遠田耕平
ディエンビエンフー この一ヶ月は時間が慌しく過ぎた。 時間の経過が十分に意識できないというのはあまりいい気分ではない。心がついて行っていない。だから仕舞いには心の中がざわざわしてくる。 風邪もひいて、思いっ切りこじれた。咳が止まらないが、出張も止まらない。周りも迷惑だが、咳で身をよじりながら麻疹キャンペーンの視察の旅は続けた。自分の体が弱いことを忙しいせいにするのはなんとも卑怯な感じがするが、それ以上に簡単に風邪をひいて必ずこじらせてしまう自分はなんとも腹立たしい。北部辺境山岳地帯のディエンビエン県、南部メコンデルタのバクリュウー県、ソクチャン県と歩いた。
実際に行ってみるとディエンビエンフーは本当に山の中にぽっかりと開けた大きな盆地だ。高地で寒いかと思っていたら盆地のせいでハノイより蒸し暑い。街の中にはA-1とかD-1とか呼ばれる木々で包まれた公園になっている小さな丘がある。実はそこが血みどろの白兵戦が繰り広げられた激戦地の跡だと知った。今もそこは塹壕が縦横に張りめぐらされた陣地跡が残り、日露戦争の際に多くの兵士が犠牲になった203高地のような場所だったのだろうと勝手に想像した。戦争博物館には、50年の歳月が経って真っ赤に錆付いた数々の兵器が無造作に陳列されている。小型でいかにも旧式の中国製の兵器がベトミンが使ったもので、これに対峙して展示してある大型のアメリカ製の大砲や戦車、ジェット機の残骸がフランス軍の兵器だという。この小火器で勝ったのだから、物量を遥かに凌いだベトナム兵士たちのおびただしい犠牲があったことに改めて気づかされた。 ディエンビエンフーの戦いだけでの戦死者は1万人以上に上ったという。8年間の戦争ではフランス軍(外国人部隊も含め)9万4千人、ベトミンは50万以上の戦死者を出したと言われている。 フランス軍の大将が参謀本部に使い、最後に両手を挙げて降伏して出てきたという大きな塹壕跡があった。その前で笑顔で肩を組んで写真を撮る老フランス人と老ベトナム人の姿が印象的だった。 タイ族の村 バイクの後ろのまたがって小一時間ほどでこぼこの山道を走ると山の斜面にあるタイ族の集落にたどり着く。山間の狭い耕地にはタイ族が何百年もの間、何世代もに渡って世話をしてきた見事な水田が広がる。近くの保健所には若いスタッフばかりが、住み込みで15の村を担当している。僻地手当てはもらっているものの安給料で、退屈で、言葉もうまく通じない僻地での暮らしは辛く、やる気がわかない。ワクチン接種のために登録されている子どもの数がやけに少ないなあと思っていたら、どうも調べた村の男が昼間から酒を飲んでいて、どうやら適当に調べたらしい。保健所の若いスタッフも別に気にしない。僕が保健所の近くのタイ族の家を訪ねて歩いてみると、まだ接種を受けていない子どもがぞろぞろ出てきた。 ハノイから僕と一緒に来た保健省の若いドクターが夢中で報告書を調べているので、僕は暇だ。ぼんやりと山に囲まれた午後の水田を眺めていると、子どもたちが寄ってきた。子どもたちにカメラを向けると、笑いながら逃げる。知らん顔をしているとまた寄ってくる。そのうち、僕のサングラスや老眼鏡を取って、いじったり、僕のノートを開いて字を読んでみたり、ペンをとって字を書いてみたり、遊び始めた。子どもたちは村の学校でベトナム語を習っている。女の子は得意げに僕のノートにベトナム語を書いて見せてくれた。タイ語は書けるのかな? 楽しい村でのひと時。
