冬薔薇(ふゆそうび)
父の一時帰宅
バラは、漢字では「薔薇」と書く。だから「冬薔薇」を「ふゆバラ」と読んでいいのだが、俳句歳時記では「ふゆそうび」とも読む。四季咲きのバラには、立冬を過ぎて咲く品種もあって、寒々とした空気の中に咲く華やかさには、命のはかなさも感じられて、いっそう美しい。
冬薔薇色のあけぼの焼け跡に 石田波郷
病む瞳には眩しきものか冬薔薇 加藤楸邨
父親は昔からバラが好きで、どこに住んでも何株かバラを育てていた。「年をとったら、雪の降らない土地で暮らしたい」という父親の願いで、土地を求め、家を建てて1998年の春から暮らし始めた房総半島、千葉県いすみ市(当時は大原町)でも、父親はバラを植えた。当初は、リビングの前の芝生を隔てた花壇につるバラなどを育てていたはずだが、いつの間にかそれはなくなり、畑の東側に何株かを育てていた。
その中に、毎年、立冬を過ぎて咲くバラがある。
父が育てた冬薔薇 |
ピンクの色が美しい。花びらが開き始めた頃が、ことに存在感を見せてくれる。まだ木が若いので、咲くのは2、3輪だが、私はその時期を心待ちにしていた。
この写真は昨年のもので、今年は11月11日に家へ帰った時には、最も美しい瞬間を少し過ぎていた。
その日に戻ったのは、前日、父親が激しい腹痛を起こして入院したからである。以来、父親は近くの総合病院で療養していたが、主治医が「ひと晩くらいなら、家へ帰っていいですよ」と言ってくれたので、12月3日の土曜日、父親を連れ帰った。
夜、父が食べたがっていた刺身を出し、日本酒も出した。刺身は一切れ食べ、酒もなめただけだったが、父親は満足な顔をした。
翌日は、おかゆと、煮魚で朝食。カメラを向けると、うれしそうな笑顔を見せた。かたわらの花瓶には、かみさんが庭からバラの花を切ってきてさしてくれた。家の東側の花壇に3年ほど前、父親が植えた、つるバラのアンジェラである。東側の花壇はあまり見ることがなかったので、朝食のあとで外に出てみたら、父親が立てた支柱を伝って、私の背丈よりはるか高みにいくつもの花を咲かせていた。
久しぶりに家で食事する父親 |
父親が育てたつるバラ「アンジェラ」 |
「家で昼ごはんを食べたら、病院へ戻るんだよ」と言っておいたのに、いざ、その時間になると、父親は不機嫌になった。しかし、病院との約束なので、父親を病院へ戻してから私は佐倉市の単身宅へ戻った。
かみさんから、「大変、お父さんが退院する」という電話が来たのは、翌日の月曜の昼過ぎだった。「もう、病院はいやだと言って、お父さんがむりやり退院しようとしている」という。
「自宅じゃ、痛みが出たとき、どうしようもないじゃないか」
「そうなんだけど……」
一度帰宅してみたら、里心がついてしまったらしい。結局、家で点滴ができるように訪問看護の手続きをかみさんがして、12月5日の月曜の夜から、父親は家へ帰って来た。もう、病院へ行く気はない。その夜から、父親の隣……かつては母親の部屋だったところにかみさんが寝ることにした。かみさん1人では体が持たないので、私も木曜から休みを取って、夜はかみさんに代わり、ふすま1枚をへだてて父親とすごすことにした。
主治医が一時帰宅を許可したのは、もう、完治させる治療法がないからでもある。父親をむしばむ癌細胞は、大腸の一部を外側から締め付けていて、消化物がそこを通れないので腹痛が起きるのである。点滴には栄養剤が入っているが、抗がん剤はない。最初に詰まった消化物は入院中になんとか排出できたので、家で少しなら食べることができるようになったのだが、食べ過ぎれば、また詰まる。そして、痛む。痛み止めの薬で楽になったら、ゆっくりと、消化物が少しずつ通過するのを待つしかない。
家に帰って2週間。父親は、これ以上痩せられないくらい痩せた。
12月18日の日曜、畑には霜が下りた。つるバラも霜に覆われていた。日が昇ると、たちまち霜は溶けて、濃いピンク色を取り戻す。
食卓には、一時帰宅の朝食のときに飾ったバラの花びらを、かみさんが乾かし、ワイングラスに入れて置いてある。こちらは、色が凝縮されて赤紫になっている。これなら、父親の冬薔薇をいつも間近に見ることができる。
霜が下りたつるバラ |
ワイングラスにバラの花びら |
乾燥させたバラの花びらは、かなり長い間そのままだろう。が、野外の冬薔薇はやがて命が尽き、花びらを散らす。
父親には、なんとか年を越させてやりたいと願っている。
冬薔薇具合よき日の父の頬 加藤貞仁