4月24日
朝秋田を出発。天気は曇りだが秋田自動車道、東北自動車道とも車は順調に走り、お昼少し前に仙台の手前にある長者原サービスエリアで昼食。仙台名物の牛舌定食を食べる。付いてきた麦とろろ飯がとてもおいしい。仙台ではヨドバシカメラに寄り、取材用のポジフィルムをまとめ買い。その後ひたすら東北自動車道を走り、埼玉県の川口で東京外環状線に乗り換え、首都高速、湾岸自動車道、東金道路、九十九里自動車道と乗り継ぎ、今回の本のライターである加藤貞仁さんの住む千葉県大原町に夜の八時過ぎに着く。秋田からは730kmの距離。お風呂をもらい、ビールで乾杯。テーブルには房総の魚や、私が秋田から持参した比内地鶏などの料理が並ぶ。杯を片手に取材の打合せが進む。
4月25日
加藤さんの家でおいしい朝食をいただき、車に取材用の資料等を積みこむ。私の持ってきた3個のカメラバッグ、照明機材などもありワゴン車は満杯状態となる。朝八時出発。あいにく小雨が降っているが、予定どおり千葉県の木更津で東京湾アクアラインに乗る。東京湾の真ん中に建設された海ホタルというサービスステーションに立ち寄るが、雨のため周囲はほとんど見渡せない。その後神奈川県で東名自動車道に乗り、ひたすら大阪を目指して走る。途中静岡県のサービスエリアで昼食を取ったあたりから雨が上がり、高速道も走りやすくなる。夕方大阪に到着し、無事ホテルに入る。ホテルは明日からの取材の便を考え中之島のホテル。この日の夜は二人は別行動にし、私は大阪の親戚に顔を出しに行き、加藤さんは歩いて明日の取材先の下見。
4月26日
朝七時に歩いて二人で近所のを取材。堂島の米会所跡、淀屋の屋敷跡、など五ヶ所ほど撮影しホテルに戻り朝食。今日明日と連泊なので部屋の荷物はそのままに車で大阪市内取材。3ヶ所の藩屋敷跡を回り、川村瑞賢の石碑、大阪港発祥に地碑、天宝山公園、住友銅吹所跡、住吉大社などを回る。一日で16ヶ所の取材ができ、一日目は極めて順調に終了した。夜は大阪の出版社創元社の矢部社長さん、清文堂出版の前田会長さんとお酒を飲みに行く。前々から約束していたもので「北前船を語る夕べ」と称し、四人で楽しい時を過ごす。前田会長さんは北前船に造詣が深く、歴史の本をかなりの数出版なさっているかたなので、とても参考になる大阪の話を聞くことが出来た。その後、ホテルのバーに誘っていただき、美味しいウィスキーをご馳走になった。
4月27日
朝七時半出発。早速、大阪市内の昆布店の取材に黒門市場へ。昆布は北前船で北海道から大阪や西日本へ運ばれた重要商品のひとつ。行ってみると意外に昆布の店は少なく鰹節も扱う乾物屋が二軒だけ。専門店でないためもう一つ雰囲気が盛りあがらない。市場内の酒屋さんに近くで昆布の専門店が無いか訪ね木津市場を紹介してもらう。
歩いていて揚げたての鯨カツを1個150円で売っていた。鯨の肉は柔らかく、ちょうど良い塩味が利いている。市場には新鮮なアナゴ、シャコ、オコゼ、こちらではおでんに入れる鯨のコロなどが並んでいる。木津市場は朝の忙しさが終わって静か。昆布専門店も見つかり撮影はうまく行く。
大阪の取材を終了。高速道路で神戸に向かう。車の流れはスムーズ。大阪から神戸の間は立錐の余地がないほどマンションなどのビルが建ち並ぶ。これらのビル群が阪神神戸大震災で壊滅的な被害を受けたことを考え、身震いしながら車を走らせる。
神戸着。神戸市立博物館前に残る明治初期のガス灯の写真撮影。隣に建つ十五番館、メリケン波止場と共に、北前船とは直接関係ないが、神戸港の近代化の史跡として撮影。公園では老夫婦がスケッチブックを手にメリケン波止場の絵を描いていて、港の昔話を聴かせてもらう。
昼食後、神戸市立海洋博物館では北前船の模型を始め、かつて北前船が航海に使用した貴重な道具類の撮影。その後、兵庫区にある四宮神社へ。北前船の船頭などが航海の安全を祈った神社で、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』で有名になった高田屋嘉兵衛が、自分の持ち船を建造した際その模型を奉納した神社でもある。四宮神社の神主さんから古い時代の周辺の様子をうかがい高田屋嘉兵衛の碑や、嘉兵衛が寄進した常夜灯、かつて廻船問屋があったところ、神戸一の豪商、北風の碑などの撮影をする。
あっという間に夕方、神戸元町駅前にあるホテルに向かう。ホテルに届いていた会社からの連絡を処理、加藤さんと食事に出る。時刻はすでに八時を回っていて、ホテルの近くにある南京街に行ってみたが、店頭に出されている料理見本と値段を見るが高くて入る気にならない。ホテルのすぐ裏に倉庫をそのまま店にしたようなホルモン焼き屋があり、順番待ちの客たちが十人ほど歩道に並んでいて、思わず順番待ちの列に着き、ホルモンセットBを注文する。すぐに真っ赤に炭がおきた七輪と十種類ほどのどの部分なのか分らない肉が目の前に置かれる。客の半分ぐらいはOLらしい女性たちで、きれいな洋服が焼肉の煙と匂いに包まれるのも気にしないでジョッキを傾けている光景は関西ならでは。
4月28日
ホテルで朝食、すぐ出発。朝からとてもよい天気。前日撮影したメリケン波止場を対岸から撮影するため神戸港へ。そのまま淡路島に向かう。世界最長の明石海峡大橋で明石海峡をひとまたぎにし淡路島に。ゴールデン・ウィーク初日なので淡路サービスエリアは駐車場が満車に近い状態。軽いものでもつまもうかと探すが食べたいものはない。暑い。高速道路を下り、大阪湾を挟み関西空港の対岸にある津名町の「おのころ愛ランド公園」という遊園地へ。なぜ北前船の取材で遊園地かというと、ここに高田屋嘉兵衛が最初に建造した千石船、北辰丸の原寸大の船が展示されているためだ。この船は十三年前に、瀬戸内から日本海を北上し北海道まで、かつての北前船の寄港地を訪門し話題を呼んだ。いまでは遊園地に置かれ子供達の遊び場になっているが、原寸大の千石船を目の前にし、その大きさにちょっと驚いた。
淡路島を東から西に横断し一宮町江井港へ向かう。移動中に岡山の吉備人出版の金沢さんから携帯電話に連絡が入り、翌日岡山で会う打合せをする。三十分ほどで江井に到着。ここはかつて日本一の線香生産地であり、瀬戸内海運の重要な港でもあった。いまは静かな漁港でしかないが、町を歩くと今でも線香を生産している小規模な工場が数件あり、線香の匂いが漂っている。
次に隣町の五色町都志へ行く。ここは高田屋嘉兵衛の生まれ故郷。港の前の食堂で昼食に塩さば定食を注文する。とてもおいしい。
昼食後、町を見下ろす高台にある高田屋嘉兵衛翁記念公園へ。嘉兵衛とロシアのゴローニンの像、記念館では北前船の模型、舟箪笥などを撮影後、すぐ近くにある嘉兵衛の墓へ行く。予想に反して墓石はとても小さい。隣に弟、金兵衛の墓が並んでいる。同じ地区にあるもうひとつの高田屋嘉兵衛記念館も訪ね、嘉兵衛の遺品を数点撮影。ボランティアのおじさんが説明してくれる。
これで淡路島の取材を終え、また明石海峡大橋で海をまたぎ赤穂市坂越港へ向かう。夕方の到着で暗くなってしまいそうなので撮影できるかどうか不安。道路はあまり混んでなく高速道路を乗り継ぎ一時間ちょっとで着く。どうにか撮影できる光量がありすぐ撮影。私とは別に加藤さんは取材に走る。国の伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建とする)に指定されている町並みをまず撮影。石畳の道がとても美しい。その後、大避神社、浦会所跡、最後に北前船の乗組員で、この港で客死した人々の墓が建ち並ぶ黒崎墓所を撮影。中には秋田の人の墓もあった。もう少し撮影したかったが暗くなり中止。少し暗いのでうまく撮れているか不安。
車の中が雑然としてきたのでホテルの駐車場で整理する。撮影機材だけで車のスペースの半分以上を占めているため整理が大変だ。夜の九時近くになっていて早く食事したいが、ホテルが郊外で適当なところがない。しかたなく「レストランつぼ八」に。家族連れが多く満員で少し待たされるがどうにか着席。賑やかな店内では耳慣れないこの地方の方言が飛び交っている。食事とも酒の肴ともつかないメニューから数点選びビールを飲んで、ホテルに戻り寝る。
4月29日
朝五時に起き、会社に送らなければならない校正などの作業。日中は移動と取材で手一杯なので、どうしても作業は夜か早朝になる。会社では倉庫の建替中で大変のようだ。
朝食をホテルで七時にとり、すぐ昨日行った坂越港に向かう。暗くて撮れなかった大避神社に船絵馬を撮影に行く。神主さんの説明ではそのうちの一枚は、現在確認されている日本で二番目に古いものという。他にも貴重な絵馬がたくさんある。事前の調査ではそのような情報を得ていなかったので「現地に来なければ分らないものだなあ」と二人で話す。念のため暗くて不安だったところを再撮影。赤穂の中心部に戻り、赤穂塩田公園に行く。赤穂は江戸時代以前から塩田での製塩が盛んで、その塩が大阪、江戸などに大量に船で運ばれた。次に赤穂市立博物館へ行き北前船の二分一サイズの模型、塩田作業道具などを撮影。他に元専売公社の建物を資料館にしたところや、近くの赤穂城に立ち寄る。赤穂城前のみやげ物屋の店頭でアナゴの串焼きを食べ、塩饅頭をつまみ、おみやげに赤穂の塩を買う。ようやく赤穂の取材を終え次に向かう。途中の日成という港町で昼食。名物アナゴ丼を食べる。アナゴはおいしいのだがご飯が少なく不満。近くのコンビニにお茶を買いに入り、全国のスピード違反取締り地点を詳しく書いた本を見つけ買う。今回の取材ではおよそ1万キロの走行距離になる予定なので、これが役立ってくれれば。雨が降り出す。邑久町の尻見八幡神社に寄り江戸時代の秋田の絵師、田代忠国が描いたという絵馬が残されているので撮影。中国の物語を題材にした秋田蘭画で畳1枚ぐらいの大作。神主さんは秋田からわざわざ訪ねてきた我々に感激したようで、照明機材を設置するなどの大掛りな撮影にも快く協力してくれた。以前、秋田大学の教授とテレビ局が取材に訪れたときの話しなどを教えてくれる。
今日最後の訪問地となる牛窓町へ。雨が激しくなってきて撮影が困難になってきたが、日程がぎゅうぎゅう詰なので強行。高さ五メートルほどもある木製の燈台となった常夜灯、朝鮮通信使が立ち寄ってた本蓮寺、牛窓の町並み、歴史資料館などを取材し、宿泊地となる岡山市に向かう。途中クロネコヤマトに寄り、それまで撮影したポジフィルム三十五本を秋田の現像所に直送、五日後の宿泊地となる山口市のホテル宛に送ってもらうよう連絡。
岡山市のホテルに六時到着。夜は吉備人出版の社長山川さんと金沢さん、それに岡山出身で現在秋田に赴任している共同通信の女性記者土井さんとお酒を飲むことになっている。山川さんの提案で岡山名物「祭寿し」のおいしい店に案内してもらう。他にママカリ、ナマコの内臓を塩辛にしたコノコなど岡山のおいしいものがたくさん。ママカリは、普通の店で売っている酸っぱいだけでうまくないもの、という先入観を見事に裏切る絶品。ママカリが苦手という地元の土井さんも、これはおいしいと驚いていた。祭寿しも具のアナゴ、エビ、貝など数え切れないほど入っていて、そのおいしさは格別。本作り、北前船の取材話、岡山の酒などの話題が次々と出て、いい岡山の思い出が出来た。
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4月30日
5時半起床。シャワーを浴び、7時に朝食を摂りホテル出発。岡山市の隣、玉野市日比港へ。かつての港の面影はまるでなく、小規模だが近代的な港に変貌している。地元の人に話を聞くと町並みには古い雰囲気が残っていて、以前遊郭だった家もあるという。教えられたあたりに向かうが古い港町特有の狭い道路のため歩いて撮影する。港と町並を一枚の写真にするため裏手の小山に登ると横山稲荷大明神の社がある。下りて山の名を聞くと「ああ、あれはウラ山だ」という返事に我々も「ハアー」と拍子抜け。
塩の大生産地だった倉敷市児島では、製塩業で大金持ちになった野崎家旧宅へ。予想をはるかに越えた大邸宅に唖然とする。保存状態も良く見学できるため次々と観光客が来る。酒田の本間家よりすごい屋敷だと言われていたそうだが、なるほどと実感する。
ここで時間が無い時にはとても便利な回転寿司に飛び込み急いで昼食にする。醤油がこちらで刺身によく使うたまり醤油だったため、苦手な我々は持参した醤油を使う。とても小さい地元の生ダコとシャコがおいしい。
