家のわきを飛ぶカワセミ
かみさんが撮影に成功!
前々から写真を撮って、皆さんにお見せしたいと思っていた鳥がいる。「渓谷の宝石」などとも呼ばれるカワセミである。漢字で「翡翠」と書くように、飛ぶときにはヒスイ色の羽を広げる。
房総半島、千葉県いすみ市のわが家は、太平洋の海岸から直線距離でたった5キロ。房総半島全体に高い山はなく、千葉県民が紅葉の名所と自慢する「養老渓谷」はあるが、深山幽谷に事欠かない東北地方に育った私としては、ちょっと首をかしげたくなる規模だ。ましてや、わが家の東側からほぼ直角に蛇行して北側を流れ下る落合川が、「渓谷」とはとても思えない。
しかし、その川面をカワセミが飛んで行くのは何度も目撃した。
家の東側を流れる落合川 |
落合川は直角に曲がって北側を流れる |
カワセミを見つけてからカメラを取りに行ったのでは間に合わないし、いつ来るかわからないカワセミを待っているわけにもいかない。対岸の木の枝にとまって、川の中の小魚を狙っているカワセミを見たこともあるが、わが家のカメラでは遠すぎる。そういう姿をとらえる動物写真家はすごいと、本心から思う。
ところが、かみさんがカワセミの写真を撮った。しかも、手のひらサイズのコンパクトカメラである。
かみさんが撮影したカワセミ |
カワセミがいるのは、玄関わきのデッキである。どうしてこんなところにいるのか。実はこいつ、窓ガラスにぶつかって脳震盪を起こし、ボーとしているところなのだ。
わが家の玄関は吹き抜けで、南側の表も、北側の裏も、天井までガラス張りになっている。だから、南側から飛んできた鳥は、北側の木立まで飛ぶつもりで、素通しのガラスに突っ込んでしまうらしい。ある日、ガタッと音がしたので、かみさんと父親が外に出てみると、デッキにカワセミが倒れていたのである。さいわい、かみさんがカメラを持って来た頃には起き上がり、しばらくじっとしていて、やがて飛びたって行った。
年に2、3回は、こういうことがある。カワセミは、スズメよりちょっと大きいくらいの鳥だから、脳震盪で済んだが、もっと体の大きな鳥では、首を折って死んでしまうこともある。珍しい鳥では、トラツグミが激突死したことがあった。その写真もあるけれど、かわいそうだからお見せしない。そういう鳥は、家の裏の地面に葬ってやった。
スズメやツバメは、ぶつかったことがない。目がよくて、直線的に飛ぶ鳥がぶつかりやすいのだろう。
さて、カワセミのことだが、2年ほど前の冬、健康のために名古屋駅から歩いて会社へ出勤途中、堀川という、あまり水のきれいでない都市河川の橋から、川面を飛ぶカワセミを見て驚いたことがある。カワセミは深山の鳥と思われているが、案外、人里近くに増えているのかもしれない。
炎天の草刈り
8月6、7、8日の金、土、日、隣の空き地の草刈りをした。いつもの年は、父親が機を見てやってしまうのだが、今年は父親がちょっと体調を崩して、熱中症にでもなったら大変だから、久しぶりに私がやることにしたのである。
しかし、これが、けっこう疲れた。
安全のためにゴーグルをつけて草刈り |
暑くて、1日では完了しなかった |
家の南隣の空き地は300坪近くあって、遠隔地に住む地主から管理を任されている。それでわが家では、そこにストーブに使う薪を積んでおいたりするのだが、この時期は雑草が繁茂して「みっともない」と父親が、必ず刈り払っていた。
まあ、鎌で刈るよりは楽なんだけれど、地面すれすれに刃を動かすには体全体で機械をコントロールしなければならないから、けっこう腰にくたびれが来る。それに、エンジン付きの草刈り機は刃を高速回転させるから、かなり危険な機械で、何かの拍子に、地上にあるものを跳ね飛ばし、それがどちらへ飛んで来るのか予想がつかないので、必ずゴーグルをつけて目を保護しなければならない。猛暑なのにゴム長を履き、軍手をはめているので、すぐに汗が噴き出し、ゴーグルの中に汗がたまるほどになる。朝食を食べてから始め、昼前までやって、午後は昼寝をして夕方にまた1時間ほど草を刈った。南の空き地は1日とちょっとで終わったが、北側の、河川改修で造った土手の空き地も続けて草を刈り払った。
