んだんだ劇場2010年2月号 vol.134
遠田耕平

No103 やられたああー

南の人たち
 ベトナムのハノイに異動して4ヶ月経ったが、どうもパッとしない。そんな話を確かこの紙面でもずっと話してしまったようで申し訳ない。それでも前回は老人力に目覚め、さあ、がんばりましょう……なんて話をしていましたね。

 赴任して初めてホーチミン市を訪ねた。今年に入っても増え続ける麻疹の流行の調査のためだ。ここにあるパスツール研究所は15年前の僕の古巣である。15年前に僕は南の保健省、衛生局の人たちと一緒に4年近くポリオ(小児マヒ)根絶の仕事に専念した。
 中庭に面した当時の僕の部屋の前にあったフランス統治以来100年の巨木が消えている。聞くと昨年の嵐の強風で倒れたという。地面をよく見るとその老木の太い根が周囲のアスファルトを持ち上げて残っている。確かにここにあったんだ。まるで「ここに私がいたのよ。覚えていてね。」と言っているようだ。老木のあった場所には今、若木が植えてある。次の100年を老木の根の上で新たに生きなさいと言われているかのように。
 当時の仲間のフオン女医は昔から親分肌であったが、今は公衆衛生部門の長になり、親分の本領を発揮している。彼女と南の3県の衛生局と病院を駆け足で回り、麻疹に罹って、肺炎を併発している子供たちや大人をたくさん診た。
 衛生局の人たちは懐かしい顔ぶればかりだが、フオンは「トーダ、さあ、ベトナム語で説明して!」とはっぱをかける。僕は必死でへたくそなベトナム語で話をした後、彼女は「オン、トーダ、ノーイ(遠田先生がおっしゃるにはね……)」と僕の下手なベトナム語をもう一度まともなベトナム語で説明した後、自分の言いたいことを思い切り話している。
 フオンは僕の利用方法をよく心得ている。つまり二人の息はぴったり合っているのである。実はこういうのが北(ハノイ)にはない。できないことはできないと言い、なぜできないかを話し、何かをやってみようと話す、そんなオープンな雰囲気が北にはない。僕は、南に来て、なんだか初めてベトナムに帰ってきたなあと感じる。僕のベトナムはまだ南のようだ。
 どうもうまくいかないことが続くと、運や占いをあまり信じない僕でもなんだか運に見放されたような気分になるものである。でも、南の旅でリフレッシュして、やっと運も上向きになるのかなあなんて思ってきた。日曜までホーチミン市で仕事をして、一週間ぶりにハノイの家に戻ったその翌朝だった。

やられたああー
 「パパあ、大変、大変よー。」と、真っ青な顔をした女房がシャワーを浴びている僕のところに駆け込んできた。濡れた体のままタオルを腰に巻いて一階に下りていって、一見すると何の変化もない。ところが、よく見ると普段開けない台所の窓が開け放たれ、一階に置いたまましていた僕と女房のバックパックの口がぱっくりと開いている。昨日の夜使ったばかりの僕のオフィスのパソコンと女房のパソコンは消え、部屋の床の片隅には僕と女房の空の財布が投げ捨てられ、二人の携帯、デジカメ、腕時計などがみんな消えている。
 やっとわかった、「やられたああ」のである。
 賊は深夜に台所の窓を壊して侵入し、一階にあった家族の大事な形見や金目のものを全て見事に持ち去っていった。女房はなんとも可哀想だった。彼女は普段からまったく贅沢をしない女である。その彼女が生まれてくる孫を撮るために初めて自分でデジカメを日本から買ってきた。前の晩、出張から帰った僕に新品のデジカメを披露して、いろいろと説明してくれた、そのデジカメを箱ごと盗られた。
 賊はどうやら2、3人組だったらしく、家の中の配置にも詳しかったらしく、見事にありかを探し当て、窓以外は何も壊すことも、家具を乱すこともなく立ち去っている。後に「犬はどうしていたの?」とよく聞かれるのであるが、食い意地の張ったわが愛犬は、二階の寝室の僕の布団にもぐり込んで、階下の賊の音に気付くこともなく僕の横でグーグーと熟睡していたのである。つまりは無傷で無事だった。さすが我が愛犬!
 こういう時は気持ちは動転して、誰に助けを求めていいのやら混乱する。そもそも警察が頼りにならないので、警察が思いつかない。結局、思いつくままに電話して、小一時間して大家、UNのセキュリティーの担当者、最後に警察などが到着した。
 動転している僕ら夫婦をよそに、皆はなんだかのんびりと座っている。警察も台所の侵入現場を土足で歩き回り、指紋を取るような素振りを見せながら粉を振り掛けただけで、途中で止めてしまった。写し取る紙がなかったらしい。周辺の聞き取り調査をすることもなく、近くの警察署に連れて行かれて、半日かけて調書だけは取られた。未だに何の進展もない。
 大家はバツの悪い顔をしながら、自分の物が盗られたり、壊されたりしていないのでなにやらホッとした顔をしている。数日中に全ての窓に鉄格子を入れるから安心しろと豪語して、3週間経ってもまだちゃんと入っていない。
 そもそも、4ヶ月前にこの家に入るときに、安全対策が不十分なので、鍵を増やすように話したのだが、「ここは世界一安全なところだ。」と言い張って、聞く耳を持たなかった。仕方ないので、自分で鍵屋を呼んで、主なドアを二重ロックにした経緯がある。
 まあ、賊に入られたのは全て僕の責任ということになるのだが、なんだか腹の虫も心の不安も収まらない。結局、アパートを探して引っ越そうということになって、また女房と住居探しが振り出しに戻った。北での戦いはやっぱり続く。

