んだんだ劇場2013年9月号 vol.176
遠田耕平

No138 わからないこと


血縁 忘れかけていた過去


こんな歳になっても情けないことに、僕にはまだわからないことがたくさんある。 極端に言うと、僕の頭の中は、わかることの棚とわからないことの棚の二つの棚しかない感じでもある。そしてこのわからない方の棚が脳みその空間の大部分を占めている。 

わからないこと、自分のこと、生きていること、死んでいくこと、死んでからのこと、お金持ち、貧乏、幸せのこと、世の中のこと、社会のこと、国のこと、時間のこと、宇宙のこと、愛すること、憎むこと、殺すこと、生かすこと、生きること、そしてやっぱり自分のこと。

中でも親と子のことはわからない。その大きな理由は僕に父親の記憶があまりない、というか、忌まわしい感覚であることに起因している。僕が10歳のときに父親は外に女を作って家を出た。戦後まもなく女子にも入学を許された教育大学を出て、北海道でカトリックのミッションスクールの教師として働いていた母は、同僚の父と知り合った。一方、父は著名な明治の中国語学者を祖父に持ち、三井物産に厚遇された家でなんの不自由もなく育ったらしい。ただ、父には生来癲癇があり、時折発作で苦しめられていた。それでも父の筋金入りの上流社会的なテーブルマナーにうっとりした母は、すでに決まっていた婚約を破棄して父と結婚してしまった。なんともつまらない理由であるが、それでめでたく僕がいるわけである。とほほ。。。

母の父親つまり僕の祖父は、当時一般庶民にも広がり始めた自動車の修理工場と販売を北海道で広く手がけ、その才知で事業家として成功していた。母はその長女としてあまり不自由もなく育ったが、大学進学には随分反対されたらしい。それでも勝気な母は好きなことを押し通して、ついでに好きだと錯覚した男と一緒になった。しかし、二人の結婚生活ははじめから決して幸せなものじゃなかったようだ。どちらも苦労が少なかったせいなのか喧嘩が絶えなかった。子供の頃の僕のかすかな記憶は布団に入ってから聴こえてくる父の荒げた声と母の反論する声で始まる。布団の中で眠れずに、神様に二人が仲直りしてくれるように祈り続けた。父方が長崎の代々のカトリックであったことから僕も幼児洗礼を受けて教会に行かされていた。なんでも困ったことは神様に祈りなさいといわれて育ったので、子供心に必死に祈った。そしてその子供の願いは叶わなかった。

父自身も長男であったが、祖父の明治の教育がそうだったのか、僕には厳しい長男教育をした。一つ年下の弟は目が大きく、利発で、可愛がられたが、僕はよく叩かれたり、つねられたり、雪の降る寒空を外に立たされたりした。優しくされた記憶があまりない。されたときもあったんだろうが、覚えていない。

父は仕事が長続きせず、祖父の自動車工場を手伝ったり、臨時教師を転々としたり、そのうち、教え子を巻き込む自動車事故を起こし、学校を辞め、僕が7歳のときに家族で東京の父方の祖父のところに出てきて同居することになった。戦前、ロンドンのハイスクールを出て、三井物産のインドや上海の海外支店で働いていた祖父の影響で英語が得意な父は相変わらず臨時教師をやる。大学では神学の勉強もしていたらしい。棚にあった「形而上学的愛の本質」とか題された本を意味不明のまま手にとって怒られた覚えがある。

僕は東京の小学校がなんだか明るくてすぐに好きになった。従兄弟が近くにたくさんいて楽しかった。田舎にいた絶大で暴力的なガキ大将はいなくて(我が長屋の隣に住んでいた。押入れの奥の板の隙間から隣の茶の間がよく見えた。)、適度にいい感じのお兄さんやお姉さんが近所にいた。厳格な祖父は母がお気に入りの嫁だったようで、母には優しかった。でも、父と母の言い争いは止まらなかった。そうしているうちに、祖父が他界し、それから父はたがが外れるようにはっきりとおかしくなったと母は後に話した。

