んだんだ劇場2010年4月号 vol.136
遠田耕平

No105 ニャチャンのイェルシンと日本の北里

海の町ニャチャン
 予防接種の中部地区のミーティングが開かれるというので、急遽ニャチャンにハノイから飛んだ。ニャチャンは細長いベトナムの国土の中央北緯17度線よりやや南の海岸に位置する町である。ここはニャチャンのパスツール研究所があることで古くから有名であるが、長く庶民の海の行楽地でもあった。15年ぶりに降り立って驚いた。飛行場はピカピカの国際空港になり、街は巨大な海のリゾート地に変貌しつつある。
 僕が初めてここを訪れた1993年の頃は、実にのどかなものだった。観光客は少なく、町は地元の人たちのものだった。朝陽の昇る前のまだ薄暗い中、外が騒がしいのでどうしたのかと外に出てみると、町中の人たちが海岸に向かってぞろぞろ歩いている。くっついていくと、みんな海岸の砂浜で朝陽を受けながら、思い思いに運動をしたり、水浴びをしたり、海岸は大賑わいである。6時を過ぎるとみんな一斉に家に帰り始め、7時には一人もいない静かな海岸に戻るのである。再び夕方5時頃になるとまた、大勢の町の人たちが海岸で水浴びをして一日の汗を流す。それがこの町のサイクルだった。
 ところが、今や海岸通りはすっかり変わった。整備され、有名な観光ホテルが軒を並べ、お洒落な店もでき始め、まさに開発の真っ最中だ。

ニャチャンのパスツール研究所
 その海岸を望む道路に面して、唯一変わらないものがる。それがパスツール研究所だ。荘厳なフランス植民地時代の建築洋式を残すこの研究所の壁には創立者イェルシンの名が刻まれている。イエルシンはペスト菌(Yersinia Pestis)を発見したことで有名であるが、その際、日本の北里柴三郎と激しく先陣争いをしたらしい。1894年の香港のペストの流行の調査で、病理解剖を北里に先を越されたと、悔し涙で母に送った手紙がこのパスツール研究所に残っている。
 実はこの話は、今から17年前の1993年に僕が初めてWHOの医務官として赴任した当時、同僚だったフランス人が教えてくれた。手紙はフランス語で書かれていたので自分では読めなかったのであるが、なんだか愉快な気持ちになったのでよく覚えている。「ほおー、100年前から日本人とフランス人の関係は同じなのかなあ?」と、思ったのである。
ニャチンの海岸
海岸に向かって建つパスツール研究所
 実は、その同僚には散々苦労をさせられた。彼はアメリカで公衆衛生を勉強したと自慢げであったのだが、コンピュータばかりいじっていて、あまりフィールドで仕事をしたがらなかった。この傾向は現在のアメリカの疾病対策研究所(CDC)で勉強してきた連中にさらに顕著にみられるところである。
 当時僕はポリオ根絶の仕事で毎日のようにメコンの村々を患者を探して歩き回っていた。それが彼にはどうも面白くなかったらしい。アジア人に対する偏見もあって、上司に僕に関する抗議を言い続けて、彼の任期は終わってしまった。そのせいでか僕のフランス人に対するイメージはどうもあまり良くないのである。

イエルシンと北里の話
 イエルシン(Alexander Yersin;1863−1943)はスイス、ジュネーブの近くで生れている。親はフランス人であるが、宗教上の理由で亡命したらしい。ローザンヌ医科大学を出た後、1886年にルイ・パスツールの研究所に入る。そこから2ヶ月間だけドイツのロバート・コッホの研究室で結核菌の動物実験をしている。そのときにベルリン大学のコッホの研究室に長くいた10歳年上の北里柴三郎と会っているはずなのであるが。
 それから、パリのパスツール研究所に戻り、1889年にジフテリア毒素を発見したとある。その後、フランス国籍を所得し、インドシナ航路の海軍軍医として1890から1894年まで仕事をしている。その時にフランス政府の命を受けて香港のペスト流行の調査に行き、再び北里と会うことになるのである。そこで同じ解剖台や同じ器具、同じ顕微鏡を融通しあったのかもしれない。
 とにかく二人はそれぞれが自国の学会誌にペスト菌の発見を発表した。通説では北里柴三郎がイエルシンにやや先んじてペスト菌の発見をしたと誰もが認める。当初ペスト菌は二人の発見ということで(Pasteurella pestis)と呼ばれていたが、今ではイエルシンの名前を取って(Yersinia pestis)と呼ばれている。少し不思議である。
 ただ、イエルシンの業績は菌の発見だけでなく、同じ病原菌がネズミ等のげっ歯類の病原菌でもあることを見つけた。感染したノミが感染源だ。感染したのノミを持ったネズミが人のそばへ菌を運ぶ。
 ペスト菌は元来、げっ歯類に見られる獣疫(動物の病気)である。ペスト菌に感染したノミによって媒介され、ネズミが人間にまでノミを運んでくることで人に感染が起きてしまう。するとリンパ節が大きく腫れ膿む(腺ペスト;bubonic Plague)のである。これが血液に入り、髄膜炎、敗血症などになることがある。さらに肺を侵し、重症化すると菌が飛沫で人から人へと感染を広げ、大流行を起こし、死亡率もきわめて高い(肺ペスト;pneumonic Plaque、黒死病)。
イエルシンの写真、この頃北里に会う
イエルシンが母親に宛てた手紙
 イエルシンは1895年から1897年まで腺ペストの研究にパリのパスツール研究所で没頭し、ペストの抗血清を作る。1896年にベトナムのニャチャンに実験室を作り、牛や馬を使って抗血清の生産と中国やインドで抗血清の実験をするが、予想した成果は得られなかった。実はこの各種抗血清の生産(破傷風菌、ジフテリア菌、蛇毒など)が現在もニャチャンのワクチン製造所の一番の収入源になっているそうだ。
 その後、1902年にハノイ医科大学創設を任じられ、1904年まで初代学長。
彼は細菌学の研究のほかに1897年にブラジルからゴムの木をベトナムに持ち込んでベトナムでのゴム栽培に初めて成功している。さらに1915年にはアンデスからマラリアの治療薬として知られるキニーネの木を持ってきて栽培に成功している。
 1934年に本国パスツール研究所の名誉所長になり、第二次世界大戦中の1943年ニャチャンの研究所兼自宅で亡くなっている。本国フランスはナチの傀儡になり、ベトナムは日本軍が占領する中、戦争の出口の見えない中での死だったのだろうと想像する。