と、慈善事業のような理由を並べてみたが、この草刈り、実はわが家の畑に入れる堆肥を作るためでもある。刈った草はところどころに集めておいて、少し乾燥させてから堆肥枠に入れる。
ところどころに集めた草の山 |
父親が作った堆肥枠 |
堆肥枠は、この家を建てた年に父親が作り、時々補修しながら使い続けている。そこに、むやみに草を放り込めばいいというわけでなく、端から順に踏み固めて、草に隙間がないようにしなければ、すんなりとは腐ってくれない。それが、また、けっこう疲れる。
で、今回は、草を集めるところまでしかできなかった。堆肥積みは次回の帰省で、ということになる。できたら、少しは涼しくなっていてほしいと、心底願っている。
不肖の弟子
森澄雄死す
8月18日の朝、私の俳句の師、森澄雄が亡くなった。91歳だった。
脳梗塞、大腸がんなど大病を経験しながらも、学徒出陣した南方からも奇跡的に生還した強靭な生命力で旺盛な作句活動を続けてきた先生だが、最近はほとんど寝たきりで、言語も不明瞭となり、いつこの日が来ても仕方ないと覚悟していた。この朝、携帯電話に、岩手県に住む俳友の湊淑子さんの名前を見た瞬間、それと察した。
「先生が、逝っちゃった」
「そうか」
それ以外に、言うべき言葉はなかった。
俳人森澄雄は、読売文学賞受賞者であり、文化功労者である。新聞の訃報欄には「葬儀は近親者だけで行う」とあったが、私はすぐに、翌日の木曜から休みを取り、房総半島の家に帰った。湊さんから「又聞きだけど」と、通夜、告別式の日程を教えてもらっていたが、20日の金曜の夜、先生の長男で、俳誌『杉』の編集をしている森潮(うしお)さんから、「葬儀の日程と、場所を知ってる?」と電話をもらった。通夜は土曜の夜、日曜の午前中が告別式で、私はかみさんと二人で、東京・多磨霊園近くの葬祭場で行われた通夜に出かけた。先生は、私らの仲人でもあった。
千葉県いすみ市の家の、私の部屋の書棚には、デスクのすぐわきの最も手にとりやすい場所に、森澄雄の著作が並べてある。その上の段は、大学の3、4年生で「芭蕉」を教えてもらった恩師であり、文芸評論家の山本健吉の著作である。
書棚に並ぶ森澄雄の著作。上の段は山本健吉の著書 |
加藤楸邨に師事した森澄雄が、主宰誌『杉』を創刊したのは昭和45年10月。私はこの年の春、明治大学文学部日本文学科に入り、縁あって、46年1月に森先生を訪ねた。以来、40年が過ぎようとしている。
学生時代は、何かあれば東京・大泉学園町の先生を訪ね、ずいぶん飯も食わせてもらった。結婚して、子供が生まれることになった時、先生の家から3分ほどのところに「親子で住める」借家を探してくれたのは、先生の奥さん、アキ子夫人だった。
書棚に、森澄雄第二句集『花眼』の筆写本がある。今、この句集は復刻本を所持しているが、学生時代は金がなくて、誌友から借りて原稿用紙に書き写した。筆写した句集はほかにも、阿波野青畝の『萬両』や、橋本夢道の『無礼なる妻』など何冊かある。筆写したのを見せたら、先生は喜んで、表題を書いてくれた。
森澄雄が書いてくれた「花眼」の文字 |
『花眼』の筆写本。下手な字だ |
『杉』の句会は、出された句を全部書き写すことから始まる。「句の呼吸は、書き写さなければわからない」というのが、森澄雄の指導方法だった。文章も同じだと教わった私は、感ずるところのあった文章はできるだけ書き写した。おかげで、「加藤、最近、小林秀雄を読んだだろう」と先生に言われたこともある。筆写すると、直後に書いた「自分の文章」も、文体がそれに引きずられるのである。下手な俳句も、ずいぶん先生に見てもらった。入門した年の秋に、隠岐島への旅で得た作品が『杉』雑詠欄の巻頭になった。19歳だった。それには、当時の編集長、川崎展宏(てんこう)さんの強い推薦があったことは、「てんこうさん」の追悼をこの「日記」に書いた時に触れた。
