変わり咲き朝顔
国立歴史民俗博物館の「伝統の朝顔展」
愛犬モモが日陰を求めて入り込む緑のカーテンの朝顔に、花が咲き始めた。中心部にピンクのぼかしが入った、なかなか良い色あいの花である。
でも、次の写真を見て、これが同じ朝顔だと言われれば驚く人も多いだろう。
わが家の朝顔 |
牡丹咲きの朝顔 |
一般的な言葉にすれば「八重咲き」であるこの花は、愛好家の世界では「牡丹(ぼたん)咲き」という。おしべ、めしべがすべて花びらに変化したもので、こうした、通常とは違った形質をひっくるめて「変わり咲き朝顔」という。
私の単身赴任宅がある千葉県佐倉市のマンションの向かいの丘、佐倉城址に国立歴史民俗博物館がある。本館は本丸跡近くで、その昔はお城勤めの武士たちがぞろぞろと歩いただろうと思われる道のわきには、博物館の「くらしの植物苑」がある。そこで8月2日から「伝統の朝顔」展が始まったので(9月4日まで)、土曜日の休み(8月6日)を待ちかねて、9時半の開門と同時に100円の入園料を払って入った。
「伝統の朝顔」というのは、「変わり咲き朝顔」が日本伝統の園芸技術だからだ。例えば、花びらが5弁に細く分かれた「采咲き」(さいざき)という花がある。戦国時代の武将が握った采配――細く切った紙や、獣の毛を束ねて垂らしていた指揮棒――から連想した名前だとか。
白い采咲き |
淡い藤色の采咲き |
花だけをアップでみたら、これも朝顔とは思えないだろう。
ヒルガオ科サツマイモ属の植物である朝顔は、中国南西部辺りが原産地と推定されているが、原種に近いと思われるものが世界各地に自生していて、特定されていないようだ。日本には遣唐使が中国から持ち帰ったとされる、かなり古い渡来植物である。しかし当時の朝顔は、タネを下剤として利用する薬用植物で、非常に珍しいものだった。千利休が朝顔をたくさん咲かせたので、豊臣秀吉が見物に訪れたところ、利休はたった1輪を茶室に飾って、ほかの花はすべて摘み取っていたという「朝顔の茶会」の話が伝わっているが、これはその頃、朝顔が花を観賞する植物ではなかったからだと、私は思っている。朝顔の品種改良が飛躍的に進んだのは、江戸時代だ。
何度か大きなブームがあって、そのたびに奇妙奇天烈な朝顔が生み出された。その中心になったのは、現在のJR山手線の御徒(おかち)町駅近辺に住居のあった下級武士たちである。彼らは徳川氏の家来なのだが、馬に乗れる身分ではなく、徒歩で従軍していたので、「御徒」(おかち)といい、彼らの住んでいた地区を御徒町と呼んだ。
で、彼らは貧乏だった。平和な時代になると、戦で手柄を立てる望みもなくなった。そこで、内職として「園芸」に精魂を傾ける人々が多かった。朝顔ばかりでなく、キク、花菖蒲、サクラソウ、オモト(万年青)など数多くの園芸植物が生み出され、珍奇な品種は高価で売買されて彼らの家計を助けたのである。
そんなことを、読売新聞の生活情報部記者時代、『今、江戸にてそうろう』という連載を書いた時に調べた。江戸時代の暮らしや文化って、なかなかいいじゃないか、現代の日本人も見習う点がたくさんあるよ……という趣旨の記事を書いたのである。
その時に参考書として買った『変わり咲き朝顔』(日本テレビ発行)という本が、今も手許にある。目を疑うような姿の朝顔の写真、江戸時代の図譜が豊富に掲載されている。こんな朝顔を創出するには、大変な手間がかかると即座にわかる。貧乏武士には金がないけれど、時間はたっぷりあった。そして、戦のない平和な時代だからこそ、こういう鉢植え植物を売買することができたのだと思う。だって彼らは本来、兵士なのだから。
