んだんだ劇場2010年11月号 vol.143
No77
シカを食う箸

食べモノの道理
 食生活ジャーナリストの会の仲間、佐藤達夫さんから「本を出します」という連絡が来たので、発売日を待ちかねて購入した。『食べモノの道理』(じゃこめてぃ出版、1300円+税)である。

佐藤達夫著『食べモノの道理』
 推薦者が書いた本の帯に、「迷信の数々を一刀両断。目からウロコの連続です」とあったけれど、私の読後感も同じだった。
 例えば、粗食をしていれば長寿になれるか、という話。
 長寿村と言われる場所で、高齢の方々の食事内容を調べると粗食だったから、「長寿のためには粗食にしなければならない」と言われることへの考察である。佐藤さんは「その長寿村の人たちは、全員が長寿だったわけではない。その村の住人は、長寿の人よりも短命の人のほうが多かったはずだ。では、その短命だった人たちは何を食べていたのだろうか?」と問いかける。
 答は、私にもわかる。短命だった人たちも粗食だったのである。
 もっと言えば、飽食といわれる現代の日本人に比べれば、戦前の日本人は明らかに粗食だった。それなら、戦前の日本人は長命だったのか。違う。日本人の体格が向上し、平均寿命がどんどん延びたのは戦後なのだ。「日本人の食生活は、第二次世界大戦直後の、全員栄養失調という時代から、ものすごい勢いで理想的な栄養状態にまで上りつめた。そのため、弾みがついて、現在では行きすぎてしまったようだ」と佐藤さんは言い、「理想的な栄養バランスに戻すためには、肉類や脂肪類のとりすぎを抑えなければならない。その代わりに、主食類(特にご飯)や芋類や豆類や野菜類などを増やすべきだ。これはつまるところ粗食である」と指摘する。
 都道府県別の平均寿命で、沖縄県の男性が1位から26位に転落したという話も面白かった。沖縄県の男性の平均寿命は昭和55年に日本一となり、ずっと首位だったのが平成2年に5位となり、平成12年には26位に転落した。女性の方は相変わらず1位を守り続けていることもあって、勝手なことを言う人が続出した。佐藤さんが「根拠もない、ひどい例」として挙げたのには、「近年の食事の洋風化によって、沖縄県男性の平均寿命が短くなった」というのがある。
 ところが、佐藤さんが示したデータでは、沖縄県男性の平均寿命はずっと延び続けていて、最新の統計である2005年(平成17年)では78.64歳。日本人男性の全体平均78.7歳にわずかに及ばないだけなのである。つまり、他の都道府県の男性の平均寿命が急速に延びただけのことだ。佐藤さんは「この点を勘違いして論理を展開している人のいかに多いことか」と嘆く。
 また、「法律を守ってありさえすれば農薬を使った野菜を毎日、一生涯にわたって食べ続けても健康被害は発生しない」という佐藤さんの主張は、正しい。佐藤さんも書いているけれど、野菜というのは、野生の植物に品種改良を重ね、人間に都合のよいように作り出して来た植物だから、自然界からみれば「ひ弱」なので、農薬などの手助けがなければちゃんと育たないのが当然と考えていいのである。そして農薬の使用基準は、口に入れても安全なように、厳格に定められている。
 房総半島、千葉県いすみ市のわが家では、100坪ほどの畑で、年間60種類ほどの野菜を栽培している。私は今、名古屋へ単身赴任しているので、実際に野菜の世話をしているのはほとんど父親だ。
 父親も、私も、無農薬論者ではない。農薬は適時に、適量使うべきだと思っている。でなければ、防げない病気もある。ただし父親は、「こまかく野菜の育ち具合を観察することが重要だ」と前々から言っている。それは「病気でも、害虫でも、発生初期に発見すれば弱い農薬を、少量使うだけで済む」からだ。人間の病気が、症状が出たのをかまわないでいれば、強い薬を使い、時には手術さえ必要になるのと同じことだ。
 佐藤さんの本では、「有機野菜や無農薬野菜のほうが安全とは限らない」という話に発展する。それは、この本を読んでほしい。私も、農水省がガイドラインを定めている「有機農法」には、いろいろな疑問を持っていて、「うん、うん」とうなずきながら読んだ。
 「農産物直売所ブームの落とし穴」という話には、同感であると同時に、もっと補足したいと思った……と言い始めるときりがないので、それはまた、別の機会にまわすことにしよう。ほんとに「道理」が論理的にわかる本である。

