ソバの実を収穫したけれど
初めてのソバ栽培
7月4日、かみさんからのメールが私の携帯に届いた。ソバの芽が出そろったという。末尾のキャラクターは「バンザイ!」を繰り返している。
ソバの芽が出た、バンザイ! |
花が咲き始めたソバ |
しかし、いつ、どこに、ソバのタネをまいたのだろう。次の週末、房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ってみると、畑の南側の防風ネットの外側に、なるほどごっそりと、茎の根元が赤いのですぐそれとわかるソバが育っていた。花は7月末から咲き始めた。
ソバはあまり肥料のない土地でもよく育つということは知っていたし、ソバの産地で一面真っ白に花が咲いている風景も見たことがある。が、自分で育てたことはなかった。きっかけは知らないけれど、自分で土を耕し、畝を立て、タネをまいた、かみさんの「やってみる精神」には感心した。
ソバの花は次々に、かなり長期にわたって咲き続ける。花盛りの写真を撮りはぐれていたので、10月1日の土曜日に「今度こそ撮ろう」と思って帰ったら……ソバは1本もなかった。「1週間前に刈り取って、束ねて、干してあるよ」と、かみさんは言う。「脱穀を手伝ってもらいたいから」と、私が帰るのに合わせて収穫していたのだ。
しかし、乾いた茎の先端を見ても、フワフワと埃(ほこり)のような花のカスがあるばかりだ。接写した写真では、花のカスの中に何粒か、両端のとがった実があるのがようやくわかったが、脱穀作業では、触って「硬いのが実なのか」と気づくぐらいだった。かみさんは「ソバは、咲いた花が全部実るわけじゃないのね」という。それを、手でしごき取るように茎からはずした。
でも、そこからどうしたらいいのだろう。家の書棚にも「ソバの収穫方法」などという本はない。で、篩(ふるい)を使ってソバの実と、茎や花のカスをより分けることにした。
花のカスの中にいくつかソバの実が見える |
手で実と花のカスをしごき取る |
まず、実が通り抜ける目の粗い篩で、茎や葉を取り除いた。次に、実が通らない細かい目の篩にかけた。やっているうちに、手のひらで篩の目に押し付けるようにすると、花のカスは粉塵になって落ち、ソバの実だけが残ることがわかった。そして最終的に、直径40センチほどの篩1個分のソバが収穫できた。
ゴツゴツした形のソバの実 |
篩1個分のソバを収穫 |
終戦後に開拓農民の経験がある父親は、ソバを栽培したことがあるという。
「ソバの実をよく天日で乾かして、石臼(いしうす)の粗い目で挽(ひ)くと殻が取れるから、殻を除いた実の中心の白いところを、今度は細かい目の石臼で挽けばいいんだ」と父親はいう。
けれど、わが家に石臼などない。どうすりゃ、いいんだ。
ソバの花が咲き始めたころ、かみさんは「ある程度の量がとれたら、粉に挽いてくれる蕎麦屋さんがあるよ」と言っていた。だが今度は、「近所の農家から、来年ソバを作ってみるのでタネを分けてと頼まれた」とも言う。それに、篩に残った実を仔細に観察すると、緑色の未熟な実も目立つ。どれだけまともな実が残るのだろう。つい先日、長野の善光寺門前の蕎麦屋で新蕎麦を味わって来たばかりだが、この量では、蕎麦打ちなどできそうもないなぁ。
先日味わった信州蕎麦 |
しかたない。なんとか粉にできたら、フランスのノルマンディ地方の家庭料理、「ガレット」でも作ってみようか。パリに伝えられ、小麦粉主体の「クレープ」に変身して流行する前の、今では「そば粉のクレープ」とも呼ばれる素朴な料理だ。肉でも、野菜でも、具材を巻いて食べる生地にするのである。が、わが家のソバはそれも心もとない量だ。いっそ来年、畑にまいてもっとたくさん収穫してからにしようか。
蕎麦打ちをするには、かなりの面積でソバを栽培しなければいけないということも、作ってみて初めてわかったことである。
新田野貝塚