 北里柴三郎(1853−1931)は、イエルシンよりも10年早く熊本の阿蘇に生れている。1875年に東京医学校に進学、1983年に医師になる。予防医学に興味があり、卒後すぐに当時の内務省衛生局(現在の厚生労働省)に就職。1885年から1892年までの7年間ドイツのベルリン大学に留学し結核菌の発見で有名なコッホに師事する。
 この間、先に述べたが、1888年に同じくコッホのもとに留学してきたイエルシンと2ヶ月ほど同じ研究室に居たはずである。北里は1889年に世界で初めて破傷風菌純培養法に成功、1890年に破傷風菌抗毒素を発見。さらに菌体を少量ずつ動物に注射して血清中に抗体を生み出す血清療法を開発。これをジフテリアにも応用してベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表し、1901年の第一回ノーベル生理・医学賞候補に名前が挙がるが、なぜかベーリングだけが受賞したそうだ。
 ドイツ留学中、親交のあった東大教授が提唱した脚気の細菌説(本当の原因はビタミンB1;チアミンthiamineの欠乏症)を批判したために1892年の帰国後、母校東大と対立。私立慶応義塾大学校を設立していた福沢諭吉がこれを聞いて、私立伝染病研究所(後の国立伝研、現在の東大の医科研)を設立して、その初代所長に彼を任命する。1894年には政府の派遣で香港のペストの流行地に派遣され、ペスト菌を発見する。
 ノーベル賞を逃し、ペストの発見者になれなかったのは時代の不運としか言いようがないが、日本国内での地位と名声は並外れて高かった。1914年に伝染病研究所が内務省から文部省に移管され、東大に合併されるに及んで、「衛生行政が学芸の府に隷属されては目的が遂行できない。」と総辞職したというから、その反骨精神は逞しい。新たに私立北里研究所を設立し、赤痢菌を発見した志賀潔らと、ハブの血清療法、狂犬病、インフルエンザ、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。野口英世も一時期、研究員となっている。
 1917年、福沢諭吉の遺志を継ぎ、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長。同年、大日本医師会を作り、1923年に医師法に基づく日本医師会となり、初代会長としてその運営をした。
 1931年、脳出血で東京・麻布の自宅で死去する。イエルシンより12年先に逝くことになる。日本はまだ大戦に突入する前で、日本の勝利を信じていたのかもしれない。当時世界のトップクラスの細菌学はその後、国立大学を巻き込んだ細菌兵器開発に繋がる。終戦後も人体実験の流れは10年以上も続くことになる。そのことを北里さんは知ったら何と言っただろうか。
牛からペストの抗血清を採取しているところ
 日本人とフランス人の不思議な繋がりを話そうと思ったらイエルシンと北里柴三郎の長い話になってしまった。二人とも運不運はあったのだろうが、反骨と独自な見地で医学史にその名を刻む。
 皮肉なことに今の僕の上司でベトナムのWHO事務所の所長はフランス人である。ところが彼はWHOには珍しいなかなかの人物で、僕はいまのところ彼との仕事を楽しんでいる。フランス人独特の子供っぽい頑固さとヤンチャさはあるが、WHOとして多様化する任地の国に対する仕事の姿勢をしっかり持っているので僕も学ぶところが多い。偏見はいけませんね。

 蛇足かも知れないが、これも何かのご縁かもしれないのでお知らせしよう。現在の北里研究所は日本国際協力事業団(JICA)を通じてベトナムの麻疹ワクチン開発と製造に研究所総出で2010年まで過去10年以上の技術協力をしてきてくれた。昨年には北里研究所が開発した独自のウイルスを使った待望のベトナム国産の高品質の麻疹ワクチン製造の完成にこぎつけたのである。
 北里さんは多分100年後のベトナムと北里研究所とのこの不思議な縁を草葉の陰で喜んでくれているだろうと思うのですが。如何なものでしょうか?北里さん?イエルシンさん?


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次