もちろんいい道ができることを長い間待ち望んでいた村人はたくさんいるのだろう。今その時代がやってきた。ただ、いい道ができて、便利になることで、その次に何が起こるのかはっきりと自信を持って言える村人は多分いないだろう。大量に米を買い付けに来る人が街から来るかもしれない。自分たちの作ったお米を全部お金にしてしまうかもしれない。そのお金ではやっぱり欲しいものがまだ買えないかもしれない。お米を作るのを止めて町に仕事を探しに出て行くかもしれない。厳しい土地で引き継いできた田んぼは少しでも手入れを怠ると荒れてくる。何百年も守ってきた田んぼはいつか消えていくかもしれない。そういえば、牛を追っていたタイ族の民族衣装に身を包んだお姉さんが、衣装の下からぱっと携帯を出してメールをしていた。電波はこんな山の中まで来ている。今はそんな時代だ。
自然と自分 話は大きくそれるが僕は最近、自然のことを考えている。ハノイにいて大都市に変貌していく街の姿を見ている時も、村を歩いて山岳部の斜面に米を作り、とうもろこしを育てる人々の生活を見ている時も、メコン河にどんどんできている新しい橋や道路を走っているときも、ぼんやりと考えている。「ぼんやりと」と言うのは捉えどことのない「自然」そのもののすがたでもあるのだろうが、もっと簡単に言うと「自然の中で生きる」ということはどういうことなのかなあ、とぼんやり思っているのである。自然の中で生きてこなかった弱い動物としての僕が、物心がついてからずっと折に触れて考えてきた答えの見つからない問いだったようにも思う。長く僕が持ってきた自然に対するぼんやりとした憧れは、人間本位の現代社会がもたらす閉塞感がより顕著になる中でなぜか思いは研ぎ澄まされていく感じがする。
ひたすら山を削り、道路を作り、橋を作り、もっと喰らい、ひたすら喰らい、さらに突き進んでいく人間。僕ら人間はいったいどこへ行くんだろう。この湧き上がる不安はいったいどこから来るんだろう。まるで川底に沈殿した泥が一気にわきあがって前が何も見えなくなるようだ。現代社会の経済発展という名の一本のレールの上でいずれ年老いていくことの不安。動物の端くれとして自然の中に生きていたはずの人間がもはや動物としても生き物としてさえも見えなくなってしまうような不安。自然の中で生かされているのに、自然に死ぬこともできないかもしれない不安。僕の願望は安心した老後を保障されて長生きしたいという願望じゃない。動物の端くれとして生きて死にたいという願望だ。 今、日本で生物多様性条約(COP10)という会議が開かれている。自然を守るという側も、それを科学に利用しようという側も、金で決着しようとしている姿がとても不思議だ。自然を買うというのである。この根本のズレを無視して世界のトップの人間たちが真顔で話し合い、ソロバンをはじいている。なんとも傲慢じゃないか。 僕たち人間はいつからこんなに尊大になってしまったのか。それはもはや自然と生きていない生物失格の証言のようだ。 僕は今確実に人生の最後に向かって歩いている。ここで僕がしっかり見なければならないものはなんだろう。現代で数は少なくなっても厳しい自然の中で今も生きる人間の姿ではないかとなあと、ぼんやり思っている。自然から遠ざかって生きてきた僕には今もわからないことだらけで一杯だ。願望がある。厳しくも雄大な自然と向き合って生きる人間たちを深く知りたい。そこで僕も生きてみたい。他に理屈は何もない。そこに僕が考え続けていた答えがあるかもしれないし、ないかもしれない。もともとは僕らの理解を遥かに超えることなのだからそれでもいいということです。 自然は立ち止まらない。むしろ僕らの認識を遥かに超えた正確さで時間を刻んでいるようにも感じる。僕らの変わりゆく姿そのものも、結局はその自然の中にあるのだろう。 "あらゆる生命は同じ場所にとどまってはいない。 人も、カリブーも、星さえも、 無窮の彼方へ旅を続けている。" (星野道夫) 僕らはいつも長い旅の途中らしいですよ。 |