遠田耕平
ハノイ遷都1000年祭 今、ハノイの街は「ハノイ遷都1000年」(1000ナムタンロン)のお祭りでごった返している。漢字表記では「河内」と書いて、紅河デルタの内陸を意味する現在のハノイであるが、その以前の名前は「龍が昇る地」という意味で「昇龍」書いてタンロン呼んだ。だから遷都1000年を祝う市民はタンロンと呼ぶのである。 西暦1010年に紅河デルタのこの地、タンロンに都を作ったのが、ベトナム李王朝(1009〜1225)の初代皇帝の李太祖(リータイトー)である。リータイトーの大きな銅像は、旧市街の中心にある観光名所のホアンキエム湖の横に建っている。ベトナムでは人の名前を道の名前に使うので、リータイトーという名前の道路は、町のどこかの道路の名前になっているのですぐ覚える。 僕は毎日通勤する道すがら、ホーチミンが埋葬されているホーチミン廟の横を通る。ここ数日、ボロ隠しがされて、見事に飾りつけがされている。ベトナムの老婦人たちが、飾られたホーチミン廟を背に何のてらいもなく派手なアオザイを着て、無邪気に記念写真を撮っている姿にしばし目を奪われる。ベトナムのおばあちゃんたちは楽しそうだ。 10日も続くこのお祭りの間、カーキ色の制服を着た警察が街中の道路をいたるところで封鎖する。毎日、車で40分近くかかって中心地にあるオフィスに通勤している身には迷惑な話だが、1000年祭だから仕方がないか。
前回の続きである。 やっと待ちに待った麻疹ワクチンの全国キャンペーンがベトナムの中部を皮切りに始まった。開幕式は中部の工業都市ダナンで、保健省の副大臣が、WHOとUNIEFの代表らを招待して行なわれた。 といってもベトナムである。このような式典の前座で現れるのは決まって着飾った保育園の子供たち。この開幕式でも、3歳から5歳位の栄養のいい、やや肥満気味の街中の園児たちがぞろぞろステージに出てくる。会場の後ろの客席は保育園の父兄と家族で埋まっている。
カメラ目線で踊りを忘れる子もいれば、隣の子供とおしゃべりをしている子もいるが、不思議と泣きそうな子は一人もいない。やはり彼らにも晴れ舞台なのか、見せたがりのベトナム人の魂を見せつける。 エアロビクスと称した踊りが始まると会場はさらに騒然となる。速いテンポの振り付けで、露出度の高い衣装(といっても3歳児であるが…)でお尻をこちらに向けてフリフリすると、興奮した親たちがオォーと大きな掛け声をかける。会場大喜び。会場はまさに園児と父兄にのっとられたような有様。 式典はどうなるのかなあと思った頃、やっと踊りと歌が終わってスピーチとなった。副大臣やら、人民委員会やら、わがWHO代表やらが壇上に上がってスピーチをするも、会場は騒然としたまま。後ろを振り返ると、演技を終えた子供たちが親のいる席に戻ってざわざわと。誰も聞いていない。 僕が苦労して準備したスピーチをフレンチ訛りの英語で必死で読み上げる哀れなフランス人の代表の声は、父兄と園児の声の中にかき消されていくのでした。テレビのニュースにはこの騒音は出てこないのでいい式典と映るのでしょう。 村の接種所 飛行機と車を乗り継いで、中部のカインホア県とクアンナム県に向かう。中部は今、二期作のお米の収穫の真っ盛り。ダナンから国道一号を南下すると両脇に広がる田園では、農家の人たちが総出で稲刈りと脱穀に追われている。 この20年で全国の道路や橋が整備され、車とバイクがあふれる社会に変貌したベトナムであるが、最近の農村を見るたびに不思議に思うことがある。機械化がまったく進んでいないことだ。一部で簡単な草刈機と脱穀機を使っている以外は、農作業はいまだにすべて手でやっている。
コンバインなんていうものはまったくお目にかからない。日本人でも手に入らないような高級車を街で見かける昨今なのにである。このちぐはぐさはなんだろう。農村出身の人がいっぱいいるんだから、まず機械を使って少しでも楽になることを考えるだろうと思うのだけど、車は買っても、農機具は買わない。 この理由に田んぼの所有者の境界が複雑であること、境界の境の畦が高いことなどを上げる人がいるが、しっくり来ない。日本だってそうだった。だから村の共同体で高い機械を借りて、効率化してきた歴史がある。頭のいいベトナム人がそんな簡単なことを考えないはずもないと思うのだけど、どうもわからない。この話はまたそのうち。 県や郡の衛生部の連中と一緒に視察に訪れた田舎の接種所は村の集会所である。トタン屋根の集会所の中にはお決まりの赤い国旗とホーチミンの胸像が飾れている。早朝にも拘らず、稲刈りの合間に、たくさんのお母さんたちが小さな子供たちをバイクに載せて連れて来てくれている。お母さんたちに混じってお父さんやおばあちゃんたちの姿もある。4人いる保健師たちは実にてきぱきと動いている。 保健師たちは、やってきたお母さんたちから3日前に村の保健ボランティアを通じて渡された通知表を回収し、子供の名前を一人一人、手元に用意されている名簿と照らし合わせる。 