瀬戸大橋の袂にある高さ113メートルの鷲羽山では狭い海峡と点在する島々、という典型的な瀬戸内海の風景を撮影後すぐ近くの下津井港へ。まず下津井神社へ行き女郎さん達が寄進したという玉垣を探すが見つけることが出来ず神社、常夜灯などの撮影をし、廻船問屋の建物を観光施設にしている、むかし下津井廻船問屋を訪ねる。建物の中はちょっとしたミニ北前船博物館になっていて、大きな蔵を改造したレストランなどもあり観光客も多い。親切な支配人さんの案内で港にあったという「まだかな橋」を見に行く。奇妙な名前の由来は船が港に入り、船乗り達が荷下ろしするのを
待ちかねた女郎さん達が「まだかな、まだかな」と呼んだことによるという。女郎屋が多かったというこの港らしい話だ。
下津井を後にし瀬戸大橋を渡って四国に向かう。あいにくの霧で展望が利かないのが残念だ。途中にある与島パーキングエリアでちょっと休憩し、そのまま高速道路を走り香川県琴平町の金毘羅神社へ。船の神様である金毘羅さんの門前には数え切れないほどみやげ物屋が建ち並び客引きが激しい。神社は785段の石段を登らなければならず運動不足の身としては気が重い。30分ほどかかりやっと到着。霧雨が降る夕方の境内は薄暗く三脚を立て撮影する。参道脇の店で名物の金毘羅うちわをお土産に一枚買う。
丸亀市のホテルは港近くにあり、周囲に食事できる店がないそうなのでスーパーで惣菜とビールを買う。車のワイパーが冬用のままで水切りが悪かったためカー用品店で交換してもらうと、店員が冬用のワイパーを始めて見たと珍しがられてしまった。
5月1日
瀬戸内海の塩飽諸島にある本島にフェリーで渡るため6時半にホテル出発。朝から天気は良い。乗船を待つ間コンビニ弁当で朝食を済ます。炊き立てご飯をつめてくれた塩サワラ焼き弁当がおいしい。フェリーは小さく、我々以外の車は丸亀市のゴミ収集車、バキュームカーが10台ほど載り満車。連休中のゴミなどの回収に追われているようだ。瀬戸大橋を右手に見ながら進み35分で本島到着。すぐ港の近くにある木烏神社に行く。鳥居脇でゴミ集収車が来るのを待っていた4人の老人と雑談。記念写真をとってくれと言われ撮影する。境内には千歳座という江戸時代からの古い芝居小屋が残っている。本島で一番の取材目的、塩飽勤番所跡では管理を任されている近所のおばあちゃんが親切に対応してくれる。番所内外を撮影し、国の伝統的建造物保存地区(伝建群)に指定されている笠島のマッチョ地区を訪ねる。マッチョとは町という意味。家々が昔の姿で保存されていて、所々に新しく建てられた家も同じ白壁、瓦屋根に統一されている。おばあちゃんがいたので撮影のモデルを頼むと快く協力してくれる。島の中心部にある遠見山から撮影しようと歩いて20分ほど登り頂上につくと汗だく。上半身裸になり満開のツツジに囲まれながら瀬戸内の風景や港、町並みを撮る。瀬戸大橋の真横からの全景が見え素晴らしい。
本島の取材を終え、港でフェリーのチケットを買う。チケットは70歳ぐらいのおばあちゃんが販売していて、決まりの車検証を提示するがチラッとしか見ないので、ばあちゃんちゃんと見なくてもいいのか、と聞くと「見た」の一言だけ。ほとんど地元の人しか乗らないためそんな習慣のようだ。フェリーを待つ間食堂で昼食。私はサバ味噌煮定食、加藤さんはかやくうどん。サバは大きいのが3切れも付いていて1切れ加藤さんに分ける。
丸亀港に戻り港で銅製の巨大な常夜灯を撮影。隣町の多度津町立博物館に向い、日本で3番目に古いといわれる和船模型の撮影をする。模型はガラスケースに収められていて、反射がひどいのでカーテンを引き、館内証明を消しアンブレラを立てた本格的な撮影となる。これで四国の撮影を終え次の取材地倉敷市へ。
倉敷市の西に位置する玉島は、高梁川河口周辺で天然の川と人口の運河が何本も絡み合うように流れる所で、さながら水の町の感がある美しい所。玉島歴史民俗海洋資料館を先に訪ね、加藤さんが取材をしている間私は一人で歩いて撮影に回る。ここも国の伝建群に指定されている所だが、維持管理が悪く保存状態はあまりよくない。暗くなってきたため明朝再訪することにし宿泊先の倉敷アイビースクエアに向かう。このホテルは紡績工場をホテルに改造したもので、ツタの絡まる赤レンガのホテルは女性に人気らしい。部屋には風呂がついておらず大浴場を利用するようになっている。久しぶりの大きな浴槽で私は気分が良かったが、毎日ホテルの風呂で洗濯をする習慣の加藤さんは不満のようだ。
たまには居酒屋で地物の魚料理を食べようと、倉敷駅前の飲屋が並ぶ小路で「ままかり屋」という店に入る。気さくなおばちゃんの店でカウンターには大皿に手料理が並ぶ。児島シャコというヤドカリのから揚げ、水島タコ、メバルの煮付け、ママカリと続くおいしさを口に運ぶ。久々にきりっとした地酒もあり満ち足りた倉敷の夜となった。
5月2日
朝から雨。6時半にホテルを出発。倉敷の風景が雨に霞み美しいが撮影には最悪の天気だ。昨夕の玉島に向かう途中、時間節約のためコンビニの弁当を買う。玉島についても雨はやまず撮影を強行する。早々と玉島を後にし雨の中、広島県福山市鞆の浦へ行くが雨脚は衰えない。雨具を着、カメラには防水カバーを装着し、傘を差しながらの撮影となる。神社や船着場、雨に煙る港など撮影し、「保命酒」という何百年も続く造り酒屋を訪ねる。玄関の土間には天井に届きそうな木製の大看板や、巨大な古備前の大甕が2個並んでいる。ご主人といろいろ話を交わし、加藤さんはタヌキの入れ物に入った保命酒を買う。息子さん達は鞆の浦を世界遺産に登録する運動をすすめているそうだ。
次の目的地の尾道は1時間ほどの距離。腹がすいてきたが、尾道ラーメンを食べたいという二人の意見が一致して車を走らせる。坂が多く海と山に挟まれた尾道は、独特の雰囲気を持つ町だ。おいしいと教えられた尾道ラーメンの店に2軒行ってみるが道路までの行列。並んでまで食べたいと思わないし時間も無いので、その辺のラーメン店に適当に入る。私はきつね中華、加藤さんは天ぷら中華を頼む。最初は美味しかったがだんだん油揚げの味が染み出してきて、途中からラーメンとも日本そばともいえない代物になってしまった。近くの干物屋で魚の干物を買いながらその話をす
ると、店の女主人に笑われた。「あの店はラーメン、日本そば、うどんと同じ麺つゆで商売しているので有名な店なのよ」。
尾道では奇妙なラーメンで面食らってしまったが、住吉神社、古い港の岸壁など撮影し次の取材地、竹原市忠海港に向かうが途中あまりに眠く、駐車場に入り15分ほど仮眠をする。忠海港は小さな小さな港で岸壁に明治20年に建てられた石碑が残るぐらい。沖には太平洋戦争中の毒ガス実験場として有名な大久野島が見える。
ようやく今日最後の取材地竹原港に到着。霧雨が降り薄暗い。竹原は大規模な塩田のあったところで、北前船で日本海側北部に運ばれた塩は、ここ竹原より西の地域から運ばれたもの。この町も国の伝建群に指定されている。石畳が敷き詰められた町並みは保存状態、保存への住民の取り組み姿勢とも一級のレベルで、撮影ポイントの連続だが天気の悪さが恨めしい。翌日より年に一度の竹原祭りが始まるというので、皆その準備に忙しそう。
取材を終え宿泊地の広島市に向かう。途中腹がすいてどうしようもないので山陽自動車道のサービスエリアで夕食。私はタコの天ぷらのタコ天丼、加藤さんはご飯にお好み焼をあげた広島丼を食べる。どちらも美味しい。ホテルに入り2時間ほど仕事をした後、一人でホテル横の居酒屋に飲みに行く。おなかが一杯でつまみを食べる気がしないが、ひとつだけもらったカキの佃煮が美味しかった。
V
5月3日
うす曇の朝6時広島市のホテル出発。今日は芸予諸島のひとつ大崎下島にフェリーで渡った後、本土に戻り高速道路で山口県の室津町、光市まで行く強行軍となる予定。
広島市からは広島呉道路で呉市まで行き、上、下蒲刈島と橋で渡り田戸港から小型のフェリーで今日のメイン取材先となる大崎下島の御手洗港へ。ゴールデンウィークで里帰りする車が多い。朝食を探して港近くの小さな雑貨屋さんに行くと、親切にカップラーメンにお湯を入れてくれたので大助かり。「日持ちパン」という賞味期限が20日以上もあるという恐ろしいパンが売っていて、話の種にひとつ食べてみる。ここで店の常連のおばあちゃんと仲良くなり、一緒に記念撮影。お礼にと一本づつ魚肉ソーセージをもらってしまった。
フェリーはゆっくりと進み40分ほどかけて立花港に到着。そこからは車で御手洗港まで行く。御手洗は瀬戸内を通る北前船などにとって風待ち港として重要だった所で、瀬戸内有数の規模の遊郭街もあり栄えたという。平成3年の台風19号により港や海岸近くの家々が大きな被害を受けたがすっかり修復され、現在は国の伝建群に指定された美しい町並みとなっている。撮影を終了し我々を乗せたフェリーは美しい島々の間を縫うように進み大崎上島へ。フェリー乗り継ぎの時間に港の前の食堂で昼食にシタビラメ煮定食を注文。その絶妙な味付けに「ウーおいしい」と思わず声が出てしまう。
フェリーは昨日立ち寄った竹原港に着き、そのまま山陽自動車道を使い一挙に山口県柳井市に向かう。小腹が空き、途中の宮島SAで揚げたてのジャコ天とタコアシ天を食べる。
柳井市は商業町として大いに栄えたところであったが、北前船の寄港地ではない。国の伝建群に指定されている町内を歩いて一周し見物後、隣町の大畠町へ行き若き吉田松陰に多大な影響を与えた僧、月性の墓や塾を見学する。
今日最後の取材地山口県上関町には夕方到着。私の親戚がいるので顔を出す。半島の先端にあるこの町は室津、上関と二つの港を中心とし、同じ山口県の下関、中関と並ぶ長州藩の海の関所のあった所で北前舟の重要寄港地であった。親戚が案内のガイドを頼んでくれていたので、今日は下見だけにし宿泊先となる光市へ。ホテル近くの居酒屋「村さ来」で軽く一杯と入ったが焼き鳥が生焼けだったり、店員の態度がひどかったりと不愉快なためすぐ出る。部屋に戻り会社から送られてきた仕事をかたずけビールを飲み寝る。
5月4日
昨夜泊った所は小規模なホテルで連休中という理由で朝食の用意はなし。今朝も途中でのコンビニ弁当となる。一時間弱で昨日下見した上関町に着き、今日の町案内を引き受けてくれた安田さん、井上さんと合流。二人は「にんじゃ隊」という名の町案内ボランティアのメンバーという。とても歴史に詳しい二人の案内で、番所跡や船問屋など数々の北前船に関連する史跡を半日かけて回る。途中「鳩子てんぷら」という、できたて熱々のさつま揚げをご馳走になる。鳩子とは今から25年ぐらい前に放映された、NHKの朝の連続TVドラマ「鳩子の海」がこの町を舞台にしたゆえんと言う。
真っ青な青空と海に囲まれたこの町や港は、瀬戸内を代表する美しい景色と言われているが、最近、原発の誘致話が出ているらしく、所々に反対、賛成双方の看板が見られる。
予定以上の撮影・取材の成果を得、親切に案内してくれた二人と分かれ、朝きた道を戻り光市室津に向かう。「光ふるさと郷土館」には北前船専門の展示館もあり、さまざまな関係資料が展示されている。町並みも趣がありかつて栄えた町の様子がしのばれる。
山陽自動車道を使い最後の取材地となる防府市の三田尻塩田記念公園へ。入浜式塩田の様子を分かりやすくみせる工夫がされた施設だ。
これで今日の全ての取材を終え宿泊地となる山口市に入る。山口ではビジネスホテルが取れず、市内の湯田温泉にある料金の安い温泉ホテルを予約している。駐車場や入り口では丁寧な案内を受け、ボーイさんが荷物などを部屋まで運んでくれ、とてもビジネスホテル並みの料金とは思えないサービス。今晩は共同通信の学芸部記者だった松本さんが、4月から山口支局長となって赴任しているので一杯飲もうと約束している。
加藤さんとは別行動なので松本さんと二人で居酒屋に入る。ゴールデンウィーク中の温泉街にある居酒屋なのでものすごい込みよう。空いたカウンターに座り、松本さんにお土産にしようと、クーラーで冷やしながら運んできた秋田の酒「刈穂」を手渡す。大阪、岡山などお世話になる人にお土産にしようと温度管理に気を使って運んできた酒もこれで終わり。連休で漁が休みらしいがアジ、ブリ、タチウオなどおいしい魚があり酒がすすむ。
5月5日
一日ぐらい魚のおいしい瀬戸内を回っているのだから、漁港市場の食堂で朝食を食べたい、という加藤さんの要望でホテルを早く出て中国自動車道で下関市へ急ぐ。しかし連休中で漁港は全面休業。時間も早すぎ一般の食堂も開いていない。仕方ないので下関駅で駅弁を買い、フク寿司弁当を食べる。
下関は北前船の寄港地というだけでなく本州の西端、大陸とも近いため古来より数々の歴史の舞台となってきた所。そのため今日の撮影・取材地には様々な歴史の舞台が見え隠れして楽しい。伊崎日和山という下関の港を一望し、また海の日和を観察した山の場所が確認できずしばらく海岸をうろうろしていたら日本海が見えた。取材を始めて今日で11日目、やっと日本海が見え少し感激してしまった。ようやく確認して登った日和山からは九州、関門海峡、日本海、下関港と一望のもとに見えすばらしい。
