んだんだ劇場2013年2月号 vol.169

No80−波乱の1年になりそうな−

賀状・ストレス・ヤンキ―化

1月1日 明けましておめでとうございます。大晦日の昨夜8時ころ、駅前まで1時間半ほど散歩。街は死んだように静かで、不気味なほど。この時期には秋田で一番にぎわう近所の三吉神社にも人っ子ひとりおらず、無人の屋台が数時間後の喧騒にそなえて息を整えていた。年末は長女の息子(孫ってことですね)、正月は長男が帰省。そのため恒例の正月山行はなし。久しぶりに家でのんびり。今年は公私とも激動の年になりそうな予感があります。ここまで生きてきたから、もう何があってもいいや、と言いう開き直った心境です。変わらぬご指導、ご鞭撻、お願いします。

1月2日 去年の11月からダイエット中だが、この正月が最大の「体重の崖」だ。そのことは重々承知している。わかっているのに年末、ジャージャーメン、カレー、カンテン、肉じゃが、とたっぷり料理を作っってしまった。ヒマだったのだが、家族に食べさせたかった。けっきょく残れば自分の口に入る運命なので賭けといえば賭け。大晦日の時点で体重は5キロ減、正月2日間で1キロ増。2ヶ月間で4キロ減はいいペースなのだが、今年の正月休みは例年より長い。暴飲暴食の誘惑との戦いはまだまだ続く。油断はできない。休み明けまで1キロ増ぐらいで何としても止めたい。

1月3日 坂本竜馬や白洲次郎といった人がなぜ人気があるのか、よくわからなかった。ちょっとでも歴史の勉強をすれば、彼らがほとんど偉大な業績など残していない人物のは自明の理だ。なのに彼らの人気が芸能人並なのは、金八先生や橋下徹らと同じ、その根っこの精神が「ヤンキ―」だから、というのが精神科医・斎藤環著『世界が土曜の夜の夢なら―ヤンキ―と精神分析―』だ。相田みつをなる、どうみてもいかがわしい人物もやはりヤンキ―であるらしい。なんとなく嫌いで、その人気の理由がよくわからない現象や人物が、「ヤンキ―」というキーワードで切り取られると、目からウロコ、なるほどその理由が腑に落ちる。現代日本のヒミツはヤンキ―文化にあり!」という帯文にうそはない。

1月4日 長い休みになると、いろいろ考え込んで落ち込む。ここ数年は山歩きに夢中で、そんな時間も少なかったのだが、今回は珍しく10日近くなにもない休みが続く。これはよくない。昨日あたりからみぞおちのあたりが重苦しい。除雪ストレスもあるのかも。除雪車が来るたびに事務所2階はグラグラ揺れる。そのたびに地震の時と同じ緊張感が襲ってくる。逆に知的ストレスが解消、気分のいいことも。なぜ近頃の若いラーメン屋はみんな作務衣やタオルの深巻き姿なのか。その意味がわかった(速水健朗著『ラーメンと愛国』)。なるほど、そうだったのか。納得なっとく。

1月5日 年々いただく年賀状が少なくなっていく。20年以上前から年賀状はやめた。いただく賀状もほとんどが印刷で直筆のものはめったにない。今年印象的だったのは電子出版の草分けボイジャー社からのもの。「確信以上の具体性を持って 本の時代は終わる」と言い切っている。これは新刊本(「マニュフェスト本の未来」)の宣伝コピでもあるようだ。電子書籍の先頭を20年以上走り続けながらも、厳しくデジタル偏重世界に警鐘を鳴らしてきた会社である。昨日や今日時流に乗って「紙かデジタルか」を声高に叫んでいる輩とはレヴェルが違う。この本物の電子書籍パイオニアからの賀状は、ものすごく心に残った。


波乱の幕開けは、ほんとうのようです

1月6日 長いお正月休みを無事(暴飲暴食なしで)、やり過ごすことができた。外は今年一番の大雪。昨日、若い友人のH君と駅前のスタバであるイベントの打ち合わせをした。両隣に若い女性の小グループがいて、ものすごい大音響でおしゃべり中。こちらも負けじと大声でヒートアップ、酸欠気味になってしまった。スタバは箱根駅伝か! 右隣は「カレシ」の話に夢中の女子高生風。左隣は東京から帰省中らしき女子大生風。互いの隣の席の声に、負けじとばかりみんな大声で怒鳴り合う。外から見るとこの光景は、ほとんど証券取引所ではないのだろうか。

