んだんだ劇場2011年7月号 vol.150
No85
夏は来ぬ

ホトトギスがやって来た
 ♪卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来(き)鳴きて……唱歌「夏は来ぬ」(佐々木信綱作詞、小山作之助作曲)は小学校で習ったが、意味はよくわからなかった。なにしろ明治29年(1896)に発表された歌で、言葉が古いのである。それに、楽譜についている歌詞はひらがなだから、最後の「なつはきぬ」なんて、当時はよくテレビCMも流されていた「カネカ絹せっけん」があったから(今もあるかどうかは知らない)、夏は絹せっけんで洗うと汗がよく落ちるのか、などと思っていた。
 中学校の国語の教科書に、寺田寅彦が随筆でホトトギスの鳴き声を「テッペンカケタカ」と書いているのが載っていて、そうか、そういうふうに鳴くのかと思った。
 高校の古典の教科書では、古今和歌集の「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」(詠み人知らず)があって、「ほととぎす〜あやめ草」は序言葉(じょことば)だと教わった。後半の「あやめも知らぬ」の「あやめ」は、漢字では「文目」と書いて、「道理」という意味。「私は道理の通らない恋をしているんだ」という後半を言いたいために、直前に同じ音の「あやめ草」を言っただけなのである。そういうのが序言葉で、まあ、現代のおやじギャグの高尚なものと思えばいい。
 で、古今和歌集ではこの短歌の「ほととぎす」を、「郭公」と漢字で書いている。この字は「カッコウ」と読むのが本来で、姿が似ているから字も混同したと言われている。実は、ホトトギスはカッコウ科の鳥。夏に南からやって来て、ほかの鳥の巣に卵を産んで育てさせる「托卵」(たくらん)という習性もカッコウと同じだ。だが、カッコウは「カッコー、カッコー」と鳴く。
 ……というような予備知識はあったのだが、実際にホトトギスの声が識別できたのは、房総半島、千葉県いすみ市に住み始めてからだ。わが家の周辺ではたくさんの野鳥が見られるので、鳥の名前を調べようと買ったガイドブックに「ホトトギスの鳴き声は、トッキョキョカキョクと聞こえる」と書いてあったのがピンと来た。確かに、そう鳴く鳥がいる。しかも、飛びながら鳴くじゃないか。私の耳には「テッペンカケタカ」なんて、聞こえたためしがない。聞きなれると、すぐにわかる声だ。
 でも、何年も聞いていて、疑問がわいた。だからある時、頭上を飛び過ぎて行ったホトトギスにきいてみた。
 「おーい、どうしてトッキョキョカキョクの前に、トウキョウって鳴かないんだ〜?」
 すると、ホトトギスが戻って来て答えた。
 「だって、トウキョウから始めると、舌、噛んじゃうんだもん」


羽化したアゲハチョウ
 庭の花壇を見て回っていたら、カンゾウ(漢字では萱草、ユリ科の植物で、園芸品種はヘメロカリスという)の葉の裏に、アゲハチョウがとまっていた。近づいても逃げない……というより、アゲハチョウが羽を下にしてぶら下がっている姿は変だなと思った。
 よく見ると、お尻の方にさなぎの抜け殻がある。そうか、こいつは羽化したばかりなんだ。羽はまだ伸びきっていないようだ。

羽化したばかりのアゲハチョウ
 それが午前10時ごろで、たぶん、この姿になるまで1時間以上はかかっているだろう。子供の頃、アブラゼミの羽化を目撃したことがある。羽化したばかりは前身が真っ白で、次第に羽が茶色になり、頭や目も黒くなってくる。腹にある体液を羽の末端にまで行き渡らして、羽がピンとなるまでには時間がかかるのである。
昼食前に行ったら、アゲハチョウの姿はなかった。夏の空を舞い始めたのだろう。