壁に並ぶシカやイノシシの首のはく製
 10月下旬と11月上旬の2回、長野県の諏訪地方を訪ねた。私がいま勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路)の社内報に連載している「インターから20分紀行」の取材である。短期間に2回も行ったのは、雪が降る前に2、3回分の材料を集めておきたかったからだ。雪が降ると、屋外の写真はみんな同じような景色になってしまう。
 さて、「信濃国一之宮」である諏訪大社の祭神は、古代出雲族である。『古事記』、『日本書紀』の「国譲りの神話」では、古代出雲を治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト)が、子の事代主神(コトシロヌシノカミ)と相談して出雲を大和(朝廷)に譲った後、事代主神は島根半島の先端から海に入って死んでしまう(島根半島の先端、美保関にある美保神社は事代主神を祀っていて、「えびす様」の総本宮でもある)。しかし、事代主神の弟、建御名方神(タケミナカタノカミ)は「国譲り」に承服せず、出雲の国を出て抵抗を続け、最終的に諏訪の地に落ち着いた。この弟神を祀ったのが諏訪大社だ。
 ……という程度の知識はあったのだが、諏訪湖の南岸、諏訪市の上社(かみしゃ)本宮(諏訪大社は諏訪湖南岸に上社、北岸に下社があり、上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮と、またそれぞれ2か所に社殿がある)のあとに訪ねた「神長官守矢史料館」で、驚いたことが2つある。
 「神長官」は、「じんちょうかん」と読む。上社の神事をつかさどる役職で、守矢(もりや)家が明治の初めまで、代々務めてきた。現当主は東京在住だそうだが、78代目になるという大変な家系だ。所蔵してきた1600点に及ぶ貴重な古文書「守矢文書」の保存と公開のために、平成3年(1991)2月に開館したのが、この史料館だ。
 で、入ってすぐの壁に掲示してあった守矢家の由来が、まず、私を驚かせた。
 守矢氏は古代の諏訪地方の豪族だったが、そこへやって来た出雲族との戦いに敗れ、出雲族を祀ることになったと書いてあったのである。
 建御名方神ら出雲族は、歓迎されて諏訪に落ち着いたのではなく、征服者だったのだ。山陰地方は、古代の朝鮮半島と交流があり、古代日本では先進地域だった。古代出雲族は銅剣だけではなく、おそらく鉄製の武器も持つ強力な軍隊だったに違いない。諏訪地方には多くの縄文遺跡があり、それなりの歴史はあったが、守矢氏をはじめとする在来の諏訪の豪族たちは、武力では出雲族にかなわなかったのだろう。
 神話の時代ではあるが、そんな具体的な歴史が想像できて、驚いたのである。
 史料館は守屋家の敷地にあり、そこから40メートルほど先の、一段高い丘に「ミシャクジ社」という小さな神社があって、それはもともと、守矢氏の氏神だという。出雲族を祀る諏訪大社ができた後も、守矢氏は自らの神をちゃんと守っていたのだ。八百万(やおよろず)の神々がいて、なんの不思議も感じない日本人らしい風景である。そして、ここでも四方に御柱(おんばしら)を立てているのが、いかにも諏訪地方らしい。

ユニークなデザインの「神長官守矢史料館」

守矢家の敷地内にあるミシャクジ社
 驚いたことのもうひとつは、史料館の壁に、たくさんのシカ、イノシシの首のはく製が飾られていたことだ。ちょっと残酷なので写真に入れなかったが、その手前には串刺しにしたウサギのはく製もあった。
 これは何かというと、江戸時代に行われていた諏訪上社の神事「御頭祭」(おんとうさい)の復元展示だそうだ。
 この祭りは、上社本宮ではなく、前宮の十間廊(じゅっけんろう)という建物で旧暦3月の酉(とり)の日、75頭のシカの頭のほか、鳥獣類を供える神事だった。江戸時代最大の紀行家と言ってもいい菅江真澄(すがえ・ますみ)がその様子をスケッチしていて、それをもとに、この壁に再現展示したという。菅江真澄(1754〜1829)は三河の人で、最後は秋田で没したが、この説明を読んで、諏訪にも足跡を残していたことを思い出した。

