遠田耕平
夏到来 ハノイは例年になくいつまでも肌寒い日が続いた。ところが4月も終わり近くなって、出張から戻ると、突然ハノイは真夏のうだるような天気になっている。 「ありがたい。これで泳げる。」 ハノイ中心から離れたところにあって通勤に不便な僕のアパートの利点といえば、愛犬のいなくなった今となっては、アパートの眼下にプールがあることくらいである。冬は寒さで震えるハノイでは一年間に泳げる期間は6ヶ月程度である。 プノンペンにいた頃は熱帯の日差しの中で連日、天気も温度も考えずひたすら水に飛び込んでいたものであるが、訳が違う。 水温が16度になった11月に不用意に飛び込んだときは、死ぬかと思った。寒さで全身の筋肉が縮みこんで、あわや心肺停止。 少し大袈裟であるが、いや、それに近かった。 眼下にあるプールはいい。寝ぼけまなこの目やにだらけでも、髪の毛が寝癖だらけでも、よだれのあとが口の周りについていても、大丈夫。パンツさえ履き忘れなければ、それでいい。 水の中に滑り込むと、H2Oの流動体が体を包む。僕はただその中を静かに移動する個体だ。乾いた体は全身の皮膚から水を吸収して、柔らかくしなやかな軟体となる。 冬の間のたるみきった腹の辺りの脂肪と筋肉がストロークをする度に動く肩甲骨の筋肉群に引っ張られるように少しずつ締まっていく感じがする。まあ、年齢による肉体的な衰えだけはどうしようもないが、各部位の筋肉が一つ一つ動く感覚は以前より脳が鮮明に感知しているように思える。気のせいかな? まあ、僕の仕事のストレスは泳ぎさえあればかなり解消される。欲を言えば半年分のストレスを一気に落とせるといいのだが、なかなかそういうわけにはいかないようだ。 悪玉の子分、ポリオ発見 マニラの麻疹の根絶会議に出ている最中に、感染症研究所にいる親友の清水博之先生から連絡が入った。 「ベトナムから送られた検体からポリオの変異株が見つかったよ。」と 「あまり変異していないから大丈夫だと思うけどね。」という。 「ヤバイぞ。」僕の頭の中は一気に一杯になった。彼の軽い調子の報告とは裏腹に、フィールドで働く人間にはこの瞬間から山のような仕事が目の前に広がるのである。 ここで、「なに言っているんだかわけがわからない。」と気分が悪くなっている読者のために、理解しているとは言えない不完全な僕がつたない言葉で「変異株」について説明してみます。 ポリオのワクチンはもともと生ワクチンと呼ばれる病原性のある元のウイルス(野生株ウイルス)を、病気を発生することなく免疫だけを獲得できるように弱くしたものです(ワクチンウイルス)。 ポリオのウイルスは腸の中で増えるもので、その点では野生株ウイルスもワクチンウイルスも同じです。ただワクチンウイルスは腸である程度増えると免疫を作って、次に野生株が入ってきたとしてもその増殖を止めることが出来ます。 ところが、そのワクチンウイルスにも問題があります。腸で増えてお尻からウンチとともに出て行く過程で、ある程度の確率で非常にわずかですが遺伝子に突然変異を起こし、その配列を変えてしまうのです。これはインフルエンザウイルスではよく知られています
別な言い方をすると、この変異株が見つかったことは、ワクチン接種が悪いところがありますよと教えてもらったようなものでもある。そしてこれに対する対策は、やはりポリオの生ワクチンの徹底接種である。 断っておくが、これは変異していない純粋なワクチンウイルスで起こる、きわめて稀な(200万回の接種に一回)ワクチン麻痺とは別のものである。 マニラの会議から戻るとすぐに、保健省と合同調査チームを作り、早速フィールドに向かう。 変異株が見つかった子供はソクチャンというメコンデルタの真ん中の県に住んでいる。 かつて20年前、僕がパスツール研究所の保健省のスタッフとともに野生株ポリオ根絶のために最も腐心した典型的な水路の行きかうデルタの地域だ。 ベトナムの野生株によるポリオは1997年1月以降、2000年に根絶を宣言し、今日まで一例も出ていない。 変異ウイルスが発見された子供はクメール人(カンボジア人)の2歳の女の子。このデルタ地域にはクメール人はまだたくさん住んでいて、南部の最大の少数民族を形成している。今年の2月になって発熱の後、左足が突然動かなくなった。発症から2ヶ月経った今も左の筋肉の力は弱いままだ。20年前に僕と一緒に仕事をし、ポリオの診断ではベトナム屈指の小児神経内科医のヒン教授が80歳という高齢をものともせず、子供を村で診断するためにハノイから同行してくれた。
