遠田耕平
読者の方はタムダオという名前をまだ覚えているのでは? 丁度一年半ほど前、ハノイに着任してまもなく、自転車で登るのにいい山があると、飲み会で知り合ったばかりのハノイ在住の日本人に誘われ、翌朝二日酔いのまま、ハノイから70キロメートルほど走り、急峻な山道の中腹で両足がつって、自転車を引きずりながら山頂まで登ったあの地獄の山です。。。 僕はあの悪夢をとうに忘れていたのですが、突然、中学時代からの親友Y 君からメールが入り、タムダオに蝶々を取りに行きたいからよろしく。週末にハノイに行きます、と言ってきた。。。。
某王手鉄鋼メーカーのシンガポール事務所長のY 君は週末が近づくと約束どおり、虫網と竿を担ぎ、カメラを首から提げて、初めてのハノイに子供の時そのままのいたづらっぽい顔で降り立ったのである。その晩は、酒を飲み、積もる話もし、仕事で疲れているだろうから、翌朝は老人ペースでゆっくり出ようと言って、僕のアパートで寝たのである。ところが朝薄暗いうちからゴトゴト音がするので起きてみると、すでに虫網を片手に、カメラを提げて準備万端のいでたちでY君が茶の間に立っていた。
タムダオまでハノイから車で一時間半。山道を登り始めるやY君が叫んだ「止まって!」車を飛び降りた彼が足早に道端の草むらに入っていく。彼の構えるカメラのレンズの先を見ると小さな白いモンシロチョウが草にとまっている。僕にはなんの変哲もない普通のモンシロチョウに見えるのだが、彼に言わせると珍しいとは言えないが、十分面白いという。モンシロチョウ一つ取っても何十種類もあるらしい。 車を断崖の路肩で頻繁に止めるのは危ないと説明しても、彼の目は一瞬飛び交う何かを見ては、「止めて!」と叫ぶ。 車から降りるや今度はどんどん林の中に入っていく。蝶々の臭いがするという。ハエのたかる牛の糞を足元に見るや、「こういうところに集まるんだけどなあ。」と呟く。 その小道の突き当たりの小さな祠で彼の足が止まった。きれいな模様の蝶々が羽を一杯に広げて止まっている。沈黙の中、一眼レフのカメラのレンズを換えながら何枚も撮る。僕も愛用の安いデジカメで撮ってみた。「飛ぶな、動くな、」と胸のうちで念じつつ、少しでも近くから取ろうと抜き足で迫るこの感じ、確かどこかであったこのドキドキワクワク。。。 そう、子供の頃にカブトムシやセミを捕まえたときの感覚だ。これは、はまる!
Y君とスースーの緑の斜面に佇むフランス時代の朽ちた建物を見ながら、斜面の町を時折晴れるガスの合い間を縫って散策した。空腹を覚えた僕らは、道端のフォーのお店に入って、おばさんにスースーがあったら適当に料理してくれないか?と下手なベトナム語で頼むと快く応じてくれた。出てきたのは茎をニンニクと油でさっと炒めたもの。歯ごたえがよく、エグミもまったくなく、炒めたとは思えないほど新鮮な食感だ。次に出てきたのが茹でたスースーの実だ。これをゴマと塩と砂糖を混ぜた粉につけて食べる。瑞々しい実はいくらでも喉を通って行く。 以前、自転車で登ったときは苦しくて酸欠で、目の前が真っ暗で、山の上にこれほどすばらしい風景があり、斜面一杯のスースーがあるとも、想像だにしなかったのは、なんとも浅はかであった。。 腹も一杯になったし、さて山を降りようということになった。満腹で眠気が差すかと思いきや、Y君は興奮覚めやらず、依然と「止まって。」を連発する。車から飛び降りて林に入り込むY君に導かれるようについて行く。 そこは松林だ。熱帯では珍しい。まるで秋田の山の中にいるかのような懐かしい匂いがした。と同時に、嫌な予感もした。その時だ、サンダルの中にヌルッとした感触。足元を見るとヒルが一匹、足に吸い付こうとしている。慌てて手で払うと、親指と人差し指の間に吸い付いてしまった。やられた。。。僕が意気消沈していると、Y君は「何を大騒ぎしているんだ。」と、自分の靴に取り付いたヒルをゆっくりと一匹づつ摘まんでは排除している。ムム。。慣れたものである。 秋田の山でヒルにやられた話は以前ここでも紹介したが、ベトナムでもやられるとは余程ヒルに縁があるらしい。。。困るのは血がなかなか止まらないことだ。ヒルの生息域は意外に広く、蝶々収集家たちとしばしば活動域が重なるそうだ。 蛭でオチのついたタムダオではあったが、Y 君、大いに喜び、またすぐにタムダオに戻ってくると言い残して、白いビジネススーツに虫網を握り締め、シンガポールに帰っていったのである。 ソンラーの麻疹 風疹が全国的に記録的な大流行を見せる一方で、今年に入っての麻疹の報告は激減した。昨年暮れに実施した5歳以下の小児への麻疹ワクチン全国一斉投与の成果があったのか、それとも風疹に紛れて見えなくなっているのか、少し不安のまま迎えた7月の中頃。 北部の予防接種のオフィスの机の上に突然、北西部山岳地帯のソンラー県から届けられた300件以上の調査票が、どっさりと山積みにされた。 ソンラーはラオスと国境を接する山岳地帯の県で、人口100万余のうち、タイ族、モン族、ムオン族、ヤオ族などの少数民族が人口の83%を占め、キン族(いわゆるベトナム人)は人口の17%で、数から言うと小数派になってしまうのでした。 