んだんだ劇場2010年8月号 vol.139
No73
愛犬モモ……9歳

伊賀のかた焼き
 前回の最後に「お楽しみに!」と書いた、とんでもなく硬い「せんべい」の話……それは「伊賀のかた焼き」という。どれくらい硬いのか……木槌(きづち)が付いていて、これで割ってから食べてください、というのだから、すごい。

包装の中に木槌が入っている

トンカチで割った「かたやき」
 私がいま勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の同僚Mさんの故郷、伊賀上野(三重県伊賀市上野地区)へMさんと2人で行ったのは仕事のためだが、昼食は、老舗「田楽座 わかや」で伊賀名物「豆腐田楽」にMさんと舌鼓を打ち、仕事(高速道路交通安全教室)を終えて名古屋へもどる前に、Mさんが「ぜひ、味わってほしい」と案内してくれたのが、「かたやき元祖 伊賀果庵 山本」だった。創業は嘉永5年(1852)というから、ペリーの黒船が来る前の年である。「かたやき」と、ひらがな書きが商標のようだ。
 で、その由来は「伊賀忍者の携帯食」であるという。敵の屋敷に忍び込んだ忍者が、じっと潜んでいる時に食したのが、「かさが少なく、滋養にとむ」これだったと、「かたやき」の紹介文にあった。にわかには信じがたいが、「伊賀果庵 山本」5代目店主が記す「かた焼きの由来」によれば、上野市街から少し北の地に住んでいた初代が「忍者の携帯食に暗示を得て」創案したものだそうで、「堅いこと鉄の如く、よく伊賀武士の剛胆を表わし、その味、甘味またよく伊賀侍の人情味を表わす。幸い世の好評を得て」今に至っている、という。
 房総半島、千葉県いすみ市の家への土産に「かたやき」を持ち帰り、父親、かみさんと3人で食べてみた。木槌でたたいたら、案外、簡単に割れた。77歳でも入れ歯など1本もない父親は、鋭角的に割れたところからガリガリとかじり、「けっこう、うまいな」と言った。私も少しずつかじった。唾液でふやかして食べる、と聞いていたのだが、歯が丈夫ならそんな必要はない。ほのかに甘く、小麦粉の味わいもよくて、私も「なかなか、うまい」と思った。
 たしか、神戸の「瓦せんべい」はもっと薄いが、やはり硬くて、こんな味だったかと思う。小麦粉を原料にした、甘みのあるせんべいはほかにもある。日本の農業は米作中心だが、各地に麦作地域があり、小麦粉は江戸時代もけっこう生産されていた。「うどんを自宅で打つのは当たり前」というのは麦作地域の伝統のようなものだから、小麦粉を原料にした菓子があっておかしくはない。伊賀上野でその昔、麦がどれくらい作られていたかは調べていないが、たぶん、かなりの量があったのではないだろうか。それに目をつけた「伊賀果庵 山本」の初代がアイデアマンだったのである。
 ところで、「んだんだ劇場」の今年2月号に、「生せんべい」の話があるのを思い出した方はいらっしゃるだろうか。あれは「グニャグニャのせんべい」。「かた焼き」とは反対の極地である。「せんべい」と称するだけで、こんな両極端があるのだから、食いしん坊の私としては、「まだまだ面白いぞ、ニッポン!」と言いたくなる。

久しぶりにノレソレ
 6月4日の金曜日、会社の八王子支社で「中央道フォトコンテスト」があって、その審査員を務めてから、房総半島の家に帰った。途中、帰宅予定時間を携帯のメールで知らせたら、かみさんから返信が来た。
 「ノレソレ、あるよ」
 おう、おう、久しぶりのノレソレだ。毎年、春にはこいつを食べたいと思っていたが、房総半島の魚屋にいつもあるわけではなく、3年ぶりのご対面である。

久しぶりの「ノレソレ」
 「んだんだ劇場」の、2007年4月号を読み返していただきたい。白魚のように見えるだろうが、これはアナゴの幼生(稚魚になる前の段階で、生物学上はレプトケファルスという)。ワサビ醤油で食べる。ちょっとした渋みがあって、それが独特の刺激になる。高知の居酒屋では、春の定番メニューらしい。太平洋岸で獲れるが、房総半島では「地物」ではないようだ。3年前は「三重県産」で、今回は「茨城県産」だった。
 が、まあ、そんなことはどうでもいい。こういう季節の味わいは、「まだまだ面白いぞ、ニッポン!」である。

