んだんだ劇場2010年3月号 vol.135
遠田耕平

No104 ほじゃけー

 どうも、窃盗団にやられてからというもの、鈍感な僕も物音に敏感になっている。女房はどこから持ってきたのか木の棍棒を2本、寝室のドアと窓に立てかけている。「何をしているんだ ?」と、聞くと、「賊が入ってきた時に棍棒が倒れて、ガタンと音がして、その物音に驚いて賊が逃げるかもしれないからこうして立て掛けておくのよ。」という。うーーん、女房の作戦はわかるのではあるが、こっちのほうが物音に驚きそうだし、もし賊が音にひるまず、逆に、その棍棒で、ゴツンとこっちが殴られようものならなんとも惨め、いや、悲劇である。
 深夜、お気楽な我が愛犬が突然ワンと吼えた。僕は夢から突然目覚めるや、反射的に戦闘体制になり、その棍棒を片手に暗闇の階下に降りていってしまった。考えれば、もし本当に賊がいれば、この行動もやばい。どうもこっちに勝ち目がない。
 賊が入った日から我が家の前に、ここの住宅地の警備員が交代で24時間立つようになった。ただ、どう見ても不審者を見張っているのではなく、我が家を覗き込んでいる。それが監視の役目だと勘違いしている。大変な仕事でご苦労さんだが、僕らには素性の知れない警備員と賊のイメージがどうも重なってしまう。

テト正月
 そしてテト正月(陰暦旧正月)になった。ベトナムではテト正月が一年の最大行事である。買い物も贅沢もすべてこのときのためにある。そして皆が故郷に最大のおめかしとお土産を持参して帰るのである。その準備は数週間がかりで、仕事もいい加減となり、本番に突入して、一週間が完全にお休みになる。
 まあ、日本の忘年会から大晦日、新年の休みと似てもいる。もちろん我が家のお手伝いハンさんもお休みする。休みに入る前の日にハンさん、「おとさん、おかさん、たいへんね。」「ほじゃけー、これで元気出して」とお正月の定番、バインチュンを持ってきてくれた。
 「ほじゃけー」と言われて、僕も女房もズッコケ、大爆笑。彼女が広島の工場で働いていたときに覚えた広島弁だそうだ。そういえば、研修医時代に広島出身の親友が「ほじゃけー」を連発していたのを思い出した。今度は少し秋田弁を教えてみようかと、いたずら心がうずく。
 バインチュンは日本で言うおせちのようなもので、ベトナムのテト正月になくてはならないものである。もち米の中心にラオサンという緑豆を砕いたものと、豚の3枚肉を置いて、バナナの皮で包み、丸一晩かけてお湯で煮るのである。釜戸に薪をくべ、温度と水を一晩寝ずに世話をして、我が家の味を作るのは大抵が男たちの役目である。
 ハンさんが持ってきてくれたバインチュンも僕と同年代のお父さんの作品だ。これが実にうまかった。以前ベトナムにいた時もよくもらったのであるが、どうも豚肉が生臭かったり、もち米が硬かったりで、余してしまい、捨てるに捨てられず、困った。ところが今回のバインチュンは僕らの大ご馳走になった。臭みもなく、豆も豚肉ももち米も柔らかく、味が絶妙に交じり合っている。一週間引きこもりの僕らには有難い食料源となったのである。

再びお引越し
 結局、今の家は精神衛生上およろしくないだろうということで、同じ住宅地の中にある20階建てのアパートの12階に引っ越すことにした。
 女房は、ストレスがピークに達したのか、帯状疱疹(ヘルペス)が口唇のそばに出現した。彼女にとっては生まれて初めてのことだ。瞼の震えや肩の凝りもヘルペスのせいらしい。
 僕らはヘルペスウイルスに子供のころに症状を出すこともなく感染してるらしい。その後ウイルスは神経細胞の中に残っていて、体の免疫力や体調が悪くなるのを待ってたかのように、活発になり、神経の中で大暴れをしだす。するとそれを排除しようとする体の免疫細胞との間に炎症反応が起こり、神経細胞が腫れ上がる。そして激しい神経の痛みを引き起こすのである。
 その女房が、自分で治療法を見つけた。それが、パソコンに入っているトランプゲームである。 ともとゲーム好きな人であるが、パソコンに向かって画面の中の札をめくりながら、勝つぞと思っていると痛みも嫌なことも一瞬忘れるらしい。隣でシャカシャカとトランプ切る音がパソコンから聞こえてくるのは女房の調子がいい証拠ということになりそうだ。

