んだんだ劇場2013年5月号 vol.172
遠田耕平

No134 山の上のモン族と猫りんご酒の味


濡れる床、トイレの花男さん


以前に僕のオフィスのトイレのお話をしたことがあったが、読者はご記憶におありだろうか。確か、トイレの壁に備え付けてあるコンドームの消費率を議論したのであった。今回は再びそのトイレの話である。 少々困り果てたので、皆さんのお知恵を拝借したい。

前にもお話したように僕のデスクのある別棟の2階にはトイレが一つしかない、つまり男女共用である。この階には常時、僕を含めた3人の男子と9人の女性スタッフがいる。そういうわけで、小用であれ、たまに大であれ、用を足した後は、汚れがないように、さらに消臭スプレーも撒いたりしている、一応常識的かつ暗黙的共通理解がある、と考えていた。 さらに一日に2回、お掃除のおばさんが清掃してくれる。だから本来このトイレは心の行き届いた清潔なトイレのはずであった。ところが僕がこのオフィスに来たときからトイレの床がいつもびっしょりと濡れているのである。便器の前、便座のすぐ下の床が濡れている。きれいに拭いても、きれいに拭いても、その直後にはまた見事に濡れている。僕はいらぬ嫌疑をかけられてはたまらぬと、トイレに入るたびに床を拭き、消臭剤を撒くのであるが、いったい誰が?

女性が床を濡らすか? そういえば以前、ベトナムの田舎に出張に行ったときに、田んぼのあぜで、立って用を足しているおばさんを見かけたことがあった。伝統的な薄いパンタロン風のズボンの裾をスルスルと手繰り上げて、ひょいとオマタを出したかと思うと、シャーっと太い尿線を一直線に描いて、用を足した。見事であった。 かっくも高い技術を有し、立って用を足せる女性スタッフがいるのか? いや、WHOオフィスに勤める一流エリートの女性たちである。それはないだろう。とすると僕以外の現地スタッフの男性二人しかいないことになる。

女性スタッフたちの話しでは明らかに一人の男の問題だということになっている。彼女たちは苦肉の策で「ここでは運転免許が必要ですよ。」と書いた張り紙を便器の向こう側の壁に貼った。ところがこれにはまったく効果がなかった。 あるとき、出張から帰るとメールが飛び交っている。
「トイレのマナーが悪い男が、大事なものを切られたという話がネットに載っているよ。」と。ええ、過激。だがベトナム人ですら、こういうことは本人にはどうにも話しにくいもので、誰も面と向かって話せない。 僕は、外国人だし、さらに気が引けてしまう。「君がした後はいつも床がビチョビチョだよ。君のオチンチンの先曲がっているの? それとも大きすぎて垂れ下がっているの? うーん、それとも小さすぎて届かないの?」なんて、きけない。 どうやって本人に話そうかと迷っているうちに3年が過ぎた。。

最近、その男、オフィスの管理課に天井から水漏れして、床が濡れているようだから修繕してくれと頼んだそうだ。水漏れはお前のオチンチンだろ、と誰もが思ったが、言えない。そして天井が修理された。これはいい機会だと思い、何年も我慢していた僕も、その男に向かって「僕たち男性はきちんとエチケット守って、女性たちを不快にさせないように、きれいにトイレを使いましょうね。」と話した。 すると、その男、「当然ですよー。Drトーダ」と、まるで僕を責めるような目で言う。 うううう。

そしてその後も、やっぱりトイレは濡れている。僕は未だにこの男のオチンチンの先から尿が床に滴り落ちるのをこの目で見たわけじゃない。 最近、もしかすると犯人はこの男ではなく、自然に本当に濡れる何かがあるんじゃないだろうかと思ってしまう時すらある。え、トイレの花子さん、いや、花男さん? でも、やっぱりこの男だろと。

僕は今日もトレイの床を拭いている。そのせいか、僕は、小用を足した際、最後の数滴を慎重に便器内に落とす業を習得した。 それでも、歳のせいか、終わったと思って仕舞いかけた瞬間、予期せず、ポタポタと落ちることもある。悲しいが、僕は真実を探求する読者に認めざるをえない。 花男さん、ありがとう。君のおかげで、僕は予期せぬポタポタもきれいに拭くことができるようになりました。 うううう。



モン族の村の集会

これも前回の続きであるが、今回はモン族の村でこちらで準備した健康講話に参加できることになった。前回の保健所スタッフのトレーニングで大いに刺激を受け、村に泊まりたい気持ちが募り、寝袋持参で行ったのである。が、県と郡のスタッフたちが、「トーダ、それだけは勘弁してくれ。」という。「いくらトーダでも、外国人がモン族の村に泊まると公安に知れたら大変なことになる。頼むからわかってくれ」と懇願された。もともと、ダメかと思っていたので、仕方がない。彼らにこれ以上迷惑をかける訳にもいかない。