9年ぶりのジュネーブ
 そんな最中、予防接種の国際会議で冬のジュネーブに行く予定が入った。18時間も飛行機に乗って参加した割には残念ながら内容は陳腐で、新たな提案はなく、惹き付けるものは何もなかった。話はますます現場から離れ、中央にいる連中の現場離れを印象付けただけだった。
 うまくいっていないプログラムの原因を話し合ったり、現場と中央のギャップを話し合うことはなかった。なぜなら、主催者側がすべてはうまくいっているということを大前提にしているからだ。現場から疑問を投げかけたり、提案をしてもきちんと取り上げられ話されることがない。何のための会議かよくわからない。
 インドで一緒に仕事をした仲間で、今本部で働いているDrカウシック、別名チーフ(酋長)というあだ名のインド人の親友がいる。彼は大きな体に大きなお腹、真黒い顔にクリクリの目をして何とも愛嬌がある。その彼がずっと僕の席の後ろに座ってくれて、「あいつはアホだ。」とか「あいつの話はどうにもならない。」とか、いろいろ解説してくれたので助かった。
 毎晩のように旧知の先生や昔の仲間たちに声をかけてもらい、食事をし、久しぶりにいろいろ話ができたことは楽しかった。
 ギターで歌まで歌った。一人一人は、優しくて、いい連中が一杯いるのだけど、どうも誰も、感染症対策に真剣に挑んで、病気をなくそうとしているようには見えない。却って病気がなくなっては仕事がなくなるので困る。だらだらと、いかに仕事を終わらないように続けていくか、定年を無事迎えて、年金をしっかりもらって、定年後もコンサルタントの仕事で楽しくやっていこうという感じがどうも見え見えないのである。
 ジュネーブの街には9年前に小児マヒの会議で一度来たことがあった。印象はその頃とあまり変わらない。不思議な街である。モンブランが見え、遠くにスイスアルプスを望むレマン湖はきれいなのであるが、街は半分以上がWHOやILOなどの国際機関で働く外国人と移民たちで占められ、現地のスイス人の顔が見えにくい。街は何か冷たく感じる。
 観光の街でもあるらしいが、東京のホテル並みの宿泊料で屋根裏部屋のようなところに泊まらされた。それでも、うまいものがあった。パンとチョコレートである。ドイツパンのような歯ごたえと、フランスパンのような味わいが絶妙である。イースト菌が違うのか、職人の腕が違うのか、なんでこういうパンが日本でできないのかと思うが、女房に言わせると歯ごたえのあるパンは日本人の好みでないらしい。
 チョコレートはベルギーと思っていたが、スイスのは味が深い。これもなんで日本で作れないのかなあ?会議を少し抜け出し、駅前にあるデパチカに行って、パンとチョコレートをしっかり買ってトランクに詰め、再び18時間のフライトでハノイに戻った。

 うすぐベトナムのテト正月である。僕らは今家を空ける勇気もなく、ハノイに残り、買い込んだパンとチョコレートをかじりながら運が上を向くのを待って……と、ここまで書いたところで突然僕のパソコン(盗まれたパソコンの代わりにオフィスから借りている古いもの)のモニター画面がパッと半分消えて壊れてしまった。ああ、僕もパッと消えてしまいたい。今回もやっぱりパッとしないでごめんなさい。


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