んだんだ劇場2013年2月号 vol.169
No102
1月3日はトロロ飯

里芋と山芋
 昨年の初夏に植えつけた里芋が、秋には立派に育った。「里芋は、葉が座布団くらいの大きさに育てないと、十分な収量が見込めない」と書いていた農業書があったが、わが家の里芋はそれほどではないにしても、植えた6株ともまずまずの発育だった。

大きな葉を広げた里芋=昨年10月
 しかし、なんとなく掘り起こさないでいるうちに、地上部が枯れ、慌てて掘ったのは12月29日である。せめて正月には食べようと思ったからだ。掘り上げて、畑で水をかけてざっと泥を落とし、残っていた葉柄(ようへい)を包丁で切って集めたら、一輪車いっぱいになった。

一輪車に積んだ里芋

洗った里芋
 混雑している様を「芋の子を洗うようだ」と形容することがある。里芋は、大きな桶に隙間ないくらいに入れ、たっぷりの水で満たし、棒でかき回すように洗うと、泥がきれいに落ちる。それが「芋の子を洗うようだ」なのだが、わが家には適当な大きさの桶がなかったので、私は1個ずつ、根を取り、タンクに溜めておいた雨水で洗った。計量したわけではないが、持った感じでは15キロぐらいはあって、元旦に来てくれた弟一家にも分けてやることができた。私とかみさんの2人なら、しばらく食べられる収量だった。
 さて、故郷の福島では、1月3日にトロロ飯を食べる習慣がある。これで1年、無病息災で過ごせるという。だが私はもっと現実的に、元旦と2日におせち料理をたらふく食べて、酒も飲んだ胃袋を休ませるという意味があるのではないかと思っている。
 で、そのために1月2日、堆肥枠のそばに育っていた山芋を掘った。タネ芋を植えた覚えはなく、勝手に芽を出し、ツルを伸ばしていた山芋である。が、掘ってみたら予想外の大きさだった。掘り方が下手で、途中で折れてしまったのもあるが、写真の全体が1株である。この半分弱をすりおろして、トロロ飯のほかにマグロのやまかけも賞味した。美味!

予想外に大きく育っていた山芋

マグロのやまかけにもして食べた
 さて、ここまで「山芋」と書いてきたが、わが家の場合、これは間違いだ。私が掘ったのは「ナガイモ」である。
 「山芋」は、植物名としては「ヤマノイモ」と読む。自然薯(じねんじょ)のことで、数少ない日本原産の野菜のひとつだ。非常に粘り気が強く、トロロ飯ににするには出汁で伸ばさなければならない。これに対して、江戸時代初期に中国から渡来したとされる「ナガイモ」は、形は似ているが別種の植物だ。すりおろすと、さらさらした感じになる。肥料を与えれば成長が速く、作物としてすぐに広まった。わが家では昨年、3か所からこの芽が出てきた。父親が取り残した芋のかけらが地中に残っていたのだろう。
 サトイモは縄文時代から栽培されていたが、原産地は東南アジアである。探して掘りだす自然薯が「ヤマノイモ」であるのに対して、最初から人家近くで栽培されたので「里芋」と名付けられた。長い歴史の間に、さまざまな品種が生み出された。
 実はサトイモもナガイモと同じく、昨年の初夏、畑のあちこちに芽生えたのを移植して育てたものだ。掘り起こして洗ってみたら、子芋の形がまん丸なのと、少し細長いのがあった。毎年タネ芋を購入していたのは父親だが、品種にはこだわらなかったのだろう。それが地中で眠っていた。
 家庭菜園を長年続けていると、思いがけない余得があるものだ。

白子神社の撫で蛇さま
 九十九里浜からの初日の出を見るのがこのごろの通例になっている弟一家が、その足で年賀に寄ってくれた元旦、弟らが帰ったあと、かみさんが「散歩に行こう」と言うので、この辺りの氏神さまである八幡神社まで初詣に出かけた。わが家からは田んぼの中の一本道が、神社の近くまで続いている。
 振り返ってみた写真の、突き当たり付近にわが家がある。南の空を見ると、秋のような美しい雲があった。穏やかな正月である。

田んぼの道の突き当たりにわが家

穏やかな元旦の美しい雲
 巳年の今年は、1月4日にも初詣に出かけた。年末の新聞に、ヘビに関係する神社として、車で30分ほどの白子町にある白子神社が紹介されていたからだ。三が日は人ごみになりそうなので、4日を待っていた。