6月6日はモモの誕生日
 愛犬モモが、6月6日で9歳になった。人間で言えば、もう「おばあちゃん」である。が、すこぶる元気に庭の芝生を走り回っている。

精悍な顔つきのモモ

モモ、天に向かって吠える
 モモは、迷い犬である。わが家へ姿を現し、飼ってやることにしたが、いつ、どこで生まれたのかわからなかった。獣医が「4か月だね」というので、逆算して、覚えやすい「6月6日」を誕生日にしてやった。私は「ウメという名にしよう」と提案したのだが、そのころは元気だった母親が、「それじゃあ、おばあちゃんみたいで、かわいそうだ。モモがいい」というので、モモと名づけた。
 以来、番犬の役目を務めている。芝生に現れたヘビをやっつけてくれるので、ヘビが嫌いな父親の評価は高い。ほんとうは、夜は放し飼いにして、畑のスイカやウリ、トウモロコシを狙う害獣を追い払ってほしいのだが、鎖をはずすとどこへ行ってしまうかわからない。先日も、狂犬病の予防注射に父親が連れて行ったら、何かの拍子に首輪がはずれてしまい、雨の中を一目散に走り去った。まあ、夜になってちゃんと帰って来たが、その間、どこで何をしていたのか……以前、庭でネコを飼っている家に入り込んでネコを追いかけ回し、苦情を言われたことがある。犬の放し飼いはルール違反だから、いつも長い鎖につないでいる。でも、ほんとは、タヌキや、ハクビシンや、ノラネコから畑の作物を守ってほしいと思っている。
 ともあれ、モモは元気で、9歳になった。誕生日だから、お祝いにごちそうをやった。

誕生祝のごちそうを前に、「待て!」の姿勢のモモ
 食事を前にして、「待て!」と言えば、モモはちゃんと待っている。「よし」と言って、初めて食べる。が、「吉幾三!」とか、「芳之助!」とか、「よし」のあとに別の言葉をつけると、聞き分けて、「よし」とだけ言われるまで、じっとしている。賢いやつだ。
 6月6日、かみさんが「飼い犬の長寿記録は、25歳らしいよ」と言った。
(2010年6月13日)



なんだかうれしい『ゲゲゲの女房』

また境港へ行きたくなった
 ずいぶん前のことだが、読売新聞の経済部記者時代、漫画家の水木しげるさんにインタビューしたことがある。その頃、1か月に1度くらい順番が回って来た「私の貧乏時代」という記事を書くためである。
 「真っ黒になったバナナは安くてね、よく女房と食べていたんだが、女房が、いつになったら腐っていないバナナを食べられるのかしら、と言ったね」
 戦争で南方へ行った水木さんは、バナナの本当のうまさを知っていたから、皮が黒くなったバナナでも平気だったのだろう。結婚したのは、貸本マンガを描いていたころで、その前に水木さんは紙芝居を描いていたが、紙芝居が落ち目になって、貸本マンガ家になったのだけれど、これも斜陽産業で、仕事もない時には、奥さんと2人で大日本帝国連合艦隊の模型を作って1日を過ごしていた、という話も聞いた。
 私が訪ねたころは、テレビアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」が大人気で、当時は小学生だった私の娘も「♪オバケにゃ学校も、試験もなんにもない」という、水木さん作詞の歌を歌っていた。しかし、水木さんに言わせると「あれは、明るい鬼太郎で、最初は暗いマンガだったんだ」。