でも、どうやってこんな品種を作るのだろう。例えば牡丹咲きなどは、おしべ、めしべが全くないのだから、タネができない。偶然に咲いたとしても、翌年に同じ花を咲かせられないじゃないか。それで私は当時、この本の著者、渡辺好孝さんを訪ねた。
渡辺さんは、「その父親、母親の朝顔を、それぞれ別に毎年栽培して、受粉させたタネをまくんです」と説明してくれた。そのために渡辺さん自身、広い畑を借りて元になる品種を栽培しているという。つまり江戸時代の日本人は、メンデルの法則など知らなくても、経験的に新品種を作り出し、その遺伝子を系統化していたのである。
「変わり咲き」は、花の形だけではない。色や模様の変化もある。
吹掛け絞り模様 |
ミルキーウェイ |
白い花びらに紅色が散らばったこの模様は、「吹掛け(ふっかけ)絞り」と名札に書いてあった。もっとこまかく、霧吹きで色を吹き付けたような花もあった。
模様がかわいらしいので写真に撮った「ミルキーウェイ」は、なんの解説もなかったけれど、日本の「伝統朝顔」ではないだろう。「ミルキーウェイ」は英語で、天の川(銀河)のことだ。この花のどこが銀河なのだろうと思うが、こんな模様は楽しい。
朝顔は非常に多くの遺伝形質を内包している植物で、それは、葉にも現れる。通常は切れ込みのある葉が、単純に細長くなったのを「柳葉」という。それに、鶏の足のような細かい横皺(よこじわ)があるのを「鶏足(けいそく)柳葉」、極限と思えるほど細くなったのを「糸柳葉」という。こうなると、もう、プロの包丁人が刻んだ千切りキャベツみたいだ。写真の花はどちらも采咲きだが、柳葉だから采咲きとは限らない。
鶏足柳葉 |
糸柳葉 |
朝顔の原産地は特定できていないと書いたが、佐倉城址の「伝統朝顔」展では、外国種も展示されていた。
白い花は「マメアサガオ」。手の親指の爪ほどの大きさしかない。「北米西南部原産の帰化植物」という解説があったから、私は見たことがないけれど、日本で野生化しているのかもしれない。
黄色い花は、「黄色イポメア」。アフリカのケニア産の植物だそうだ。これも「豆」のように小さい花だ。葉が丸いので、正確には「アサガオの近縁種」である。実は、江戸時代以来とんでもない品種改良がなされた朝顔でも、いまだ黄色い花はない。こんな花を使って黄色い朝顔ができたらと思う。
マメアサガオ |
黄色イポメア |
さて、研究家の渡辺好孝さんにいろいろ面白い話をうかがった最後に、「これも変わり咲き朝顔のひとつですよ」と言われ、キョトンとしてしまった品種がある。説明されれば、なるほど、普通の朝顔にこんなものはないですねと、びっくりした品種だ。それが「枝垂れの朝顔」。
枝垂れの朝顔 |
私の俳句に「咲き登る朝顔日ごと小さき花」という作品がある。秋も深まる頃まで朝顔は咲き続けるが、早くに咲いた下の方の花はすでにタネになっているのに、伸びたツルの上の方に咲いた花は、日を追うごとに小さくなっているという情景だ。朝顔は普通、そんなふうに育つ。
しかし、渡辺さんに見せてもらった朝顔は、上に伸びないのである。鉢から伸びたツルはぶら下がるだけで、下へ下へと伸びる。支柱に巻きつくこともない。渡辺さんの本によると、これは、昭和28年(1953)に初めて発見された形質だという。
江戸時代の図譜にはあっても、現在では失われてしまった花の形があるそうだ。その一方で、昭和になって見つかった形質もある。遺伝子の研究が進んだ現代でも、生命の不思議さには興味が尽きない。
ゴーヤの揚げ餃子
今年は節電が声高に叫ばれているせいもあってか、ツル植物を栽培して日陰を作る緑のカーテンが各所で目を引く。中で多いのが、ゴーヤ(ニガウリ)だ。丈夫な植物で、しかも成長が速い。
