んだんだ劇場2013年3月号 vol.170
遠田耕平

No132 3月29日、あの日から10年、 カルロ・ウルバニの死


天罰

テト正月が明けるのを待って予定を一杯入れていたせいで、明けるなり急に忙しくなった。南部メコンデルタでの腸チフスの調査、北部山岳県での少数民族中心の保健所のトレーニングと週末も返上するはめになった。 土曜の昼にサイゴンからハノイに戻り、パッキングをしなおして、日曜の昼には車で山岳部に向かう予定だった。グータラの身には厳しい。 この際、睡眠くらいはしっかり取りたいなあと、数日振りの我が家のベッドにもぐりこんだ。が、夜中に耳元で鳴るプーン、プーンという蚊の音で不快にも目を覚まされた。
「くそ、ゆっくり眠らせてもくれないのか。」と蚊取り線香を取りに寝室を出ようと、ドアノブを思いっきり手前に引いたその時だ。。。ぼんやりドアの前に立っていた僕のサルのように長い足の指が、ゴンという鈍い音とともにあっという間にドアの下の隙間にもぐりこんだ、と思うと、一番長い第二指の爪がつぶれて。。。。。。。  ああああ。。。

それから、あまり詳細を覚えていない。痛みのあまり、声が出ず、しばらく床にしゃがみこみ、悶絶、気絶?何とか気を取り戻して、滴り落ちる血をティッシュで拭くと、第2指の爪が右端の根元を残して剥がれ、浮き上がっている。取ってしまうべきか?と思ったけど痛すぎる。。もしかするとこれは夢かもしれない。。。と、うつらうつらしているうちに朝になった。 痛い。。。やっぱり夢じゃなかった。 

爪をきれいに抜いて消毒したほうがいいのか判断が出来ず、そういえば整形外科をやっている息子がいたと思い出した。とにかくただでさえ冴えない僕の思考力が、痛みでさらに低下しているので、うまく物事を考えられない。 息子に電話してみると、「全部剥がれていないなら、そのままでいいんじゃないかなあ。」という。僕が痛みを我慢して一生懸命やったイソジンの消毒は今どき流行らないという。傷口の細胞の修復を却って妨げて治りを遅くすると言う。 僕が外科だったときは、このまったく逆で、イソジンは修復を早める効果もあるとまで教わった。「昔の古い先生の中には、今でもイソジンだと言い張る人はいるけどね。」と。 今は、ただ水で洗い流すだけが一番治りが早いということらしい。常識はころころ変わる。

あ、そう言えば、この息子が10歳くらいのとき僕は家族でサイゴンにいた。そのとき、弟と大喧嘩をした息子が、弟がドアを思いっきり閉めた瞬間に指をドアに挟んだ。小さな子供の指の爪は見事に剥がれ、僕は女房に呼び出されて、職場から飛んで帰った。近くのクリニックを借りて、指の根元に局所神経ブロックをしてやり、泣く息子をなだめながら消毒したことを思い出した。ああ、あの時は本当に痛かっただろうなあと、今実感としてわかった。「あの時は痛かっただろ。」と訊くと、「ああ、まあ。」と忘れたらしい。痛みは忘れることが大事だ。

これは、もしかしたら天罰か? 女房が一人秋田に残り、豪雪の中で必死で雪と孤軍奮闘している時に、僕はテト正月休みを使って、プノンペンの友人宅に居候。毎日泳いで、ギターを弾いて歌っていた。やっぱり天罰だ。。。 女房に「ドアにぶつかって、爪を剥がしたよ。」と話したら「歳をとると、考えている動きと実際の体の動きが食い違うのよ。あちこち傷だらけになるのよ。ハハハ。だいじょうぶ?」と。うーん、やっぱり天罰かと。。

