長い付き合いの印刷所が倒れるまで
2月に入ったとたん30年以上の付き合いがあった山形の印刷所が倒産した。いや正確には再生機構に支援要請ということのようだが杞憂が現実になった、という思いだ。
従業員375人、負債総額は36億で、ベトナムと埼玉の工場を閉鎖、リストラを進め再生を目指す、という記事が新聞に報じられていた。30年以上付き合いのある印刷所の倒産ニュースを、その関係者からではなく新聞報道で知った、というのもなんかなあ。
出版をはじめた時点から、この印刷所とは付き合いがあった。ここの手になるわが社の出版物は500点を超えるだろう。はじめの頃の無明舎の歴史はこの印刷所とともにある、といっても過言ではないほど濃い関係である。が、最近、めっきり縁遠くなった。付き合いで1年に1冊か2冊の本を出す程度で、もちろん印刷代の残債は1円もない。
20年ほども前、この印刷所にわが舎は3千万円近い未払い金があった。すべての刊行物をこの印刷所に頼っていた。印刷所の借金を返すため企画を考え、その本が売れずさらに別の企画を出すがまた売れず……といった悪循環の真っただ中でもがき苦しんでいた。印刷所に返す金のため本を出すという泥沼の危機感から脱するため10年計画でこの会社の借金を返すことに決めた。そして5年後、その目処がたった。この段階でこの印刷所をメインから外すことに決めた。2年前、細々とした仕事は継続しながらも、残債はついにゼロになった。
この印刷所、付き合い当初は100人そこそこのアットホームな若々しい元気に満ちた会社だった。が、15年ほど前から拡大路線を走り続け、先代社長からその息子にバトンタッチされると、一挙に大連やベトナム、首都圏にまで工場を作り出した。何も知らない田舎の成金バカ息子が東京のやり手企業経営コンサルタントにあの手この手でうまく言いくるめられている、という印象だった。
この2代目社長、なぜかしょっちゅうわが舎に挨拶に来た。300人を超す企業の社長が、舎員4人の仕事もほとんど出さない零細出版社に県をまたいで、わざわざ挨拶に来るという行為はどう考えても尋常ではない。それも毎月、お土産付き、イエスマンそのもののお供を数人従えて、である。最初のうちは悪い気はしなかったが、あまりに頻繁で、さらに仕事の話は一切せず、来た途端帰っていくという、目的や意味がまったく不明の訪問だった。さすがのボンクラの私も気がついた。「こいつら秋田に遊びに来ているだけなのだ」と。
ようするに地元の山形では派手に遊べないので、わざわざ秋田まで遠征して遊びに来ていたのだ。うちを訪れたのは単なるカモフラージュで、仕事もしていますよ、というポーズだったのだ。
この挨拶訪問は実は最近まで続いていた。ピタリと来なくなったのは去年の夏ごろからだろうか。この時点で会社を揺るがす大きな出来事が起きているのは、こちらにもわかった。いや当の社長にすれば2年近く前から会社の内情がのっぴきならないことは知っていたはずだ。それでもなおかつ秋田に遠征して遊び呆けていたのだから、ご立派としかいいようがない。やけくそになっていたのだろうか。
しかし、この会社がダメになった一番の要因は、このノーテンキな世間知らずの若社長のせいばかりではない。この社長に対して批判も提言もせず黙々としたがった社員たちの体質にも大いに問題がある。
そばで見ているとよくわかるのだが、この会社の社長と社員の関係は、ほとんどあの金正日とその側近の関係そっくりなのである。イエスマンだけで幹部を固め、平社員は社長が秋田に来るというだけで前日から不眠不休で歓迎準備をする。この間、本業はすべてストップである。
こんな状態なので、いつか必ずほころびが出ると予想は出来た。予想しなかったのは当の社員たちだけだ。甘い汁を吸い続けた側近の罪も大きい。
まあ長い付き合いだったが、この会社から反面教師としていろんなことを学んだ。そんな意味ではおおいなる謝意を送りたいところだが、こんな事態になっても何の連絡もない、というこの会社の体質にはやはり猛烈に腹が立つ。 |