遠田耕平
日常と当然 コンサルタントが大挙押し寄せたり、海外の出張があったりと土曜がなかった週末が続いたあとの久しぶりの土曜日。 ゆっくり起きて、夢遊病者のようにスイムスーツをはいて、寝ぼけまなこで、アパートの階下にあるプールに向かった。ゴーグルをかけて、ブイを足に挟み、さあ、久しぶりに泳ぐぞと飛び込もうと思ったその瞬間、背後から「おとさん!」と、お手伝いのハンさんの声。「お金忘れた。おとさんの財布から10万ドンもらったよ。」と、プールサイドに青い顔で現れた。「え、お財布を盗られたの?」と驚いたが、どうやら家に忘れてきて、市場でお金を払おうとしたら、ないのに気がついたらしい。「とても恥ずかしかったよ。」と。この辺は控えめなハンさんらしい。 10万ドンを手に、市場に走って戻るハンさんの後姿を見送りながら、まあ、よかったと、胸を撫で下ろし、陽射しを受けて少し暑くなってきたプールの水に飛び込んだ。まあ、これが僕の日常である。 最近ハノイで契約していた日本のテレビ放送が突然見れなくなった。どうやら中国の中継会社の問題らしい。ともかく、毎日に見ていたニュースが突然見ることが出来なくなり、とても慌てて、困った。 人は日常に突然の変化を加えられるとうろたえる。 とても大きなことがこの身に降りかかったように感じる。 つまり日常はとても大事で、問題はそれを当然のように考えてしまうことにある。 「日常」と「当然」は意味が違う。 日常は当然に存在するものでないと気づくとき、少し驚くのである。 その直後に大震災が日本から報じられた。 前号にも書いたとおり、どうやらあの瞬間から世界の風向きが変わったと思うのだけど、どうでしょうか? 僕らの日常がこれから何十年、いや何百年をかけながら変化していく。その転換点があの瞬間であったのかもしれないと。 多くの犠牲者の方たちの魂が、次の世代を生き残る道へと導いている。人類がいつか滅びるとしても、人類は最善の生き残りの道を模索するのである。生を与えられたものとして、種の生き残りをDNAに刻み込んだ動物の本性を人類は忘れていない。
生きていくことと芸術 僕は生きていくことは芸術だと思っている。 誰の真似でもなく、自分の描き方で自分の想いをキャンバスに描く。そこにいたる道は苦しいいばらの道だ。しかし、いったんそこに至るなら、心はつまらない制約から解放される。 周りとの比較が価値の基準になることはない。 成功も失敗も、有名も無名も、その価値ではない。 自分の心を解き放って、小さな持てる力の最大限を引き出す。 究極でそのエネルギーは、その絵を見る者への感動となる。自らの命を削った献身と言い換えてもいい。 それは描くもの、生きるものにとっての自然の帰結であるかもしれない。それを(芸術を)自己満足と呼ぶものは命を削るということを知ることのなかった者のつまらぬ中傷だ。 生きることが(芸術が)観る者に、つまり周りの人たちにわずかでも小さな感動を与えられるならそれだけで、描いた甲斐がある。命を削った価値がある、生きた甲斐がある、と言えるのである。 生きていく姿は実にいろいろ様々である。 だからそこにはいろいろな芸術的要素が自然に表出される。 いわゆる芸術と呼ばれる、絵画、造形、文学音楽、演劇、スポーツ等にたずさわる者は、自らを周りの束縛から開放し、駆り立て、追い込み、自らを高みに持っていく事を公然と公言して運命づけられた職業とも言える。一方で、芸術家でないものも、様々な制約の中にあって、もがき苦しみながらもやはりそれぞれは個の高みに向かって、小さな持てる力の最大限を表出しようとしているのである。その意味で、一つの高みを目指すものとして、芸術家と他との境はなくなる。この一点においては、社会的いかなる職業も意味を持たない。 もっというと、芸術の形こそが生きる一つ純粋な指標として人間の生活の中になくてはならないのであり、いわゆる芸術は僕らの生活の中にとてもたくさん普通に存在してくれないと困るのである。 別な言い方をすれば、僕らの精神と持てる力を破壊する最も簡単な方法は、芸術を生活から奪い去ることである。近世の歴史は為政者によるその残虐な行為を物語る。 それに抵抗するかのように、人間の歴史はいわゆる芸術を作り出して生活の中に取り入れてきたともいえる。生き抜くために。 僕は芸術は本来暖かいものであると思っている。 最近、ライブで聴いた山下洋輔の演奏から強く感じ、確信したことでもある。 芸術を生業とするプロが仕組んだ巧みさでありながら、それは聴く側、観賞する側を考え尽くし、最大の力を出し切る。 決して個の満足ではない、観賞する側があって成り立つ。 独りよがりの芸術は初めから存在しない。 暖かさは確実に存在するのである。 僕が最も尊敬する恩師M先生に送った最近のメールを引用しよう。 「先生の研究は芸術ですね。 一種の歓喜と感動がある。 それが僕がとりこになった理由です。 他に理由が見つからない。 芸術はそれを観る者を必要としている。 孤立してはだめだ。 観るものに一瞬の驚きと感動を与え、その中で新たな結晶となる。 自分でにやにや笑ったり、めそめそして完結するものじゃない。 僕の生き方そのものが芸術的であったらいいと思うのですが、なかなかうまく行きません。 遠田ハノイ」 M先生の返信。「僕の研究は芸術と思ってます。100年前は科学と哲学が同じものだったようですね。今血管と細胞を見ていると、人々が思っているよりも遥かに厳格で精密なものです。生物の存在は哲学の存在と全く同じレベルで存在しているようです。こんな気持ちで細胞を見ていると、細胞が時間と宇宙を教えてくれるようです。細胞から哲学を教えられるとは思いませんでした。 M 秋田」
火炎樹の季節、ビエンチャンの夏とハノイの夏 日本脳炎の会議に出るためにで久しぶりにラオスの首都ビエンチャンを訪れた。日本脳炎のお話はまたの機会にしっかりお話をさせてもらうとして、ビエンチャンはやっぱり東南アジアの首都の中では間違いなく車も人の数も一番少ない。お寺が立ち並び、とにかくいつ訪れてもホッとする街である。そんなビエンチャンでも、車の数は確かに増えたという。友人に聞くと朝は15分くらいの渋滞があるというから驚く。 街は今も高いビルがほとんどなく、かつてのプノンペンのように大きな空が頭上に広がる素敵な街であるが、それでも市街地は随分と大きくなっているようだ。 会議の合間に街をぶらぶらすると、お寺の境内にある火炎樹の赤い花が青い空と白い雲を背景に大空の花火のように咲き誇っている。「わあー、きれいだあ。」思わず叫んでしまう。 僕はこの火炎樹が大好きだ。見るといつも勇気付けられる。 初めてホーチミンに赴任した18年前、インドに居た10年前も、カンボジアに居た6年間も、、、、。辛い思い出をこの見事な赤い花が洗い流してくれる。 もう一ついい事があった。22年前に蟻田功先生が始めたポリオ根絶の第一回研修で会ったラオス人の友人と再会したのである。彼は今や日本で言うところの内閣副官房長官になっているのだけど、温厚な性格は昔と全く変わらず、メコン河を望む飲み屋で、再会を大いに喜んで一献酌み交わした。
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