「ここはクメールの村だからね。接種率が悪いのも仕方ないよ。」と軽く受け答えした。 むむむ、、、これは聞き流せない。。。僕は6年前、やはり前任地のカンボジアで経験したポリオの変異株の流行を思い出した。ここでも紹介した話だが、そのカンボジアでの麻痺の子はベトナム人の村の子供だった。その時、カンボジアの保健省のスタッフは、 「ベトナム人の村だからなあ、接種率が悪くて仕方ないよ」と、まさにベトナムのスタッフと同じように呟いたのである。まるで国境に鏡を立てて、両面を見るかのような世界だ。そして、カンボジアではその数週間後に、自国カンボジア人(クメール人)のスラムに住む子供の麻痺患者から再び変異株が取れ、当時のカンボジアの保健省は顔色を変えたのである。 僕はベトナムのスタッフにこの話をした。 「必ずベトナムの子供もこのウイルスに罹っているよ。」 僕には確信があった。 1年半前、麻疹の全国キャンペーンを実施した際に、この場所で、接種率を一軒一軒歩いて調べたのである。ワクチンは貧しいベトナム人にはちゃんと行き届いていなかった。それは増え続ける食料加工の工場に子供連れで働きに来ている家族や、街中のスラムなどで顕著だった。ワクチンを受けていない子供たちは少数民族のクメール人同様、貧しいベトナム人の中にもはっきりとあったのだ。 自分の国では多数派の民族でも、一歩国境をまたぐと少数民族となる。それが、国境を接する人々の宿命でもある。 悪玉探しの調査は周辺の県を巻き込んで、今日も続いている。その結果を踏まえて、ポリオワクチンのキャンペーンを実施する準備に取り掛かる。そしてまた資金集めである。 この話はまた次回。。。。 コウモリ寺 話は変わるが、ソクチャン県は思い出深いところだ。20年前、ポリオをなんとかなくすために何度も通った県の一つだ。お金がない衛生部を励ますために保健婦に配るTシャツや帽子を持って行ったり、ベトナム語とクメール語の二ヶ国語のテープをスピーカーで流して、舟やバイクから呼びかけたり、いろいろと工夫をした県である。 そのスタッフの中に物静かなトン君という青年がいた。 なんと、彼が僕の目の前に突然現れたのである。彼は20年を経た今も前と変わらず物静かで若いままに見える。補助医師だった彼は、当時医者になる勉強をしていた。聞いてみると、その後、見事に医者になったという。彼は父親がクメール人で、母は中国系、まさに混血である。奥さんはベトナム人。寡黙な彼の中には、いろいろと苦労があったのだろう。多民族の血を引き継いだ彼が衛生部の中にいてくれることは励みだ。 県の保健局の一番偉いやつに会うというので、構えていると、突然抱きついてきた男がいる。フォン先生だ。彼は当時は衛生部の副部長で、なんだか落語家のような飄々とした風貌の丸顔で人懐っこい感じが、いつも僕を和ませてくれた。彼は出世したが、相変わらず飄々とやっているようだ。あまりふけていない。 彼は、僕が1996年にベトナムを離れる時に、一枚の油絵をくれたのである。それが、このあたりで有名なコウモリ寺の油彩画で、今も僕は、任地に持ち歩いている。 じゃ、コウモリ寺(チュアゾイ)に行こうということになった。行ってみておどろいた。当時そのクメールのお寺の周りの木が真っ黒になるほどにぶら下がっていた猫ほどの大きさの金色の胸毛を持ったフルーツコウモリは、今やまばらにしかぶら下がっていない。 どうしたの?と訊くと環境が変わって随分減ったんだという。やはりこれも時のなせる業かあ。
「何かおいしいものを食べて帰りましょうよ。」とお粥(チャオ)のお店に入った。すでに連絡して準備されていたようで、熱々の野菜入りの粥が鍋から注がれた。中を見ると長ーい足のような、羽のようなものが飛び出している。 「これ、、、もしかして?」 「ああ、あのコウモリだよ。名物なんだ。」と。 「コウモリが少ないのは喰っちまったからだよ。」「早く食べないとなくなっちゃうよ。」って。 ベトナムの逞しさ。 絶滅危惧種、何をや思いばからんや。 ああ、当時を偲ぶ油絵をもらっておいてよかった。 人は立ち止まれません。特にベトナムの人たちは、どんどん、前に行きます。どんどん。 |