合併して「いすみ市」になる前、わが家の住所は夷隅(いすみ)郡大原町だった。
「夷」は征夷大将軍の「夷」。訓読みでは「えびす」。古代中国では、東の方の「えびす」、つまり未開民族にこの字が当てられ、「東夷」と呼ばれた。その字は、彼らが中華の人々より大きな弓を持っていたことを表している。だから「夷」は、「弓」に「大」の字を重ねると簡単に書ける。
日本では奈良時代、朝廷に従わない東方の人々を征討する軍の最高指揮官に、征夷大将軍という官職名を与えた。後に任じられた源頼朝が鎌倉に幕府を開いたので、以後、幕府を開くには征夷大将軍に任じられなければならない慣習ができた。
という歴史を踏まえれば、夷隅郡という地名は、「未開のえびすが住む土地の隅っこ」ということになるのか。いやは やなんとも、「文化果つる地」の印象である。
が、ここに住んで15年、歩き回ってみると「文化遺産」がいろいろあるものだ。
例えば、愛犬モモとの散歩コースの途中から50メートルほどの場所に、「新田野貝塚」がある。縄文前期〜中期の貝塚で、昭和45年に立教大学考古学研究会が発掘調査した記録がある。
「新田野貝塚」の石柱 |
新しくなった鳥居と道祖神のお堂 |
向かって左側の写真は、6年前に撮った。ところが今年、モモと散歩中、久しぶりに立ち寄ったら、奥に見えていた小さなお堂が新築され、真新しい鳥居も立っていた。「新田野貝塚」と刻まれた石柱も洗ったのか、きれいになっていた。それが右側の写真である。改めてお堂をよく見たら、これは道祖神だった。お堂の中に、小さな石造りの祠(ほこら)が安置されていた。道祖神があるということは、かつてはこの前を街道が通っていたのだろう。市も県も文化財に指定しているわけではないが、地域のちょっとした文化遺産である。
お堂に安置されている道祖神 |
ところで、わが家は海岸から直線距離で5キロある。貝塚はさらに1キロほど奥だ。すると縄文時代は、こんな内陸まで海が迫っていたことになる。
10年以上も前だが、取材で青森市の三内丸山遺跡を訪ねた時、やはり貝殻を大量に捨てた場所があるのに、海岸からはだいぶ離れていることに驚いた覚えがある。「縄文時代は気候が温暖で、北極の氷が溶けて海水面が今よりも上昇していたから」というような説明があった。
新田野貝塚が海岸から6キロも内陸にあるのは、その後、地盤が隆起したからだろうか。それとも三内丸山遺跡と同様に、当時の海水面が今よりずっと高かったからだろうか。もし後者だとしたら……地球温暖化の将来像のようで、ちょっと心配にもなる。
ルンルン気分で人間ドック
富士山! 富士山!
10月16日の日曜、房総半島、千葉県いすみ市の家から夕方、佐倉市の単身宅へ戻った。風を入れようと窓を開けたら、西の空に富士山のシルエットが浮かび上がっていた。このマンションに家族で住んでいたころ、冬のよく晴れた日には、しばしば見た光景である。
佐倉から見えた夕焼けの富士 |
富士山は、かなり遠くからでも見える。たしか、茨城県に接する福島県の南端、八溝山系辺りが、最も遠い富士山の確認地ではなかっただろうか。
いすみ市でも、わが家から車で5分の万木城跡公園から富士山を見たことがある。ずいぶん前の正月、遊びに来ていた弟の子供たちを連れて公園に上った時、標高はそれほど高くない千葉県の山なみの上に、ぽつんと富士山の頂上付近が見えた。
以前、佐倉のマンションの7階の部屋から見ていた富士山も、そんな感じだったと思ったが、今回見えた富士山は意外に大きかった。冬の景色と思っていたのに、10月なかばに見えたのも意外だった。
夏の熱気はかなたへ去り、澄んだ空気が北からやって来ていたのである。
それがきっかけ、というわけではないが、この週、続けて富士山を見ることになった。
まず、翌日の月曜、静岡県富士宮市で、さらに水曜、御殿場へ出かけて、またまた富士山を見た。
