んだんだ劇場2012年12月号 vol.167
No100
北前船を訪ねる旅

海賊の島、塩飽
 9月15日からの3連休、瀬戸中央自動車道(本四架橋の児島−坂出ルート)を渡って香川県へ行って来た。昨年9月に講師として佐渡島へ行った「北前船を訪ねる旅」(朝日旅行主催)の2回目である。今回は、北前船との交易で栄えた港町、倉敷市下津井を見学後、対岸の丸亀に2泊し、沖合の塩飽(しわく)諸島、香川県多度津町、そして金毘羅さんを訪ねる旅だった。
 2日目の9月16日は、塩飽諸島の中心、本島にフェリーで渡り、15人の参加者と島内を歩いた。2001年に、無明舎出版の鐙編集長(当時)と『北前船 寄港地と交易の物語』の取材で訪れた時には車で走り回ったが、今回は参加者の最高齢87歳というツアーなので、日程には余裕を持たせ、ゆっくり歩くことにした。
 大小28の島々からなる塩飽諸島は源平合戦の頃から、海賊の島だった。戦国時代には織田信長、豊臣秀吉に味方し、秀吉の小田原(北条氏)攻めの際、嵐の中を期日通りに兵糧を運んだ功績で、650人が秀吉の「御用船方」(直属の水軍)に任じられた。彼らは「人名」(にんみょう)と呼ばれ、島の統治を任せるという秀吉の朱印状を受けた。後に徳川家康も同様の朱印状を授けたので、塩飽諸島は江戸時代を通じて非常に珍しい自治領だった。

塩飽勤番所の長屋門
 寛政10年(1798)に建てられた塩飽勤番所は、島の政治を司る年寄(当初は4人、寛政期以後は3人)が交代で執務していた建物だ。現在は資料館になっていて、信長、秀吉、家康の朱印状などが保存、公開されている。
 勤番所への道端に、巨大な墓石が並んでいた。年寄・宮本家の墓である。11基の墓石の中で最も大きなものは高さ3.4メートルもあり、年寄の権勢がしのばれる。ただしこの墓石群は、本島中学校のグラウンドを囲む金網の外側、道路に面して1列に並んでいて、奇異な印象を受ける。何の説明もないけれど、中学校を建設する際に、墓地を整理して墓石だけを移設したのだろう。

年寄・宮本家の墓石群

サンフランシスコで撮った咸臨丸の2人の水夫の記念写真
 戦のなくなった江戸時代になると、塩飽衆は船を建造し、回船を仕立てて全国の海へ乗り出した。その伝統は受け継がれ、幕末、日本人の手で初めて太平洋を渡った咸臨丸の水夫50人のうち、35人は塩飽の船乗りだった。実際は、西洋式帆船の操作に不慣れな彼らはあまり役に立たなかったらしいが、彼らがサンフランシスコで撮った記念写真など、その時の遺品が塩飽勤番所に展示されている。
島の北東に位置する笠島集落は、塩飽回船の基地となった良港である。今は瀬戸中央自動車道の瀬戸大橋を間近に望むこの笠島を中心に、最盛期の元禄時代(1688〜1704)、塩飽回船は200艘もあり、3000人もの船乗りが必要だったという。彼らは、信仰する金毘羅の旗を掲げて荒波を押し渡った。海の守り神、金毘羅さんを全国に広めたのは、塩飽の船乗りたちだったのだ。

笠島漁港から瀬戸大橋を望む

ネコものんびり、笠島集落
 国の町並み保存地区に指定されている笠島集落は、昔ながらの道に沿って往時の屋並みがそのまま残っている。この集落がどれほど栄えたのかは、1軒ごとの立派な家の造りが物語っている。しかし今は、半分ほどが空き家になっているといい、通りを歩くのは観光客とネコばかりだ。過去の栄光はともかく、今はさほどの産業がなく、人口の流出に歯止めがきかないのだ。まあ、たまに訪れる我らのような観光客には、のんびりした空気が心身をリフレッシュしてくれて、ありがたい。
 ところで今年6月、私は島根県出雲市の県立古代出雲歴史博物館で、北前船の話をしてきた。世界遺産になっている石見銀山の玄関口、温泉津の港が北前船との交易で栄えたことを話した。1泊はしたものの、慌ただしい日程だった。が、博物館の学芸員、岡宏三さんが講演の前に、島根半島の外海に面した鷺浦(さぎのうら)集落へ連れて行ってくれた。出雲大社から、島根半島の北西端、石造りとしては今も日本一高い地上43.6メートルの灯台がある日御碕(ひのみさき)を目指し、途中から右折して山を越えると、大地がポカッと丸く空いたような小さな湾がある。ここが、かつては北前船交易でにぎわった鷺浦だ。