1月7日 今日から仕事始めだが、健診の再検査のため、近所の大学病院へ。2013年は、なるほど波乱の幕開けである。ところで毎年、お正月はDVD映画をレンタルして1日2本平均は観ているのだが、今年はほとんど面白い作品に出合えず。文字通りヒマつぶしに終わっただけだが、これが本なら3冊に1冊は絶対にはずさない。その自信があるのは、それだけの経験や訓練ができているから。映画はめったに佳作にであわないのは、基礎知識や最新の情報量が不足しているせいだろう。なにごとも一朝一夕にことはならない。

1月8日 半日を大学病院で過ごす。健診の再検査のためだが、朝早くからいつもと違う別世界に放り込まれ、観るもの聞くもの非日常な新鮮な体験をさせてもらった。検査そのものは異常なくホッと一息。偏見を持っていた医師も、丁寧でちゃんとこちらの目を見て説明責任を果たしてくれ、うれしかった。「医師が患者を診るたびに、そのことで患者の気分がよくなるのが医療の極意」といった作家がいたが、そうだよね。飛び込みで入った大病院だったが、粗末にもされもせず、短時間で丁寧に診てもらえた。実は別の大病院で、いろんな条件を付けられ門前払いを食った苦い経験があったばかり。病院や医師に対する意固地な思いが、今回の検査で、少しはゆるくなった。

1月9日 昨夜の夕食はアサリの酒蒸し、合いガモ照り焼きに湯豆腐。肴系ばかりだが、大活躍したのはネギ・スライサー。去年いただいたものの中でもっとも役立ったすぐれもの。百均だそうだが、このおかげで料理が昔より数倍楽しく、かつレパートリーも広がった。さらに、包丁をよく研ぐこと、市販の「白だし」や「めんつゆ」を使いこなすこと、調味料はできるだけ少なく、などなど、すべてSシェフの薫陶によるもの。ものの10分あれば冷蔵庫の残り物で何品かの酒肴を作れるようになるのが理想だったが、少しずつその域に近づきつつ……いやいや料理に慢心は禁物、今はひとつでもレシピを増やすことに専念しよう。

1月10日 たぶんに儀礼的な言い回しなのだが、「今年は波乱の幕開け」うんぬんと年頭に書いた。でも現実はもっと重かった。新しい年の日々は、ズシンズシンと重い剛速球ばかり、こちらのミットの手はもう赤く腫れあがっている。身辺で不幸があいつぎ、友人知人たちの予定外の行動に振り回され、仕事の展望も一向にクリアーにならない。そしてこの豪雪だ。まさに波乱の幕開けである。が、馬齢を重ねるにしたがい、ジタバタしない程度の諦観や虚無の根っこは生えているのも確か。不安や焦燥感はあっても、それをカバーする、ふてぶてしさといい加減さも身についている。それでもなあ、今年はなんだかやっぱり、波乱の1年になりそうな予感があるゾ。

1月11日 ふだん呑んでいるお酒は横手市にある「天の戸」(浅舞酒造)のものが多い。杜氏の森谷君の本を出した関係ばかりではない。小売店の秋元さんに酒のチョイスはすべてお任せなので、自然とそんなふうになったのだ。今はカミさんも天の戸が一番のお気に入り。去年の暮は親しい県外の友人たちに「天の戸純米大吟醸35」を贈って、えらく喜ばれた。その天の戸の柿崎社長が亡くなった。まだ55歳の若さ。毎年新酒の時期に作家のSさんと2人酒蔵に招いていただき、できたてのお酒をいただくのが恒例行事だ。おまけに今年は、柿崎君の奥さんのお兄さんの「麹の本」も出す予定。その出版をとり持ってくれたのも柿崎君だったが、本を見ずに旅立ってしまった。自分より年下の人の旅立ちを見るのは、辛い。合掌。


大雪の中で考えたこと

1月12日 横浜出身の大学生から「秋田の冬はいつもこんなに寒いんですか?」と訊かれた。えッ、そんなこと考えたこともなかったなァ。冬は寒くて雪に閉じ込められる。それが当たり前だ。早く春になってほしい。余計なことを考えずに、この一念で冬をやり過ごす。60年以上生きてきた雪国ネイティブにとって、寒さも雪も日常のうち。なのだが、さすがに最近は年と共に「雪がない冬って、いいだろうな」と問わず語りをする自分がいる。雪かきには慣れたが、この閉塞感と慣れ合うのは、いくら年を取っても難しい。今日も深々と雪は降り続け、さきほど「大雪注意報」がでたようだ。

1月13日 「靴納め」というのがあったから今日は「靴初め」とでもいうのだろうか。最初の予定では男鹿真山だったが、昨日来の不気味なほどの大雪に恐れをなし、急きょう近場の一つ森公園スノーハイキングに変更した。のんびりと公園を歩いているうちに青空が見えだした。昨日は市内のどこでも雪かき作業をする人で路上はにぎやかだった。どの顔にも、怒りをどこにぶつけていいのかわからないような困惑と焦燥と不安の色が濃かった。殺気立っている感じも伝わってきて散歩をするのも怖いほど。一転、今日は穏やかな雪解けの日である。天候に気分が左右される日々はユーウツだ。