『水木しげる 貸本漫画傑作選』で復刻された「墓場鬼太郎」

「墓場鬼太郎」は、こんな顔だった
 水木さんが「鬼太郎もの」を描き始めたのは、紙芝居の時代だそうだ。紙芝居は今、現物がまったく残っていないので、この「復刻本」で知るしかないが、人類以前に栄えていた幽霊族のたった1人の生き残りという鬼太郎誕生の話は、あまりにも陰惨で、紹介するのがはばかられる。「目玉おやじ」も、この誕生譚に深くかかわるのだけれど、まあ、今の「ゲゲゲの鬼太郎」の面白さとは無縁の話だから、これ以上はやめよう。
 紙芝居の画家には、餓死した人がいたという。貸本漫画家には、白土三平、滝田ゆう、小島剛夕、楳図かずお、平田弘史、さいとうたかお、つげ義春……と、生き残った人もいたが、大部分は食えない生活に見切りをつけて貸本漫画から離脱して行った。
 今から思えば崖っぷちにいた水木さんに、転機が訪れたのは昭和40年8月、「別冊少年マガジン」に『テレビくん』が掲載されたのがきっかけだった。『テレビくん』はこの年、講談社児童文化賞に輝いた。そしてほどなく、『ゲゲゲの鬼太郎』の連載も始まった。
 「こんなにもらって、いいの?」と、振り込まれた原稿料の金額に、奥さんが驚いたのは、この時だ。

『テレビくん』

『ゲゲゲの鬼太郎』の初期作品「地獄流し」
 『テレビくん』も、初期の鬼太郎も、私が持っているのは、「ちくま文庫」で採録されたものだ。復刻版「墓場鬼太郎」は、朝日ソノラマが出版したのだが、「ゲゲゲの鬼太郎」になってからの顔とは、ずいぶん違う。食うや食わずの時代に描いた「鬼太郎」は、大人向けの怪奇漫画だったのである。
 私が、水木さんのインタビューに行ったのは、「ちくま文庫」にも入っている自伝『ねぼけ人生』を読んだからだった。そこに描かれた貧乏暮らしは、並大抵のものではなかった。でも、実際に会ってみると、実に大らかな人で、こういう人だから苦闘時代を乗り切ることができたのだと思ったし、一緒に人生を歩んできた奥さんの人柄も感じた

水木しげるの自伝『ねぼけ人生』
 だから、昨年の秋、本屋で単行本『ゲゲゲの女房』を見つけた時は、すぐに買った。本の帯には、翌春からNHKの朝の連続ドラマ『ゲゲゲの女房』が始まると書いてあった。愛知県稲沢市の単身赴任宅にはテレビがないので、放送が始まってからは、会社の昼休みに再放送を見るか、週末に房総半島、千葉県いすみ市の家に帰って、土曜日にBS放送で1週間分をまとめて見ている。NHKの朝の連ドラをこんなに真剣に見るのは、久しぶりだ。
 ドラマもようやく、苦闘の貧乏時代を脱して、売れっ子漫画家の時代に入ったのが、なんだか、私もうれしい。
 このあと、つげ義春さんがアシスタントになったり、東北なまりのある銀行員がアシスタント希望で現れたのを、「銀行員のままの方がいいよ」と断ったのが、後に『釣りキチ三平』で大ヒットを飛ばす矢口高雄さんだったり、水木さんが突然「仕事はしない。南洋へ移住する」と叫び出す、物語のこれからを知っているだけに、ドラマではどんなふうに脚色するのか、ほんとに楽しみだ。
 さて、いつもなら、ここで『ゲゲゲの女房』の本の写真をお見せするところだが、本は、かみさんが読み、父親が読み、今は娘のところへ出張している。
 その本の中に、故郷の鳥取県境港市に建てた家の2階から、水木さんが港を眺めている写真があった。私は、『北前船 寄港地と交易の物語』の取材で寄った境港で、鬼太郎、ねずみ男、目玉の親父なんかの銅像を見たこともあるし、父親を連れて隠岐島へ講演に行った帰りに、外も中も鬼太郎の絵だらけのJRの列車に乗ったこともある。『ゲゲゲの女房』に掲載された写真から、水木さんの家の場所もおおよそ見当はつく。
 そこを探しに行きたいな、などと、今はひそかに思っている。

妖怪「百目」のような琉球朝顔
 私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)で6月末ごろ、何か所かのサービスエリア(SA)で、地元の小学生に手伝ってもらって朝顔の苗を植えた。朝顔が育って来て、SAの建物の窓を覆い、「緑のカーテン」にしようという計画である。
 社内報に寄稿された原稿に、「花は8月下旬から咲き始める」と書いてあったのは間違いだと思い、担当者に「開花時期が遅すぎるんじゃないの?」ときいた。すると「琉球朝顔なので、最初はツルが延びるだけで、葉をどんどん茂らせ、花は遅いんです」という。とにかく旺盛に葉を茂らせる品種なので、「緑のカーテン」にはうってつけなのだそうだ。
 それで私は、一昨年、房総半島、千葉県いすみ市のわが家で繁茂した「変な朝顔」を思い出した。真夏の間はさっぱり花が咲かなかったのに、9月になってからワンサカと咲き始めた朝顔である。

