んだんだ劇場2010年1月号 vol.133
遠田耕平

No102 老人力バリバリ

年の暮れ
 ため口のお手伝いのハンさんが言う。「おとさん、かわいそーねー。」「おとさん、ひとりね。ビスキーちゃんとね。」うーん,確かにおとうさんは、食い意地の張ったオバサン犬と年末年始を二人?で過ごすことになった。若いハンさんは、まだがんばってくれている。電話では、「はい、おとさん、しつれいしまーす。」と敬語が使えるのに、なぜか最後は、「あっそう、じゃね。」と電話をきる。 なんだか面白い。
 例年はこの時期、帰国して僅かでも秋田で過ごすのであるが、今年は予定が狂った。思えばこの一年は初めからすべての予定が狂った。過ぎてみればすべては一夜の夢のようにも思える。そして最後は突然の娘の結婚で締めくくった。もうすぐ爺になる。これも夢なのかな?

満身創痍
 年の瀬も押し迫って、満身創痍である。友人の家で他人がマットレスにこぼしたワインをゴシゴシと拭いていたら右の中指の先端がぐにゃりと曲がった。指の先端が首をうなだれたようになって戻らなくなった。仕事が忙しく、丁度マニラから来ていた同じ外科出身の同僚が、慣れた手つきでダンボールを添え木代わりにして、バンデージでぐるぐる巻きにして応急処置をしてくれた。数日放置したが、どうにもうまく固定できないので、病院にいって固定具をつけて何とか少し落ち着いた。
 この指の先端がお辞儀をしてしまう病気は、槌指(つちゆび)Mallet Fingerと呼ばれる。Malletの意は木槌である。野球で速い球を捕球しそこなって激しい突き指をしたときなどによく起こるらしい。こぼれたワインを拭くときに起こるとは書いてなかった。指の先端関節の背側の靭帯が断裂して、支えることが出来なくなって、お辞儀をしてしまう。放置するとそのまま戻らなくなる。治療は指の先端が曲がらないように支える固定具をして1−2ヶ月様子を見るのである。
 それにしても右の中指が使えないというのはなんとも不便である。タイプも誤字だらけ、そもそも趣味のギターがうまく弾けない。
 日本に帰っている女房に電話で愚痴をこぼしたら、女房の小指は家事の際の突き指で両方曲がっているという。そういえば子育てに忙しい頃、女房がそんなことを言っていたなあと思い出した。僕が気がついて早く処置をしてやればよかったのに、まったくひどい主治医である。まったく"後の祭り"である。

老人力バリバリ
 そんな最中、左の上の抜けた奥歯の場所に移植手術をする予定だったことを思い出した。僕は人よりも歯が多く見えるほど歯には自信があったのだが、よく見てもらうと、歯を強く磨きすぎて、歯肉が下がり、歯周病というやつになっていたらしい。気がつくのが遅いと非難されそうだが、教えてくれるのが遅いと非難したい気分だ。結局、奥歯がグラグラしてきて抜いた。
 歯の移植は歯が入っていた上顎骨の部分を少し砕いてその上の上顎洞に抜けない程度に、ネジの鞘になる金属を埋め込むのである。6ヶ月間放置してネジの鞘の周りの骨の組織が増えてくれるのを待って、ネジ付の歯を装着するのだそうだ。もと外科の同僚が、「老人のくせして、骨の組織なんかそう簡単に増えてくれるわけがねーだろ−が。」と大笑いする。うーん、確かにそんな気もしてくる。丁度居合わせた日本人の若いコンサルタントは「先生、老人力バリバリですね」なんて言う。老人力?ドラゴンボールの亀千人のようなのかな?それなら元気でいいのだけど……。
 ともかく歯の手術は一時間あまりで無事に終わり、老人力バリバリでこれから6ヶ月、骨周辺組織の増殖を祈るのである。