いつになったら蛙になるの?
 家の西側のコンクリート床の片隅に、水を溜め込む枡を埋め込んである。農作業のあと、長靴の泥を洗い落とすための水である。そこに「蛙が卵を産んだよ」と、かみさんが電話で言って来たのは、名古屋のNEXCO中日本(中日本高速道路)から、子会社の中日本エクシス東京オフィスへ移籍する直前の3月下旬だったと思う。
 4月に東京の会社へ通い始めた頃、房総半島の家に帰ると「たくさんのオタマジャクシが生まれた」と、かみさんがうれしそうに言った。覗き込むと、手の小指の先ほどもない小さな黒い玉が、ゆらゆらと浮いたり沈んだりしていた。こんな小さな水溜りで生まれて、何を食べて育つのだろうと思っていたのだが、暖かくなったら、ミジンコのようなやつが大量に発生して、それなりの食物連鎖が形成されているのが見て取れた。
 雨が降って枡の水があふれると、かみさんは、オタマジャクシが外に流れていかないように余分な水を取り出して捨て、雨が直接降り込まないようにベニヤ板で屋根をかけてやっていた。よほど、オタマジャクシがかわいいらしい。
 それがようやく、私のカメラでも捉えられるくらいの大きさに育ってきた。

写真に撮れるくらいに育ったオタマジャクシ

右手前の四角い穴が水を溜める枡
 孵化した時の大きさから、たぶんこれは、アマガエルのオタマジャクシだと思う。緑色のアマガエルは、家の周囲にたくさんいる。2階の私の部屋の窓ガラスまでよじ登ってきて、蚊などの小さな虫をつかまえているようだ。
 が、それにしても、もう7月である。アマガエルは梅雨時によく見かける、という先入観があったせいか、とっくに蛙になっていいと思っていたのだが……このオタマジャクシには、いつになったら、足が生えるのだろうか。
 かみさんは「前足と後ろ足、どっちが先だっけ?」などと言いながら、楽しそうに観察を続けている。

ニンニクができた
 5月の連休に家へ帰ったら、南側の防風ネットの外側に1列、ネギのようなものが植えてあるのに気づいた。「なんだ、これ、ニンニクか?」ときくと、かみさんが「そう、去年、私が植えた」と言った。ニンニクは、八百屋で売っている1株をばらばらにして植えてやればいい。昨年の秋遅く、かみさんはそういう「ニンニクのタネ」を園芸店で見つけて、育てる気になったらしい。

1列に植えたニンニク
 6月末に、「ためしに掘ってみた」というニンニクは、ちゃんとできていた。7月になって全部掘り起こし、かみさんは農業機器の物置の天井に吊り下げた。こうして乾燥させておけば、使いたい時に使える。しばらくはニンニクを買わなくていい。「もっと肥料をやれば、大きく育ったはず」と、かみさんは言い、来年も作るつもりになっている。

りっぱに育ったニンニク

ニンニクを吊り下げて保存
聖護院大根のタネ
 やはり5月の連休の時、ニンニクの列のわきに、大根の花が咲いていた。でも、普通の大根ではなく、「聖護院(しょうごいん)大根だよ」と、かみさんが言ったので驚いた。
 聖護院大根は、京都市左京区・聖護院地区で江戸時代以来栽培されている、伝統の京野菜である。大根なのに、カブのように丸い形をしている。千枚漬けを作る聖護院カブとよく似ているが、葉っぱの形が違い、大根の方は煮物にするとやわらかく、味が深くしみこむので人気がある。
 かみさんが、どこかでタネを見つけて育てたのである。が、この前の冬、これが食卓にのぼった記憶はない。
 6月末に、「聖護院大根のタネって、おもしろいよ」と、かみさんが言った。花が終わったあと、手塚治虫のマンガに出てくる「ヒョウタンツギ」のような形の実ができて、それがおもしろいのかと思ったら、そうではなかった。