妖怪「百目」のようなアサガオ
 2階の私の部屋から写真を撮ったのは10月23日で、もう中秋だというのにこんなに花が咲いていた。盛りのころは、水木しげるさんが描いた妖怪「百目」のようだった。この妖怪は、マシュマロをふくらませたような体のいたるところに目玉があるというやつで、たしか、水木さんの「妖怪事典」という本に絵があったと思う。
 夏の初めに、かみさんがどこからか貰って来た1本の苗から、これだけに育った。変な朝顔だと思っていたのだが、今年、ようやく、それが「琉球朝顔」だとわかったのである。なるほど、これだけ葉が茂るなら「緑のカーテン」にぴったりだ。朝顔市などで売っている、花が美しい品種では、これほど葉は密生しない。
 ところで、この「百目」のような朝顔は、道路際の高さ2メートルの防風ネットフェンスより高く咲いている。何にからまってこれほど繁茂したのかというと……

春に美しい花を咲かせるスダチ
 スダチの木を覆いつくしたのだ。4月の初めに花を咲かせ、新サンマが出回る頃に実が熟すスダチは、わが家ではありがたい木なのに、一昨年はこの朝顔のせいで実を収穫するのが大変だった。だから、「スダチの根元に朝顔なんか、植えちゃいけない」ということにしたので、琉球朝顔のタネも集めなかった。こういう品種なのだとわかっていたなら、今年、西日の当たる場所に育てればよかったと、今、ちょっと残念に思っている。

草を取ったら……
 炎天だった7月4日、ゲートボールの大会に出かけた父親が、ちょっと体調を崩して入院した。水分補給が十分でなかったせいだろう。病院で調べたら、あちこちに「要注意点」が見つかって、そのまま2週間、入院することになった。だから私も7月は第2週、第3週の週末と、続けて千葉県いすみ市の家に帰った。
 帰って驚いたのは、畑の雑草である。梅雨のせいで父親も畑に出られなかったのだろう、作物の根元まで雑草が生い茂っていた。それで帰宅中は、毎日、畑の草取りに精を出した。草を取ってみたら、隠れていたネギが姿を現した。

畑を覆いつくした雑草

雑草を取ったらネギの畝だった
 房総半島のわが家は、周囲が畑と田んぼばかりなので、日中は暑くても、夜は風さえあれば涼しい。網戸の窓を開けておくと、明け方には寒いほどだ。それをいいことに、朝7時ごろまで寝ていて、それから畑に出たら、梅雨明けの太陽はすさまじいもので、たちまち汗が噴きだしてきた。それに懲りて、2日目は朝の5時半から草取りを始めたが、8時にはギブアップ。夕方、1時間ほど草取りをして風呂に入り、ビールを飲んで……すぐ寝ればいいものを、かみさんと酒盛りになって、翌朝はまた寝坊。しかたないから、午前中は頑張って草を取り、その草は堆肥に積んだ。
 かみさんも一緒にやってくれたので、おおかたは片付いたが、サツマイモのツルが縦横にのたうちまわっている辺りは、そのままになった。
 父親は幸い、「日常の食事に気をつけて」という注意をもらった程度で退院してきた。今年の10月には、胃がんの手術をして満5年になるが、今まで体力にまかせて動きすぎたツケが来たのかもしれない。何か始めたら最後までやらないと気がすまない性格の父親も、「ちょっとくたびれたら、休むんだよ」と私が言うのに、「ああ、そうする」と言ってくれているが……かみさんの電話だと、サツマイモのツル辺りの草取りを始めたらしい。
 まあ、もっとも、父親は私と違って、朝4時には目覚めるから、朝飯前に草取りを終えて、あとはのんびりしてくれれば、「適度な運動」になると思う。
(2010年7月24日)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次