続いて長府市に行き下関市立長府博物館へ。長府の町は毛利の支藩・長府藩五万石の城下町として栄えた所。規模は小さいが城下町のたたずまいがよく残っている。博物館には思いがけず「大正の広重」などと言われている鳥瞰図絵師・吉田初三郎の描いた下関鳥瞰図の原画が展示されていた。5月5日なので博物館前の店で「ちまき」を食べる。
いよいよこれで瀬戸内側の取材を終え日本海側に向かう。町はずれでコインランドリーを見つけ、たまった洗濯物をクリーニング。スニーカー専用洗濯機もあったので、ついでにウォーキングシューズも洗ってしまう。洗いあがる間は近くの食堂でカツ丼を食べ待つ。
1時間ほど走り山口県豊浦町へ。今はヨットハーバーになっている室津港、豊北町特牛港と取材し、歓声したばかりの角島大橋で角島に渡る。夕闇迫るなか阿川港に寄り今日の予定を終え宿泊する萩市へ。
ホテルは団体の観光客でにぎやか。あまりの空腹にシャワーも浴びずホテル向いの居酒屋へ飛び込む。店の名は「ぼてこ」、この地方の方言で魚のカサゴのことらしい。子エビのから揚げ、メバルの煮付け、串しカツ、牛筋のやわらか煮など忘れられない味の連続だった。
5月6日
朝から何日ぶりかの晴天。朝7時に団体客に混じりホテルで朝食。急いでホテルを出て吉田松陰関係の史跡を撮影に。北前船とは関係ないが吉田松陰は無明舎の出版物によく登場し、その都度、萩市役所などから写真を借りなければならないため、この際自分で撮影してしまおうというもの。今回の取材では各地で出来るだけ、無明舎で今後必要になりそうな写真は北前船以外でも撮影している。松陰の墓、松陰神社、松下村塾ほか回る。
ここまで撮影したポジフィルム50本を秋田の現像所に送る。そのうちの2本が誤って水に浸かってしまったので心配だが、その旨メモし対処を依頼する。午前中に萩市内の北前船関係の撮影を終え山口県須佐町へ。午後から須佐町歴史民俗資料館へ行く約束のため須佐駅前の権兵衛という食堂で昼食。資料館へ行く前に日和山に登って撮影してしまおうと車で向かう。高山という名の日和山は標高が533メートルあり日和山としてはかなり高く、山頂からの展望は素晴らしい。
資料館には北前船資料以外に、かつてこの地方を治めた毛利藩家老・益田氏ゆかりの武具、什器、美術品が展示されている。質といい、保存状態の良さといい素晴らしい所蔵品だ。また、ここの特産品だった須佐唐津焼もあり、一見の価値ある資料館となっている。
取材後、海岸に一歩足を延ばしホルンフェルス断層という露出した大断層を見に行く。天然の良港だった田万川町江崎港を終え浜田市へ。これで山口県を終え島根県に入った。
浜田は松平氏六万石の城下町だった所で海岸の丘陵に城を築いている。今は石垣しか残されていないが、その苔に覆われた石垣は重みがありかつての松平氏の勢力をうかがわせる。城下の海岸には間宮林蔵により密貿易を暴かれ処刑された、会津屋八右衛門の碑があり撮影をしていると、その脇に釣り人が3人いて、我々の見ている前で50センチぐらいのスズキをあっという間に2匹釣った。
日が傾きこれで終了にする。今日の宿泊はここ浜田市のワシントンホテル。取材を終えた所が宿泊地だと移動が無く楽だ。夜はたまった仕事があるため、ホテル横の中華料理店でチャーハンにギョーザを食べホテルに戻り仕事に精を出す。
5月7日
朝5時半起床。昨夜の残った仕事をかたづけ7時にホテルで朝食。十勝産大豆使用という納豆がおいしい。昨日の続きを撮影のため浜田外浦の海岸へ行き、地元の漁師に教えられた日和山に登る。これで浜田市を終え次の温泉津町へ。
温泉の街として知られた温泉津町では役場隣のコミュニティーセンターに展示している北前船の模型を撮影し、今でも海岸に多数残っているという船を繋いだ鼻ぐり岩を探しに行く。温泉街周辺の撮影も必要なため駐車場に車を置き歩いて回る。赤茶色の石州瓦の屋根がつづく風景がとても美しく、また石州瓦を平板のタイル状に焼き上げ壁材にした蔵などもある。海に近い温泉街は古い町並みで独特の情緒をかもし出している。
これで一旦、海岸部の取材を終え、温泉津の港などから銀を積み出した石見銀山跡に行くため内陸部へ。途中、かつての銀山街道の撮影などしながら鉱山跡に向かう。代官所跡が現在は銀山資料館になっていて取材・撮影。さらに奥に残る銀山の坑道に行く。途中の町並みは古い住宅や蔵が残る国の伝建群指定の町並み。現在この旧銀山跡一帯はユネスコの世界遺産指定の候補となっているという。
内陸部の取材を終え、また海岸に戻り大田市五十猛漁港へ。小規模な港ながら古い石組みの防波堤が残っている。この港には新羅神社があり大陸との行き来が盛んであったことをうかがわせる。また、出雲伝説の地でもあり、漁師たちがまるで本当にあった話のように、この地で繰り広げられた神々の伝説を語ってくれた。
一時間ほどかけ今日の宿泊地の出雲市へ。加藤さんが撮影メモ代わりに使っているネガフィルムが切れたので、カメラのキタムラを見つけ安いフィルムをまとめて買い、近所のドラッグストアで薬などこまごまとしたものを買い入れる。
ホテルで会社や、秋田にいる高校生の娘から届いたメールに返事を出す。秋田を出て2週間、娘も少し淋しくなってきたのか毎日のようにメールが入るようになってきた。こまごまとした作業を終え、駅前の居酒屋に行きおいしい魚で軽く飲んで早めに寝る。
W
5月8日
ホテルで7時朝食。30分後出発。最初に隣町の大社町にある出雲大社に行く。まだ8時前と早いため人はほとんどおらず境内は森閑としている。あたりには薄く霧がかかり、厳かな神社の雰囲気を盛り上げている。出雲大社の持つ神秘性や、訪れる者を圧倒する迫力は国内に数々ある神社のなかでも別格。昨年発見され話題になった3本の組柱を見る。
出雲大社を後にして日御碕へ。出雲大社、日御碕と出雲神話の土地が続く。江戸時代の船乗り達は岬を神とあがめ、祈ったものだが、この岬も北前船の船頭達に畏れをいだかせた。岬には灯台自身の高さとしては日本一と言う美しい日御碕灯台が屹立している。岬のすぐ近くにある宇竜港へ。この小さな港の入り口付近がかつての宇竜浦。藩蔵や遊女の墓など撮影。港にはおいしそうなカレイの干物がたくさん下がっていた。
次の鷺浦は古い家並みが残る美しい港町。一軒一軒の玄関先にはかつての屋号を木札に書き貼っていて、漆喰の壁には鏝絵を見ることが出来る。鷺浦から戻る山道の道標には銅山の文字が刻まれ、かつて粗銅が鷺港から海路運び出されたことを教えてくれる。
大社町役場に寄り、古い港の写真を複写させてもらい、せっかく出雲そばの本場に来たので町内のおいしい店を紹介してもらう。今は廃線となったJR大社線の旧大社駅前にある「大梶」という蕎麦屋では、薬味が大げさでない素朴な出雲そばを食べさせてくれた。
松江市を出来たばかりの高速道路・山陰自動車道で一挙に越え、ヤスキハガネと「安来節」で有名な中海沿いの安来市へ。ここでは「出雲のたたら」の生産過程を見せてくれる和鋼博物館などを撮影し、今日の取材日程を終える。実は今日、昼あたりから二人ともどうしようもなく疲労を感じ始めていた。スタートしてから今日で15日目。1日も休まず早朝から取材に走り回り、疲労の蓄積がひどくなってきたのだ。そこで明日は初めて午前中を休みにすることにした。休みと決めると、嬉しさでまたそれなりに元気が出てくるもので、今夜は加藤さんの大学時代の友人で、地元新聞の論説委員をしている岡部さんとの飲み会に私も参加することにする。隠岐島出身の主人が経営すると言う料理屋さんに連れて行ってもらい、日本海の幸のフルコース。中でもヒメオウギガイというホタテ貝の刺身がおいしかった。久々に会った二人はこれから席を替え、とことん飲むと言うので私は遠慮して一人でワインを飲みに行く。
5月9日
久々のゆっくりした朝。一人で朝食を食べ、シャツをクリーニングに出し散歩へ。
書店に入り、家族へのお土産を買い、今や松江名物になった遊覧船、堀川めぐりの川舟に乗る。この船には去年の8月、友人と秋田から車で松江まで遊びに来て乗り、そのときの楽しさが忘れられずにいたもの。途中の川から見る松江の町や、松江城が素晴らしい。コースを半周して舟を下り、前から一度行きたかった小泉八雲の旧宅や武家屋敷を見学後、ふっと前を見ると加藤さんがうろうろしている。なんだ結局一緒になってしまったな、と笑ってしまう。残り半周の舟に乗り午後の予定、中国山地の山あいの村、吉田村に向かう。
吉田村菅谷はとんでもない山奥にある村で、「出雲たたら」の中心的な村だった所。数百年間、砂鉄から上質の鉄を作り出し、安来で鍛錬した後、船で越後の三条など鉄の加工地に運ばれた。吉田村菅谷には現在も明治時代に建築された「たたら場」が残され、国の重要文化財に指定されている。「たたら場」は本物のみが持つすごい存在感で、たいした予備知識を持たないで訪れた我々を圧倒した。ここは数年前の宮崎駿のアニメ「もののけ姫」のモデルになった所としても知られている。
少し離れた吉田村中心部には製鉄で財を築いた田部家の蔵群が残されているほか、鉄の歴史博物館がある。館長さんからまず昭和40年代に日本鉄鋼協会が記録に残すため、岩波映画に制作させた記録映画「和鋼風土記」を見せてもらう。日本最後の「たたら」の再現となったこの映像には「たたら」の一部始終が記録されている。映画を見て説明を聞き、ようやく「たたら」の何たるかを少しは理解し、館内の貴重な資料を撮影する。企画展として「土佐たたら展」を開催中で、そこで手ごろな大きさで使いやすそうな刺身包丁を買う。ここが第一回目の北前船取材中で一番印象の強い所となった。
夕方、松江市に戻りホテル近くの赤提灯で一杯やる。トビウオの刺身と地元の酒「叢雲」がおいしい。酒の子壜のラベルにはヘルンさん(小泉八雲)が描かれていたので、帰りに空き瓶をもらってきた。
5月10日
今日はいよいよ隠岐島に渡る日。フェリーは松江から車で40分ほどで行ける七類港から9時出港なのでホテルで朝食を食べる。快晴のなか七類港を出、2時間半で隠岐で一番大きな港、島後の西郷港に着く。前もって連絡していたので港には西郷町の教育委員会の方が待っていてくれ、ありがたいことに西郷町の史跡などをレクチャーしてくれる。
港前の隠岐自然館には今津白鳥神社所蔵の北前船の模型が展示されている。トイレに入ると壁のタイルが北前船の模様なのでこれも撮影。向いの食堂で「隠岐定食」と言うのを注文。いろいろな刺身と魚のフライ、ゆでた海草などいろいろ付いての800円は割安感。魚売り場ではドロエビがまだピンピンと跳ねるほど生きの良い状態で売っている。このエビは秋田ではガサエビ、北陸ではシロエビと呼んでいる10センチくらいの私の大好物。
車で10分ほど走り今津の白鳥神社、岸浜の厳島神社と回り絵馬などを撮影する。この今津は時ならぬ建築ラッシュで、30軒ぐらい家や小学校の新築工事が行われている。なんでも隠岐空港の滑走路延長で移転を余儀なくされてのことと言う。
次に代々、隠岐国造(くにのみやつこ)を務めた隠岐家と、隣り合う玉若酢命神社へ。隠岐家には日本でただひとつの駅鈴が残されている。この駅鈴、昔の官製20円はがきの絵柄にも使われたもので、隠岐家48代目という御当主が案内してくれる。
隣の五箇村では、水若酢神社と隠岐郷土館の撮影。この神社は隠岐国一宮なのだが、残念ながら修復工事中。隠岐郷土館は明治時代に建てられた群役所を移築したもので、島根県最古の疑洋風木造建築。外の収蔵庫には北前船の碇が4個置かれていた。
西郷港近くに戻り、180段ほどの石段をフーフー言いながら登り地蔵院へ。廻船問屋が寄進した鳥居や常夜灯、また街なかで明治維新時に起きた「隠岐騒動勃発地」の碑、北前船主だった池田家など撮影し今日の予定を終了すると、「福かっぱ明神」という祠を街角で目にした。石造りの河童は採れたてのキュウリを手にしている。通りがかったかわいい小学生の女の子たちがその河童にまつわる伝説を教えてくれた。我々が秋田から来たと言っても信用せず、車のナンバーを見てようやく納得。頼まれて記念撮影をする。
今日の泊りは港の近くのホテルしまじ。家族経営のこじんまりしたホテルで感じがよい。ここは今回の移動中はじめて朝夕の食事付きなので楽しみ。イカ鍋、天然物のカンパチやヒラメなどの刺身、バイ貝、タコのぬた、珍しい岩海苔の茶碗蒸、ヒラメのあんかけ、カンパチのアラ汁と並ぶ。量もそれほど多くなく、とてもおいしく食べることが出来た。