思考力の鈍った頭で、さてこれから山岳部の町に出張に行くべきかと迷った。でも、自分の失態だし、靴は履けないけどサンダルで行けば何とかゆっくり歩けるし、、、と結局、夜道を車で4時間、山の中を走って暗く静まり返った山間の町に着いた。 8時過ぎに着いたのに、先に到着していた保健省のスタッフと地元の衛生部のスタッフが暗いレストランで食事を待っていてくれた。 とにかく無理して来てよかった。足は痛いけど。。
一緒に来たドライバーが言う。「ベトナム人はみんな足の爪を剥がすんですよ。」「えええ!みんな???」「みんな石ころだらけの地面で裸足でサッカーをしますからね。」そるほど、べトナムの国中の人が、爪をはがして絶叫しているのを想像してしまった。 痛。。。。


3月29日、あの日から10年、カルロ・ウルバニの死


10年前の3月、このハノイで何が起こっていたか? 時は瞬く間に流れ、忘却の彼方に起こった事象のすべてが消えていくとしても、10年前のあの時、確かにハノイでは世界を震撼させる深刻な事態が進行していた。 その原因はSARS(サース、重症急性呼吸不全症)、中国の広東省に端を発し、香港からベトナムに、さらにカナダ、シンガポール、ヨーロッパへと瞬く間に世界各国に広がり、数ヶ月で8千人以上の患者と8百人近い死者を出したあのSARSである。 僕も含め人間の記憶とは忘れることであるかのように、あれだけの爪あとを残した今世紀最大ともいえる致死的な感染爆発を僕らはもう遠い過去のように思い、何もなかったように今を生きている。

僕は当時、まだインドで仕事をしていた。もしSARSが人口が密集して混乱しているインドで広がったら、犠牲者の数は計り知れないだろうと身震いしたのを覚えている。世界は滅亡するかと思われたが、感染は予想したほどは広がらなかった。その理由は、ワクチンも治療法も見つからなくても、完全な患者の隔離と感染防御をすることでSARSウイルス(新型のコロナウイルス)の感染を封じ込められるとわかったからである。 疑わしき患者は直ちに隔離され、感染拡大は最小限に抑えられた。しかしその陰で看護師、医師など多くの医療従事者たちが命を落としたのである。中でも一番初めに命を落とした医師が当時WHOベトナム事務所で医務官をしていたイタリア人医師のカルロス・ウルバニである。そして彼こそが、まだ誰もこの感染症の正体を知らなかった時から患者と接触し、病態を観察し、隔離の重要性を発信し続けた医師だった。それは患者を診た医師だから言えたことだった。

僕はカルロのことをよく知らない。教えてくれたのは、最近偶然手にした一冊の本「世界を救った医師−カルロ・ウルバニの27日間−」(NHK 報道局取材班、NHK出版)からだった。 カルロは1956年にイタリアの静かな田舎町に生まれている。僕と同じ歳だ。地元の医学部を出て、地元の病院で臨床医として働いていたカルロは「国境なき医師団(MSF)」に入り、病院での仕事の傍ら、イタリア支部の代表として活躍していたらしい。 その後、寄生虫対策の専門家としてカンボジアで働き、2001年からWHOベトナムのデング熱、マラリア対策の医務官とハノイで働いていた。そんなカルロのところに友人からハノイのフレンチ病院に入院した香港から来た中国系アメリカ人が不明の高熱で症状が悪化していると連絡が入ったのは2月28日のことだった。カルロがその患者をはじめて診たのが3月3日で、この原因不明の発熱疾患の最初の報告がマニラに送られた。そのときマニラではすでに中国の広東省で2月はじめから原因不明の肺炎で多くの死者が出ていると未確認の情報が入っていた。2月22日にマニラのWHO 事務局、アメリカのCDC、日本の感染研のチームが北京に入るが、中国政府は事実を隠し続け、9日間もチームとの会議を引き延ばした。やっと中国で調査が始まったときに、カルロの患者に関する現場の報告が入り始めるのである。

