旅先となる故郷
初日の出
東京・練馬に住む弟の一家が、元旦に来るという。九十九里浜で初日の出を見て、その足で千葉県いすみ市のわが家へご年始に寄るというので私も例年になく早起きした。
弟の心がけがいいのか、全国のほとんどで天気が悪かったのに、房総半島は雲ひとつない元日を迎えた。今春、大学院修士課程を卒業して社会人になる、弟の長男がすばらしい初日の出の写真を撮ってきてくれた。
波打ち際にも太陽……九十九里の初日の出 |
飛行機雲が美しい初日の出 |
九十九里浜の初日の出は、午前6時30分くらいだった。練馬からでは、朝4時起きでないと、この太陽は見られない。が、頑張ったかいがあった。わが家では、午前7時に太陽が見えた。この家から海岸までは直線距離で5キロだが、あいだに低い山が横たわっているので、浜辺で見るのとはちょっと時間差がある。隣の家の敷地にある風向・風速計を入れて撮った写真からは、この朝、東からの微風だったこともわかる。
わが家から見えた元旦の太陽 |
弟たちが到着したのは8時ごろ。九十九里浜からわが家までは40分ほどの距離である。かみさんも早起きして、福島らしい凍み豆腐と鶏肉のはいった雑煮、それにお汁粉で新年を祝った。
霜柱の研究
わが家の畑はこの季節、よく晴れた朝は霜柱がよく育つ。5センチほどにもなることが珍しくない。郷里の福島ではほとんど見かけなかったものだ。関東地方の人は当たり前と思っているらしいが、1998年からここに住んでみて、これほど霜柱が育つのかと驚いた。
畑の霜柱 |
雪の研究で知られる中谷宇吉郎博士の『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫)に、「霜柱の研究について」という1章がある。博士自身の研究ではなく、「自由学園学術叢書第一を贈られたので早速読んでみた。(略)研究者は自然科学グループという名前であったが、内容を見ると五、六人の学園の御嬢(おじょう)さんの共同研究であることがわかった」という書き出しのこの1篇は、読んですこぶる面白かった。
博士から見れば素人の研究なのだが、女学生たちは、霜柱の水分はどこから来たのかという疑問に始まって、地中のどれくらいの深さまでの水分が霜柱になるのか、その成長速度、成長に最適の条件……と、次々に手際よく実験と野外観測を重ねて結論を導き出していることに、博士は賛辞を送っている。
しかし博士が驚嘆したのは、ここまでの「第一期」の研究に続く「第二期」の成果だった。
ここで彼女らは、霜柱ができるのは「関東平野にある赤土に限っている」ことを確かめたのである。しかも、「霜柱の出来るために必須な条件は、微粒子が存在するということであるという重大な結論を得たのである。次に出来る場合というのは、土の表面に凸凹があって、その中の尖った点から凍りはじめた場合であることを確かめている」。こうしたことを彼女らは、すべて実験室内で研究した。中谷博士は「極めてあざやかな実験である」と激賞している。
私は、そのあとの「ベルリンの土を取り寄せて実験した」下りに、感心した。ドイツでは霜柱ができないというので、ベルリンの土を取り寄せ、彼女らの理論を実証するために、その土をすりつぶしてみたら「はたして霜柱が立った」というのだ。
関東ローム層とも呼ばれる赤土は、太古、関東周辺の那須岳、浅間山、赤城山、富士山などの爆発で飛び散った火山灰が堆積してできた。20メートルもの厚さになっている場所もある。それが関東平野を覆ったことを思えば、遠くまで風に乗る微粒子が豊富だったのは間違いなく、それが霜柱生成の必須条件であることを、女学生たちが証明したのだ。
中谷博士がこのエッセイを書いたのは、戦前の昭和13年1月である。
大正10年(1921)創立の自由学園は、当初から「国の教育方針」にとらわれず、「いつの時代でも、どのような場所においても、自ら考えて行動ができる人を育てよう」と運営されてきた学校だ。現在と戦前では学制がちょっと違うが、「霜柱の研究」を行ったのは高校生の年代である。その年齢でこれだけの科学研究ができたのも、この学校ならではのことと、これも大いに感心した。
で、わが家の正月。霜柱の立った畑の野菜には、霜も真っ白に降りていた。青菜は、霜にあたるとひと味よくなるという。かみさんが昨年秋にまいた菜花はまだだが、父親がタネをまいたホウレンソウ、小松菜、小カブなどは立派に育っている。弟の娘のナッちゃんに手伝ってもらって、小カブを収穫した。今年は「毎日、青菜ばかり」とかみさんが言うくらい豊作だ。
ナッちゃんのお手伝いで小カブを収穫 |
立派に育ったホウレンソウ |
福島経由で名古屋まで
福島では、正月の3日にとろろ飯を食べる風習がある。お屠蘇の飲みすぎで疲れた胃袋を休ませよう、という知恵らしい。私もこの日はさっさと起きて、とろろ飯を食べ、JR外房線・大原駅発7時40分の、いちばん早い特急に乗った。福島高校の同窓会があって福島へ向かったのである。
東京駅で東北新幹線に乗り換え、小山駅付近で、右側の車窓から筑波山が見えた。午前中はシルエットになるが、なだらかな山容が美しい。それから、宇都宮を過ぎると左側に男体山などの山々が見え、黒磯駅付近からは那須連山が見えた。福島県に入るとちょっと曇り空になって、安達太良はよく見えなかったが、郡山を過ぎて長いトンネルを通過したら、高校を出るまで毎日ながめていた吾妻小富士が姿を現した。この山を見ると私は、福島に来たという思いがする。
山容の美しい筑波山 |
故郷の山、吾妻小富士 |
春になって雪が消え始めると、吾妻小富士の山頂からちょっと右下に、ウサギの形に雪が残る一時期がある。福島盆地の農家では、作物のタネをまく時期と昔から言われていた。それが過ぎ、五月の連休の頃になると、桃、林檎の花が一斉に咲く。福島盆地は、吾妻連峰から流れ下る水が運んだ土でできた扇状地が広がっていて、果樹栽培には絶好の土地なのである。果樹の花は、福島を過ぎて、仙台へと向かう車窓からは間近に見える。ずいぶん前だが、その頃、東京から遊びに来た友人が「桃源郷とは、こういうことか」と絶賛してくれた。
その頃は、両親も福島にいて、
桃の花故郷へゆくは旅にあらず
という俳句ができた。
房総半島、千葉県いすみ市に土地を求め、家を建てたのは、「年をとったら、雪の降らないところに住みたい」と父親が言い出したからだ。両親が引き払ったら、福島市周辺に父方の親戚はいないし、母方の親戚は太平洋側の相馬地方にいるので簡単には立ち寄れない。かみさんの実家はあるのだが、今回は寄る時間がなかった。
福島駅前のホテルで開かれた同窓会は午前11時からで、午後1時過ぎにはお開き。大半は、同窓生がやっている近くの蕎麦屋へ席を移して二次会へ行ったが、私はすぐに名古屋へ戻らなければならなかった。1月3日は帰省のUターンラッシュで指定席がとれず、東京駅まで立つ覚悟で駅に行くと、不思議に各駅停車の「やまびこ」がガラガラだった。おかげで2時間、たっぷりと眠って酔いをさました。
そのぼんやりした頭の中で、
雪嶺が見え旅先となる故郷
こんな一句が浮かんだ。