部屋でメールをチェックしたらつながらない。電波が弱いようだ。実はこれから後、4日間電波の弱い地域が続きメールが届かなくなってしまうのだ。
5月11日
あっさりした和朝食を食べ港に向かう。今日はフェ−リーを乗り継ぎ、西ノ島、中ノ島と渡る予定。西ノ島までは一時間20分の船旅。別府港に着きそのまますぐ焼火(たくひ)神社にむかう。この神社は標高452メートルの焼火山の中腹にある10世紀末創建とされる航海安全の神社で、島の間の海峡を通る船乗りは必ず手を合わせたものだそうだ。途中までは車で行けるが最後は歩きとなり、20分ぐらいの登りとなる。岩穴に組み込まれたように建てられた本殿は、隠岐最古の神社建築物という。境内からの眺めは素晴らしく、海を通る船が手にとるように良く見える。
山から下り船引運河や「井戸正明」の碑を撮影。井戸正明は享保の飢饉のとき私財を投げ出し領民を救い、さらに根本的な食料確保のため薩摩から種芋を取り寄せ栽培させ、「芋代官様」と呼ばれた人物。井戸は石見銀山がある大森の代官で、大森を中心に各地で敬われているものだが、はるか離れたこの隠岐にまでその影響を与えていたことに驚かされる。
越前からこの西ノ島に移り11代目になる安達家や、隠岐に流された後醍醐天皇在所跡と言われる黒木御所を撮影し、西ノ島を終える。フェリーを待つ間、港前の食堂でそばを大急ぎで食べるが、食い足りず太巻きを一本買いフェリーの中で食べる。
フェリーには車が2台しか乗船せず車庫はがらんとしている。15分ほどで中ノ島に到着。この島の北前船に関する事前情報が少なかったので、海士町の教育委員会に行き資料をもらいレクチャーを受ける。中ノ島には江戸時代に海運で一大財産を築いた村上家があるのでまず訪ねる。村上家は非公開の家なので取材できるか不安であったが、48代目になると言う現当主の村上さんは快く家に上げてくれ取材を受けてくれる。
もう一人の隠岐に流された天皇、後鳥羽上皇の在所跡や火葬塚などを撮影後、村上家の船着場があったという吉津と日ノ津の港跡に行く。さらに山を越え島の反対側にある崎の海士町崎文化センターで後鳥羽上皇の御座船の模型を撮影し、今日のホテル、マリンポート海士にチェックイン。海岸の岩場に建つ新しいホテルで、今回はじめての畳敷きの部屋で一人一部屋。大浴場の海に向いた大きなガラス窓からの景色が素晴らしい。ホテルは前日に引き続き朝夕食付きで一人8500円と安い。今夕は洋食タイプで海の幸のコース料理はなかなかのものだった。
5月12日
隠岐から鳥取県の境港へ行くフェリーの出港は十時半。ゆっくりと朝食を食べ港に向かう。フェリーを待っている間、港の売店で会社の人たちへのお土産に「“島じゃ常識”サザエカレー」というレトルトカレーを皆に買う。岸壁で釣りをしばらく見物するが釣れない。途中知夫里島に寄る境港まで3時間10分の船旅。早めの昼食にと船上でカレーを食べ、あとは着くまでひたすら眠る。目を覚ますと、もう島根県の美保関は目の前。その先には伯耆富士と呼ばれる標高1711メートルの大山の大きな姿が見える。この山は北前船の船乗りが航海の目印にした山だったもの。フェリーが地蔵岬を大きく回り境港に向かう途中、漁場に向かう20隻ほどのイカつり船とすれ違う。
インターネットで検索したとき、境港の「みなとさかい交流館」に北前船の模型があると表示されていたので訪ねるが、北前船ではなく海臨丸の模型であった。ほかに境港での取材予定は無いので、すぐに島根半島の先端、美保関に向かう。
民謡にも歌われている「関の五本松」、美保関港、港の常夜灯、美保関神社、廻船御用水、北前船で運ばれた青石畳の道など北前船関連の史跡は多い。ここで旅館経営をしながら北前船を使った町おこしをしている福間さんに会い、北前船資料館「浜廻屋」を案内してもらう。以前、遊女屋だった家にさまざまな資料を展示している。ほかにも個人で設営した「鷦鷯」(きさき)と言う資料館もあり、北前船との関わりが強い所。3日前に行った「出雲たたら」で生産された安来の鉄も、ここの港から大型船で送り出されたものだ。
今日の取材は少し早めに終了したので、米子の佐川急便に行き秋田の現像所にここ6日間で撮影したポジフィルム40本を送り、本屋に立ち寄り地元の本を買う。今日、宿泊する境港のホテルは町からかなり離れた所にあり周囲に店はないので、スーパーで弁当やビールのつまみも買い込む。
5月13日
朝一番にまっすぐ境湊の町に向かう。目的は「ゲゲゲの鬼太郎」を始めとした妖怪たちのブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」。水木しげるはここ境港の出身で、町のメインストリートに80体ほどの妖怪が並んでいる。中心となる妖怪神社前で記撮影をし、有名な境港の魚市場で朝食を食べよう、と意見が一致し市場に急ぐ。しかし忘れていたが今日は日曜日。この前の下関と同じで市場の食堂は休み。朝早すぎて観光市場も開いていない。空腹の腹を抱えて国道9号を鳥取方面に向け車を走らす。いつもであればコンビニ弁当で済ませるのだが、その気にならない。ようやく早朝から開いているこぎれいな食堂を見つけておいしい朝食にありつくことが出来た。
最初の目的地赤碕町に入り国道から海辺の道に入ると、海岸にそって夥しい数の墓地が並んでいて驚かされる。なんでも自然発生的な墓地としては西日本一の規模と言う。赤碕の菊港、隣町の東伯町八橋の古い酒蔵が並ぶ町並みと撮影、羽合町橋津では鳥取藩の藩倉や北前船の模型、堤防工事で変貌した橋津川筋などを写す。この川筋は高い所からしか写せないため、しょうがなく電柱に登りセミのようにしがみついて撮った。
これで鳥取県の取材は終了。島根県は7日もかかったのに鳥取県は1日で終わってしまう。北前船関係の場所や資料が無いためしょうがない。鳥取砂丘をちょっと覗いて、砂丘の前の食堂であまりうまく無いカツカレーを食べ、兵庫県に向かう。兵庫県浜坂町の諸寄港、同じく浜坂町の三尾港と日和山や港、常夜灯などを撮る。ものすごい急坂を海に落ちるようにして行った三尾港では、狭い港の岸壁にワカメを一面に干している。おばあちゃんからもらって食べてみたら塩味と、磯の風味がしておいしかった。
東洋一の高さの鉄橋と言われる有名なJRの余部鉄橋をくぐり、香澄町の岡見公園日和山、今子浦番所跡などの撮影をしているうちに夕闇に包まれ、今日一日の取材を終える。
浜坂町に戻り予約している「ペンションたじま」に到着。客は我々だけ。親父さん一人でやっているそうだが、テーブルに刺身、牛肉料理、鍋物と次々と並ぶ。料理は親父さんが作るのでとてもペンションとは思えない豪快料理。酒もうまいし、この宿をインターネットで見つけ、選んだのは正解だった。親父さんと魚の話大いに盛り上がる。
X
5月14日
ペンションの親父が早朝1時間ほど、義兄の漁船の荷卸を手伝うと言っていたので、浜坂漁港に行ってみる。親父の話によると、この港はホタルイカとハタハタの水揚量が日本一だと言う。私がハタハタだったら秋田の方が多いだろうと言うと、ここは東北のように漁獲制限をしないで1年中獲るので日本一だという。そんな連中がいるから資源が枯渇するのだと文句を言っても、制限が無いからかまわないんだと言う論理。確かにホタルイカは大量にあがっている。ほとんど富山に運ばれて富山湾のホタルイカに化けてしまうらしい。
港から戻った親父の作った朝食をかっ込み出発。最初に着いた兵庫県竹野町は、町を上げて北前船に取り組んでいる。なにせマンホールの図案まで北前船にしているぐらいだ。「北前の館」という観光施設の半分が北前船の資料館になっている。北前船の模型を始め、今回各地を取材したなかでも1,2の質と量の北前船資料を展示している。撮影の資料が多いので手間取る。古い港や町並みを撮り、鷹野神社に行き、北前船姿を板に真横から描いた、非常に珍しい「作り出し絵馬」の撮影をお願いに行くが、宮司さんが不在のため夜に再度訪ねることにする。
豊岡市瀬戸の日和山公園に行き、ホテル金波楼の庭に移設された方角石や、神社の前に奉納されている北前船の模型、さらに城崎温泉の日和山や、全国で唯一JRトンネルに日和山の名が付いている日和山トンネルなどに行く。城崎温泉は始めて行ったが、情緒のある落ち着いたたたずまいの温泉街だった。もう一歩足を延ばし京都府に入り、久美浜の蛭児神社の江戸、寛政期の北前船の模型や古い川港の情景を写し、岬の先の先にある旭港に行く。これで一区切りにし、昼に行った竹野町に戻り鷹野神社に再訪。宮司さんに快く許可をいただいたがガラスケースに入っているため、あの手この手と工夫しやっと撮影をした。結果がすこし心配になるが、秋田に戻って現像してみたら良く撮れていた。これで今回、第一回目の取材は全工程を終了。次回は6月中旬から梅雨を避けて青森、北海道を2週間かけて回る予定。3回目は7月中旬から今回の続きで、京都府宮津から若狭、能登、新潟、東北と回ることになる。
最後の宿泊地は兵庫県豊岡市。加藤さんと打ち上げをしたいところだが、どうしても今日中に片付けなければならない仕事が入り、ホテルで作業をする。11時に終え一人でホテル近くの居酒屋に飲みに行き、店の親父と取りとめのない話を交わす。仕事が終了した気軽さからか酒がうまい。
5月15日
今日はただひたすら車を走らせ戻るのみ。加藤さんの家は千葉の房総半島先端に近い大原町。そこまで送ってゆくのは大変なので千葉駅まで送ることにする。その後わたしは秋田に向かうか、東京に泊り友達と一晩酒を飲み翌日秋田まで行くのか、まだ決めていない。朝8時に豊岡市のホテル出発。とりあえず国道を走り、京都府福知山から舞鶴自動車道にのり、中国自動車道、名神、東名と高速道路を乗り継ぎ東京に向かう予定。豊岡市を出て間もなく出石(いずし)町を通る。昔の町並みが残る城下町で、去年の夏に遊びに来た。ここの名物は出石そば。一人前を5枚の小皿に盛り分けて食べるとてもおいしいそばで、二人前食べたことを思い出す。今日は朝早いため、そばを食べることは我慢するしかない。予定通り福知山市で舞鶴自動車道にのり、あとは高速道路を走るだけ。渋滞していないのでたちまち兵庫、大阪、京都、滋賀とノンストップで走る。車窓からの風景はあまり変化が無く退屈だ。関心はどうしても食べ物に行く。二人の意見は、お昼は名古屋周辺で味噌カツ丼を食べようということで一致。養老SAで首尾よく味噌カツ丼を食べることが出来た。なかなかおいしい。浜名湖SAで小休止し、会社へのお土産に安倍川餅を買う。天気も良く腹が満ちたら次に来るのは睡魔。PAで車を止め30分ほど仮眠し、また走り出す。加藤さんは目をさまさずそのまま神奈川県まで寝たまま。途中、太平洋と富士山がよく見え素晴らしい景色だった。
夕方、千葉の幕張駅前に加藤さんを下ろし、東京に泊ることを止め秋田に向かう。出発からここまで約900キロ。東北自動車道に入った辺りから運転がいやになってきた。宇都宮を過ぎたあたりでいいかげん疲れてきて、仙台に泊ることにする。最近良く泊るベルエア仙台というホテルに予約。ここはあまり大きくなく、快適な使いやすいホテルだ。仙台に9時到着。結局ここまで一人で1200キロ走ってきた。
シャワーを浴び、仙台でよく行く沖縄料理の店「ゆんたく」に飲みに行く。この店の経営者は松坂さんという沖縄の波照間島出身の女性で、とてもおいしい本格的な沖縄料理と、取って置きの泡盛をいつも出してくれる。河北新報の記者、古関一雄君を呼び、松坂さんと三人で飲む。早めに店を閉め、二人が長期取材の打ち上げとしてカワハギ料理専門の店「かつら」に行ってご馳走してくれる。心和む二人と、気の休まる店と、飛び切りおいしい魚料理と酒。ああ、東北に戻ってきたなあとしみじみ思う。
5月16日
ホテルで遅い朝食を食べる。一人でこんなにゆっくりとしたのは久しぶりで気持ち良い。仙台駅の東口にあるヨドバシカメラに、次の取材のために撮影資材を買いに行く。ポジフィルムなどの消耗品のほか、どうしても必要な望遠レンズ、背景の紙、フィルターなどを購入する。その後、ジュンク堂と丸善、紀伊国屋と書店に本を買いに行くが、いつのまにか無明舎の本の在庫チェックになってしまう。
簡単に昼食を済ませ、秋田に向かい午後4時頃に着く。今日は仕事を休ませてもらおうと考えていたが、秋田自動車道降りたら、いつもの感じでそのまま会社に行き、久しぶりの皆に会う。結局そのまま車の中のかたづけや、出張中にたまってしまっていた仕事の整理、連絡に追われ、家に戻ったのは普段どおり夜の8時頃になっていた。
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さあ、二次取材に出発だ!
