んだんだ劇場2011年4月号 vol.147
No81
毎朝、涙がこぼれる

震度6は体験したけれど
 このところ毎朝、新聞を読み、ラジオから流れる東北・関東地方を襲った巨大地震のニュースを聞いていると、涙がこぼれてしかたがない。避難所生活を強いられている被災者の方々の苦労が思いやられ、全国から寄せられる応援メッセージに心打たれる。
 私は福島市出身であり、被災地域に知人も多い。津波が襲った福島県南相馬市には親戚もいて、いまだに安否がわからない。読売新聞石巻支局に勤務する先輩が書いた記事が、まったく紙面に出てこないのも憂慮される。
 実は私は、「震度6」を体験している。昭和58年(1983)5月26日の正午直前に発生した日本海中部地震である。私は秋田県庁1階の記者室にいた。机を両手でつかみ、両足を踏ん張っても、キャスターのついたイスが揺り動かされた。古い建物だった秋田県庁の窓ガラスが振動で壊れ、キラキラキラキラと光を反射させながら、とめどなく地上に降り注いだ。
 この地震の死者は104人。そのうち100人は津波に襲われた人たちだった。
 そういう経験があるだけに、今回の地震は発生直後から、テレビ映像を見ていて「尋常ではない」と痛感した。家並みが姿を消した陸前高田市、南三陸町、石巻市、福島県最北端の新地町……みんな、取材で訪ねたことのある場所だ。三陸のリアス式海岸には、ちょっとした入り江に住む人たちもいたはずだが、そういう場所がどうなっているのか、ちっとも報道されない。今はまだ、誰も近づけないからだろうか。
 そんな惨状を見ていて、思い出したことがある。場所は言えないが、「柩(ひつぎ)の備蓄基地」のことである。
 それは東北地方の、小さな町の、葬祭業者の倉庫だった。縁起でもない話なので、今までどこにも書いたことはないし、写真も撮っていないが、大きな倉庫の中を見せてもらったことがある。柩は組み立て式で、膨大な数が積み上げられていた。国の指示でそういうことをしている。それは「関東大震災クラスの巨大地震に備えてですよ」と、案内してくれた社長さんが話していた。
 確かに、遺体を収容しても、体育館のようなところに並べておくわけにはいかない。1人ずつ柩に納めなければ、人としての尊厳が失われる。
 「でも、こういう物が役立つようなことは、起きてほしくないですね」
 社長さんは、最後に、そう言った。
 私も見たあの柩が、今、続々と被災地に運ばれているのだろうか。それを思うと、また、胸がつまる。
 (私は日本海中部地震の震度を「6」と覚えていたが、今回、インターネットで調べたら「5」になっていた。いつの間にか訂正されたらしい)

6か所の善光寺
 いま私が勤めている中日本高速道路(NEXCO中日本)の仕事で、2008年6月17日、長野県飯田市を訪ねた折り、現地の事務所の方が「元善光寺」へ案内してくれた。その時まで、私は長野市以外に「善光寺」という寺があるのを知らなかった。しかも、善光寺の秘仏「阿弥陀三尊像」は、最初はここにあり、後に長野に善光寺が建てられて遷座なさったのだという。つまり、ここが「善光寺信仰」発祥の地なのである。

飯田市の元善光寺

長野市の善光寺

 善光寺は、「無宗派」という珍しい寺だ。6世紀の欽明天皇の時代に、百済(くだら)の国から贈られた「阿弥陀三尊像」が、紆余曲折を経て、飯田の住人である本多善光の手に渡り、これをご本尊とし、彼の名から「善光寺」が誕生したという。宗派に関係なく願い事をかなえ、女人禁制だった古い仏教と違って女性を救済する霊場であることが、善光寺信仰を広めたらしい。調べてみたら、善光寺という寺は全国に200か所もある。
 さて、長野の善光寺には前にも2度行ったことがあるが、2009年5月8日に訪ねた際は、7年に1度(数え方の違いで、実質は6年に1度)のご開帳で大変な人出だった。そこで、この年には「元善光寺」も含めて6か所の善光寺で同時開帳していることを知った。ご開帳と言っても、ご本尊は「秘仏」だから、前立仏(まえだちぶつ)という代わりの仏様をお見せするのである。その開帳にはこだわらず、ほかの4か所も見たいと思った。
 まず、山梨県甲府市の「甲斐善光寺」である。ここは戦国時代、上杉謙信と川中島の合戦を繰り広げた武田信玄が、善光寺が焼失するのを恐れて、ご本尊も、寺僧らもすべて引っ越しさせたところだ。堂宇は巨大で、地名も甲府市善光寺にある。
 武田家の滅亡後、ご本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉の手を経て、秀吉の死の直前に信濃の善光寺へ戻されたという。
 私の単身赴任宅がある愛知県稲沢市祖父江町にも善光寺があって、「祖父江 善光寺東海別院」が正式名称だが、「祖父江の善光寺」で名が通っている。織田信長がご本尊を移す際に立ち寄った場所だそうだ。寺ができたのは明治になってからで、長野や甲府の善光寺に比べると、こじんまりした本堂だ。祖父江町は日本一の銀杏の産地で、イチョウが黄葉するころに訪ねた善光寺は美しかった。

甲府市の甲斐善光寺

銀杏の黄葉時期の祖父江善光寺
 岐阜県内では、2か所で同時開帳した。
 刃物の産地として知られる関市の善光寺は、信濃の善光寺をそっくりそのまま3分の1に縮尺して建てられた。18世紀末のことだ。ここには「卍戒壇(まんじかいだん)巡り」がある。
 信濃の善光寺では、私も戒壇巡りを体験した。本堂の縁の下に真っ暗な通路があって、ここを潜り抜けることにより心身を清め、弥陀に導かれて極楽へ行くことができるという信仰だ。関善光寺では、通路が卍形に作られている。小さく建てた本堂で、通路の長さを確保するための知恵らしい。
 と、ここまでは2009年のうちに訪ねた。最後に残った岐阜善光寺は、なかなか行く機会がなく、やっと先日、3月16日に訪ねることができた。
 住所は、岐阜市伊奈波(いなば)通1丁目で、稲場山城(岐阜城)の守り神である伊奈波神社参道の上り口にある。武田家滅亡後、織田信長が善光寺のご本尊を甲斐善光寺から迎え入れたのがここで、本能寺の変の後、ご本尊は流浪することになるが、信長の孫、織田秀信がこの地に善光寺堂を建立し、現在まで続いている。

関善光寺

岐阜善光寺
 やっと、これで、6か所同時開帳の善光寺詣でが終わった。最後の岐阜善光寺は、NEXCO中日本の岐阜保全・サービスセンターにお願いして、ほかの用事のついでに連れて行ってもらった。日程的に、この機会しかないと思ったからだ。
 実は、私は4月1日から東京勤務になる。現在の会社を退社し、中日本エクシスという子会社に移ることになったからだ。5年半暮らした名古屋を離れる前に、岐阜善光寺だけは見ておきたかった。ほかにも、国宝犬山城や明治村など、見たかった場所はあるが、もう時間がない。名古屋からの「日記」は、これが最後になるけれど、新しい場所で、また日記を書き続ける。房総半島、千葉県いすみ市の畑の様子も報告しなければならない。
 4月からの「房総半島スローフード日記」に、期待していただきたい。
(2011年3月19日)


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