花が咲いた聖護院大根

ヒョウタンのような形の実。先端に突起がある
 実の先端に突起がある。このトゲのような部分がある日、ポロッと落ちて、中から本当にこまかいタネがさらさらとこぼれ落ちたのだそうだ。私も聞いて、ビックリした。そんな「タネ蒔きシステム」があったのか。自然というものは、絶妙の仕組みを創造するものだ。タネがこぼれ落ちる時、ちょっと風があれば、タネは少し離れた場所に着地するから、動けない植物でもテリトリーを広げられる知恵なのだろう。
 ところで、「タネを集める」と、かみさんが聖護院大根を引き抜いたら、肝心の根の部分はまことに貧弱だった。明らかに肥料不足である。
 防風ネットの内側はちゃんとした畑で、父親が耕し、畝を作り、いろいろな野菜を作っているので、かみさんはその邪魔にならないよう、ネットの外側に好きな作物を育てているのだが、他人の土地(管理を任されている)だから、どんどん肥料を投入するというわけにもいかない。でも、ニンニクにしろ、聖護院大根にしろ、まあ、よくやるものだと私は感心している。

1個実ったヒメリンゴ
 かみさんは、いろいろな植物を育てている。家の裏に植えたヒメリンゴの木もそのひとつ。何年前に植えたのか忘れたけれど、年々、着実に育っている。今年も4月中旬に花が咲いた。

花が咲いたヒメリンゴの木

一つ一つが美しいヒメリンゴの花
 しかし、植えた年にはたくさんの実をつけたのに、その後は花が咲いても実らなかった。それが今年、先日、よくよく見たら1個だけだが実っていた。私が見つけて、すぐかみさんに教えた。

1個だけ実ったヒメリンゴ
 どんな樹木でも、植木屋から苗木を買って来て植えて3年はそれほど成長しないと言われている。その土地になじむまで時間がかかるからだ。しかし、しっかり根を張れば、あとは驚くほど急速に成長を始めることも珍しくない。最初の年は、ヒメリンゴ自身が植木屋で育ち続けていると思いこんでいて、たくさんの実をつけたのだろう。だけど、まてよ、なんだか今までの土と違うなと気づいて、以後、実をつけることより、根を伸ばすことに専念していたのかもしれない。
 たった1個だが、この木も、「よし、この土地で子孫を残すんだ」と決心してくれたのだと、私には思えた。
ヒメリンゴは食べておいしいものではないし、この実が色づいたら、いちはやく野鳥が見つけてたべてしまうだろう。
 でも、それでいい。この土地に根付いて、私もかみさんもこの世からいなくなったあとでも、大きく育ち続けてたくさんの実を鳥たちに食べさせてくれれば、それでいいのである。
(2011年7月9日)

モモの避暑地

緑のカーテンと、よしず
 房総半島、千葉県いすみ市のわが家にはクーラーがない。周囲は水田と畑、そして緑豊かな大地が広がり、家の東から北へ川が直角に曲がって流れているから、網戸にしておけば四方から風が入って涼しいからである。加えて我が家は、とても断熱性能の高い特殊な構造をしているので、外の暑さも寒さも、家の中にはさほど影響しない。
 とは言え、やはり真夏は汗ばむ日もある。それで今年、かみさんが南側の玄関に、よしずの日除けを立てた。そればかりでなく、朝日がまぶしい東側のガラス戸には、よしずと、プランターに朝顔を育てて緑のカーテンをこしらえた。朝顔はまだ1メートルほどだが、これからどんどんツルを伸ばすだろう。

家の東に立てたよしずと、プランターに植えた朝顔
 この恩恵を最も受けているのが、愛犬モモだ。曇りの日は、長い鎖の範囲内で庭を駆け回っているが、晴天は日陰を選んでうずくまっている。午前中は、東の壁の陰でじっとしているけれども、10時を過ぎると南に回った太陽の光が、徐々にモモの近くに迫って来る。するとモモは、ひょいと立ち上がり、よしずと朝顔の陰にもぐり込むのである。