カルロ・ウルバニ

メコンに向かって両手を広げる在りし日のカルロ
カルロが診た中国系アメリカ人はその2日後に香港に移送され、そこで亡くなる。その直後からフレンチ病院の看護師たちが次々と高熱で倒れ入院する。いかなる薬の治療にも反応せず、重症肺炎の兆候が出始める。カルロは看護師たちをベッドサイドで診て、逐一記録し、WHOに報告を続ける。ベトナム保健省に緊急の会議を持ちかけるが、何せ一週間もたっていない状況であの腰の重い保健省が病院閉鎖に同意するわけがない。カルロの最初の患者との接触から一週間、マニラから応援が来る。中国と香港のアウトブレイクは隠しようもない事実となり、保健省も病院の閉鎖をついに勧告する。その翌々日カルロは自らの発熱を自覚し、一人バンコクの病院に収容されるのである。最初の接触から9日目のことだ。その翌日、ついにWHOが全世界へ向けて感染拡大の警告(グローバルアラート)を出す。

カルロが命がけで送り続けた患者の記録がその後のSARSの診断基準となり、徹底的なSARS 疑いの患者の隔離が世界各地で行われ、発生から2ヶ月を過ぎて感染拡大は徐々に終息に向かい始めるのである。カルロはそれを知るすべもなく、3月29日に、最初の患者との接触から27日目にタイの病院のICUの一室で息を引き取る。27日間の未知のウイルスとの戦い。その結末を見ることもなく彼は死んだ。ハノイのフレンチ病院でも、その後、二人の医師と3人の献身的な看護師が犠牲になった。

イタリア中部の故郷に埋葬されたカルロの石碑には"Medico Senza Frontiere (国境なき医師)"と刻まれている。妻と3人の子供を残して逝ったそのカルロの写真は今も僕のオフィスの机の前にある。彼の名前の付いている会議室にはメコン河のボートの上で空を仰いで両手を広げている彼の後姿の写真がかかっている。カルロは何を言いたかったんだろう。

カルロの死が伝えたものはなんだ? 同じ年齢の同じ医師として僕はどうしても自分を重ねてしまう。彼も危険を感じていなかったわけじゃないと思うし、多分、身を挺して病原体を発見しようとしたわけでもないと思う。ただ、患者の対策を考えているうちに自然にそうなったんじゃないかなと思う。一人の医者として、ただずるずると。むしろ、ちゃんとずるずるしたんじゃないかな。 公衆衛生の専門家の中にはカルロは公衆衛生のプロとして行動が甘かったという人がいるが、ふざけるな。医者になると決めたときから僕らは、命の駆け引きと隣りあわせだ。怖いから患者を診ないという訳には行かない世界に入っている。それが医者になった最初の覚悟だ。それだからこそ名もなく知られることもなく犠牲になった看護師と医師の数は計り知れない。医者ってこんなもんだよと自然に教えてくれたんじゃないかな。WHOの中で彼のように自然に体が動いてしまって、最後まで医者なんだといえる人間はいったいどのくらいいるのか? 

あれから10年、もし彼が生きていれば、今彼は僕と同じ歳だ。僕はそのカルロが生きれなかった10年をカルロに恥じないくらいちゃんと生きたと言えるだろうか。 

SARSのあと、鳥インフルエンザのアウトブレイク、鳥から人への感染、新型インフルエンザ大流行の騒ぎと、世界は震撼し続けた。それでも国同士の垣根は相変わらず高く、情報隠しも、国のエゴもまかり通って、対策はやっぱり後手に回る。逆に先を急げばワクチン会社に利用されたりもする。難しいもんだ。でも、その中でやっぱり第一線で病気と向き合う医療従事者だけが感染拡大を体を張って食い止める一縷の望みじゃないかなと。公衆衛生を標榜するWHOもその基本を忘れないで欲しいとカルロは言っているように僕には思えてならない。

3月29日に僕はカルロと犠牲になった多くの人たちに手を合わせる。それは僕だったかもしれないから。


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