島根半島の鷺浦湾

鷺浦集落にあった「塩飽屋」の表札
 鷺浦を訪ねたのは、今度が4回目だが、来るたびに「どうしてここが、町並み保存地区にならないのだろう」と思う。昔ながら(例えば江戸時代以来)の建築が見当たらず、戦後に立て直したような家ばかりだから「町並み保存」には該当しないのだろう。だが、狭い通りを歩くと、家の間口などは昔のままで、なぜかタイムスリップしたような不思議な感覚におそわれる。それを決定づけるのが、ほとんどの家にかかっている表札である。本名のほかに、屋号の表札が必ずと言っていいほど掛けられている。かつてはお互い、屋号で呼びあっていたのだろう。
 その中に、「塩飽屋」という表札があった。塩飽本島の塩を売りさばいて財をなした船主の家で、塩飽の船乗りたちが皆泊まったので「塩飽屋」を名乗ったという。
 瀬戸内の塩飽諸島と、遠く離れた島根半島の鷺浦。今、陸路ではかなり不便な場所となった鷺浦だが、北前船の時代、日本は海でひとつにつながっていたのだということを、実感できる表札である。

菊の季節
 今は、中山義秀(なかやま・ぎしゅう)と言っても、知っている人はほとんどいないかもしれない。昭和13年に『厚物咲』(あつものざき)という小説で芥川賞を受賞した作家である。
 厚物咲というのは、分厚い花弁を持つ大輪の菊のことだ。東北地方ではこの季節、各地で開かれる菊の品評会で豪華さを競い合うのがたいていこの花だ。福島市出身の私には、近くの二本松市で毎年開かれる菊人形展や、秋田県横手市の城址で開かれる菊人形展などで見た、なじみ深い花である。
 さて、小説は、若いころからの友人だった瀬谷と、片野という2人の孤独な老人の物語である。片野は偏屈で、ずる賢い男だったが、菊づくりに才があり、ひそかに新種の菊を育てていた。瀬谷も菊づくりに熱心だが、片野には及ばない。しかし片野は、その新種の菊を2鉢抱えたまま首をつって死んでしまう。片野の死を発見したのは、こっそり新種の菊をのぞき見ようとした瀬谷だった。床に転がっていたその菊を、瀬谷は自分の名前で品評会に出品し、大評判を得る。しかし、なぜ片野は自殺してしまったのか……そこに至るまでの2人の半生が、瀬谷の口で語られる。
 この小説を久しぶりに読み返したのは、私の単身宅がある佐倉市の国立歴史民俗博物館に付属する植物園で、11月6日から始まった「伝統の古典菊」展を見たからだ。

奥州菊 星月夜
 私は、観賞菊は厚物咲とか、管物(くだもの)とか、形で分類するとばかり思っていた。ところがこの展示会では、奥州とか、江戸とか、肥後とか、独自の発達をとげた各地の地名を冠して分類されていた。私が厚物咲と考えていた菊は、「奥州菊」だった。外側の花弁が長く伸び、内側の花弁はぎっしりと盛り上がっている。
 これと対極的なのが、細い管状の花弁が枝垂れるように咲く「伊勢菊」だろう。古い品種である京都の「嵯峨菊」から作り出されたと言われている。なんとなくバレリーナを連想させる姿だ。

伊勢菊 高砂

丁子菊 岸の磐梯
 地名ではないが、「丁子(ちょうじ)菊」も江戸時代から盛んに栽培されていたという。真ん中が異様に盛り上がり、周囲には舌をだしたような花弁が伸びている。丁子とは香辛料のクローブのこと。その花に似ているから名付けられたと言うが、クローブの花を江戸時代の日本人が知っていたことの方が驚きだ。「アネモネ咲き」とも呼ばれるそうだ。
 江戸菊は、この写真の「遠見の桜」だけでも変わった花弁だと思うが、実は開花後、花がさまざまに変化するのが特徴という。それならもう1度、同じ花を見に行かなければならないだろう。

江戸菊 遠見の桜

肥後菊 窓の月
 まるで一重の花に見えるのが肥後菊。かわいらしい花だ。
 房総半島、千葉県いすみ市のわが家にも菊があるが、「花より団子」の食用菊である。今年はかみさんが植えた、紫色の「もってのほか」という菊が咲いて、「あんまり菊くさくないのがいい」と、かみさんは甘酢漬けにした菊を喜んで食べている。父親が福島から持ってきた黄色い食用菊は、11月も半ばを過ぎてやっと咲き始めた。
 ところで、小説『厚物咲』は『中山義秀全集』(全9巻、新潮社)の第1巻に収められている。発行は昭和46年7月。1冊2000円で、そのころ学生だった私には高い本だったが、1巻ずつ発売されるたびに買い求めた。中山義秀が福島県大信村(現在は白河市)出身で、郷土の作家だったからだが、高価な本なので、買うかどうか悩んだ。買う決心をしたのは、俳句の師、森澄雄が「中山義秀の全集は、今後発行されないよ」と言ってくれたからだ。確かに、全集が複数回発刊されることはめったにない。それに昭和46年当時、中山義秀はすでに過去の人だったと思う。
 「奥州菊」を見て帰り、『厚物咲』を読んだついでに『碑』(いしぶみ)や、『出郷記』など、彼の名を高めた名作を読み返した。いずれも重厚な作品である。全集を買っておいてよかったと、しみじみ思っている。
 (歴博の「伝統の古典菊」展は12月2日(日曜)までで、12月4日からは「冬の華・サザンカ」展が開かれる)
(2012年11月19日)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次