4月26日の大阪取材を皮切りに始めた第一回目の取材は瀬戸内側で6府県、日本海側4府県行い、5月14日京都府久美浜町で終えた。第二回目の取材は6月15日に秋田を出発し青森県と北海道の南半分を回る予定。行程は15日間となる。この時期、北の方を選んだのは北海道に梅雨が無いためだ。次回の取材が始まるまで一ヶ月間。この間の取材準備をまとめてみた。
秋田に5月16日戻り、翌日から通常の仕事の合間を縫って、今回終えた取材の整理を始める。まず最優先はポジフィルムの整理。今回36枚取りフィルムを『北前船みなと紀行』取材日記準備編163本使用。これを2台のカメラで撮ったため順番がゴチャゴチャになっている。
しかも写したものが神社、常夜灯、鳥居、港、日和山、船の模型が多く、それぞれ似ていて間違いを起こす可能性が高い。そのため記憶が新鮮なうち、全てのフィルムを整理し名前を付けた。
次は次回の日程調整。加藤さんと連絡を取り合い、15日間で回る約45市町村の取材日程を決める。そして宿泊先の予約。これはインターネット予約が前提だが、今回は宿泊予定地が小さな町が多くホテルがないため、ガイドブックを見ながらの電話予約も多かった。
あと大きな問題は4月始めに取材予定の市町村役場、博物館、神社など100ヶ所以上に資料送付の依頼、撮影の許可申請など提出したのだが、半分くらいの所から返事が戻って来ていない。それらに再度の依頼状を送付する作業を行い、特に重要な所には一つひとつ電話を入れる。連絡するとたいていは「ああ前に見たことがあったな」か「忘れていた、ごめんごめん」程度の反応。このような無反応の町と相当量の資料を送ってくれる町との差は、町の姿勢や担当者によって大きく違いが出るようだ。もうひとつ記憶が新鮮なうちにやってしまわなければならないのが「取材日記」。最初は毎日各地でパソコンに入力してしまおうと思っていたのだが、他の仕事もあったり疲れていたりで思うようにはできなかった。克明なメモはとっていたのでそれをもとに日記付け。平日は時間が無いので土、日曜日に家で行い、無明舎のホームページに載せてゆく。
実は今回は「北前船」の取材だけでなく、もし近いうちに作れるならと、売れ行き好調な『戊辰戦争とうほく紀行』の続編として『函館戦争』の企画を考えており、その取材も兼ねている。さらに現在制作中の『五能線ガイドブック』『東北おもしろ人物館』『東北道の駅ガイドブック』改訂版などの取材・撮影も一緒にやってしまおうという欲張り取材行のため、そちらの準備もしなければならないのでなかなか大変。一ヶ月の準備期間はあっという間に過ぎてゆく。無明舎の日常の作業も半端な量ではないので毎日が目の回るような忙しさ。それでも去年の8月に無明舎に入った富山が、随分仕事をこなすようになってありがたい。行政からの依頼で毎月地元のタウン誌に連載している、厄介な取材が伴う仕事も任せられるようになった。アルバイトの柴田も戦力になっている。私が居ない間に若手が力をつけてくれるのが嬉しい。
いよいよ出発の前日になり、千葉から加藤さんも到着し、無明舎で準備の最終確認。夕方、加藤さんはホテルに戻ったが、出発前に終えておかなければならない『羽州浜街道』の編集指示作業が終わったのは夜の10時。それから渡部七郎に手伝ってもらいカメラなどの撮影機材を車に積み込む。家に戻りまだ手付かずの着替えなどの私物を積み終えたのは1時過ぎになっていた。これで準備は万端であれば良いのだが、あわただしく用意した私物の忘れ物があるようで、ビールを飲みながらあれこれと思い出しにかかる。
北海道の高田屋嘉兵衛
6月15日
第二回目の取材に出発の日となった。天気は晴れ。朝7時半に加藤さんが宿泊している三井アーバンホテル秋田に迎えに行く。無明舎に寄り取材用具の最終確認と、終了させなければならない仕事道具を車に積み込み出発。青森県に入る前に能代市や八森町に寄り、北前船の錨や『五能線ガイドブック』に使う写真を撮影する。
午前中に県境を越え青森県岩崎村に到着。神社、舟絵馬など数ヶ所撮影する。加藤さんが教育委員会に行き村内の文化財資料をもらいに行っている間に北海道へ渡るフェリーの予約をする。行きは青森から函館、帰りは函館から下北半島の大間までのコースだ。
隣町の深浦では女性のコックさんが経営する「セイリング」というミニレストランで昼食を兼ねながら『五能線…』の取材。ホッケのから揚げ定食がめっぽうおいしかった。
深浦町は隣の鰺ヶ沢町と並んで北前船の重要な寄港地だった所で関連する物も多い。まずは町立の資料館「北前の館」へ。佐渡島の小木にある原寸大に復元された北前船をモデルに、三分の一サイズで製作した船模型など撮影し、今日の取材の目玉となる円覚寺へ。ここには国の重要文化財指定の舟絵馬が70点のほか、海で嵐に遭遇した船乗り達が髷を切って神に祈り、命が助かったお礼に奉納した髷額、高田屋嘉兵衛の寄進物など重要な遺物があり時間をかけて撮影後、日和山と弘前藩の御仮屋跡に行き深浦を後にする。
鰺ヶ沢町に着くともう夕方に近い。日和山を地元の人に聞き聞きしながら探すがどうしても見つからない。公民館を訪ねると職員の方が明朝案内してくれることになった。これで本日の予定を終え予約している旅館の「水軍の宿」へ。この水軍とは中世にこの辺り一帯を治めた安東一族の水軍のこと。温泉もある大きな旅館だ。夕食付きなのでありがたい。テーブルにはメバルの塩焼き、メヌケの塩汁鍋、町で養殖に力を入れているイトウや鯛の刺身、ジュンサイ、サザエの壷焼きなどが並んでいる。これに朝食が付いて一人8000円は安い。露天風呂付きの温泉でさっぱりし、畳敷きの部屋にこもり仕事にかかる。『五能線…』の校正作業を11時まで続け、宮部みゆきの『模倣犯』を読んで寝る。
6月16日
旅館は鯵ヶ沢駅のすぐ裏。朝5時半頃から始発列車の出発準備の音が部屋にまで聞こえてくる。朝食前に一仕事し7時半出発。鰺ヶ沢の代表的な神社、白八幡神社に行く。ここの玉垣は瀬戸内方面から北前船の船底にバラスト代わりに積まれて来た白御影石。拝殿には鰺ヶ沢湊の様子を描いた絵馬が奉納されている。日本海拠点館という文化施設の大ホールの緞帳はこの絵馬を図案化したもの。京都の川島織物が製作した綴織はおそらく国内唯一の北前船の緞帳だろう。舟絵馬、緞帳などは前もって撮影してあるので今回はパス。
公民館職員の笹村さんの案内で昨日確認できなかった日和山に連れて行ってもらう。今朝は案内の人がいるためあっけないほど簡単にたどり着いてしまう。
鰺ヶ沢を出る前に港にある「ととまるしぇ」という大きな魚の直売所に寄ってみる。ここは魚が安い。イカがトロ箱一杯900円。中ぐらいの毛がに8匹で2000円といったところ。おいしそうなアラスカ産紅鮭一匹を私の自宅に送ってもらう。
七里長浜という名前どおりの長い海岸線を走り市浦村へ。途中、十三湖を一望の元に見渡す高台の展望台に上がり湖の写真を撮る。名物のシジミ貝採りの船が湖上を何艘も走り回っていて美しい。村内の神社やお寺で舟絵馬、お地蔵さんなど写して回り、市浦村歴史民俗資料館へ。ここには十三湊と呼ばれた中世からの大規模な湊や都市があったと伝えられていて、大掛かりな発掘調査が行われている。そんな歴史を背景にした村の資料館なので内容は濃い。ゆっくり見学したいが先を急ぐので必要な撮影を終えここを後にする。
小泊村ではまず日本海に突き出した権現崎へ。駐車場の一角には伝説の中国の「徐福上陸の地」碑が立つ。権現崎までは急坂を歩いて30分弱。登りは結構きつかったが岬からの展望は素晴らしい。あと小泊では太宰治の「小説『津軽』の像記念館」へ。これは『東北おもしろ人物館』の取材。竜飛岬では津軽海峡を挟んで北海道の白神岬や太宰の文学碑を写す。立ち食いしたタコとイカの一夜干しがうまかった。三厩、今別、蟹田と陸奥湾沿いの港や文学碑を写しながら青森市へ。今日宿泊のホテルJALシティへ着くともう真っ暗。
明日からは北海道なので前景気をあおろうということになり、青森駅前の酒壺という居酒屋へ二人で行く。ここは津軽料理とうまい地酒を出してくれる店。カド(ニシン)の味噌貝焼き、ホヤの塩辛、季節はずれだがタラのじゃっぱ汁などで一杯やる。店を出て加藤さんは以前勤務していた読売新聞の支局へ遊びに行く。私は一人でアジア料理のサイゴンという店でピリカラミミガー料理を頼みもう少し飲む。
6月17日
函館へ渡るフェリーが朝7時30分出発と早いので6時30分にホテルを出る。朝食はコンビニ弁当にし船の中で食べる。函館までは4時間。船内は案外空いていて、カーペット敷きの客室で『五能線ガイドブック』の校正をするが、途中で眠ってしまう。函館が近づき港やその周辺の写真を船上から撮影する。函館では最初に新撰組の土方歳三終焉の地にまず行く。石碑の前には写真が飾られ、火のついた線香が手向けられていた。
高田屋7代目の高田嘉七さんが館長を勤める北方歴史資料館は今回の取材でははずせない所。普段東京にいる高田さんが我々が取材に行く連絡をしていたためうまくお会いすることができ、取材・撮影とも内容の濃いものとなった。
ここで午後からの取材の前にまず腹ごしらえ、ということになり函館に行ったときは必ず行く元町の八華倶楽部という中国料理店に行く。明治の洋館を改造した店舗で出す料理の味は折り紙つき。主人は秋田県森吉町生まれで、東京のシャンソンの銀巴里でマネージャーをやっていたという変り種。中華飯と焼きそばのランチにニラまんじゅうを食べる。
午後からは外人墓地の中にある遊女を祀った地蔵堂、高龍寺の傷心惨目の碑、称名寺にある高田屋嘉兵衛始めとした一族の墓、土方歳三の供養碑、実行寺で方角石など写して回る。この3つのお寺は並んでいるのだが、称名寺で墓石の上に2匹のカラスがいて撮影の邪魔になるので追い払うと、気を悪くしたのか私を追いかけ始めた。さらに隣の実行寺にも付いて来て頭の上に飛んでこられ本当に気持ちが悪かった。このあと北海道各地の神社やお寺でカラスに嫌がらせされることになるとは、このときはまだ知らなかった。
天気が素晴らしいので函館山から函館の町と港を撮ろうと山に車で上がって行く。空気が澄んでいてかなり遠くまで見渡せる。山から見下ろすと天然の良港の姿が見て取れ、嘉兵衛がここ函館を高田屋の本拠地と決め港の発展に尽くしたことが良く分かる。
山から下りて「函館戦争」関係の撮影を何ヶ所かしホテルに入る。今日・明日の宿泊は昨日の青森と同じホテルJALシティ。インターネット予約をしたら5500円とかなり割安。JALシティチェーンのホテルはどこも出来てからまだ5年以内と新しいので快適だ。ベットはセミダブルで部屋も広い。今夜は歩きやすいウォーキングシューズや本を買いに行くつもりなので加藤さんとは別行動。買い物の後は夕食を我慢して10時近くまで部屋で仕事に精を出す。仕事に区切りをつけ昼に行った八華倶楽部に一人で行く。中国野菜や魚、豚肉などを使った料理をいくつか作ってもらい、大好きな招興酒をボトルでもらう。
6月18日
一時間ほど仕事をして朝食。ホテルのすぐ前が高田屋嘉兵衛の屋敷跡で近くに嘉兵衛の大きな銅像もある。護国神社、南部坂上の南部藩屋敷跡と回り、港に隣接する赤レンガ倉庫群の金森倉庫へ。ここは今や函館一の人気観光スポット。私が撮影している間、加藤さんは中にあるサンタクロース郵便局で娘に葉書を書き、サンタのスタンプを押してもらいご満悦。私は娘にお土産にするため金魚の絵が描かれたガラスの風鈴を買い、アジアンキッチンというスタンドショップでなんだか分からないジュースを飲む。
次は箱館高田屋嘉兵衛資料館へ。ここには北前船や港関係の資料がある。これで午前中の取材を終え楽しみにしていた五島軒に昼食を食べに行く。創業が明治12年という洋食レストランで本格的なカレーを手軽に食べることができる。我々は函館黒豚を使ったカツカレーを頼む。カレーとトンカツの味の相性も良く大いに満足。これで1500円とは安い。店内に彫刻家の船越保武が制作した秋田の田沢湖畔に立つ「辰子の像」の原型があり驚いた。
中華会館など市内をいくつか回った後、郊外に向かい市立函館博物館の五稜郭分館へ行くが我々の勘違いで休館日。しょうがないので外観だけ写し、四稜郭へ回る。五稜郭と違い有名でないため人はぜんぜんいない。さらに足を延ばし隣町の大野町と上磯町へ。
大野町では「函館戦争」の激戦地跡を回る。田んぼのあぜ道に自然石だけがぽつんとある無名戦士の墓や、台場山の塹壕跡、上磯町では国指定史跡の松前藩戸切地(へきりち)陣屋跡、官軍兵士の墓など撮影し今日の取材を終える。
函館に戻る途中、加藤さんがすしを食べに行かないかと誘うので便乗することにする。東京の函館出身の友達から「さかえ寿し」という店を推薦されたらしい。タクシーの運転手さんに店の名を告げると、さかえ寿しは市内に十軒ぐらいあるチェーン店だという。少しいやな予感がしたがそのうちの一軒に下ろしてもらう。白木のカウンターがきれいな感じの良い店。私はあまり腹がすいてなかったので、いくつかのつまみを作ってもらい酒を飲む。イカのごろ(内臓を使った料理)、アナゴ、ボタンえびなどつまむが全体に味はもうひとつ。どうも友人の推薦とは違う店に入ってしまったようだ。不満が残りホテルの裏にある居酒屋に入り直すが酒もつまみもぜんぜんうまくない。
