んだんだ劇場2012年11月号 vol.166
No99
畑の雑草

根絶やし不能のハマスゲ
 『身近な雑草の愉快な生き方』(稲垣栄洋、ちくま文庫)を電車の中で読んでいて、「ああ、これだ」……やっと名前がわかった雑草がある。
 ハマスゲという、カヤツリグサ科の植物だ。

地面を覆うハマスゲ
 今年の春から私は、居間のすぐ前の芝生の改修を始めた。一昨年、たぶんそのころには認知症が現れ始めていただろうと思われる父親が、突然、芝生を耕運機で耕してしまった。芝生に芽生えるさまざまな雑草を、私とかみさんは、時間はかかるけれど1本ずつ抜いていたのだが、短気な父親は「耕運機を2、3回かければ、雑草は消える」と思ったのだろう。それで芝生自体がメチャクチャになるとは、考えなかったようだ。しかも、平坦だった地面がでこぼこになった。そして父親は、1度耕したら、あとは何もしなかった。
 まるまる1年、そのままにしておいたら、芝生の代わりに地面を緑で覆ったのが、ハマスゲである。私は今年、芝を復活させるのではなく、地面を這うように広がるタイムを植えようと考えていた。タイムはハーブの1種で、葉に芳香がある。5月には薄紫の花を無数に咲かせる。この家を建てた15年前に、たった1株買って来て植えたのが、茎をのばしては地面に接したところに根を生やし、今では我が家の周囲のあちこちにテリトリーを拡大している。そして、タイムがはびこっている場所では、スギナ以外にはほとんど雑草が生えない。でも、ハマスゲは別だ。退治しておかなきゃ、タイムの葉の間から出て来るに違いない。
 ということで、今年の春から、芝生だった地面を掘り返し、ハマスゲの根を1本ずつ取り除く作業を続けていた。しかし、植物図鑑を何度も見たのだけれど、似たような植物が多くて、図鑑の写真だけではその雑草の名前が判別できなかったのだ。
 『身近な雑草の愉快な生き方』を見てピンと来たのは、その根の姿だった。こいつを掘り起こすとコブのようなものがあり、そこから下に根が出て、上には葉が出ている。さらにコブから横に地下茎を伸ばし、その先にコブができて新たな葉が地上に向かって伸びる。これまでに、その姿をいやというほど見ていた。

塊茎から地下茎を伸ばして増えるハマスゲ

地下30センチくらいからでも葉が伸びて来る
 本には「ハマスゲはしつこい畑の雑草の横綱格」と書かれていた。地下のコブは「塊茎」(かいけい)という。そして、そこから伸びる芽はアスファルトを突き破るほどの力があるという。だから、地上の葉を抜き取っても地下茎と塊茎は健在で、すぐに復活してしまう恐ろしい雑草だとわかった。
 以前は、それほど目立たなかったのだが、父親が耕運機で芝生の地面をかき回してしまったために、ハマスゲの塊茎がばらまかれ、それぞれが旺盛に仲間を増やしたのだろう。しかたない、1本ずつ、丁寧に除去するしかない。
 ……と思って、今年の梅雨時まで頑張ったのだが、夏の猛暑の中では作業を継続できず、しばらく休んでいたら、前以上にはびこってしまった。暑さが大好きな草なのだ。しかも10月に入ったら、花まで咲き始めた。

茶色の花穂を出したハマスゲ
 いやはや、敵ながらあっぱれなやつだ。ゴルフ場では芝生に除草剤をまくそうだが、我が家ではそんなことはしたくない。冬には地上の葉は枯れるが、掘れば塊茎は識別できるから1本ずつ除去すればいいだろう。だが、できたら葉があるうちの方が見分けやすい。悪戦苦闘はまだまだ続く。

地べたに広がるコニシキソウ
 地面にペタリと張り付くように広がる雑草がある。茎が赤っぽく、小さな緑の葉の中心に赤紫の斑点があるコニシキソウだ。秋が深まると、全体が赤くなる。明治時代に北アメリカからから渡来したトウダイグサ科の植物で、漢字で書けば「小錦草」。在来種に「ニシキソウ」があり、それより小さいから「小錦」になったのだという。ちなみに、「オオニシキソウ」というのもあって、これも北アメリカからやって来たそうだ。
 コニシキソウは夏の間、畑のあちこちに次々に芽生えて、うっかりすると畝の間を全面的に占領してしまう。が、ちっとも上へ伸びようとしない。茎の先端をもたげることもなく、ひたすら横に広がる草だ。