僕が10歳のある朝、父は家からいなくなっていた。そのままいなくなってくれていたらどれほどよかったかと、後に何度も思ったが、父は毎晩のように母と口論するために家を訪れた。離婚するとかしないとか、子供は自分のものだとか違うとか。父の怒声と母の悲鳴。僕はその声に怯え、毎晩二人の弟たちの寝顔を見てはどう守ろうかと思案した。最後は北海道の祖父がいると思ってはいたが、児童施設にはいるかもしれないとも思った。兄弟別々の施設に入れられたらどうしよう、なんて一人悩んだ。そんな頃、朝起きて学校に行こうとすると、頭痛と吐き気でいけなくなった。登校拒否というやつだ。学校の担任の女性教師はそんな僕をずる休みをしているとみんなの前で吊るし上げた。僕は作文の時間に、みんなで学校に行かなければ授業もできなくなると書いた。それで切れた教師は親を呼び出した。その時だけは、皮肉なことに父と母は同じ教師としてとても恥ずかいという気持ちを共有したようだ。僕が世の中からずれているのはどうやらこの頃から始まっているらしい。

夏のある日、父は突然母のいない時に家に来た。伊豆に連れて行ってやるといって、まるでさらうように僕とすぐ下の弟を車に乗せて伊豆まで行った。 僕は抵抗できなかった自分が嫌だった。だからきっと嫌な顔をしていた。弟のことも気になった。海辺の民宿の部屋に入ると、浴衣を着崩した女が奥の部屋から出てきた。父はニヤニヤしながら僕らにその女を
「ママと呼んでごらん。」
といった。僕は黙った。その女は
「いいのよ。無理して言わなくて。」
といった。多分。。。頭がくらくらした。子供の目からもその女が不思議とだらしなく見えた。それから海で泳がされたが、急に深みに連れて行かれて僕は慌てて水をガブガブ飲んで、溺れそうになった。父は腕をつかんで僕を引き上げると、バカにしたような薄笑いを浮かべた。冷たい顔だったのをなぜかはっきり覚えている。僕の水に対する恐怖はその時に形成された感じがする。僕の水泳オタクはその裏返しかもしれない。伊豆にはそれから一度も行っていない、今回いくまでは。

父と母の離婚が成立したのは僕が中学に入る頃だ。父はその女と美容院を始めて、多額の借金をしていた。母方の祖父が抵当に入っている家、電話など全ての支払いをし、養育費も教育費も放棄するということでやっと離婚が成立した。それまで僕は何度か家庭裁判所に呼び出されて、どちらの親を選ぶか質問されたが、選択の余地などなかった。もう父の影に怯えなくていいという解放されたような安堵感が一番嬉しかった。一方で、母子家庭の長男としてがんばらなくてはという重い責任感が複雑に絡んだ。そのせいで生来ひょうきんでのんびりの長男は苦手な勉強をする羽目になった。思えば、僕の勉強はただ、母親と弟たちに明るい知らせを届けたいという想いだけだったような気さえする。勉強は今でも苦手だ。

そのあとも父は何度か僕と二人の弟を学校帰りに待ち伏せたり、家裁の仲裁で食事を一回したが、僕が高校のある時期から一切現れなくなった。高校の運動会のときだったと思う。校内放送で
「トーダさん、お父さんが受け付けで待っています。」
と放送された。背筋が冷たくなった。行くと、
「健康食品が好きになって自分で弁当を作ってきたから食べろ。」
といった。僕は黙って受け取ったが、どうしていいかわからなくなり、トイレに入って鍵を閉めて人知れず泣いた。何で涙が出るのかわからなかった。でも、どんどん出てきて、嗚咽になった。弁当を父の顔に投げつけてやりたかったのに出来なかった自分が情けなかったのかもしれない。あの男の血が自分の中に脈々と流れているのがやるせなかったのかもしれない。弁当をそのまま受付において、運動会にも戻れず、屋上で日が暮れるまで一人でいた。それが最後に父を見た記憶だ。後で知ったのだが、その頃、20歳年下の以前の教え子という女性と再婚したらしい。最後の連絡は、僕が大学にいるときに兄弟3人に会いたいと手紙が来た。僕は母に内緒で弟たちと相談し、断りの手紙を書いた。母は死ぬまで父を憎んでいたし、たとえ僕らが返事をするといっても許さなかっただろう。僕らの体の中に母の憎む父の血が脈々と流れているにしても。。


父が家を出て50年近く、父のことは長く忘れていた。それでよかった。それを最近になって86歳になる大学の病理学の恩師のS先生に
「安否くらいは知っておけ。後で後悔するぞ。」
と諭された。僕はS先生をどこかで理想の父親像とうっかり重ねてしまったところがあって、S先生からこういうことを言われるとどうも弱い。年齢も父と同じだった。信じられないくらいにお元気である。S先生は僕が父の話に弱いということを知っていて話す。仕方ない、戸籍を辿ってみようと決めた。