山を登るランドクルーザー

山腹にあるモンの村の遠景
モン族の村には傾斜が30度近くもある山の旧斜面の道をいく。歩いていくのだと思っていたら、バイクがやっとすれ違うくらいの道幅をなんとランドクルーザーで走ったのである。車輪の幅一杯の道をゆっくりとゆっくりと走る。片側は山の斜面がどこまでも谷に落ちている。もし山側のタイヤが石で跳ね返れば、車は谷に向かってどこまでも転げ落ちてしまう。 景色は最高であるが、運転手も、「もうこんなの嫌だあー、」と言うし、僕も緊張で胃が痛くなる。30分ほど崖の道を這うように走って山の中腹にあるモン族の村に着いた。村は人口400人余り、60戸ほどで、保健所からは60kmほど。天気がよければ山道をバイクで飛ばして2−3時間で辿りつく。

集会場に集まったモン族のお母さんたち

講話をする保健所長
村には保健所のスタッフがすでにバイクで来ていて、村長や村の保健ボランティアとともに、母親たちを20人あまり集めて待っていてくれた。村の保育所には子供たちが一杯いる。簡素な木造の集会場にはモンの民族衣装に着飾ったお母さんたちが、連れてきた赤ちゃんにおっぱいを飲ませながら待っている。30半ばの男性の村のボランティアはベトナム語が上手だ。軍隊に徴兵されてうまくなるらしい。こちらも30半ばの若いベトナム人の保健所長がベトナム語で予防接種の話をする。それを保健所のモン族のスタッフがモン語に通訳してお母さんたちに伝えている。さらに僕には保健省のスタッフが時折英語に訳してくれる。僕一人では本当に何も出来ず、なにもわからない。

保健所の所長の話はどうも紋切り口上で、共産党の集会のようだ。用意した原稿を読んでいる。「何か質問がない?」と訪ねてもお母さんたちの方も緊張して、はにかんでなかなか話さない。あるお母さんは「こんな話せる機会を年に一回やって欲しい」なんてこれも党集会のような答えをしている。「ワクチンは全部タダなんだよ。」と言うと、笑う。タダに反応している。「困っていることはないか?」と訊いても無言だ。これじゃ、まずい。郡の衛生部の所長が「村の女性たちが破傷風のワクチンを受けない理由は何ですか?」と訊くと、集会場の外で聞いていた若い父親が、「自分は接種に行けと言うんだけど、本人が恥かしがって、嫌がるんだ。」という。中のお母さんたちがざわざわする。 おお、これから面白くなるぞと思う。
「じゃ、嫌なの?コワイの? どうでもいいの? 保健所はどうしたらいいの?」、と僕が口を挟もうとしたら、お菓子が配られて、集会は終わってしまった。

はじめはこんなものかもしれない。ビデオや映像があったらもっとわかりやすかったと思うけど、それでもお母さんたちの反応は思ったよりよかった。まだまだ工夫は出来る。2ヵ月後にまた集会をやるのでまた来てみよう。

自信なさ気で緊張していた若い保健所長は、いい人だった。 村はずれまで歩きたいと言うと一緒に付いてきてくれた。彼は村をよく知っている。自分で何度も村に来て、時には泊り込んでいるという。途中、若い夫婦に出会ったのでワクチンを受けたか訊くと知らないと言う。やっぱり村の人でもワクチンを知らない人はいる。
「ワクチンだけでなく保健所の仕事を村の人に知ってもらいたいんだ。保健所が村の人にとって必要とされるようになって欲しい。」と話すと彼も目を輝かせてうなずいた。

集会が終わると、例によって村長の家で酒盛りである。それが終わって昼過ぎに隣村までまた車で稜線を走った。酒の酔いと崖を走る緊張と車の揺れのせいで珍しく僕は車酔いをしてしまった。 ううう、気持ち悪い。でも、2ヵ月後の集会には必ずまたこの村に戻ってこよう。

意見を言うモン族のお母さん

猫りんご酒の味、夜空の下の連れション

夜、町に戻って県や郡のスタッフと再び酒盛り。タオメオ(猫りんご酒)と名前の書かれた琥珀色の焼酎が出てきた。山りんごから作る地酒だ。これがほんのり甘くて美味である。すっかり顔見知りになったスタッフたちとついつい深酒をしてしまう。山で取れたたけのこや、山菜を食べながら、「トーダ、村に泊めてやれなくて、すまんなあ。わかってくれよ。」と言われると、やりたくても、したくても出来ないことが一杯あって、その中でがんばっているスタッフたちがなんとも愛しくなる。
モン族の山の子供たち
食事が終わると外の野原に椅子を並べて営業しているカラオケ屋に移動。アイスコーヒーを片手にひまわりの種を黙々と食べる。酔っ払っているので、ひまわりの香ばしい種の殻を歯で割って食べる繰り返しの動作が妙に楽しくてたまらない。 空を見るとぼんやりとした夜空にオレンジ色の三日月が山の間に見える。なんだか気持ちがいい。すると隣にいた県のスタッフが僕の手をぎゅっと引っ張る。されるままに、どうするのかなと思うと、草むらの暗がりに連れて行く。なんだろうなあ、思っていると、一緒に連れションをしようと言う。
「いいよなあ、こういうのって。」僕は夜空を見上げながら思う。 
「ここでは床を拭く必要もないしな。」
「ああ、そうかトイレの花男さん、もしかするとこの辺の出身かもしれないなあ。」

僕は山間の町のぼんやりと光るオレンジ色の三日月の下で、とても自由で、とても幸せな気持ちに包まれていました。 ありがとう。

村長たちとの酒盛り

村で出会ったワクチンを知らない若い夫婦


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次