したのに始まる。これが「タカトオコヒガンザクラ」という、「エドヒガンザクラ」系統の固有種だった。以来、同じ種の桜ばかりを少しずつ植樹し続け、現在は樹齢約130年の古木20本を含め、約1500本の桜の木が城址の山を覆っている。この桜、花の開き始めはピンクの色が濃いが、開ききると花びら全体が白くなるようだ。

ピンクが濃い、開き始めの高遠の桜

開ききると全体が白っぽく見える
 高遠城址の桜は以前から、何度も写真で見ていたが、なかなか行けなかった。昨年は、いま私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の若い社員が、「近くのホテルが予約できたから、行きましょう」と誘ってくれたのだが、その日が近づくうちに、それでは桜が散ってしまった後になるとわかったので、キャンセルした。それで余計に、「来年こそは」と意気込んでいたのである。
 今年の3月中旬、「4月の初めなら、名古屋へ遊びに行けそう」と、かみさんが言い出したので、「それなら、高遠の桜を見に行こう」と提案した。「ただし、午前3時に起きて、4時には出かけるぞ」と言った。
 桜の季節、主要国道が通る伊那市の中心部から高遠の城下町まで、約10キロの道が遠来のバスや乗用車で埋まり、「いつになったら着くのか、わからないくらいの渋滞になりますよ」と、会社の何人かに言われていたからだ。4時に、私の単身赴任宅がある愛知県稲沢市を出発すれば、7時前には高遠に入れるから、渋滞にも遭わないだろうと考えたのである。が、「そんな、朝早いのはつらい」と、かみさんは言った。で、それから宿を探したら、なんという幸運、中央自動車道・伊那インターを降りて3分というビジネスホテルが4月9日の金曜日、1室だけ空いていたのである。会社では「まだ早いだろう」と言う人が多かった。例年なら、確かにそうだ。けれど、近くに宿が取れるのは、その日しかない。
 ところが、なんということだろう、今年は4月11日の日曜が満開となった。
 私は4月9日の午後から休みを取り、かみさんは昼過ぎに名古屋へ来て、午後2時半ごろ出かけた。名神・一宮インターから、中央道・伊那インターまでは、ノンストップなら走行時間2時間である。
 と言うことは、私たちは、7〜8分咲きの金曜の夜桜も見ることができたのである。

高遠城址の夜桜=太鼓櫓の辺り

そこには珍しい枝垂桜の古木もあった
 翌朝早く、ホテルの部屋のカーテンを開けたかみさんが、「晴れてる!」と大声をあげた。3日ほど前には、金曜の夜から天気が崩れ始めるという予報だったのに、これもラッキー……しかも雲ひとつない晴天だった。おかげで、中央アルプスの雪嶺も眺められた。昼ごろには峰を隠す雲が出てきたから、朝のうちに城址に登ることができたのも、幸運としか言いようがない。
 高遠城はもともと、天守閣のない城である。遺構もあまりない。その中で、「問屋門」付近の桜は特にすばらしかった。この門に至る、空堀を渡る橋は「花雲橋」という。
 かみさんが「この桜、幹が黒くて、形も面白い」と気づいた。確かに、ソメイヨシノの枝ぶりとはずいぶん違う。黒い絵の具で幹をガツガツと描いて、上の方をピンクに染めれば「高遠の桜」になりそうな気がした。

花雲橋を渡れば問屋門

幹が黒く、枝ぶりが独特な高遠の桜
 高遠は、私の故郷、福島と無縁ではない。ここの城主だった保科正之が、戊辰戦争の悲劇に遭遇した会津松平家の祖である。そういえば、江戸中期、「絵島生島(えじま・いくしま)事件」のヒロイン、江戸城大奥の大年寄(奥女中の束ね役)絵島が流罪となったのは高遠で……と、歴史を語り始めれば長い話になる。そういう話は、また、いずれ。今回は、ただただ桜に酔いしれた報告だけにしよう。
 でも、城址をちょっと下った高遠町歴史博物館に立ち寄った時、かみさんが「感激した」話だけは書き留めておきたい。
 「すごいね、この博物館、開館時間が午前7時だよ」
 この、夢のような桜を見るために、そんな早朝から人が訪れ、町の方もそれに応えようとしていることに、私も感激した。

年1回の山ウド三昧
 高遠に行って1週間後、房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ると、父親が「ウドを収穫するぞ」と言った。畑の南東の隅に植えてある山ウドである。
 以前はダンボールの箱で囲み、籾殻を入れて日光を遮断し、白い(軟白)ウドに仕立てていたのだが、ある年、籾殻が雨を吸い込んでウドを腐らせたことがあった。以来、父親はいろいろ工夫していたらしく、今年は、春先に稲ワラと土をかぶせて日光をさえぎるようにしていた。父親がそれを取り除くと、すでに土の上まで伸びた芽は緑色になっていたものの、根元は白いウドが姿を見せた。

山ウドを父親が切り取る

今年は大収穫だった山ウド
 ウドは捨てるところがない。
 まず皮をむいて、これはキンピラにする。
根元の太いところは、適当な長さに切って、手で味噌をこすりつける。それだけでもおいしいが、2、3時間たつと味噌がなじんで、一層美味になる。父親は、これが大好きだ。さらに1日おくと、ウドから水分が引き出されて、味の深い味噌漬けに変身する。
 葉先は、てんぷら。中間部分も細いところはてんぷらがうまいけれど、煮物もいい。
 ただし、例年の倍くらい収穫があったので、土曜日の午後いっぱい、私はこれを処理するのに費やした。それでも、てんぷらができたのは夕食ぎりぎり。ほんとうは、もっと別の料理、例えば、さっと出汁で煮て木の芽和え、なんかも作りたかったのだが、あまりにも量が多く、皮むきから下ごしらえにてんてこ舞いで、そんな時間はなかった。
 けれども、我が家で年に1度のウド三昧は、やっぱりうれしい、ぜいたくな春の味だった。                
(2010年4月29日)


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