んだんだ劇場2011年6月号 vol.149
No83
宮古で頑張るクマちゃん

クマちゃん人形のキーホルダー
 2005年10月に設立されたNEXCO中日本(中日本高速道路)に入社し、名古屋へ単身赴任して以来、単身宅のカギにこんなキーホルダーをつけている。

クマちゃん人形のキーホルダー
 人形のモデルは、岩手県宮古市の医師で、前市長の熊坂義裕君だ。福島高校の同級生で、創刊号だけであとが続かなかった同人誌の仲間でもある。彼は奥さんの伸子さんの縁で宮古市に住み、内科医院を開業した。市長選に、2度目の挑戦で当選した。45歳だった。当選した時の運動員、支持者が手にしていたのが「クマちゃん人形」と呼ぶ、このキーホルダーである。
 私が読売新聞社を辞めたのも45歳。以後、戊辰戦争の取材などで東北地方を走り回り、箱館(函館)戦争の海戦があった宮古を訪ね、クマちゃんの家に泊めてもらった時に、このキーホルダーを貰った。
 「市長は2期やったら辞めて、ラーメン屋でもやりたいな」と言っていたクマちゃんだが、町村合併の都合もあって3期、12年やって引退し、盛岡大学栄養科学部の教授になった(現在は学部長)。今年の正月に福島市で開かれた高校の同窓会で久しぶりに会って、元気な顔を見たが……東日本大震災では、宮古市も死者・行方不明者943人、全・半壊4700戸という大きな被害を受けた。
 彼の病院は高台にあるし、こちらからのメールは届いているようだから無事だろうと思ってはいたが、クマちゃんから、ようやくメールが来たのは5月になってからだ。あと30センチ津波が高かったら病院も家も危なかったそうで、「私の中では3月11日で時間が止まってしまったようで、まるで夢を見ているような日々」と現在の心境を語っていた。被害を免れた病院には、糖尿病や高血圧の薬の在庫が1か月分あったことが、家を流された患者を助けた。彼自身、医療チームの先頭に立ち、駆け回っていた。
 高さ10メートルの防波堤を備えていた旧田老町(現宮古市)は、それをはるかに越える津波で甚大な被害を受け、現在の山本正徳宮古市長の家は跡形もなくなったという。
 この災害から復興するために合併していてよかったと、クマちゃんは地元紙のインタビューで話している。旧田老町だけでは、財政も、人的支援も全く足りないが、「宮古市として被害甚大な田老地区を支援できる」からだ。行政のトップとしての彼の発言に、頼もしさを感じた。
 「クマちゃん人形」のキーホルダーを使い始めて、もうすぐ6年になる。擦り傷で鼻の頭が黒くなってきたけれど、毎日2回、このカギを使うたびに、「クマちゃん頑張れ」とエールを送らずにはいられない。
 余談だが、奥さんの伸子さんは、子育てが一段落してから東北大学の大学院経済学研究科博士課程で学び、現在は、宮古市の隣の普代村教育長を務めている。普代村は、高さ15・5メートルの防波堤と防潮堤のおかげで、ほとんど津波被害がなかった。故和村幸得村長が「明治29年の津波は15メートル以上との記録がある」と、周囲の反対を押し切って建設したこの備えが、今回の大震災で生きた。人口3千人の普代村では行方不明者が1人いたが、死者はゼロだった。三陸地方の奇跡、と称賛されている。
 とは言え、被害が皆無だったわけではない。防波堤の外側に位置した漁港は、まともに津波をかぶった。熊坂伸子さんは、村の災害対策本部の副本部長として復興に向き合っている。
親しい友人ながら、すごい夫婦だと思う。

初夏の緑の中で
 5月の連休に房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ったら、アヤメが咲いていた。

株分けして2年目のアヤメ
 一昨年に株分けしたアヤメである。昨年より、それぞれの株がひと回り大きくなったようだ。それで、佐倉市の単身宅に戻った休日、マンションの向かいにある城址の、山のふもとにある花菖蒲園はどんな具合だろうと、散歩に出た。その途中の住宅街で、「自然のアート」を見つけた。

配水管に育ったドクダミ

茎を伸ばし、光を浴びる雑草
 傾斜地に建てた家の、土留めの壁にあけた配水管から草が伸びていたのだ。片方はドクダミ、もう1本には、名前はわからないけれど雑草が元気に茎を伸ばしていた。壁が白いので、その造形が面白い。まだ時折、風が冷たい日はあるものの、季節は間違いなく初夏を迎えているのである。
 さて、肝心の花菖蒲はまだまだだった。たぶん、見ごろは6月になってからだろう。でも、たしか、菖蒲田のわきには大きな鬼胡桃(オニグルミ)の木があったはずだ。あの木は元気だろうか。本丸への上り口にあるその木は、やはり大きく、そして枝いっぱいに葉を茂らせていた……が、枝から房状のものが無数にぶら下がっている。
 「これが、胡桃の花なのか」。私は初めて見た。胡桃はクルミ科クルミ属の植物だが、ブナ科の栗の花に似ている。

房状に垂れるオニグルミの花
 いすみ市のわが家にも、鬼胡桃の木がある。1998年に家を建てた頃は、胡桃の巨木が2本あり、秋から冬にかけては野生のリスがクルミを食べに来ていた。しかし、2004年秋の台風でわきを流れる落合川が増水し、川に面した斜面が崩れた。その河川改修で、わが家にあった多くの巨木が切り倒された。だが、リスが埋めておいたクルミから芽吹いた3本の苗を、私とかみさんは植木鉢に移し、2006年、整地が終わった裏の斜面に植えた。そのうち2本は今、私の背丈をはるかに越えて育っている。
 今年も、花は咲かなかった。でも、花の形がわかったので、来年の初夏がものすごく楽しみになった。

