佐倉の桜
1時間半の通勤……大半は寝ています
5年半の名古屋での生活を終え、4月1日、これまでのNEXCO中日本(中日本高速道路)から、子会社の中日本エクシスに移った。高速道路のサービスエリアにある商業施設(売店やレストラン)を運営する会社である。勤務地は東京。房総半島、千葉県いすみ市の家から通うのはつらいので、引き続き単身赴任である。
住居は、千葉県佐倉市にした。読売新聞の社員時代に買った「シャッキン・コンクリート建て」のマンションがあったからだ。1998年に、いすみ市(当時は大原町)へ引っ越した際、借りたいという人がいて、以来、借家にしていたのだが、昨年秋から空き家になっていたので、自分で住むことにしたのである。場所は、京成電鉄の佐倉駅から徒歩10分ほど。目の前に国立歴史民俗博物館が見える。そこは、佐倉の城址であり、4月初旬には花見客でにぎわう山でもある。
諸般の事情から、4月9日しか撮影できる日がなく、その日はあいにくの曇り空だった。その後、いすみ市の家にカメラを置きっぱなしにしていたので、花吹雪も撮れなかった。まあ、この城山は、四季それぞれに見所があるし、小さな植物園もあるので、これからいろいろ紹介したい。お楽しみに。
マンションの窓から見える歴博 |
花曇の佐倉城址 |
ところで、「千葉県の佐倉市から」と、新しい会社で言ったら、「すいぶん、遠くから通うのですね」と多くの人に言われた。会社は地下鉄日比谷線の神谷町駅(霞ヶ関駅の隣)から徒歩3分のビルにあるが、9時に出社するためには、京成佐倉駅を朝7時16分発の電車に乗らなければならない。朝8時29分発の電車で9時の出勤時間にゆうゆう間に合っていた名古屋の通勤事情からすれば、えらく遠い所であることは間違いない。だが、4月1日から通勤し始めて、全く座れなかったことは1度もない。たいてい、佐倉駅から座って1時間以上も寝ていられるのである。
京成電鉄は、都営地下鉄浅草線に乗り入れていて、人形町という駅で1回乗り換えるだけである。帰宅の電車も、どこかで座れる。都心から西側の神奈川県、東京都多摩地方に住む人は、同じ時間、立ちっぱなしが少なくない。だから実は、朝は早くても、私は快適通勤なのだ。それに、知らない人が思うほど、佐倉は遠くないのである。
江戸時代に、こんな事件があった。
万治3年(1660)10月8日、佐倉藩主、堀田正信という殿様が、江戸城から無断で帰国した事件だ。正信は、その朝登城したが、大手門の前にあった老中の役宅に書状を置くと、家来を置き去りにしてただ1騎、馬を駆けさせて佐倉へ帰ってしまったのだ。12里半(約50キロ)の道を、6時間弱で駆け抜け、夕刻には佐倉の城門の前に立ったそうだ。それくらい「近い」のである。
無断帰国は重罪だが、正信は「発狂した」ということにされて切腹を免れ、領地没収、他藩へお預けという処分で済んだ。これは、江戸時代初期の大きな事件のひとつなので、ご興味のある方は調べてみるとよいだろう。正信は、最後ははさみで喉を突いて自殺した。
佐倉藩の、幕末の藩主も堀田氏である。これは、正信の弟の正俊の系統で、黒船騒ぎのときの藩主、堀田正睦(まさよし)は老中を務めたことで知られている。
好きな花に雪柳
佐倉からいすみ市の家までは、車で1時間半の距離である。私も、かみさんも通いなれた道で、国道はあまり通らず、山の中の近道を走る。佐倉のマンションに名古屋からの引越し荷物が届いたのは4月2日で、新しい生活を始めようかと思うと、何かと足りないものがあって、何度もその道を往復してテーブルや整理用具などを運んだ。
そうしているうちに、庭の、川に面して立てたネット沿いの雪柳が満開になった。
雪柳は、私の大好きな花だ。
最初はどこから持ってきたのか、忘れたけれど、タネがこぼれて芽を出し、適当に移植してやっているうちに見事な枝ぶりになった。もう少し育ってきたら、刈り込んで生垣にしたい。
川に面したネット沿いに咲く雪柳 |
父親が植えた連翹 |
この春、畑の端に、全体に黄色い花を咲かせている木に気づいた。連翹(レンギョウ)である。父親がいつの間にか植えたらしい。あまり枝分かれしていないのに、太い幹から直接花芽を出して咲き誇っている。これも、私が好きな花のひとつだ。
結婚して間もない頃、かみさんに「好きな花は?」ときかれて、「雪柳と連翹」と答えた記憶がある。すると、かみさんは「あなた、チマチマと群がり咲く花が好きなのね」と言った。確かにそのとおりで、コデマリなんかも好きだ。逆に、バラとか牡丹など、大輪の花はあまり好きではない。盛りが過ぎると、大きな花びらに汚れのような茶色のシミが広がり、ぐずぐずと崩れるような終焉が「老いさらばえる」という言葉を連想させるからだろうか。それはなんとなく、「無残」なのである。
飯舘村は母の故郷
福島第一原発事故の影響で、福島県相馬郡飯舘村の全村民が避難させられることになった。私には、大きなショックだ。この村は、亡くなった母親の故郷だからである。
飯舘村は昭和30年に、飯曾村と大館村が合併してできた。母親の父、私にとって祖父は大館村の村長だった。合併後の村長選で落選して、祖父は政治から手を引いたが、村内ではかなりあとまで発言力のある人だったようだ。
私は中学生のころまでは、夏休みになると祖父の家に遊びに行っていたから、この村のことはよく知っている。阿武隈山地の最も標高の高い地域で、米作りはしばしば冷害に襲われた。
母親の弟、私にとって叔父は20代の前半に、3年ほどアメリカへ農業研修に行った。農場で働く仲間にはメキシコ人も多かったようで、今はどの程度覚えているかわからないが、帰国したころは英語とスペイン語が話せた。そして叔父は稲作をやめて、4ヘクタールの農地すべてで牧草や飼料のトウモロコシを育て、酪農家になった。米作りばかりだった当時の飯舘村に、新しい風を吹き込んだのである。私が子供の頃、叔父は、搾りたての牛乳をやかんで沸かして飲ませてくれた。それは、しこたまうまかった。
しかし、放射線被害で、飯舘村の牛乳は出荷できなくなった。その対策会議の様子がNHKテレビのニュースで流れた時、説明者をにらみつけるような、70歳を過ぎた叔父の顔が見えた。
そして、全員離村……何十頭もの乳牛はどうなるのだろう。叔父にかける言葉もない。