今日はハイペースで取材に回り疲れたうえ、酒も飲んでしまったので早めに寝る。
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松前まで目と鼻の先
6月19日
今日は朝から雨。早めに函館の取材を終えて次の町に行かなければならない。
まずは函館市立博物館に行き開館と同時に入館する。撮影するのは中世に能登半島の先端で作られた珠洲焼きの大甕に、中国の古銭が30万枚以上入って発見されたもの。これは日本海をはさみ盛んに大陸と日本各地の湊が交易を行なっていた証し。
博物館のすぐ隣にある市立函館図書館では、榎本武揚や高田屋嘉兵衛と関わりの深いロシアのゴローニンの肖像写真。また、同じ敷地内にある函館銭座跡、秋田藩士に切られたドイツ人の遭難碑などの撮影をし、2日間いた函館を後にする。今日は津軽海峡に沿って延びる国道228号で木古内町などを通り、松前藩の城下だった松前町までの行程。
上磯町の茂辺地館跡に寄り男爵資料館のレストランで昼食にする。この資料館は北海名物、男爵イモの生みの親、川田竜吉男爵の農場跡地に建つ。レストランには男爵芋を使った料理が並ぶ。ランチ、ジャガイモグラタン、北海道独特の料理イモもちを食べる。初め
て食べたイモもちが印象的。肝心の資料館には時間不足で寄らずじまい。
木古内町では徳川幕府の艦船「咸臨丸」が座礁、沈没した更木岬に行き、その咸臨丸の引き上げられた錨といわれている西洋式艦船の錨を公民館の庭に見に行く。町ではこの錨が咸臨丸のものかどうか確認できないまま、外にブルーシートを掛けただけで置いている。
松前町手前の福島町は青函トンネルの北海道側坑口がある町。そして相撲の横綱千代の山、千代の富士の出身地。道の駅「横綱の里ふくしま」があり、横綱記念館があるほど。
北海道最南端になる白神岬は北前船の船乗りたちにとっては特別の岬だった。この岬まで来ると松前湊は目と鼻の先。大坂からの航海を九割九分終えた気分であっただろう。その白神岬は雨と強風と寒気で最悪の天気。カメラを構えても風でぶれてしまうほど。それでもなんとか撮影をし松前の町に入る。天気が悪く暗いため外の撮影はあまりできない。松前城に行き館内の資料撮影をし、教育委員会の村松さんを訪ね町内の史跡についてレクチャーを受ける。そこで思わぬ知人の名前が出て驚く。かつて小川紳介の小川プロダクションで長く助監督をやっていた飯塚さんで、菅江真澄の後を追うビデオ制作のため2日前に来ていたという。この先どこかで逢うことができるかなと楽しみになる。
これで今日の取材は終了し温泉旅館矢野へ。食事つきなので楽だ。風呂上りの夕食には魚料理が並ぶ。食事後は部屋にこもりひたすら『五能線……』の写真選びに没頭する。
6月20日
部屋の窓をあけると今日も雨。かなり寒い。朝食はイカ刺し、サンマの塩焼き、と美味しいものが並ぶ。2食、温泉つきでサービスも良く6500円と安い宿。ここはお薦め。
松前は北前船の北の中心地で関係史跡は多い。町はあまり大きくないので効率よく回り、昼過ぎには終わろうと宿を飛び出す。最初に行った法華寺では方角石探し。見つからずウロウロしていたら、境内にある保育園の保母さんたちが捜すのを手伝ってくれやっと発見。その後、徳川軍の埋葬塚、戊辰戦争招魂場などの函館戦争史跡と、町の裏山に登り瀬戸内から廻船問屋が運んだ方角石、松前藩歴代の墓所、アイヌの酋長達を描いた有名な「夷酋列像」などの代表作がある画人・蠣崎波饗の墓がある法源寺、廻船問屋・山田文右衛門などの墓がある光善寺、下関から運ばれた鳥居が残る松前神社などを回る。
昼食前に昔の松前の町並を再現した「松前藩屋敷」という観光施設も覗いてみる。沖の口番所、廻船問屋、ニシン漁の番屋、武家屋敷などが参考になり、また楽しめた。
昼食は矢野旅館の向かいにある「まるに」という蕎麦屋さん。実は矢野旅館で鯨ラーメンというのを名物にしていたが、私の好きな鯨の皮からとった出汁のラーメンでなく、チャーシューの代わりに鯨肉を使ったラーメンだと聞いて日本蕎麦にしたのだ。
午後は港と孟宗竹林に行く。孟宗竹は山形県の庄内地方が北限といわれているが、新潟の佐渡島から松前公の家来が移植したものらしい。また北海道にはほとんどないはずの柿の木もあった。松前には他にも青森が自生北限の椿、関東以南でしか見られないシロバナタンポポなどもある。皆、人の手で植えられたものだろうがやはり珍しい。
松前を終え江差に向かう。途中、折戸浜の台場跡、江良の官軍上陸の地など函館戦争史跡を撮影。中世の勝山館跡がある上ノ国町では、北海道最古の民家といわれる旧笹浪家は改築中で見学できなかったが、道の駅「上ノ国もんじゅ」に休憩に入ると、思いがけずこの町の海岸で沈んだ明治初期の艦船・昇平丸の模型があり撮影する。
北前船が直接入港した日本海側の北限といわれる江差は、ニシン漁で大いに栄えた所。天気が悪く撮影条件は良くないが、港にある鴎(かもめ)島に渡り厳島神社の鳥居や手水鉢、姥神神社では非常に珍しい六艘の千石船が描かれた船絵馬などを写す。旧檜山爾志郡役所で教育委員会の宮原さんと会い、一緒に廻船問屋だった国指定重要文化財の旧中村家住宅、松前藩領随一の豪商といわれた旧関川家別荘など撮影に回る。
ホテルに向かう途中、「江差追分会館」を見つけこれも撮影。ホテルに入り会社から届いていた仕事を2時間ほどかけて片付け、ホテル向かいの居酒屋に晩飯を兼ね一杯飲みに入る。ホッケの塩焼き、ジャガイモの塩辛乗せ、ホヤの塩辛など悪くないが、日本酒が美味しくなかった。北海道に来てほとんど美味しい日本酒に会えないのが残念だ。
6月21日
今日は江差を終え積丹半島を一周し小樽までと、かなりきつい行程になりそうだ。朝食をホテルで手短に済ませ護国神社に向かう。天気は良い。官軍墓地を撮影しているとカラスが我々に嫌がらせをしているのか頭の上をガーガー鳴きながら飛び回る。
戊辰戦争中、暴風雨に遭い江差の海岸で沈没した開陽丸の復元船と、海底から引き上げた船体の一部などの展示品を写し、昨日の姥神神社に再訪問。神社前の電話ボックスが面白く、姥神神社の祭典に使う曳き山のつくりになっている。そのボックス前で記念撮影をしながらニシン漁、廻船業で財をなした横山家が開くのを待つ。現役の住宅でもある横山家の内部、展示品、ニシンそばなどを撮影させてもらう。江差を後にし、隣町の厚沢部町で20分ほど山手に入った江差軍の館陣屋跡に行く。山中の道路にケガをした子供のキタキツネが寝ていて、車に轢かれそうなので草むらに移してやる。後からエキノコックスのことを思い出し、二人で近くの道の駅でよく手を洗う。海岸に戻り、乙部町、熊石町の史跡を数ヶ所回る。時間がないので昼食はコンビニのカニ弁当で済ませ、国道277号で太平洋側の八雲町にでる。加藤さんはカニ弁のあと助手席でお昼寝。八雲町の美しい牧場風景が見られないのは残念でした。国道5号に乗り長万部町から山越え、日本海側の寿都(すっつ)町にでる。鰊御殿の佐藤家の写真を撮り、後はひたすら日本海沿岸を北上。岩内町のダイナミックな岩壁が続く海岸線の景色が素晴らしい。原発のある泊村、神恵内村と過ぎ6時頃ようやく積丹半島先端の神威岬に着くともう太陽は大きく傾いている。駐車場から岬の先端まで小走りで20分。結構な上り下りで足はがたがた。それでも何とか間に合い撮影終了。思いで深い夕景色だった。
小樽のホテルに着くと夜の8時。余市町の撮影ができなかったので明日からの予定を変更する。幸い2日後の釧路に一日予備日を設けていたので、それで日程調整できそうだ。明日は苫小牧に一泊することにし、ホテルの予約とキャンセルを済ませる。
今日は良くがんばったので居酒屋に行こうと意見が一致。ホテルの勧めで「焼尻」という小さな店に行く。女将さんが焼尻島出身。私が秋田だというと、女将さんの父親が秋田市下浜、母親が秋田の男鹿出身だと喜ぶ。酒のつまみにナマコのヌタ、小女子(コウナゴ)鍋、カスベの煮こごり、ホッキ貝のザンギ(から揚げ)、イカ餃子、エビのメンチカツなど思いがけない手料理に出会えた。あまりの美味しさに二人は興奮。酒も美味しく、また値段も安い。これは小樽の宝物のような店だ。部屋に戻り取材の整理をしてから寝る。
6月22日
朝早く目覚め朝食前に2時間ほど『五能線……』の写真選び。秋に発行予定の本で、400枚近くの写真を選び印刷所に入稿しなければならないので持ち歩いているのだ。
ホテルで朝食を食べ、近くの龍宮神社へ。昨日から神社の大祭をやっているため参道や境内には屋台が並んでいる。小樽運河沿いでは倉庫群や小樽市博物館屋根を飾るシャチホコを写し、小樽市郊外の祝津に向かう。祝津では日和山のほか二軒の鰊御殿が目的だ。一軒は青森県蓬田村出身の田中福松のもの、もう一軒は山形県遊佐町出身の青山留吉の別邸だ。どちらも出身地に別邸が残されていて、以前取材で訪れたことがあるので興味深い。
余市町では「旧余市福原漁場」を訪ねる。漁場とは主屋を始め身欠きニシンや干魚、カズノコなどの加工作業場、魚の干し場、漁具蔵、生活物資用のさまざまな蔵などが広大な敷地に並んだ施設全体をいう。鰊御殿は各地にあるが漁場が残っているのはここだけ。また、松前藩の統治下ではアイヌとの一定の交易権を独占できる場所請負制度があり、85ヶ所の場所が設けられていた。それぞれの場所における取引所が運上屋で、祝津港近くにある「旧下ヨイチ運上屋」は現存する唯一の運上屋だ。このように北海道各地に散在する運上屋から、ニシンや干魚、サケ、昆布などが鰊船などの中型船で江差や松前、函館に集められ、北前船で北陸や関西に運ばれたものだ。
昼食は案内してくれた余市町教育委員会の浅野さんのお薦めで余市駅前の魚屋の食堂に行く。40センチ以上の大きさの「ホッケ開き定食」が440円。マグロヅケ丼定食が600円という具合で安い。2人でホッケ定、ヅケ丼定、ホッケ焼きのみと食べて1240円だった。
満腹の腹を抱え次はニッカウヰスキーが最初に生産を始めた余市工場へ。5月に取材に行った広島県竹原市の竹鶴酒造がニッカの創始者・竹鶴政考の生家であったためだ。
余市の取材を終え小樽に戻り小樽交通記念館へ。北前船や川崎船の模型があるので撮影する。館内は明治17年アメリカで製造され北海道で活躍した機関車「しずか号」を始め、鉄道、船、自動車などが保存されている交通機関の宝庫だった。最後は朝に外観だけ撮影した小樽市博物館で、北前船の模型や船絵馬を撮影し小樽も終了。高速道路の札樽自動車道で札幌を素通りして苫小牧へ。途中の輪厚PAで「鳥のザンギ」をつまむ。
苫小牧市の郊外にある勇払に直行し、東京の八王子から開拓のため移り住んだ「八王子千人同心の墓」、蛭子神社の方角石などを撮影し苫小牧駅前のニューステーションホテルに到着。今晩は夕食抜きにして『五能線……』の写真選びに専念する。幸い部屋は大きく、机もかなり広いので作業がしやすい。11時まで続け一人で近くの焼鳥屋に行き一杯飲む。
6月23日
会社からタウン誌に連載している「ドリナビ」の校正が届いていたので、『五能線……』の仕事と一緒に朝食の前後に2時間ほど仕事をする。今日は苫小牧から襟裳岬まで。
国道36号を西に20分ほど走り社台で仙台藩士の墓など写し苫小牧市立博物館へ。新千歳空港近くの美々川から発掘されたアイヌの人たちが使っていた川舟やイタオマチプという海舟、北前船の錨などを撮影する。三村さんと言う学芸員がとても親切に解説、案内をしてくれ助かる。話していると実は自分の父は秋田の男鹿出身です、とのこと。
携帯電話に読売新聞の秋田支局から新聞連載を単行本にしている『秋田なんでも知り隊』についての打ち合わせが入る。ついでに秋田市長選挙の立候補者が大体かたまったと教えてもらう。二転三転した候補者の顔を思い浮かべ、場違いな人がいて笑ってしまう。
太平洋沿いにどこまでも続く国道235号を走っていると昼になり道路沿いの回転寿司に入る。「海宝」というチェーン店ではない独立店舗。「できるだけ地元の魚を使うようにしています」と店の女性。我々は開店寿司に入ったときは種類を多く食べられるよう一皿を二人で食べるようにしている。シマアジ、シメニシン、海ツブ、サンマ、イワシ……。茶髪の若いお兄さんがテキパキと握ってくれる。この店は二重マル。
新冠(にいかっぷ)の道の駅「サラブレッドロード新冠」にトイレタイムで入ると「レ・コード館」というレコードの博物館があった。入ってみると空調の効いた保存庫には全国から寄贈されたレコードが62万枚ありさらに増加中。レコードを使ったさまざまなコーナーがあり面白い。百年後のことを考えるとこれは大変貴重な博物館になりそう。