その年、私は森澄雄と二人で、木曽路を旅することができた。薮原宿から奈良井宿へ、鳥居峠を歩いて越える旅だった。落葉松の黄葉が終わりを告げるころだった。
先生が亡くなって、自室の資料棚を探したら、その旅のあとで先生が書いてくれた色紙があった。表には「信濃の闇に林檎の実あり白鳥座」という句、裏には「加藤杜香君と信濃を旅して 昭和四十六年十一月十三日」と書いてある。「杜香」(とか)は、当時使っていた俳号である。しばらくして、俳号など生意気だと思って、本名の「貞仁」(さだひと)を「ていじん」と読む、現在のペンネームに変えてしまい、いつの間にか俳句もほとんど作らなくなった不肖の弟子であるが、今でも、森潮さんなど当時の私を知る人からは「とか君」と呼ばれることがある。
一緒に旅した時の森先生の句 |
裏には当時の私の俳号が記されている |
色紙の句は即興で、森澄雄はたいてい、句集には推敲した作品を残すので、この句はどこにも発表されず、私だけの思い出になった。でも、この旅での作品は1句だけ、森澄雄第三句集『浮鴎』にある。
木曽の冬道にえいえい臼作り
峠を下りて、奈良井宿に入った道端で、木彫りの臼を作っている人に出会ったのである。代表作品をコンパクトにまとめた『森澄雄俳句集』(芸林書房21世紀文庫、2002年6月発行)には、この句は収録されていない。
『森澄雄俳句集』には、第十二句集『天日』までが収められている。私は今回、後ろから読み返してみた(読み仮名は原句にはなく、適宜、私が入れた)。
妻もまた良夜のなかの佛(ほとけ)かな
在りし日の妻のこゑあり牡丹雪
芒(すすき)原妻は先の世歩みをり
妻亡くて道に出てをり春の暮
先立ちし妻を叱るや墓参
白地着てつくづく妻に遺されし
この世あの世妻を隔てし年暮るる
嚔(くさめ)して佛の妻に見られたる
数珠球(じゅずだま)やこゑのとどかぬ妻がをり
アキ子夫人は昭和63年8月、心筋梗塞で急逝した。先生は旅に出ていて、死に目に会えなかった。奥さんが亡くなる少し前、先生はこんな句を作っている。
若き日よりいまむつまじや茹(ゆで)小豆
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ
これで、すべてではない。奥さんの没後22年間の森澄雄は、妻恋いの余生だったのだろう。先生の訃報を聞いて家に戻ったら、私の机に『杉』8月号が置いてあった。先生の作品の最初は、
誰よりも妻を迎ふる迎火よ
だった。
先生が亡くなったのは8月18日、奥さんの命日は8月17日である。
織女待ちをり師は牽牛となりぬらむ 貞仁
房総半島の夜空には、天の川が流れていた。
いつまで続く炎天ぞ
森先生の葬儀に参列しようと家に戻って、金曜と日曜は、前回帰省したときに刈り払った雑草を集めた。関東地方でも群馬県とか栃木県の山沿いは雷雨があったのに、房総半島はまったく雨に縁のない日々で、所々に集めておいた草は、カラカラに乾燥していた。
すごく軽いので、一輪車に乗せて集めるのには苦労しない。堆肥枠のわきにまとめたら、山のようになった。が、これを堆肥枠に積むのは、次回のチャンスを待つことにした。
巨大な山になった雑草 |
堆肥として発酵させるのには、しっかり踏み固めなければならない。ところが、こんなに乾燥していたのでは、草の間がスカスカで踏み固められないのだ。父親も「雨を待たなければ、だめだ」というので、今回の作業はここまで。
それにしても、いつまで続くのだろう、今年の炎天は。
が、まあ、悪いことばかりではない。かみさんと父親だけでは食べきれない夏野菜を、かみさんが干し始めた。私が今回、家にいた時に天日の下に広げたのは、ニガウリとピーマンである。
乾燥野菜を作る |
「ピーマンは、干しているうちに、緑色が赤くなるのもある」と、かみさんが気づいた。乾ききるまでにも熟成が進んでいるのだろう。野菜の生命力に、ちょっと驚いた。