戸籍を辿ってみると意外にも大変だった。目黒にあると思っていたものは世田谷にあり、さらに藤沢にまで転籍していた。藤沢にたどり着くと、10年余り前にさらに伊東に転籍になっているとわかった。 もっと早くケリが着くと思っていたがもつれた。結局、伊東まで行くことにした。東海道線を乗り継いで伊東の手前で降りた。東海道線に乗りながら僕はずっと考えていた。
「僕はいったい何をしているんだ?何をしようというんだ?まだ死んだとわからないのか?いや、いっそ死んでくれていたらいいのに。ええ、じゃ、僕は今父が死んでいてくれと願って電車に乗っているのか。いくらなんでも、ひどいじゃないか。本当に僕はひどい奴だ。じゃ、いったいなんでここまで来るんだよ、お前はアホか。」と

真昼の炎天下、人影少ない静かな駅に降りた。見上げると青い空にはまだ大きな夏の雲が浮かんでいる。海岸は駅前のゆるい坂を下るとすぐそこで、こちらは夏が終わって人影もない。歩いて市役所の出先に行って戸籍を出してもらった。生きていた。僕の心は整理がつかないままそこで宙ぶらりんになった。 
「その住所まで歩いていけますか?」
と対応してくれた男性に訊くと
「とんでもない。これ山の上の別荘ですね。歩けば何時間もかかりますよ」という。
「別荘?」、なんだかなんともいえない違和感が耳に残った。 駅まで戻って、そばのタクシー会社で待機しているタクシーに頼んで走り始めた。細く曲がりくねった急な山道を登った。途中雑木林や孟宗竹の林が視界を遮る。別な別荘地に別れる道がいくつかある。運転手さんの話ではバブルのときに開発されたらしい。その後、買い手も少なく、町も寂れていったという。「以前は不動産関係をやっていましたが、自分ならここは買いませんね。」とその感じのいい運転手がさらりと言った。

家は山の上に近い急な斜面の別荘地の一角にあった。簡素な二階建てだが、南に開けた斜面にテラスがせり出ていて、遠くに海が望めるようだ。表札がない。管理人と書かれたプレハブにちょうど人がいたので、訊くとその家だという。 
「遠い親戚なんだけど、住人は元気ですか?」
と思いつきで言ってみた。
「本人も奥さんも元気ですよ。」
という。犬もいるという。そうだ、確か犬が好きだったな。僕が犬をとても好きな理由は子供の頃の寂しさが絡んでいる気がするのだが、あの人は違うだろう。そこまで聞いて、タクシーに乗り、再び今来た曲がりくねった山道を海岸に向かった。今、もし目の前に父が出てきたら、僕は何を言いだすか、何をするか自分でもわからないと感じた。 

海岸のそばまできて、親切な運転手さんにお礼を言って降りた。人影のない海岸の向こうに青い空と白い雲が広がる。なんとも苦い想いが体の中に充満する。振り返ると山は海にすぐ迫っていて、そのずっと上の方にあの家はあるんだろう。心の中は空や海の青とも雲の白とも混ざらない得体の知れない灰色の濁った渦がゴーッと音を立てて渦巻いている感じだ。父が生きていたとわかっても少しも嬉しくない自分がいる。自分はこういう人間なんだ、きっと。母は苦労して一人で3人の子供を育て上げて、やっと少し楽になった頃に突然にフッと消えるように死んだ。その母が不憫に思えた。初めて本当に心から不憫に思えた。父が家を出て50年経って、もう何の想いも立ち上がらないはずだったのに、心は激しく揺れた。来るんじゃなかった。見るんじゃなかった。ああ、不謹慎だが、いっそ津波でもきて全部消えてしまえばいいと思った。ううう、でも、あの高台の家は消えないだろうな。高いもんな。 

僕はこんなふうに思ってしまう自分がアホだと思う。いったいこの心の闇は何なんだ。人は過ちを犯す。僕だって過ちの連続のようなもんだろ。許せないはずはないだろ。人は勝手にそれぞれみんな幸せになればいいんだよ。なのに、僕の中にはどうしても許せないものがある。それがあの父だから。そういえば僕も父親だったな。アホだな、僕は。
陽光の翳り始めた海に迫る山をもう一度仰いで、僕はつぶやいた。
「もうここには来ない。さあ帰ろう。僕の今の世界に。」


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次