静内川河口の台地に残る「シャクシャインの乱」で有名なシャクシャインの最後の砦跡や、様似では蝦夷三官寺のひとつ等?院、様似港などを撮影する。
夕方5時、やっと襟裳岬に到着。それまで快晴だったが岬に近づくとあっという間に濃霧に囲まれ、強風が吹き、大変な寒さ。長袖シャツにジャンパーでも寒い。当然撮影は無理。売店のスピーカーからはエンドレスで森進一の「襟裳岬」がガンガンかかっている。逃げるように民宿に飛び込む。夕食は座卓にあふれんばかりの海の幸が並べられた。
6月24日
朝4時半、霧が晴れていると加藤さんに起こされる。昨夜12時過ぎまで仕事をしていたので起きるのが辛い。カメラと三脚を担いで岬の先端に行くがまだ薄暗い。民宿に一旦戻りもう少し眠る。6時半に朝食を食べ岬に行くと天気が上がり撮影条件も良い。
えりも町の百人浜は南部藩の御用船が難破して乗員100人が上陸したものの、寒さと飢えで全員死亡したという。近くに「一石一字塔」があり、浜にある神の石なども撮影。
えりも町から広尾町にかけての海岸線を走る国道336号は開削工事にあまりに費用がかかったため黄金道路と呼ばれている。江戸時代末期から延々工事が続き開通したのは昭和8年。途中、幕府から道づくりを命じられた近藤重蔵の記念碑がある。
白糠町では公民館の敷地に立つ「白糠運上屋跡」の碑などに寄りやっと釧路に到着。幣舞橋(ぬさまいばし)をわたった所のぬさまい公園には松浦武四郎の銅像が立っている。
昼食は幣舞橋たもとのフィッシャーマンズワーフで、と行ったが駐車場が満車。捜し歩くのもしゃくなので釧路を後にする。店を選んでいるうちに釧路町、厚岸町と進んでしまい適当に道路沿いのラーメン屋に入ったところこれが大当たり。「大平楽」という小さな店は50代後半の夫婦二人でやっていて、味噌と塩チャーシューを食べたがかなりの味。おいしい、おいしいと言いながら食べたらラーメンを作る奥さんも大喜びだった。
厚岸牡蠣で知られている厚岸湾が突然車窓一杯に飛び込んできた。思わず息を呑む美しさ。厚岸町では海事記念館や蝦夷三官寺のひとつ国泰寺などが目的。厚岸海事記念館では北前船の模型が不正確のため撮影は中止。代わりにアイヌの海舟イタオマチップ、ニシン資料、幕末に厚岸沖で座礁したイギリス船の遺物など写すことができた。国泰寺では千葉から山田文右衛門が運んだ花崗岩で造った仏牙舎利塔、近藤重蔵が択捉島から運んだという色古丹松など。正行寺、牡蠣島弁天神社などにも寄り霧多布岬のある浜松町に向かう。
霧多布岬も厚岸湾に負けない美しさ。龍神堂で苫小牧勇払の蛭子神社のものと一緒に造られたらしい方角石、高台に登り浜中の町並みや霧多布岬を撮影。後残すのは根室のみ。夕方が近いので国道44号をスピードを出し納沙布岬に向かう。
どうにか納沙布岬からの北方四島や「横死七十一人之墓」の写真を撮り根室市内に戻る。ホテルに着いたが疲労困憊。酒で疲れを取ろうとホテルから歩いて数分の居酒屋「炉ばた・わが家」という店で、北前船取材の最先端無事到着祝いの杯を傾ける。
6月25日
朝目覚めると快晴。今日は根室で4ヶ所取材して、あとはひたすら札幌を目指すのみ。移動距離は500km以上になるので手短に根室を終えなければならない。
ホテルの朝食をそそくさと食べ根室金毘羅神社に行く。高田屋嘉兵衛が寄進した神社で、境内には嘉兵衛の堂々とした銅像も立っている。朝8時、金毘羅神社の高台から根室港の写真を撮っていると、突然「ここに幸あれ」のメロディが町じゅうに流れ出した。聞くと作曲者が根室出身らしいが名前は知らない。
「ここに幸あれ」に送られるように根室の町を出て、道立北方四島交流センター内の北方資料館展示センターへ。北方領土に関する各種資料を展示していて北前船の模型もある。
次の根室市郷土資料センターは、北前船の錨を4本所蔵しているのでその撮影だ。根室市立博物館建設の準備室も兼ねているので館内には大量の収蔵品がある。市民からの寄贈品が多いらしく、いろんなものがありとても楽しい。なかには白いライオンの剥製まであり
驚いてしまう。もう一度ゆっくり来てみたい所。
無事撮影も終わり次の穂香(ほにおい)神社へ急ぐ。神社には嘉兵衛の弟、嘉蔵の銘の入った鈴があり、氏子さん達がわざわざ集まり特別に撮影させてくれるため待っている。撮影も終わり雑談していると、氏子総代の清水さんがおばあちゃんは秋田の出身で屯田兵で入植したという。本当に北海道には東北出身者が多いなと思う。これで道東取材を全て終え、素晴らしい天気のなか札幌に向けひた走りに走る。二人とも夕方から札幌で人と待ち合わせしているので遅くなれないが、高速道路が少ないので楽ではない。昼食は厚岸のコンビニで弁当を買い、途中の釧路町役場のベンチで食べ、池田町のスーパーで冷たいお茶を買っただけでノンストップで札幌まで走る。
5時半、札幌のホテル到着。私は札幌にいる兄貴と、加藤さんは昔の友人と飲むことになっている。私は北海道に来てから魚ばかり食べていたので肉が食べたくなり、サッポロファクトリーのレストランに連れて行ってもらい肉料理を思いっきり食べ、その後ワインを飲みに行く。
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他の取材もやりながら、帰途へ
6月26日
昨日泊ったのは札幌の中心部にある大きなホテルだったが、団体客が多く朝食のレストランはすごい混雑。トレイを高く掲げ人の間を縫うようにして席を探す苦労はたまらない。出発は7時半。札幌のすぐ北隣の江別市に向かう。石狩川河川敷の公園に立つ榎本武明の大きなブロンズ像の撮影が目的だ。
次は札幌郊外の野幌森林公園内にある北海道開拓記念館と開拓村。開拓記念館は北海道の道立博物館のような存在。歴史からアイヌ、開拓、自然などの資料展示が豊富だ。事業部長の小林さんと館内を回り今回必要な資料を確認する。幸いここは写真の管理が良く、それを貸し出してくれるのでわざわざ撮影しなくても済んだ。管理している情報サービス課の小田島課長さんは無明舎の本のファンで最近も『秋田のことば』を買ったという。北海道でそのような人に突然会えるのは嬉しいものだ。
同じ公園内にある開拓村は道内の古い建築物を移設したもので、岐阜にある「明治村」のような歴史建築博物村。建物は全部で43棟あるが我々の目的は小樽に鰊御殿があった旧青山家漁家住宅と舟倉の撮影だ。
午後は北海道大学附属図書館での撮影から。昼食は北大の「100年記念館」のレストランで食べようと急ぐがすでに閉店。はらぺこのまま附属図書館の北方資料室に行き、荒れ狂う津軽海峡を渡る松前藩御用船を描いた「三厩渡荒濤図」という大きな巻物を写す。
これで札幌の取材は終了。札幌駅の隣にヨドバシカメラがあるのでフィルムや壊れたレンズフードを買いに行く。昼食は駅構内の食堂で済ませ、道央自動車道で室蘭に向かう。途中の輪厚PAで一休み。この近辺では昨日、航空自衛隊の戦闘機が誤射事件を起こしている。室蘭の手前にある白老ICで高速道路を降り仙台藩陣屋跡に寄り、室蘭へ到着するともう夕方。室蘭港入り口の海を一跨ぎにする白鳥大橋を渡り絵鞆(えとも)港へ。港の岸壁では札幌から仕事で来たという二人が投げ釣りを楽しんでいる。大きなカレイが一匹釣れていたが、次々に針にかかるのは20センチもあるムラサキヒトデ。
ホテルに着くと会社から送られてきた仕事が待っていて今日中に済ませなければならない。何とかがんばって10時に終了。コンビニでビールを買い部屋でゆっくり本を読む。
6月27日
今日はいつもより少しゆっくりと8時にホテル出発。室蘭市立水族館の庭に立っているイギリスの商船「プロヴィデンス号」来航記念碑、松前藩直轄の運上屋があった絵鞆岬展望台脇に立つ「先住民慰霊碑」、南部藩の「モロラン陣屋跡」と室蘭市内を回り、伊達市では蝦夷三官寺のひとつだった善光寺に行く。
長万部までの移動に道央自動車道を使おうと思ったが、昨年から続いている有珠山噴火の影響で一部通行止め。臨時に設置された虻田仮出入口から高速に乗る。仮のICを利用したのは初めての経験だった。長万部の南部藩陣屋跡は現在、飯生(いいなり)神社になっている。国道沿いのGSで「あそこは味が濃くて美味いよ」と教えられた八雲町のドライブインで昼食。私は塩サバ定食、加藤さんはカツカレーを注文。確かに味が濃かった。
午後は『函館戦争』の取材が多い。森町では茅部の「鯡供養碑」と榎本軍上陸の地、砂原町では南部藩陣屋跡。南部藩陣屋は今日だけで3カ所目。幕末にロシアの侵略におびえた幕府が東北の各藩に蝦夷地の防備を命じ、各地に陣屋を築かせたもの。費用は各藩に負担させたため藩の台所は火の車となったものだ。
これで太平洋側の取材を終え駒ケ岳の裾を回り函館へ。一週間前に休館日のため撮影できなかった市立函館博物館五稜郭分館へ向かう。対応してくれた学芸員の佐藤さんは「よく秋田県鷹巣町の伊勢堂岱遺跡に発掘の手伝いに行きますよ」という話になりとても親切。函館戦争資料などを撮影していると、砲弾を受け沈没した長陽という船の竜骨の一部を見た見学の団体が、「すごい龍の骨だ」「いや化石」だと興奮し騒いでいる。龍を実在した動物だと思っての話で、楽しい場面をみることができた。また、江差で沈没した開陽丸の模型は、予算がないため前館長の手作り。よく見るとライターの火打ち金、文房具の鳩目、電気工事で電線を繋ぐアルミ材、ヒートンなどを各所に利用した力作だった。最後に元町公園近くの函館病院跡を撮影して北海道取材を終える。ホテルで夕食を我慢し一仕事。残っている『五能線……』の写真選びの作業をする。10時半頃加藤さんから電話が入り「鐙さん、飲みに行こうよ」という誘い。北海道の最終日だしまあいいか、となる。タクシーの運転手さんお薦めの中華料理屋に行き、招興酒で乾杯。中国の山東省から来たという親子二代のコックさんが作る料理はとてもおいしい本格味だった。
6月28日
朝8時にホテル出発。フェリー乗り場には15分ほどで到着。函館から青森県下北半島最先端の大間行きのチケットを買う。大間までは1時間40分。客室のカーペットに横になってうとうとしていたらいつの間にか到着していた。
本州最北端の大間崎はすごい風。今回、北海道で白神、神威、襟裳、納沙布と名だたる岬を回ってきたが大間崎の荒涼とした風景も悪くはない。共通するのは岬の観光地化で、スピーカーからの音楽、安っぽい観光土産の売店、高い料金の食堂など似ている。
下北半島の西海岸を回るコースで取材。佐井村の役場に行き撮影場所の確認をし、佐井漁港にあるアルサスという観光施設で昼食。陸奥湾のワカメや、佐井村が生産に力を入れているジャガイモを麺に練りこんだ「村おこしラーメン」を食べる。アルサスの2階は「海峡ミュージアム」というミニ博物館で、蝦夷錦などのアイヌ資料の展示が中心。1階では「裂き織」教室が催されていた。裂き織は北前船で各地に伝えられたと言われている。
村内のお寺や番所跡を撮影し先を急ぐ。奇岩奇勝で有名な仏ヶ浦を展望台から写し、急坂を下ると牛滝の村。藩政時代は南部藩の流刑地だった所で、現在は陸奥湾の豊かな魚介類を水揚げする漁港となっている。あとは青森ヒバとブナの原生林がつづく「海峡ライン」という素晴らしい山岳道路を、北限のニホンザルが住む脇野沢村へ向け走る。
河口港だった脇野沢では日和山だった愛宕山、鯛島、港、八幡宮などを回り川内町へ。
川内町も脇野沢と同じく河口に港が作られた所。造船が盛んで能登の豪商・銭屋五兵衛が出店を置いていた。川内八幡宮の手水鉢、竜泉寺にある瀬戸内からきた塩飽衆の墓などを写し、蓑虫山人が明治時代に描いた「川内湊の図」は、住職不在で明日、再訪門。
むつ市に向かう途中、もう少し寄りたい所があったが暗くなってきたため中止。むつ市のニューグリーンホテルに投宿する。今日は移動が多く非常に疲れた。ホテルは関西からの団体で満杯状態。玄関には「みちのく秘境巡りツァー」と書かれた看板。団体で回る秘境とは何処なんだろう?ホテルマン氏に聞くと下北や津軽、秋田の男鹿、三陸海岸のことらしい。彼曰く「私たちは秘境に住んでいるんでしょうかね」
近くの居酒屋で夕食兼酒飲み。ホヤのから揚げとマグロのハラス塩焼きがおいしかった。
6月29日
7時ちょうど。朝食にレストランに下りて行くとすでにレストランは満員状態。やはり老人達は朝が早い。ほとんど「秘境めぐり」の人たち。相席になった老夫婦は大阪からきたらしい。バスで巡るツァーは私たちも驚く強行軍で、よくもまあ老人達を相手にこんなスケジュールを組むもんだ。でも皆なかなか元気で「秘境」を楽しんでいるようだ。
朝のうちは小雨、というのが今日の天気予報。むつ市内の田名部神社で鳥居、ホテル前の田名部川の川港跡など回るが霧雨のため撮影は中断、恐山に向かう。
恐山は船乗り達の信仰を集めた神社で、麓から神社まで何キロも続く参道には一丁ごとに丁塚が廻船問屋たちの手で立てられている。途中にある湧き水の「恐山霊水」には2年前『とうほく名水紀行』の取材で訪れているので懐かしい。境内では銭屋五兵衛の子孫が寄進した常夜灯を探す。霊場アイスというのおばちゃんが売っていたので食べる。