箱入り娘のツーリング
 やはりそんな頃、知人に呼ばれた食事会でハノイ自転車同好会のSさんを紹介された。「明日の朝、近場にツーリングしますから一緒に行きましょう。」という明るく軽い誘いに軽く乗った軽率な僕は、翌朝3時間の睡眠で、ツーリングに行くことになった。
 いつもは家の中でローラーの上でしか乗っていなかった箱入り娘のロードレース用の自転車を本当のロードに下ろした。パンクしないように空気圧を一杯上げて、4人と4台の自転車でハノイを走りだした。よく聞くとハノイの北西70キロにある標高1000メートルのタムダオ山に登るという。
 箱入り娘は走り出すや、足の固定具が壊れ、ハンドルがぐらつき、前のギアーが入らなくなり、キーキーと鳥のさえずりのようなブレーキとタイヤのリムの摺れる音を出して悲しそうに走り続けた。
 それでもベトナムの田舎町を自転車で走るのは面白い。驚くことにどこまで行ってもほとんど舗装されているのである。どこも舗装された道のなかった20年前を思うと、これが「発展」と言っていいかもしれない。日本の田舎もそんな時期があった。牛や馬の糞を避けながら自転車を走らせる。トラックが思ったより多く通るのが少し怖い。ハノイの建築現場に土砂と運んでいるらしい。
 ハノイから60キロほど走った地点から10キロあまりの急峻な山道になる。ペダルのギヤーを工具を使って無理やり動かし、軽いギヤーで走れるようにはなったのだが、登り始めると、きつい。一番軽いギヤーでもペダルを踏む力を緩めた途端すぐ止まって倒れてしまうほどの急勾配だ。次第に両足の太腿の筋肉がピクピクと痙攣をはじめた。
 やばいと思い、自転車を降りて、脚を抱えながらもがいていると、山の上からバイクの二人乗りで下ってくる男女10人ほどのグループがうずくまる僕の前で止まった。バタバタと僕の周りに駆け寄ってきた。(心配して止まってくれたのかなあ。親切なベトナムの若者たちだなあ。)と心で呟いたのだが、次の瞬間、僕の両脇にやってきて僕の両腕をむんずと掴むと、かわるがわるに写真を撮り始めた。ロードレースの自転車姿が珍しかったらしい。腕を組んだり肩に手を掛けたり、こっちが脚の筋肉の痙攣に必死で耐えているのも無視して、「チーズ」なんて言っている。(こいつー!)と思うのだが、アホな僕はシャッターの瞬間、苦痛でゆがんだ作り笑いをしてしまう。まるで地球人に捕まったETである。ふと見ると今度は僕の自転車にまたがってかわるがわる写真を撮り始めた。もう勝手にしてくれである。
 結局、そこからは自転車を引きながら一時間以上、山道を登山し、山頂に到達した。山頂について驚く。急勾配の斜面にホテルや民家が立ち並んでいる。聞くと、フランス殖民地時代に開発されたハノイから一番近い避暑地だという。あいにく山頂の街には霧がかかり、震えるほど寒い。
 あまり美味しくない野菜鍋を食べてとにかく体を温め、小雨の降る山道を下った。実はもう体がクタクタだったのでタクシーがあったら自転車を積んで帰ろうか、と嬉しい相談をしていたのだが、タクシーがない。結局、タクシーのある街までまた25キロ程小雨の中を走った。街に着くと跳ね上げた泥で自転車も体もどろどろである。
 このままではタクシーに乗せてもらえないので、バイクを洗車する小さな店で自転車を洗車して貰った。なんと1ドル程度で、見事に洗車してくれた。さすがにベトナムである。そして全長90キロ以上の行程を終え、震える疲労困憊の体をタクシーに任せて岐路に着いたのである。

路上の達人、自転車修理のおじさんのこと
 不思議なことに翌朝タイヤを見ると後輪のタイヤがパンクしている。あれだけ走って途中でパンクしないほうがラッキーではあったが、直さないとダメだ。次の週末にタイヤを外し、中のチューブを取り出して、交換してみた。ずっと昔に一度パンク修理をしたことがあるだけで、どうも覚えていない。試行錯誤でやっとタイヤを装着しなおして空気をいれると、なんと、シューっと空気が抜けてまたパンク。きっと僕のやり方が悪くて、チューブがタイヤに挟まっていたのかもしれないと、再度、別なチューブで挑戦。ところが空気をいれると、またパンク。3度目の正直と最後の一本のチューブに入れ替えて、空気を入れたが、これもパンク。完全に行き詰まり、その日の修理は諦めた。
 一晩考えて、僕が保健省に行く道すがら見かけた自転車修理のおじさんがいたことを思い出した。残る手はパンクしたタイヤのチューブを持って行って修理してもらい、もう一度僕が交換をチャレンジすることだ。
 保健省の帰り道、おじさんに持ってきたパンクしたタイヤのチューブを見せると、任せろとばかり、路上に散らばる工具を集めながら、見事に修理してくれた。自転車のパンクの修理を見るのはなぜか楽しい。チューブを水の中に入れて穴を見つけ、手製のヤスリで磨き、ボンドをつけてゴムパッチを貼る。そして空気を入れて、もう一度水の中で空気の漏れがないか確かめる。見事な手さばきである。
 そこで、僕が何度も交換に失敗したこと、原因がよくわからないことを下手なベトナム語で話してみた。するとおじさんは、半分身振りで、自転車のスポークを指差し、何やらそれが内側に出ているのが問題だといっているらしい。実は僕も調べたが出ていない。ただ、一箇所、スポークの取り付け部の穴が塞がっていない所があり、チューブがめり込めばスポークに触れる可能性はあった。すると、おじさんは、近くに転がっていた中古のチューブの一部を細く長く切り始めた。つまりそのゴムを車輪の枠の外側に敷いてから、チューブを入れろという。おじさんは修理代に60円しか取らなかった。
じさんの言うとおりに家に帰ってやってみた。見事に成功。もうパンクはしない。翌日、またおじさんのところに立ち寄って、「うまくいったよ。」というとおじさんはとても嬉しそうな顔をした。「この路上でもう何年くらい仕事をしているの?」と聞くと、「もう40年だ。」と答え、錆びた工具で地面に「40」と書いてみせた。歳を聞くと65歳だという。つまり25歳の時からずーっとこの路上で、ずーっと自転車修理をしてきたのである。
 僕はなぜだかとても心が温かくなった。この人がいなかったら僕は今頃とても困っていた。お茶代程度の修理代の仕事を40年間嫌な顔せずに、休むこともなくやってきたおじさん。僕に直し方まで教えてくれたおじさん。いい顔をしている。文句たれの僕はこのおじさんの足元にも及ばないなあ。文句なしで文句たれの僕は脱帽です。

 何の感動も感慨もなく年が明けた。ナイーブという英語には「田舎もの、世間知らず、騙されやすい」というような意味がある。僕はナイーブな自分を自覚しつつ、悲しいほどナイーブなまま、ナイーブをせせら笑うこの国でやっていくぞ、と誓いを立てた。なんて言ったって老人力バリバリですからね。


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