1月14日 ダイエット中なので食事の愉しみは夕食だけ。もう2カ月以上たつので、だいぶ空腹感は薄らいできた(現在5キロ減)。反動で夜に大食いしてしまうのが心配だったが、年なのだろう、高カロリーものは自然と敬遠するようになった。このところ毎日、湯豆腐三昧。急に好きになったのは湯豆腐の正式の食べ方を教えてもらったからだ。ようするに「かえし」をつくって豆腐を食するのだが、氷砂糖でつくる「かえし」がポイントだ。とにかく「かえし」がすべてで、豆腐以外に食材は極力使わないこと。湯豆腐を美味しく味わうには、氷砂糖の甘さが必要だったのである。湯豆腐のうまさを知らずに死んで行くところだった。教えてくれた人には感謝感激あめあられ。

1月15日 3連休はいつも通りフツーに過ぎてしまった。なんにもしないうち今週はもう1日が経った。今週はほとんど事務所にいない日々になりそうだ。東京出張があるためだが、どうせなら東京にずっと雪が残っていてほしい。東京に大雪が降って都市機能がマヒすれば、多くの人が「雪」の大変さを認識してくれる。不謹慎な話か。まあ妬み芬々でいっているのだから許してほしいが、雪がどれほどの「暴力」か、多くの日本人に知ってほしい。この気持ちは、口にこそ出さないが雪国の人間みんなが持っている感情だろう。沖縄の人たちが基地の「県外移転」を願うのと似た気持ちかもしれない。なぜ自分たちだけに、こんなハンディがあるのか。冬になるたびにそんな愚痴を吐き出しながら、黙々と雪かきする日々だ。

1月16日 「日中〈文明の衝突〉一千年史」と副題のある『中国化する日本』は、去年読んだ本で最も刺激的な論考だった。「怖い国」「遅れた国」「野蛮な国」と中国を見てしまう癖が日本人にはあるが、歴史的にみれば逆だ。中国というのは人類史上最初に身分制を廃止、前近代には世界の富のほとんどを独占する「進んだ」国だった。だからむしろ、「なぜ遅れた野蛮な地域であるはずのヨーロッパに法の支配や基本的人権や議会制民主主義があるのか」を考えるべきだ、というのが本の骨子だ。民主主義の骨格になる人権概念の基本は、そのほとんどが中世貴族の既得権益。ヨーロッパにはその身分制が最後まで残ったため、貴族の既得権益をゆっくりと下位の身分の者たちと分け合っていくことが近代化のプロセスになった。が、中国は宋朝にすでに「近世」に入ったため、早く特権貴族は滅亡した。貴族がいなかったので人権概念も育たなかった、というのだ。日中問題がメディアで報じられるたび、この本のことを思いかえすようにしている。

1月17日 航空機の事故が続いているようだ。でもどこかそんなニュースを見ても他人事。東京に行くのにほとんど飛行機を使わなくなったせいだろう。広面から空港までは15分、駐車料金も安く、便利この上ない立地なのだが、飛行機ははやすぎる。時間感覚が日常を飛び越えてしまう。逆に電車がいいのは日常の時間でそのまま移動できること。まとまった読書時間がとれるのもいい。前日から読む本を選ぶのにワクワクする。これは旅の醍醐味だ。年と共に「時間」に対する感覚が変わってきたのだろう。飛行機の早さは、老いた身体の生理に同調しなくなった。10年前までは1か月に2度も3度も飛行機に乗っていた。もうあんな生活は無理だ。それでいい。ゆっくり、無駄に、寄り道すること。

1月18日 いま東京だ。久々の@padからの送信だ。これから知り合いと昼食を一緒するのだが、とにかく青空が気持ちイイ。指定の場所までは距離にして3キロほどあるが迷わず歩くことにする。健康のためというより青空が気持ちイイからだ。この時期に東京出張が多いのは、この青空が見たいためなのかもしれない。「ほとんど青空を拝めない冬の間」と秋田のことを書いていた作家がいたが、これはけっして誇張ではない。地場もんがいうのだから確かだ。他者の地位や名誉、家族や生きている環境をうらやむのは、人としてあまり褒められた行為ではないが、天候をうらやむというのも、似たような行為か。帰ったら週末は県北部の七倉山にスノーハイキングの予定だ。それにしても行きの新幹線の中で読んだ黒井千次著『高く手を振る日』はいい小説だったなあ。70代の恋を描いたもので思わず涙してしまった。


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