天ぷらにソースをかけますか?
 北海道根室市の「エスカロップ」、金沢市の「ハントンライス」、長野県伊那市の「ローメン」、岐阜市の「高等ライス」、長崎市の「トルコライス」……地元の人しか知らない名物料理が全国各地にある。が、『天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線』(野瀬泰申著、新潮文庫)を読んだ驚きは、そうした「ご当地グルメ」に出会った時とは全く異質のものだった。「天ぷらにソースなんて、かけるわけがないじゃないか」と思うのは、東日本の人が言うことで、大阪では当たり前だという。

野瀬泰申さんの『天ぷらにソースをかけますか?』
 著者の野瀬さんは、日本経済新聞の記者。2002年10月に日経新聞のホームページ担当になった時、前々からの疑問を読者に問いかけた。それは「天ぷらをソースで食べる地域はどこまでか」という疑問だった。福岡県久留米市出資の野瀬さんは、大阪社会部が振り出し。そこで、地元メーカーのウスターソースのビンのラベルに、天ぷらの写真が印刷されていたことに驚いた。しかし野瀬さんは子供の頃、タマネギの天ぷらにはウスターソースをかけていたことを思い出した。「西日本では、天ぷらにソースが珍しくない。だが、その地域はどこまでなのだろう」と、長年抱いてきた疑問をインターネットの世界に投げかけたのである。
 反響は大きかった。その結果、天ぷらをソースで食べるか食べないかの境界線は、見事に糸魚川‐静岡構造線(フォッサマグナ)と重なったという。
 福島県出身の私には当たり前と思われていた「ナメコの味噌汁」が、西日本ではほとんど食べられていないことも、この本で知った。これまでの「民俗学的手法」では、多大な時間と労力をついやして現地調査しなければならなかった「日常の食生活調査」が、いとも簡単にできてしまうことにも驚かされた。「冷やし中華にはマヨネーズ」、「メロンパンは楕円形で、中に白あんが入っている」……まあ、面白い話が詰まっているので、興味のある方は読んでいただきたい。
 さて、冒頭に書いた「ご当地グルメ」を、みなさんはどれくらいご存知だろうか。
 根室市の「エスカロップ」は、やや薄めのとんかつにデミグラスソースをかけた料理。私は根室では食べなかったが、札幌駅の食堂街で食べた。それはいいが、福井県敦賀市の洋食店「ヨーロッパ軒」で、「スカロップ」という料理も食べたことがある。こちらは、ポークソテーにデミグラスソースをかけていた。
 長崎市の「トルコライス」は、食べたことがない。けれども、カレーとスパゲティ・ナポリタンを同じ皿に盛った料理だから、味は想像がつく。カレーはインド料理で東洋の象徴、スパゲティはイタリア料理で西洋の象徴、それを一緒盛りにしたから、東洋と西洋をつなぐトルコと名づけたといわれている。が、これは最もそれらしい説で、実は諸説があり、「元祖」という店も何軒かあるらしい。
 金沢の「ハントンライス」については、前にも紹介した(「んだんだ劇場」2008年6月号)。ケチャップライスの上に薄焼き卵を載せ、その上にタルタルソースをかけたエビなどのフライが載っている。

金沢市の「わかばやし」で食べた「ハントンライス」

伊那市の「ローメン」
 長野県伊那市の「ローメン」は、定義が難しい料理だ。「萬里」(ばんり)という中華料理店が昭和30年ごろ創始したもので、蒸した中華麺、マトン(羊の肉)、キャベツが共通しているものの、店によって焼きソバなのか、汁ソバなのか判然としないのである。味付けもさまざまで、加えて卓上に調味料がいろいろ置いてあり、客が自分の好みでさらに味を加える。私は高遠の桜を見に行った際に、高遠の町で食べたが、汁はほとんどなく、ソース味の焼きソバに近いものだった。私は羊肉が好きなので、「これもあり、かな?」と思ったけれど、万人向きではないかもしれない。
 伊那市周辺ではかつて、羊の飼育が盛んで、その肉を使って「ジンギスカンではない料理を」と考案されたのが「ローメン」だという。そういう意味では、昨年の第5回「B‐1グランプリ」(B級グルメ選手権)でゴールドグランプリに輝いた甲府市の「鶏もつ煮」も、捨てられることが多かった「鶏もつ」を活用しようというアイデアである。蕎麦屋さんが「鶏もつ」を甘辛く照り焼きにし、蕎麦ができるまでの間のつまみとして客に出したのが始まりと言われている。今では、これが主役の「鶏もつ丼」も甲府市内のほとんどの蕎麦屋メニューになっている。

甲府市のご当地グルメ「鶏もつ丼」

明治時代から続く岐阜市の「高等ライス」
 さて、岐阜市の「高等ライス」は、「漢字では、高等学校の高等と書きます」と言われたって、聞いただけではどんな料理か想像できないだろう。
名古屋を離れる前の3月16日、NEXCO中日本の岐阜の事務所に用事があって出かけた際、「これを知らなければ、岐阜市ではモグリと言われます」と連れて行かれた先は、明治27年(1894)創業という「三河亭」だった。岐阜県はもちろん、東海3県内で最も歴史のある洋食屋さんである。
 で、出て来たのは、どんぶりにご飯を盛り、カレールーをかけて、目玉焼きをトッピングしたもの。スープとサラダがついて800円。
 なんで、これが「高等ライス」なのか。岐阜新聞のウェブサイトによると、創業当時からのメニューで、当時のカレーは高級料理、しかも目玉焼きまで載っていたから「高等」と名づけたのだそうだ。今なら驚くほどのレシピではないけれど、100年以上続いているメニューである。これはこれで味わい深いものがあった。
(2011年5月22日)


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