今ソンラーではアジア最大のタービンを持つ水力発電所がほぼ完成に近づいて、時代の変化の波がここにも押し寄せている。 以前、先天性風疹症候群のお話でも紹介した長崎大学の大学院からWHO インターンとして来ている優秀な小児科医のI先生と保健省のスタッフとともに調査票を大急ぎで解析してみた。すると、大部分の発症は2ヶ月前の5月、血清はわずかに20例ほどしか採取されていないが、その多くは麻疹で、ラオスと国境を接する二つの郡のいくつかの村に集中している。そのあたりは少数民族のモン族の村だという。 年齢は10歳以下の小児がほとんどで、そのうちの50%はワクチンをちゃんと受けていない。昨年の麻疹ワクチンキャンペーンで受けたはずの子供たちが罹っているのである。 保健省のスタッフと協議して、急遽、現地調査をしようということになった。 僕の訪問許可がソンラーの人民委員会から出るまでに結局2週間近くかかった。実は少し前にモン族が反政府運動をしているという情報があり、政府は、いかにWHO であっても、外国人の訪問に神経を尖らせていたらしい。結局、問題のラオス国境の郡への訪問は許可されなかったが、ともかく、行ける所まで行ってみようということで、ソンラーまで7時間余りの道のりを車で走った。 ソンラーは5年ほど前、僕がまだカンボジアにいる頃、麻疹ワクチンの小学校での接種を見てもらうために、カンボジアの保健省のスタッフを伴って訪れたことがあった。当時からベトナムの中にこんなに山の景色のきれいなところはないと感じたが、今回もやはりそう思った。なぜこんなにもきれいに感じるのかなあと思う。それは山の斜面一杯に広がるトウモロコシ畑のせいらしい。何百年もの間、モン族やタイ族が急峻な斜面を耕し、トウモロコシを栽培して来た。その山肌は遠くから見ると緑のビロードのように見えるのである。深い谷間のわずかな平地には扇状の水田が広がり、立ち上がる斜面にはビロードのトウモロコシ畑が広がり、その中腹には高床の家の集落が点在する。 見事な耕地利用で、全ては自然の中に溶け込んでいる。
県立病院の感染病棟を訪ねると、長崎大学で一年間勉強してきたという、I先生のお友達の若いベトナム人のザン先生が待っていてくれた。60件程度の麻疹疑いの患者が今年入院しているが、数は思ったより少ない。多分、この県ではまだ少数民族の病院へのアクセスが悪いのだろう。ザン先生が、麻疹疑いは入院していないが、日本脳炎疑いの子供たちがたくさん入院しているので診てくれと言うので一緒に診させてもらった。 意識障害を伴ってベッドで横になる4歳と5歳のタイ族の子供は二人とも、まだ日本脳炎の定期接種が実施されていない郡から来たという。 脊髄液か血清を取ってくれたらすぐにハノイで調べて報告しますと約束するとザン先生の顔が輝いた。 翌日なんとか頼み込んで問題の郡から離れた別の人口10万程の郡に行かせてもらう。 郡病院に行くと、ほとんどがタイ族とモン族の人たちだ。病院の記録はとてもしっかりしていて、70人以上の麻疹疑いの患者が記録されていた。麻疹の流行がこの郡では去年後半から続いていたことが如実にわかる。今年の2月のテト正月を境に、麻疹ではなく風疹が都市部から持ち込まれてきたこともわかった。 僕の調査はここまでが限界となった。こういう時もある。 保健省には、トーダ抜きでいいので、対策を講ずる前に、なんとかもう一度、麻疹流行の郡や村での実態を把握するために保健省のスタッフを現場に派遣して、村での調査をして欲しいと緊急のレポートを提出した。どうなることやら。 WHOインターン終了 I先生が5ヶ月間のただ働きWHOインターンを終える。ご苦労様でした。僕のようなグータラで、いい加減なシニアーの下でよく働いてくれたなあ。居直るつもりじゃないけど、反面教師だからなあ。 ちゃんと経験を積んだ小児科の臨床医であり、しかも公衆衛生の目をしっかり持っているので、僕は心配していない。しかも同じようにエネルギッシュな仲間が彼女の周りにはたくさんいるらしいから(みんな女性?。。)、凄いなあ。 懲りずにまたどうぞ。 一人の患者を大切に診ることで全体を見ようとする心、全体を見ながら一人の患者を忘れない心。この一点において、臨床も公衆衛生も究極では同じなんだというのが僕の信念です。別な言い方をすれば、一人の臨床医であれ、行政側の医師であれ、医者として命を懸けると決めたことでは一緒ですから、どちらの側にいても命を懸けてやれば同じになるということです。 江戸末期、緒方洪庵は一人の臨床医として、数え切れないほどの感染症に苦しむ患者を診て、その治療に苦心したそうです。だからこそ、天然痘のワクチンである種痘の普及に努め、コレラの対策に奔走した。 多くの名もない医師たちも苦しむ多くの患者を診たからこそ、自然に公衆衛生的な予防の道を模索してきた。
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