名簿作りはベトナムなどの社会主義国でよくやられる方法だ。地域の人民委員会や村長が人間の出入りを完全に掌握しているという仮定の下で、ワクチン接種の対象となる1歳から5歳までの児童すべての名前をリストにして保健師たちが事前に用意するのである。 これがなかなか曲者だ。人口は絶えず移動し出入りをしているもので、この名簿に乗らない子供は必ず5%前後はいるのである。その事実は接種が終わると名簿になかった子供の名前が、欄外に列挙されていることでわかる。僕はこの欄外の名前を見つけると安心するのである。通知表を受け取らなかった人も来てくれたんだと。村人の掛け声や、隣近所の掛け声で来てくれたんだとわかる。この子供たちが実は必ず接種を受けてほしい子供たちである。 僕はよく下手くそなベトナム語で現場の保健師たちに話すのだが、名簿にある子供にやって接種率が90%というのと、遠くにいる名簿にない子供にもやって接種率が90%というのでは、同じ接種率でもその意味が違うと。 接種所の保健師たちは、子供たちの熱があるか体の具合はどうかと簡単な問診を接種前にしてくれている。さらに注射の後はすぐ家に帰らずに子供の様子をしばらく観察することもしている。 これは、いいことで、10年前と比べると随分と様変わりしたところだ。接種後の子供を注意深く観察することはまれに起こる副反応に早期に対応する上で大切なことである。 しかし、一方で日本のように神経質に微熱でも予防接種を控えさせる傾向が出てくると、そのせいで大切な接種の機会を逸してしまう子供たちが増えることになる。実はベトナムでも、その傾向が増えている。 接種が終わった後の名簿を見せてもらうとよくわかる。名簿にある名前の横に熱があるらしいから数日後に再度保健所来るよう指導したと記載がある。そんな記載を数えると全体の6〜7%ある。この子供の親たちは果たして本当に子供を連れて戻ってくるのだろうか。
すると、23人のうち5人の子供がまだ接種を受けていないという。その理由は少し熱があったという子供が4人で、あとの一人は数日前に転んで頭に大きなたんこぶを作ったという理由だった。それにしても23人のうちの5人が受けていないというのはやはり無視できない子供の数なのである。 僕は、村の保健ボランティアに頼んでもう一度その家を訪ねてもらったらいいだろうと思っている。彼らにもう一度、その家を訪ねてもらい、日時を指定して保健所に行ってもらう。接種に漏れた子供たちが確実に接種を受けたと確認する作業が必要だ。 届かない子供たち フエの海岸線に近い漁村を歩いた。僕は漁船の上、つまり水上で生活する家族の多いこの地域では名簿に乗らない子も多いだろうと予想していた。 県の衛生部の人に聞くと、2万以上の人が船で生活していたが、政府は彼らに無料で陸上の家を供与して、子たちもみんな登録されて問題はないという。 村に行ってみると、確かにたこ部屋のような小さな部屋が連なるいわゆる長屋が建てられている最中だ。村の人に聞くと家は無料ではなく、長期のローンで払うらしい。つまり、本当にお金に困っている家族はやっぱり買えないことになる。
旦那さんが数ヶ月前に亡くなり、何とか日中は日雇いで暮らしているらしい。もちろん麻疹のキャンペーンの知らせは届かず、子どもは定期の予防接種を一度も受けていないという。 村の保健ボランティアーというおばさんに聞くと、「この人たちは知っているけど、いつ訪ねてもいないよ。」という。名簿に載らない子どもである。政府の定住化の施策とは裏腹に、貧しさの為に移動を余儀なくされ、登録されない移動人口の数は予想以上に多いのではないかと思っている。 経済発展といわれる裏で、農村から大都市への人口流入、移動する建設労働者の増加、公式発表の数字の上からだけではどうしても推し切れない人口がある。ワクチンキャンペーンというのは、その数字の外にいる子どもにワクチンが届く最良の機会にしないとならない。この子たちに届く方法は簡単である。忙しくて接種所に来れない人たちなら、ワクチンを持って、こちらから家を訪ね、接種すればいいのである。 なんで手間のかかることをするのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。しかしこの手間が一番大事な手間なのである。この手間を惜しめば、しっぺ返しは後で来る。 病原菌は必ずそこから思いもかけない形で広がる。社会運動家になったわけではないが、この仕事をしていると自然とたどり着く場所のように思える。 経済的に貧しく、様々な事情を抱え、与えられるべきサービスを公平に受けられていない人たちの集団が必ずあって、そこにいつかたどり着く。するとそれは、僕がまともにフィールドを歩いた一つの証のようなものになる。社会的に弱い立場の家族の中にこそ守らなければない子どもたちが残されていることを再確認させてくれる瞬間である。 |