昭和30年代の頃
 彼女が、市場で日本のテレビの面白いDVD を見つけてきた。城山三郎原作の「官僚たちの夏」という番組だ。僕の好きな俳優たちが好演している。こんな役人が居てくれたらなあ、(でもいないだろうなあ)と思うような通産官僚たちが主人公の話である。
 日本の官僚が戦後の不況から日本をどう立て直そうとしたのかという、卓越した原作と脚本の評は後日するとして、僕らはその番組の時代背景に心を奪われた。昭和30年代、それは、31年生まれの僕と女房がまさに育った時代である。こんなにもいろんなことがあったんだなあと、驚く。
 あの頃、東京にもまだ空き地がいっぱいあり、舗装された道路がまだ少なかったのをはっきりと思い出す。女房は栃木の田舎でひたすら野原を駆け回り、朝から晩までフットベースをしていたそうだ。
 僕は家庭が崩壊してきて、暗い毎日の末、とうとう登校拒否になって、最後は問題児の父親が蒸発した。その反動か、その頃の僕の将来の夢はコント55号のようなお笑いのプロだった。
 要するに女房も僕もその頃、社会で、日本で何が起こっていたのかなんて少しも知らなかったのである。
 ところが日本はやっと戦後10年、焼け野原から立ち上がろうとする時だった。東京タワーが建ち、繊維の輸出が上向いたところで、アメリカの貿易自由化の圧力で繊維不況が起こり、おもちゃだとアメリカに馬鹿にされた初の国産車が市場に出始め、スーパーコンピュータ、国産飛行機、国内産業保護法、重工業ベルト地帯構想、炭鉱問題、水俣チッソの公害問題、日米安保、小笠原返還、沖縄返還、企業統合、そして東京オリンピック、そして大阪万博。
 その日を生きるのに必死だった子供のころ、思い出すのは東京オリンピックや大阪万博のお祭りのことくらいで、不況と経済成長の中で噴出する社会の実態などは何も知らなかったのだと知った。あれからさらに40余年、50歳半ばを迎える今ですらやっぱり一日を生きるのに必死で、社会に今何が本当に起こりつつあるのかなんて、実は本当にはわかっていない。
 変だ、おかしい、と思ってもそれに抗する力を僕らは十分に持ち得ていない。それはたぶん僕らが当事者であるからなのかもしれない。歴史研究がいくら過去の事実を分析したにせよ、そこから学ぶことができない人間と言う動物は、当事者として生きる進行形でしか存在できず、その中に居るとき、僕らは大きな流れに抗う力を十分に持ち得ない。
 それは、その中で抗えば、体内の異物が異物として認識されるや体外に排除される仕組みと同じように、生き残れないという単純な生存や種保存の予測が働いているからなのかもしれない。
 歴史の大きな決定や流れは、外圧や、政治や権力の一時的な作用で決まることが多い。変だと思っても、おかしいと思っても背中を押されるように、抗することのままならない流れの中で、あたかも時の刻みように、前に押し出され、今日を何とか生きて、明日を迎える。それが生きるということなら仕方がない。くよくよしても、考えすぎても仕方のないと言うことになる。でも僕はくよくよするのである。いや、何で歴史はもっとくよくよしなかったのだろうかと思えてくる。

失ったもの
 日本は世界の経済大国になった。富を得たはずなのに、豊かになったはずなのに、なぜか少し違うんじゃないかと思えてならないのはなぜだろう。いわゆる"国際化"と"経済化"の中で、日本が得たものとその代わりに失ったもの、犠牲にしたものがあるのではないだろうか。
 それはいったい何だったのだろうか。僕にはその失ったもの、犠牲にしたものが重く感じられるのである。しかし、取り戻すことはできない。それは時の刻みのようにやはり止めることができない。
 僕たちがどこに流れ着き、そしてこれからどこへ行くのかなんてどうにもわからないのである。その僕たちなのだから、それほど自信をもって周りの国に教えを施すほど立派ではないだろうなあと思う。そんな僕らが、それでも教えを施す周りの国に、すばらしい未来はあると言い切れるのだろうか。
 そんなことを言うくせに、急成長を示す今のベトナムを目の当たりにして、この国のことが気になってならない。今のベトナムの投資ブームと経済成長を日本の経済成長期になぞる人が居るが、本当にそうだろうか。
 人材が育っておらず、教育の基盤が不十分で、十分な技術の訓練や継承や、独自の工夫がなく、多くを海外先進国からの持込みに依存して、中身はぼろぼろでも、外見はなんとか取り繕ってしまう。
 ベトナムの安い人材と一億に近い人口の購買力は先進諸国には魅力的である。一方でベトナムももっとお金が欲しい。どちらもビジネスチャンスだという。でも、誰が本気でベトナムの将来を本当に考えて投資をしているだろうか。投資は競争だ。早くやらないと負ける競争だから、投げる側も取る側も真剣である。
 そして考える時間を、思い悩む時間を、立ち止まる時間を捨てる。ミカエルエンデ原作の「モモ」に出てくる灰色の服に身を包んだ「時間泥棒」たちが大挙してやってくるのである。
 結局、僕は「あまり驕る(おごる)なよ。」と、この愚かな僕自身に言いたいのです。「少しあなた、不遜でしょ。」と。自然の中で生かされるはずの動物としての人間は、いったいどこに行ってしまったんだろう。しかし、人間はその起源からずーーっと不遜だったらしい。僕のあまり得意でない聖書を最古の歴史書と見れば、ソドムとゴモラにおごりと腐敗で崩壊する人間が5000年も前から生々しく描かれている。僕らは不遜なのです。だから、「あまり偉そうに人の国のことを言わないのがいいですよ。」と僕は自制しないといけない。
「ほじゃけー」不遜な僕は、態度が悪くてすみません、と頭を掻き掻き、「驕るなよ」と鼻を掻き掻き、今日もベトナムでがんばりまーす。


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