房総半島、千葉県いすみ市のわが家では毎年、ゴーヤを作っているが、目的はひたすら食べるため。去年のこぼれダネから勝手に芽吹くので、ツルを巻きつかせるネットはそのままにしておけばいいから、手間もかからない。今年も次々に花が咲いて、実をつけている。中には巨大な実もあった。切ってみると、タネも大きい。このラグビーボールのような形のゴーヤは、琉球(沖縄)種である。鹿児島種は、細長い形になる。
今のところ今年最大のゴーヤ |
赤く見えるのは熟したタネ |
たいていは、中の白い部分を取り除き、薄切りの豚肉、タマネギと炒め合わせる。味付けは塩、コショウだけ。シンプルだが、うまい。タマネギを加えるのは、亡くなった母親が「苦味が弱くなる」と始めた方法だ。豆腐を入れることもあれば、豆腐の変わりにビーフンを入れることもある。
わが家流のゴーヤチャンプルー |
先日、かみさんが酒のさかなにと「ゴーヤ入り揚げ餃子」を作ってくれた。ゴーヤを刻み、オランダのゴーダチーズと、複数のナチュラルチーズを合わせて作るプロセスチーズ、2種類のチーズを刻んで混ぜ、それを具にした揚げ餃子である。
これが、もう、しこたまうまかった。冷酒がホイホイと飲めて、繰り返すが「しこたま、うまかった」。だから、夢中で食べてしまい、写真を撮るのを忘れた。
ウソだと思ったら、簡単に作れるから、お試しあれ。
そうだ、京都……行かない
1年ぐらいでは、悲しみは風化しない
8月20日付の読売新聞朝刊コラム、「編集手帳」を読んで涙が出てしまった。宮城県石巻市の小学6年生、佐藤雄樹(ゆうき)君の、親へ宛てた感謝の手紙の話である。
〈12年間育ててくれてありがとうございました/言うことを聞かなくてめいわくかけて/きたけど、心の中では感謝していました/本当にありがとうございました/ゆうきより〉
卒業を目前に、先生が書かせた手紙だ。しかし雄樹君はなかなかそれを出さなかったという。それで父親が「手紙は?」と催促して、やっと手紙を渡した。
それが、今年3月10日だった。
翌日、津波で雄樹君は還らぬ人となった。
過去形で書かれたこの手紙を、父親は「まるで遺書のような」と語った……「編集手帳」にはそう書かれている(この手紙は『中央公論』9月号の震災特集記事で紹介されている)。
死者・行方不明者2万人に及ぶ東日本大震災の発生からもうすぐ半年になるが、新聞には毎日、新たに判明した死者の名が掲載されている。そしていまだに、雄樹君の手紙のように、涙を誘う話が届く。
来年3月11日には、天に召された方々の数だけ悲しみがよみがえるに違いない。1年経っても気持ちの整理がつかない遺族も多いだろう。1年ぐらいでは、突然の死に対する悲しみは風化しない。
たまたま来年のその日は、日曜日である。
だからなのだが、京都市では、初めての市民マラソンである「京都マラソン」が開催される。それを聞いて、私は違和感を覚えた。「東京マラソン」のように数多くの市民ランナーに、「千年の古都」を走ってもらいたいと、京都の人たちがずいぶん前から大会を企画していたのだが、開催日が決まったのは、東日本大震災から2か月後である。
それが妙に腹立たしい。
冬は底冷えがし、夏は蒸し暑い都大路を走るには、3月がよい時期なのだろう。前々から行われていた「京都ハーフマラソン」が3月の第2日曜だったので「11日にした」、ということらしい。
だが私の感情は、震災からちょうど1年目にやらなくてもいいだろう、と言っている。被災地の人々、それに被災地に縁のある人々が黙祷し、悲しみを新たにしている時間に、京都ではたくさんの人々が笑顔で走っている姿を想像すると、「無神経」という言葉が頭をよぎる。