来年の初夏、新東名高速道路は静岡県内、160キロが開通する。私がいま勤めている中日本エクシスでは、同時に開業する13か所のサービスエリア(SA)、パーキングエリア(PA)の開設準備を進めている。そこに出店予定のテナントが17日の月曜、富士宮市の「いでぼく」(井出種畜牧場)に集まって軽食の試食会を開いたのだ。
「いでぼく」は、前にも訪ねたことがある。脂肪分の多いジャージー種の乳牛から絞った牛乳がおいしく、ヨーグルトやチーズ、ジェラートも作っている牧場は、休日ともなると付近が渋滞するほどの客が集まる人気スポットだ。その時は、富士山は雲に隠れていたが、今回は、一年の中でも珍しい、全く雪のない富士山を間近に見ることができた。
牧場主の井出行俊さんは、「もう少し経つと山ろくが紅葉して、すばらしくきれいだよ」と言っていた。それも、また、見たい。
富士宮市から間近に見た富士山 |
新東名高速道路の建設現場から見た富士山 |
19日の水曜日は、東名高速のSA・PAのプロモーションビデオ撮影に同行して、ついでに新東名の建設現場まで足を伸ばし、そこで富士山を見た。
新東名は、御殿場ジャンクション(JCT)から、浜松市の三ケ日JCTまでが一度に開通する。私が行ったのは東の端、御殿場JCTから現在の東名高速へ下りる部分だ。
長く裾を引いた富士山が見えた。左手には、自衛隊の東富士演習場が広がっている。新東名の建設現場からは眼下に、たくさんの車が走る現在の東名も見えた。新東名が開通すれば、静岡市方面から来たドライバーはこの景色を見ながら、ここで下って現東名に合流し、東京方面へ走ることになる。
ただし、今頃の富士山は冠雪していないのが、なんとなく寂しい。もっと寒くなればますます空気が澄んで、雪をかぶった富士山が思わぬ所からも見えるようになる。例えば、5年半の名古屋での単身生活で、いすみ市の家への往復に乗ったJR外房線の特急である。
マグロの回遊で知られる葛西臨海水族園のある東京都葛西臨海公園には、地上117メートルの高さからの眺望が楽しめる、日本最大の観覧車があるが、最も東京湾に近いJR京葉線を走る外房線の特急「わかしお」からは、その観覧車越しに富士山が見えた。
それは一昨年の1月、名古屋へ戻るときのことで、少し先で東京湾の向こうに見た富士山も美しかった。
観覧車の向こうに富士山 |
東京湾越しに富士山が見えた |
私が育った福島市の西には、奥羽山脈がそびえている。福島市からはちょうど正面辺りに、富士山の頂をそっくり移し替えたような吾妻小富士が見える。雪の頃は美しい。けれども、それはやはり「小さな富士」である。
富士山を見るたびに「やっぱり、いいなぁ」と、自分でもあきれるくらい感動するのは、きっと心のどこかに、めったに見ることのできない本物の富士山への憧れがあるからなのだろう。連日のように富士山を見て、そう思った。
初めての人間ドック
玄関を入ると、大きなエントランスホールがあって、はるか高みにあるドーム状の明り取り窓から、燦々と日が入っている。
ドーム状の明り取り窓 |
正面の広い階段の両側には、エスカレーターがあり、ホールは4階まで吹き抜けになっている。まるでどこかのショッピングセンターのような光景だが、ここは病院である。
階段の両側にはエスカレーター |
4階まで吹き抜けのホール |
太平洋に面した鴨川市のK総合病院へ久しぶりに行ったのは、かみさんに「たまには人間ドックに入って、全身を調べてもらうといいよ」と言われたからだ。そして「1泊2日のコースがいい」とも言う。かみさんは昨年、やはりK総合病院の人間ドックを受診した経験があるからだろう。私は初めてなので、言うとおりにした。
K総合病院を「久しぶりに」というのは、6年前の10月、ここで父親が胃癌の手術をして、その頃は何度も行ったからだ。
いすみ市にも、救急指定の大きな病院がある。胃癌の再発で、母親が息を引き取った病院である。父親の胃癌が見つかったのもここだが、当時、かなり太っていた父親には無呼吸症候群があり、手術中にそれが起きた場合に対応できる設備がないからと、K総合病院を紹介された。