地べたに広がるコニシキソウ。見えているのは1株

小さな雄花と雌花を咲かせる
 先日、目を近づけてよくよく見たら、茎の先端にイボのようなものができていた。これが花だ。雌花と雄花があって、どちらも1ミリにも満たない。こんな地べたでどうやって受粉させるのかと言うと、チョウチョやハチではなく、アリが花粉を運ぶのだ。アリは甘い蜜が大好きで、雄花の付け根にある蜜をなめる際に花粉を頭につけ、雌花の蜜をなめる時に受粉させるというわけだ。それは見ていてわかった。が、私のカメラの接写性能では、花とアリを一緒には撮れなかった。
 でも、こんな草がどうやって、やたらとあちこちに芽生えるだろう。NHKの教育番組「ミクロワールド」が、その謎を解いてくれた。
 タネを運ぶアリがいるのである。花粉を運ぶアリとは別種のトビイロシワアリで、このアリは草のタネを食料にするのだそうだ。が、不思議なことに、巣に運びいれたコニシキソウのタネはそのうちに、また巣の外に運び出され、捨てられてしまうのだという。それでコニシキソウは「新天地」を得ることができる。では、トビイロシワアリは、なぜ、せっかく集めたコニシキソウのタネを捨ててしまうのだろう。
 『身近な雑草の愉快な生き方』には、集めたスミレのタネを捨ててしまうアリの話が書いてあった。スミレのタネには、アリの大好物の「エライオソーム」というゼリー状の物質が付着していて、アリはこれを食べたくてタネを巣に運ぶのだが、表面の「エライオソーム」を食べてしまうと、残ったタネはゴミとして巣の外に捨てる、というのである。コニシキソウのタネにも、そういう秘密があるとすれば、大変な知恵である。
 ところで、この本の「コニシキソウ」の章は、「こんなに小さいのに小錦草ですか、と驚く人が多い」という書き出しである。「小錦」から、大相撲の巨漢大関を連想する人が多いということだ。それは、ハワイ出身の小錦八十吉(現在はこれが本名)で、最も重いときには体重が285キロもあり、ギネスブックに「最も重いプロスポーツ選手」と認定された。現代の我々が知っているのはこの人だが、彼は「6代目」(彼が活躍していた頃、大錦という関取もいた)。初代は明治29年、29歳で17代横綱となった人。たぶん、この初代小錦が活躍していたころ、コニシキソウがアメリカから渡来したのだろうと思うと、なんだか楽しい。
 それはさておき、芽生えたばかりのコニシキソウをつまみ取るのは、けっこう面倒だ。むしろ、大きく育ってから広がった葉をかき集めて引っこ抜くと、中心の根が意外と簡単に抜ける。そんなふうに何本か抜き取ると、これはまあ、と思うほど広範囲がきれいになる。抜き取るのに快感を覚える雑草である。

渡来60年のオオブタクサ
 帰化植物がいつ日本に渡来したかについては、「奈良時代」とか「江戸初期」とか、おおざっぱに推測されるのがほとんどだ。ところが、私が生まれた昭和27年に北アメリカから渡来したと、はっきりわかっている雑草がある。この年に初めて、静岡県の清水港で発見されたオオブタクサである。今年、私は還暦を迎えたから、こいつも、飼料作物などに混じって運ばれたタネが日本で発芽して60年になるわけだ。
 さて、9月の末、かみさんに「道路にまで葉を広げて、じゃまな草があるから、刈って」と言われた。
 房総半島、千葉県いすみ市の我が家の西側には乗用車がすれ違える程度の市道が通っていて、北側を流れる落合川に橋が架かっている。川に落ち込むような土手の下から、なるほど、雑草が伸びあがって来て、先端を道路にはみ出させている。橋は車がすれ違えない幅しかないから、このままにしておけば、ドライバーの視界を狭めるかもしれないと、かみさんが気づいたのだ。
 それが、オオブタクサだった。

道路より高く育ったオオブタクサ

鈴生りという形容がぴったりのオオブタクサの雄花
 オオブタクサは、生育条件が良ければ6メートルの高さにもなることがあるという。1年草だから、1粒のタネから驚異的な成長をとげる雑草だ。橋のたもとの土手は急こう配で、足元にはやたらと雑草が生い茂っているから、私は柄の長い鎌(カマ)を伸ばしてできる限り根元近くから刈り取ったが、私の背丈よりはるかに高く伸びていた。そして、黄色い粒々の花を無数につけていた。毎年、この草は家の裏手の荒れ地に生えてきて、ずいぶん大きくなる雑草だとは思っていたが、かみさんに「刈って」と言われて初めて調べてみて、オオブタクサだと知った。
 この花は、雄花である。「鈴生り」という形容がぴったりの花だ。が、これが要注意の悪役なのである。
 日本では花粉症の原因第1位はスギだが、アメリカではブタクサ(オオブタクサも含む)が第1位なのである。もう少し放置しておいたら、この黄色い粒々からとんでもない量の花粉をまき散らすところだった。日本でも、花粉症の原因の第3位がブタクサだから、来年からはもっと小さいうちに、せっせと退治することにしよう。