つい先日、京都五山の送り火に、津波になぎ倒された岩手県陸前高田市の松の木をまきに使うかどうかで、すったもんだの騒ぎになったことも思い出された。
話が飛ぶようだが、海音寺潮五郎は随筆「平将門とその時代」(中公文庫『日本の名匠』所収)で、平安時代の寛仁3年(1019)、朝鮮半島から来た海賊集団が壱岐・対馬を荒らし、北九州を襲った事件について書いている。この時、太宰権帥(九州総督)だった藤原隆家は地方豪族を招集し、大宰府の兵を指揮して海賊を撃退したので、朝廷に賞を申請したのだが……
「権大納言藤原公任、権中納言藤原行成等は、/『大宰府は朝廷からの指令の到着する以前に戦ったのであるから、これを賞する必要はない』/と主張した。/公任にしても、行成にしても、当時の公卿中では出色の人物で賢才を以て称せられた人々であるのに、こんな阿呆なことを言っていたのだ」
海賊に襲われた現地の実情に思い至らない都人(みやこびと)にあきれた海音寺潮五郎の言葉を、私は「京都マラソン」をあえて来年3月11日に行う感覚に重ね合わせた。しょせん、かの地の人たちにとっては他人事なのだろうと。
京都マラソンでは「復興支援」がメインスローガンに掲げられている。ランナーの参加費の一部を義捐金に充てることも検討されているようだ。が、お祭り騒ぎのあとで「私ら頑張って走りました。被災地の皆さんも頑張って」とニコニコ顔で言われても、言われた方はそこに誠実さを見出せるだろうか。
ほかの日ならともかく、3月11日は、唐突に命を奪われた2万人もの人々の、「命日」なのである。
仕事などの必要に迫られれば別だが、私は今、京都を訪ねたいとは全く思わなくなっている。これは理屈ではなく、感情の問題である。
再び変わり咲き朝顔
名古屋から4月に東京へ戻って、千葉県佐倉市から職場へ通う生活が始まった。房総半島、いすみ市から通勤するのは大変なので、単身赴任宅を以前に住んでいた佐倉市に定めたのである。「それにしても、遠いですね」とよく言われるが、毎朝、京成佐倉駅から1時間は座って居眠りできるので、楽なものだ。それに、本を読む時間が増えた。名古屋では、名鉄国府宮駅から1分というアパートにいて、朝8時29分の電車に乗れば、始業時間の5分前には席についていられた。電車の中で本を読める時間は10分もなかった。こちらでは眠くなければ30分以上は読める。帰りの電車はすぐに座れないことが多いので、もっと読める。
それで、買ったままで開く機会のなかった『甲子夜話』(かっしやわ)を読み始めた。江戸時代の平戸(現在は長崎県)藩主、松浦静山(まつら・せいざん)の随筆集である。が、文章が古文、漢文のうえ、びっしりと字の詰まった「東洋文庫」(平凡社)で20冊もあるので、面白いのはわかっていても、「読み通すぞ」という決心がつかなかったのだ。
で、読んでみたら、やはり面白い。前回の「房総半島スローフード日記」で紹介した「変わり咲き朝顔」についても、筆が及んでいた。しかし……
「花の姿のいろいろを賞するのはいいにしても、葉が変形したのは何が面白いのか。人の好みもここまでねじけたのかと、興ざめするばかりだ」と、いたく批判的なのである。
江戸時代には、朝顔の花の大きさを競うことが流行したこともあるが、大輪を咲かせるために1月から肥えた土を用意して床下に保管しておき、春雨にあててからタネをまき、それを移植して育て、ツルが伸びないように先を止め、余分な葉、つぼみを摘み取り、たった一輪の大きさを競うのは、「まことに見苦しく、見るに堪えない」と酷評する。
そして、「昼にはしぼんでしまう花に、ここまで人力を費やすのは浅はかな娯楽で、これも今の世の人心にかなった玩具かと思うと、ため息が出る。この知恵と力で、五穀の中になんらかの新しい品種でも作り出すのなら、後の世のためになるのに」と嘆く(現代語訳は筆者)。