近所の人に聞くと、口をそろえて「あそこは、いいよ」という。調べたらホスピス(終末期ケア施設)もあり、東京あたりの有名人が密かに入院治療を受けているといううわさ話まで聞いた。しかし実際に行ってみて、想像以上のことにいろいろと驚かされた。エントランスホールの構造は、だれでも驚くだろうが、手術以前の診察段階から父親と何回か行って、「待たされない」ことには最も感心した。
診察中、医師はすぐにその内容をパソコンに打ち込む。それはすぐカルテになり、関係する部署に必要な情報も流されるから、会計も、投薬も準備ができていて、患者は窓口に診察券を出せばすぐに処理してくれる。診察券は磁気カードで、患者の情報をすぐに検索し、受付からただちにその日の診察窓口へ必要な情報が送られる。たいていの病院にありがちな「いったい、いつまで待たせるんだ」というイライラが、全くないのである。
病院は海岸の国道わきにあり、国道をまたいだ海辺にはヘリポートがある。父親の入院中、そこにアメリカ軍のヘリコプターが舞い降り、患者を病院へ搬送するのを目撃した。漁船などの海難事故のけが人も緊急輸送してくるという。海の上を飛んでくれば速い、という立地のメリットばかりでなく、医療技術の高さを感じた。
病院向かいの海岸にヘリポート |
この季節でもサーファーが |
病院からちょっと鴨川市中心部へ近づくと、シャチのショーで知られる鴨川シーワールドがあるこの辺りは、観光地でもある。特に近年は冬でもサーファーの姿が絶えることがない。黒潮が流れる海は暖かいのだろう
さて、1日目の検診は大半が午前中に終わり、宿泊室へ案内された。病室のベッドに寝かされるのかと思っていたら、これが、まあ、普通のビジネスホテルのようなツインの部屋だった。バス・トイレもあって、歯ブラシ、かみそり、ヘアブラシ、それに耳掃除用のめん棒まで用意されていた。6階には、時間制限はあるものの、海の見える大浴場もある。1日目の夕方、私はそちらへ行った。さすがに露天風呂はなかったが、サウナ室があるのには驚かされた。
もっと驚いたのは、食事である。
午前中の検診が済んだところで、食券を渡された。場所が別棟なのはちょっと遠いが、そこは父親の病室があった病棟で、その最上階、13階の一般の人も利用できるレストランで食事をしてくれという。ここからの眺めは抜群。しかも、食券を渡すと人間ドック受診者用のメニューが出て来た。パスタ類がいろいろあったが、私は、「うどんとマグロ丼」のセットを頼んだ。
1日目の昼食は、うどんとマグロ丼 |
おいしかったが、私にはちょっと量が足りなかったのは、検診の途中だからだろう。
午後は運動機能の検査があって、筋力とか、股関節の硬さなどを調べられ、「もっと運動してください」と言われたものの、短時間で終わり、それから大浴場でゆったりと湯にひたり、戻って部屋でうつらうつらしていたら夕食の食券が届いた。
夕食は、小さめの牛肉のソテー、生ハムの入ったサラダ、コンソメスープ、果物、ご飯のセットを頼んだ。これも、量は軽め。
2日目は、腹部の超音波検査、バリウムを飲んで胃袋のレントゲン撮影だけ。そして昼食。これが、まあ、豪華メニューで、刺身と天ぷらの和食セットなどもあったが、家でも毎日房総のうまい魚を食べているから、思い切ってサーロインステーキを注文した。検診が終わった人には、高カロリーで、量もたっぷりの食事にしていいということなのだろう。
私は、もう、ルンルン気分である。昨年受診したかみさんが、このコースを薦めたのも納得である。
検診後の昼食はサーロインステーキ |
だが……ルンルン気分は長く続かなかった。
胃袋のレントゲンのあと、「バリウムが固まって、便の出にくくなる方がいらっしゃいますから、下剤を飲んでください」と渡されたのを2錠、会計を済ませ、食事に行く前に飲んだのだが……それが、ステーキを食べ終わる頃から効き始めた。