日差しを避けて壁にぴったり寄り添うモモ

よしずと朝顔の陰に入ったモモ
 犬は汗をかかないので、暑さに対する体温調節が容易ではない。よしずと朝顔の緑のカーテンは、モモの避暑地を作ってやったようなものである。
それにモモは、今年の6月で10歳になった。人間なら還暦を過ぎた辺りだ。暑さがこたえる年頃になったのだろう。朝顔の葉の木漏れ日の中に身を横たえるモモを見ていて、そんな気がした。

丸髷の大門素麺
 「きょうのお昼は、これにしよう」と、かみさんが四角い紙包みを取り出した。私が北陸自動車道のサービスエリアで買って来た、富山県砺波市の名産品「大門(おおかど)素麺(そうめん)」である。
 素麺は通常、手延べで生地をストレートに延ばし、長さを切りそろえるが、大門素麺は紙包みの中に、くるくるっと丸髷(まるまげ)のような形で納まっている。こんな姿の素麺は、全国どこにもない。

四角い紙包みの大門素麺

丸髷のような形で納まっている
 越中・大門村(現砺波市)の素麺は、江戸時代に能登半島の輪島から製法が伝えられた。その頃の輪島は全国有数の素麺の産地だったが、それは加賀百万石、前田家の御用達で作っただけ売れることになっていたし、日本海を往来した北前船で各地へ運ばれたからだ。が、明治になって藩主の庇護がなくなると、急速に廃れてしまった。
 輪島市の朝市通りを西の方へ行くと、住吉神社がある。船商売の人たちの崇敬を集めた神社だ。その境内に、市姫社(いちひめしゃ)という末社がある。石が積み上げてあるだけの小さな社(やしろ)だが、この石が注目すべきもので、かつて、素麺を作るための小麦粉を挽いた石臼なのである。ここを訪ねたのは2001年、『北前船 寄港地と交易の物語』(無明舎出版)の取材の途上だった。住吉神社の中庭には、塗りのはげた、こね鉢と思われる大きな木鉢がいくつも野積みされていた。かつては交易品として輪島の港から大量に積み出され、加賀藩に大きな利益をもたらした素麺だったのに……生産者が藩を後ろ盾に"殿様商売"をしていたからだろうと思わせる、無残な遺物だった。
 しかし、素麺の伝統が雲散霧消したわけではない。大門素麺もそうだが、もうひとつ、能登半島の付け根、富山湾に面した氷見市に「氷見うどん」がある。やはり手延べで作るうどんで、明らかに素麺の製法を伝えている。
 氷見からさらに内陸に入った大門村で、どうしてストレートな形ではなく、半乾きの状態で丸めるようになったのかは、よくわからない。ずいぶん前に、別の取材で砺波を訪ねた折、「昔は、本当に高島田の髷の形にして、結婚式の引き出物にしたんですよ」という話を聞いた覚えがある。手先の器用な職人が、遊び心で始めたのかもしれない。
 さて、かみさんがゆでてくれた大門素麺は、腰が強くて美味だった。しかも、紙包みの半分しかゆでなかったのに、私、父親、かみさんの3人が食べるのに十分な量だった。大門素麺の案内パンフレットには、ゆでる時に「丸髷状の麺を2つに割ること」と注意書きがあった。「これを忘れるととても長い素麺となり、イスの上に立って食べなければならなくなる」そうだ。丸めてあるから、そのボリュームに気づきにくいのである。

具を添えて食卓に出された大門素麺。これで包みの半分の量
冷たいうどん
 信仰の富士登山の登り口、山梨県富士吉田市にはうどんを食べさせてくれる店がたくさんある。観光客は「うどんマップ」を片手に歩き回っているが、看板がないと見落としてしまいそうな、ごく普通の民家のような店ばかりだ。私が行ったのは夏で、冷たいうどんを食べた。太く、腰があって食べ応えのあるうどんだった。