ゴボウは春まで食べられそう
 5年前の6月、滋賀県長浜市へ、関ヶ原の合戦で西軍を率いた石田三成の故地を訪ねたことがある。長浜市役所から東へ約5キロの長浜市石田町が、その場所である。生家跡とされる石田会館には、三成の銅像などがある。すぐ近くの八幡神社の敷地内で昭和16年、破損した数多くの五輪塔が発見され、刻まれていた年号や戒名から石田一族の墓石と推定された。石田一族は江戸時代、家康に刃向かった逆賊とされていたから、後難を恐れた地元民がこれらの墓石を埋めて隠したのだろう。露出していた石もあったが、地元では「触ると腹が痛くなる」などと言い伝えて、発掘を防いでいたらしい。300年以上も、この秘密は守り通されていたことになる。
 発掘から30年を経過した昭和47年、ようやく神社の裏手に墓地が整備され、供養塔も建てられた。

石田三成一族の墓石群

立体型のゴボウ畑
 後世の創作らしいが、寺小姓だった三成が、鷹狩の帰りに立ち寄った秀吉にまずぬるい茶を出し、喉の渇きをいやした秀吉が代わりの茶を所望すると、少し熱めの茶を出し、さらに求められると、小ぶりの茶碗に熱い茶を出した、という逸話がある。その機転に感心した秀吉が、幼名佐吉といった三成をそばに置くようになったというのだが……その舞台となった観音寺という寺は、石田町からさらに東の山を越えたところにある。
 そこへ向かう途中、面白いものを見つけた。竹で囲った箱のような形の場所から、大きな緑の葉が生えているのだ。その葉を見て、私はすぐに「ゴボウだ」とわかった。つまり、立体型のゴボウ畑なのである。
 私は、大いに感心した。そうか、こうすりゃよかったのか。
 父親はゴボウを、畑の南側の防風ネットの外、つまり、管理を任されていた空き地で作っていた。ゴボウは連作障害があって、同じ場所では4、5年は作れない。それで、場所をあちこち変えられる隣の空き地を耕してタネをまいていたのだ。しかしそこは、畝をいくら高くしても30センチほどにしかならない。結果、短いゴボウしかできなかった。
 盛り土を囲って「立体型の畑」にすれば、土の深さは70センチくらいにはなる。長浜市でそれを見てから、私も「いつかは、自分でやってみよう」と思っていた。それが実現したのは、今年である。
 昨年末に父親が亡くなるまで、畑の主導権は父親にあった。父親が作りたい野菜を、作りたい場所で作るのに任せていた。父親のやり方に口をはさむと、時として機嫌が悪くなることもあったからだ。昨年の冬、父親が作っていた堆肥枠を作り直したことは、この「日記」でも紹介した(「んだんだ劇場」2011年12月号)が、分解した父親の堆肥枠を利用して、ゴボウを育てる立体枠を作ったのである。 
 今年5月、かみさんが蒔いたタネは順調に発芽し、盛夏の水不足の頃は育ちが悪かったが、秋風とともに大きな葉が茂るようになった。葉の小さなゴボウを引き抜くと、想像通り細いゴボウだったが、短時間ゆでただけでも軟らかく、おいしく食べられた。

育ったゴボウの葉で枠が埋まった

わきの土を崩すと、ゴボウが現れる
 10月に入ってからは、枠の一方を取り除き、わきから土を崩して、長いゴボウを楽々収穫できるようにした。
 根菜類は、花が咲くまでは食べられるから、たぶん来年の春までゴボウには不自由しないだろう。それはいいが、同じ土でゴボウは栽培できない。来年は、新たな場所に、新たな立体枠を作らなければならないなぁ……と考えていたのだが、「そうだ、来年はこの枠でヤマイモを育てよう」と思いついた。ヤマイモも掘り出すのが面倒だ。今年は畑のあちこちに勝手に芽生えて、ツルを伸ばしているヤマイモを、来年はこの1か所に集めよう。今、ヤマイモのツルにいっぱいついている「ムカゴ」を採って、これを春に植えればヤマイモが育って来るじゃないか(先日、かみさんが「ムカゴ飯」を作ってくれたほど、たくさんのムカゴができている)。
 ゴボウは、楽に収穫できる別の育て方を考えている。
 思いついたら、「早く春が来ないかな」と、鬼に笑われそうな気分である。
(2012年10月22日)


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