食後のコーヒーの間に、次第にその感覚が増してきて、レストランを出てすぐに13階のトイレへ行った。
1階に下りて、またトイレ。連絡通路を歩いて、検診を受けた本棟に着いてトイレ。駐車場ビルの車に戻り、「これから帰るよ」と、かみさんに電話している間にも腹がおかしくなってきた。
「早く帰りたいのに、クソ〜ッ、スタートするフン切りがつかない」
結局、何度トイレへ行っただろうか。最後の最後になって、「やっぱりここは、病院だったのだ」と思い知らされた。
落花生畑の秋景色
佐倉市の単身宅から、いすみ市の家までは63キロあって、車で1時間半はかかる。その道筋は、八街(やちまた)市をかすめて行く。
八街は、非常にこまかい粒子の土に覆われた地域で、少し強い風が吹くと、時には太陽の光が薄らぐほどの土ぼこりが空を舞う。佐倉市のマンションに家族で住んでいたころ、洗車しないので土ぼこりをかぶったままの車でかみさんがガソリンスタンドに立ち寄ったら、「八街から来ましたか?」ときかれたそうだ。しかし、その土質が落花生の栽培には好適で、八街市は日本一の落花生産地である。
その土質は、佐倉市や千葉市の隣接地まで広がっている。
人間ドックに入るために、前日の10月20日、車でいすみ市へ向かう途中、佐倉市から千葉市へ入ったところで、掘り起こした落花生を積み上げて、天日乾燥している風景を目にした。
落花生の天日乾燥 |
茎や葉の間に落花生が見える |
マメ科の落花生は面白い植物で、夏に黄色い花を咲かせるが、花が終わるとその付け根の茎が下へ向かって伸び始め、花のあった先端が土に潜り込んで行く。土の中で実が育ち、熟す。自分自身で種まきする植物、とでも言ったらいいのか。「花が落ちて生まれる」という名前は、その性質に由来する。
秋になると、農家では落花生を引っこ抜き、根を上にして畑に並べて置く。少しの間、そうやって乾燥させるのだが、その作業が全部終わると、今度は1本の棒を中心に積み上げて、雨があたらないように笠をかぶせ、しばらくの期間、天日乾燥させる。それが、私の見た光景だ。この地域の秋の風物詩である。
それから脱穀して貯蔵し、必要に応じて回転釜で過熱して強制的に水分を抜くと、炒った香りのする殻付き落花生になる。
釜で炒らないで、自然乾燥させただけの落花生をゆでて食べるのは、千葉県に住んで初めて知った。静岡県でも、ゆで落花生をよく食べることは最近知ったが、ピーナツの味ではなく、なんとなく「豆くさい」風味が、なかなかおいしい。
酔芙蓉の二日酔い
前の「日記」で、ほんのり赤らんだ酔芙蓉の写真をお見せしたら、俳句の先輩の小田切輝雄さんから、「酔芙蓉は二日酔いもする」というメールをいただいた。大船植物園(鎌倉市の神奈川県立フラワーセンター大船植物園)の説明で知ったという。
はてさて、酔芙蓉の二日酔いとは、なんのことだろう。
調べてみたら、花が完全にしぼんで真っ赤になったのを二日酔いと形容する人が多いのだそうだ。酔芙蓉は1日で終わる花で、確かに翌日、色もそうだが、しぼんだ状態は二日酔いで頭が痛い時のしかめっ面のようにも見える。言い得て妙な形容である。
右側のしぼんだ状態が二日酔い? |
さて、小田切さんは、ソバを栽培したという次の「日記」も読んでくれて、穫り入れの秋だからと、「川すぐに山より来たり豆叩く 貞仁」という俳句の短冊を部屋に掛けたそうだ。山里の秋の情景を描いた、私の作品である。
が、実はこの句、私自身はすっかり忘れていた。どこで作って、いつ短冊に書いたのかも覚えていないし、それをなぜ小田切さんが持っているのかも記憶にない。ガンガン俳句を作っていた若い頃は、数人で即席句会をやり、その場の勢いで短冊に作品を記したことも多々あったから、それが残っていても不思議はないが……ちゃんと保管し、忘れずにいて短冊を掛けてくれた小田切さんは、ありがたい先輩である。