富士吉田のうどん

甲府盆地の「おざら」
 同じ山梨県だが、甲府で「おざら」を知っているかときかれたことがある。社内報に連載していた「インターから20分紀行」の取材時のことだ。取材に同行したNEXCO中日本の甲府の事務所長Sさんは、昇仙峡に沿った山道を上り、甲府市の上水道の水源である荒川ダムのわきの食堂に案内してくれた。そこで「おざら」を知っているかときかれたのである。
 タネを明かせば、「冷たいほうとう」のことだ。
 「うまいもんだよ、カボチャのほうとう」などと言って、甲府盆地の名物になっている「ほうとう」は本来、煮込みうどんなのだが、そのうどんを冷たくして出すと「おざら」という名称になる。語源はわからない。煮崩れしないくらいにしっかり打ってあるうどんなので、こうして出されても、シコシコとした食感が心地よかった。
 夏はやはり、こういう食べ方がいい。

不思議な岩屋
 いすみ市の家から2キロ離れたコンビニまでは、愛犬モモとの散歩コースである。田んぼのわきをたどるように歩く。今年は例年よりちょっと遅く、稲の穂が出始めた。
 コンビニが見える辺りまで来ると、左手に小高い丘がある。上には何軒も家がある。なんの変哲もないような丘だが、ここに不思議な岩屋があるのだ。

何軒もの家がある丘
 岩屋は、丘の先端にある。出口をコンクリートで固めた、小さな岩穴だ。のぞきこむと、コンクリートの縁まで水がたたえられている。地元の人にきくと、湧き水で、1年中涸れることがないそうだ。
でも、この水は、どこから来るのだろう。真上の丘に降った雨がしみこんだだけとは思えない。そんな大量の水を抱えているような山も見えないのに。

不思議な岩屋

中には満々と水がたまっている
 千葉県の最高峰は、南房総市の旧丸山町にある愛宕山で、標高わずか408メートル。47都道府県の最高峰では、最も低い山である。旧丸山町は、外房の鴨川市と、東京湾に面した鋸南町(きょなんまち)の中間辺りにある。そちらの方へ行けばけっこう山は深くて、私も車で鴨川へ行く山中で野生のサルの群れを見かけたことがあるが、まあ、房総半島というのはダラダラとした低い山の連なりみたいなもので、豊富な地下水があるとは思えない土地である。
 けれども、地下水脈は面白いもので、例えば戦国時代の山城には必ず井戸があった……と言うより、水脈のある所に城を築いたのである。織田信長に攻め滅ぼされた近江の浅井長政の居城、小谷(おだに)城は尾根筋に築いた城で、琵琶湖を見下ろす位置にあるが、城址へ登る道のわきには「馬洗池跡」があって、どこからこの水が来ているのだろうと不思議に思った覚えがある。地面の下は未知の世界だから、と言ってしまえば、それだけの話であるが……。
 それにしても、暑い。例年、梅雨が明けるとわが家の辺りは日照りが続く。畑はカラカラに乾ききってしまう。あの岩屋のような湧き水がわが家の敷地のどこかに出現してくれたらいいのにと、いつも思っている。

前回の訂正
 前回の「日記」に、かみさんからクレームがついた。「聖護院大根のタネは、さらさらこぼれるような小さなタネじゃない」というのである。先日、家に帰った時によく見たら、なるほど、形は丸くて平べったいが、スイカのタネより大きいくらいだった。私の観察不足だった。
 だから、前回の「日記」のその部分は、「コロコロとこぼれ落ちる」と訂正する。そして、これくらいの大きさになると、風で飛ばされてもそれほど遠くまでは行かないだろうと思うから、「ちょっと風があれば、タネは少し離れた場所に着地するから、動けない植物でもテリトリーを広げられる知恵なのだろう」と書いたのは、やや「表現過多」だったと反省している。
(2011年7月24日)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次