壁に並ぶシカやイノシシの首のはく製

諏訪上社の前宮本殿
 そして神事のあと、首から下の肉はみんなで食べたのである(現在は4月15日に、3頭のはく製のシカの首で神事を継承している)。
 それで私は、長い間かかえていたモヤモヤがひとつ解消した。江戸時代、獣(けもの)の肉を食うには諏訪神社からいただいた箸を用いなければならない、とされていたことの真偽である。
 仏教の「殺生戒」思想によって、日本人は明治になるまで獣肉は食べなかったというのが「歴史教科書の常識」だけれど、実は、戦国時代まではけっこう食べていた。急に食べなくなったのは江戸時代からで、それに呼応するように日本人の体格が貧弱になっていく。その経緯に言及した研究を私はまだ知らないが、たぶん、江戸幕府が国民のすべてをどこかの寺の檀家にして人別帳を整え、寺を役場代わりにした政策によるのではないかと、私は推測している。寺の住職は、その地域を代表する知識人であり、そこで「殺生戒」を教えられたら、誰も獣肉を口にしなくなるのは当然だと思うからだ。
 が、実際は、肉食が皆無になったわけではない。例えば彦根では、江戸時代を通じて牛肉の味噌漬けを作っていて、これは、藩主の井伊家から将軍家への恒例の献上品だった、というような歴史的事実がある。
 有名なのは、歌川広重の浮世絵、『名所江戸百景』の「びくにはし雪中」に描かれた「山くじら」という大きな看板だ。「山くじら」は、イノシシに代表される獣肉の総称。看板を出しているのは尾張屋で、「びくにはし」(比丘尼橋)は、現在の銀座1丁目にあったから、江戸の真ん中と言っていい場所で、堂々と獣肉が売られていた証拠として、この絵が有名なのだ。
 獣肉を扱う店は、一般に「ももんじ屋」と呼ばれていて、最も人気のあったのは麹町平河町にあった甲州屋だという。現在の地下鉄赤坂見附駅から坂を上ったところが平河町で、そこから坂を下ればすぐに江戸城の内堀に突き当たる。大名の上屋敷が立ち並ぶ一角のような場所だ。そんな所にある甲州屋がなぜ人気だったのかというと、ここは甲州街道が四谷の大木戸から江戸市中にはいってすぐ、その延長線上にあるからだ。江戸への主たる獣肉供給地は甲州街道沿いで、甲州屋は入荷量も多く、肉が新鮮でもあった。冷蔵庫のなかった時代だから、肉は冬のもので、江戸っ子は体の温まる獣肉を「薬食い」、つまり食品ではなく薬だと称して食べていたのである。
 こういうことは、かなり以前、江戸時代の食生活を調べた時に知った。その際、何かの資料で「江戸市中の諏訪神社の箸」という記述を読んだ記憶がある。が、それがどんな箸か知らなかった。それが今回、諏訪大社で「現物」に出会ったのである。上社の社務所に、お守りや絵馬に並んで、その箸が今でも置いてあったのだ。

諏訪大社の「鹿食箸」
 「千円也」を納めていただいた紙袋の中には、「鹿食之免 諏訪大社」と書かれたお札と、「日本一社 鹿食箸」と書かれた袋に入った箸があった。「鹿食」は「かじき」と読む。箸は、両端の太さが同じで、鉛筆のような六角柱の形状だった。そして袋の裏に、こんなことが書いてあった。
 「殺生は罪悪として狩猟を忌み嫌う時代にも、お諏訪さまから神符を授かった者は、生きるために鹿肉を食べることを許されました。こうした信仰により諏訪の人々は、長く厳しい冬を乗り越えてきたのです」
 なるほど……とは思ったが、これはなんだか理屈っぽい。それより、なにより、おそらく仏教の渡来以前から獣肉を食べてきた諏訪の人々は、肉のうまさをよく知っていたのだ。だから「寺の坊主が偉そうなことを言ったって、オレたちの楽しみをやめるわけにはいかないよ」と、神事を創出し、肉食を正当化したのだろう。
 初めて「鹿食箸」を手にし、壁に並ぶシカ、イノシシの頭を眺めていて、地域の食文化を庇護した諏訪の神様は偉い、と言いたくなった。
(2010年11月14日)


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