車で初詣に行った白子神社
 ここは11世紀の初めに、大国主命を祀って創建されたという古社で、その後、12世紀の初めごろ、九十九里浜の南端になる白子の海岸で潮汲みをしていた人の前に、白蛇を背に乗せた白い亀が海から現れたという。それで、白蛇を神社の守り神とし、神社の名前も白子神社と定めたと伝えられている。
 なるほど、境内の手水は蛇を乗せた亀の口からほとばしり出ていた。

亀の上に蛇がのった白子神社の手水

白子神社の撫で蛇
 で、拝殿の回廊には、陶器の「撫(な)で蛇様」なるものが2体置いてあった。祈願しながら蛇の頭を撫でてくださいと書いた木札が、その前にあった。マンガのような、愛嬌のある顔だ。が、巳年だからここに来たものの、私は本来、ヘビは大嫌いである。白蛇を描いた絵馬はいただいて来たものの、「撫で蛇様」の頭には触れないで帰ってきてしまった。

冬菜畑
福島に住んでいた父親が、「年を取ったら雪の降らない土地で暮らしたい」と言い出した。それで房総半島、千葉県いすみ市(当時は大原町)に土地を求め、家を建て、両親とともに移り住んだのは、1998年だった。以来14年が過ぎたが、まともに雪が積もったのは1回しかない。空を見上げていると、途中までは雪らしいのに、地上に達した時には水になっている土地である。
 しかし、確かに雪は降らないが、霜は降りる。60坪ほどの家庭菜園にはこの時期、見事な霜柱が育つ。霜柱は関東ローム層特有の現象で、私も福島にいた頃は知らなかった。そして、畑の青菜類は霜を身にまとっておいしくなる。
それは、植物が寒さから身を守るために、体内に糖分を蓄えるからだ。真水だと凍ってしまう寒さでも、糖分を含んだ水は凍りにくいのである。

霜の降りたホウレンソウ
 
胸に父漬菜つめたき信濃にゐ 森澄雄

この冬も霜が降りて、私は俳句の師、森澄雄の句集『花眼』所収のこの句を思い出している。
 ここに住んで最初の年、父親は50株も白菜を育てた。「食べきれないよ」と私が言うと、父親は「漬物にするんだ」と自慢げに答えた。年が明けて白菜を収穫できるようになったら、父親は巨大なプラスチックのたらいと漬物用の桶を買って来た。たらいで白菜を洗い、縦半分に切って桶に漬けこんだ。が、見ていると、白菜の重さも量らず、塩も目分量で、これでちゃんとできるのかと心配になった。案の定、腐りはしなかったが、「うまい」と言えるほどの漬物にはならなかった。
 何年か同じことを繰り返してから、父親は「食べきれないほど作ってもしかたないな」と言って、毎年少しずつ植える数を減らして行き、1年前の冬、白菜は20株になった。だが、その収穫を見ずに、2011年の大晦日、父親は79歳の生涯を終えた。

父親が育てた立派な白菜
 漬菜がおいしくできなかったのは、塩加減などの技術のせいもあるが、私は、雪も降らない土地だからではないかと思っている。信州もそうだが、東北、北陸などでは冬の寒さが、漬けものをゆっくり発酵させ、味わいに深みを加えるのだろう。
 いま菜園では、かみさんが植えた10株の白菜が育っている。
――ここまでは、私が所属している俳誌『杉』1月号に掲載したエッセイに加筆、そちらには載せていない写真も入れて再録したのだが、『杉』が届いたあとの14日、久しぶりにわが家の周囲にも雪が降り積もった。その寒さが1週間も続いている。房総半島では珍しいことだ。

吹雪になった14日

畑は雪で真白に
 今度の冬は寒くて、どこでも野菜の育ちが悪いらしく、野菜が高騰している。こんな時こそ、家庭菜園のありがたさがわかるはずなのだが……わが家の冬野菜の育ちの悪さはそのレベル以下と言わざるを得ない。昨年10月の写真をお見せするが、その後の育ちはかんばしくない。植えつけ前の施肥も十分ではなかったのかもしれない。
 自然が相手の農業は、やっぱり難しい。

育ちのよくないブロッコリー、キャベツ、白菜
(2013年1月20日)


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