……いやはや、ご説ごもっとも。「五穀の品種改良でもすればいいのに」という主張などは、食糧自給率が40%を切った現代日本では、耳が痛い。
しかし、である。「松浦の殿様、これは世の中が平和だったからこそ」と、私は言いたくなる。江戸時代、朝顔に限らず園芸が大流行したのは平和な世の中だったからで、加えて園芸は貧乏武士の利殖でもあったことも忘れてはならない。どうか大目に見ていただきたいと、『甲子夜話』を読んでいて思った。
さて、佐倉市の国立歴史民俗博物館にある「くらしの植物苑」で開催中(9月4日まで)の「伝統の朝顔」展では、松浦静山公が「なにが面白いのか」というような葉がいろいろあった。前回お見せした「糸柳葉」なども珍しかったが、「顰(しかめ)葉」にも驚かされた。手の小指の爪ほどの葉が、茎から群がり出ている。
「顰」は、「しかめっ面」の「しかめ」のことで、言われてみれば葉の模様が顔をしかめたような感じがする。命名者のセンスにも感心させられた。
「顰葉」の朝顔 |
茎がリボン状になった「帯化」 |
茎にも変形があった。リボンのように平べったくなった茎で、植物学上は「帯化(たいか)茎」というのだそうだ。朝顔栽培の世界では「石化」と呼んでいる。私にはとても珍しく思われたが、朝顔の遺伝子情報としては「珍」というほどではないらしい。
大輪朝顔は、今も人気がある。佐倉の「伝統の朝顔」展では、いろいろな花を鉢の水に浮かべた展示があった。大輪は、さすがに大きい。
大輪の大きさがわかる展示 |
人気の大輪品種「団十郎」 |
けっこう知られている大輪の品種に「団十郎」がある。江戸時代の歌舞伎役者、二代目市川団十郎が好んだ茶色から命名したという朝顔だ。東京・入谷の朝顔市でも、この鉢植えはよく見かける。
品種改良には江戸時代の平和がしのばれ、新品種の命名にはそのころの人々の機知が感じられる。同時代の松浦の殿様には腹立たしいことかもしれないけれど、後世の我々にとっては、優雅な文化遺産なのである。
ハートのマークのタネ
この夏、家の東側に、かみさんは朝顔で緑のカーテンを作ったが、南側のガラス戸の前には風船かずらを育てた。
風船かずらの緑のカーテン |
風船かずらの花と実 |
育ててみたら、薄緑色の葉はそれほど密集しないので、緑のカーテンとしては効果不足だったが、小さな白い花が咲き、ホオズキくらいの大きさの実がそれこそ風船のようにぶら下がったさまは、見た目に涼しげだ。調べてみたら、北米原産のムクロジ科の植物だそうだ。「ムクロジ」という植物をよく知らないので、どこがムクロジ科なのかも判然としないが、三椏(みつまた)のように、茎は必ず3本に分かれ、花も3つ咲き、それが風船のようにふくらむ。
「タネも必ず3個だよ」とかみさんが言ったので、「よく観察しているなぁ」と感心した。そして「ハートのタネなんだ」とも言った。
茶色になった風船を破ると、中には正露丸くらいの大きさのタネがあって、確かにハートのマークがあった。
ハートの模様のある風船かずらのタネ |
私はすっかり忘れていたが、私らが新婚のころ、俳句仲間の原けんじさんからこのタネをもらったことがあったと、かみさんは言う。「ハート模様がかわいくて、よく覚えている」そうだが、その頃は庭のないアパート暮らしで、タネをまこうと思ってはいたものの実現せず、いつの間にかタネも紛失してしまった。
それを30年以上も忘れずにいて、実現させたことに、また感心した。
ではあるが、これが、まあ、次から次へと花が咲き、どんどん実ができて、タネもやたらとできてしまって……これを来年、どこへまこうかと、かみさんは悩んでいる。