取材終了後は恐山の山を反対側に降り、奥薬研温泉を通り太平洋岸の大畑に出る。大畑湊は北前船などの西回り航路と、太平洋側を航海した東回り航路の中継点のひとつだった湊。八幡宮の常夜灯、河口に開けた港などの撮影をする。
むつ市に戻る頃には天気も上がりいい気分。3年前の『戊辰戦争とうほく紀行』で取材に行った、会津から流された斗南藩の人たちの墓地に立ち寄ってみる。むつの田名部川などを再撮影し、恐山を境内に持つ円通寺へ。ここに能登の笏谷石で作られたと思われる狛犬があるので見に行く。大きさが30センチぐらい、おかっぱ頭の可愛い狛犬だ。
円通寺の隣にある徳源寺には映画監督川島雄三の墓があり、井伏鱒二の名訳「花に嵐のたとえもあるぞサヨナラだけが人生だ」の碑が立っている。お墓参りのあとはおいしいラーメン。お寺の前にある「梶屋」では鰹節から取った出汁がおいしいスープを楽しめる。
きのう行った川内町の竜泉寺で蓑虫山人の書いた川内湊の屏風を撮影し、海岸沿いに建つ神社をいくつか回り下北半島の取材を終える。
青森市に向かい、途中の野辺地町で港に立つ常夜灯の撮影し、国道沿いのホタテ直売所でホタテを買う。青森市の合浦公園などを回り今日の取材を全て終える。10日前にも泊ったホテルJALシティ青森へチェックイン。加藤さんは青森にいる甥と飲みに行ったので一人でゆっくりできる。成田本店に本を買いに行き、駅前のデパートで買い物。ホテルで仕事の整理をし、窓から見えた向かいの小さな居酒屋に飲みに行く。
6月30日
今日は今回取材の最終日になる。朝のうちは「北前船」、その後は『とうほく面白人物館』と『五能線……』をする取材予定だ。ホテルの朝食を食べずに青森駅前の市場に買物を兼ねながら朝食を食べに行く。市場は昨年できた駅前のモダンなビルの地下に入っている。食堂で赤魚の塩焼き定食を食べ、毛がになどを買う。
最初の撮影は青森市中心部にある善知鳥神社。境内に樹木が多く撮影しにくいので隣のビルに目をつけ、非常階段の最上段まで上がり鳥瞰撮影。約束の時間が迫っている板画家「棟方志功記念館」に走ってゆく。青森の県立博物館・郷土館には9時半到着。学芸員の昆さんは木造船の専門家で、無明舎が『外ヶ浜道中記』を制作して以来良くお世話になる人。郷土館で所有している青森県内にある船絵馬の写真借用について相談に乗ってもらう。
次は青森港にある「みちのく北方漁船博物館」。100隻近い本物の木造船を展示している博物館で、北前船の模型や、アイヌの海舟・イタオマモチプなどもある。先ほど訪ねた郷土館の昆さんの監修で造られたユニークな施設で、貴重な木造船がたくさんある。
青森市取材の最後は油川。ここは奥州街道と羽州街道が合流する所で、青森港に港の中心が移るまで弘前藩の重要な湊であった。明和元年(1764)頃は酒造業者が11軒もあって、盛んに松前などに酒を送り出していたが、現在は「田酒」の西田酒蔵店が残るのみ。港にも町並にもかつての面影は残っていない。
昼はコンビニ弁当で簡単に済ませ金木町の太宰治の生家・斜陽館に向かう。現在、斜陽館は金木町が運営する太宰治の記念館になっている。館内外の撮影、芦野公園にある太宰の文学碑、ついでに津軽三味線会館など写して弘前市に向かう。
弘前では市立図書館2階の近代文学館が目的。加藤さんが近代文学館の取材中、私は向かいの物産館で『五能線……』撮影の打ち合わせを進める。
これですべての取材を無事終える。あとは秋田に帰るだけ。途中にある道の駅「いかりがせき」で一休みし、のんびりと秋田に向かう。秋田到着は夜の8時。無明舎で加藤さんは荷物を自分の愛車に積み替えホテルへ。私は久しぶりの我が家に戻る。
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北前船に魅せられて
去年の夏休み、友人と二人で山陰方面に旅行した。秋田から新潟に向かうフェリーのデッキで鳥海山や飛島の景色を眺めながら、日本海を軸にした列島の北から南までをフィールドにした本を作れないものか、ぼんやりと考えていた。
旅の途中、富山の居酒屋でとてもおいしいヒラメ昆布締めをたべた。店の親父の話では昔から北前船で運ばれてきた北海道の昆布が多かったため昆布を出汁や料理使っていたという。島根県の美保関に行くと青い石畳の小道が港から延びていて、パンフレットには「北前船で運ばれた福井市の笏谷石」とあった。「北前船」ということばが脳裏に引っかかり、意識しながら旅を続けると京都府の宮津市、福井県の小浜市、敦賀市、三国町など立ち寄った港町にほとんど北前船の痕跡があるのに気がついた。
そういえば能登輪島の「いしる」や山形県飛島の「イカの魚醤塩辛」、秋田の「しょっつる」なども海上を西から東に伝わった調味料といわれている。京都の祇園祭りがルーツとみられる北陸、東北の港町の祭りも多い。日本各地に北前船で運ばれた石の加工品や、生活文化、食習慣、苗字に海の東西交流の痕跡が数え切れないほど残っている。
秋田に戻り、図書館やインターネットで「北前船」のことを調べてみると、これまでに出版されている北前船の本の多くは大学教授や研究者の専門書がほとんどで、全体を網羅した普通の人が読めるノンフィクションの書籍がほとんどないことがわかった。逆に「北前船資料館」のようなものは全国各地にあり、町おこしの起爆剤に使う市町村も多く、「北前船は今も生き続けている」という思いがした。日本海が「表日本」だった時代を検証し、それが今とどう繋がるのか、自分自身の目ですべての港を見てみたい。
「よし、北前船の全体をわかりやすく俯瞰できる紀行ガイドを作ろう」
北前船の名前の由来には諸説ある。「北を前にして進むため」というそのままのものか「北国の米を運ぶ船・北米船から」などいろいろあるが「瀬戸内から見て下関から北の日本海を北前と呼び、その地方を航海する船」という説が有力のようだ。江戸中期から、電信が発達し鉄道が敷設される明治三十年代まで、列島の西と東を結ぶ貿易の要衝として隆盛を極めた。春に大阪や神戸を出発し、瀬戸内海を通り下関から日本海に入り蝦夷地(北海道)まで、各地の港にたち寄って売り買いをし、蝦夷地で海産物を仕入れ、帰途その荷を各港で売りさばきながら、秋には大阪や神戸に戻ってくる。こうした年1回の航海であがる利益は莫大なものだったといわれる。北前船の活躍で、日本列島全体に商品流通経済のネットワークが築かれ、江戸、それに続く近代日本の経済活動を支えたのである。
取材準備に入った。北前船の資料書籍は現在、大半が古書ルートでしか入手できない。そのため神田神保町に何度か資料の買出しに行き、インターネットの古書検索もフルに活用した。それらの資料をライターと徹底分析し船の積荷の動きをチェックした。近世交通史や物資流通といった海運研究の専門家である秋田大学の渡辺英夫助教授から特別にレクチャーを受け、貴重な資料まで借りることが出来た。
取材先は大阪からスタートし瀬戸内の各地、山陰、若狭、能登、北陸、東北、北海道それと隠岐、佐渡にも渡ることにし当初は80箇所の港を回る予定だった。しかし資料分析が進むにつれ全国十八道府県、百五十箇所以上の市町村を訪ねることになった。各市町村役場や博物館、資料館、神社仏閣、観光施設などに片っ端から手紙を出し、取材許可を申請し、市町村史のコピー、観光パンフレットを送ってもらった。1回の取材で済ませるにはあまりに長丁場になるため取材は3回に分けて行うことにした。
第一次取材は四月中旬から三週間。大阪を振り出しに瀬戸内から下関、そして日本海沿いに京都府西端の久美浜町まで。隠岐島へも渡った。大阪は、北前船航路の終着点であり、さらにその荷が江戸へ運ばれる中継点でもある。年貢米を売り払うために各藩は大阪に蔵屋敷を構え、大阪の商人は北国の商品を大いに売りまくった。「堂島米会所跡」など史跡も多い。北前船は、大阪からスタートさせないと話が始まらない。香川県多度津町では江戸時代の千石船奉納模型、岡山県邑久町の小さな神社では「秋田蘭画」の絵馬、倉敷市下津井では能登の商人が寄進した石灯籠、隠岐島では現当主で四十八代目という村上家で遠眼鏡や船磁石を見せてもらった。兵庫県竹野町の鷹野神社には、巨大な板絵馬があった。実際に回ってみると、それぞれの土地で貴重な資料が大切に保存されていることに感激した。古いと言えば、香川県の塩飽本島、岡山県の下津井、玉島、広島県の竹原、御手洗、山口県の上関、島根県の宇竜、鷺浦など、当時の町並みが残っている港町が多いのにも驚かされた。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていない場所もあったが、北前船のころの繁栄がしのばれた。
第二次取材は、六月下旬から二週間。青森県と北海道を回った。本州が梅雨でも、この地域なら雨が少ないだろうという読みである。函館、松前、江差が松前藩の指定した交易港である。それ以外での交易は許されなかった。だから渡島半島が北前船の中心地なのだが、われわれは根室まで行った。ここの金刀比羅神社に、高田屋嘉兵衛の銅像があるからだ。幕府は江戸時代後期、江戸から厚岸までの「東回り航路」を開き、嘉兵衛はさらに根室から国後、択捉への航路を開拓した。北前船航路の延長として、高田屋嘉兵衛の足跡は欠かすわけにはいかなかった。その帰り、根室から札幌まで、ひたすら車を走らせた。たっぷり八時間かかった。第二次取材の最大の収穫は、下北半島かもしれない。日本海航路と太平洋航路の結節点として、下北の港には驚くほど広範囲の地域から船が来ていた。加賀の豪商、銭屋五兵衛の支店があり、その息子が寄進した灯籠が恐山にあった。瀬戸内海の塩飽島の船乗りの墓もあった。下北の船大工が函館へ出かけて、日本人だけによる最初の西洋帆船を建造していた。そんな歴史に驚かされた。
さて、第三次取材は8月下旬から四週間を予定している。長丁場である。佐渡島へも行く。最初は滋賀県。近江商人が蝦夷地へ渡らなければ、北前船の歴史は始まらなかったからだ。彼らが、北国の物資を京、大阪へ売るルートを作ったのだ。そして若狭、北陸は、北前船に関しては非常に密度の濃い地域だ。物資の流通ばかりでなく、この地域からは北海道へ移住した人も多い。ある時期の北海道の最大の物産だったニシンの漁場を開拓したのは、その多くが彼らだった。腰を据えてかからなければならない。最終目的地は、秋田。ここで取材を終了し、編集作業に入る。
取材そのものよりも取材スケジュールの調整が大変だった。なにせ歴史物に強いライターのK氏は千葉在住で、編集者兼カメラマン兼運転手の私は秋田在住である。簡単に打ち合わせ出来ないのが辛い。そのためスケジュールや資料のやり取りは宅配便やファクシミリを活用し、宿泊するホテル予約などはすべてインターネットですませた。初めての試みだったが取材先にノートパソコンとモバイルカードを持参し、各地から取材日記を無明舎出版のホームページに同時進行ドキュメントとして掲載した。大量に使うポジフィルムはヨドバシカメラのインターネットショップでまとめ買し、愛車のアコードワゴンに三個のカメラバッグと照明機材を始めとした撮影道具、資料、着替えなど積み込み、この二回の取材で走った距離は一万二千キロに及ぶ。この先さらに七千キロは走ることになり合計二万キロ近い移動距離になりそうである。
車だけでなく生身の足もずいぶんと鍛えられた。昔の港には天気や海の様子、船の出入りを確認するための日和山がある。標高は低いが、写真撮影もあって港の日和山にはできるだけ登るように心がけた。これも最終的には五十山ほどに登ることになりそうだ。讃岐の金毘羅さんの七百八十五段の石段もあわせて、歩いた距離も半端ではなくウォーキングシューズを一足、すでにはきつぶした。
苦しいことばかりではない。全国各地の同業の地方出版社の人たちとあったり、見知らぬ土地で友人らと旧交を温めることも出来た。初めての土地でも、うまい肴でいい酒の飲める居酒屋を見つける「カン」は日ごとにさえてきた。この成果は来年の春、『北前船みなと紀行』(上・下)として無明舎出版から刊行予定である。
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さあ、旅もクライマックスだ!
8月の後半から3回目の取材がスタート。それまでの準備作業についておおよそのところを書いてみよう。やはり一番大変だったのが各取材先へのアポ取りだった。
今回訪ねるのは瀬戸内地方の一部と京都、福井、滋賀、石川、富山、新潟、山形、秋田の約70市町村。それぞれ2〜4ヶ所の取材先があるので合計200ヶ所を越える。うち半分くらいは事前に取材許可や訪問のアポが必要なところである。これらのアポ作業は主に会社の富山とアルバイトの柴田がやってくれた。
その作業の合間の8月13日からは3日間、お盆休みを利用して前回の取材で雨に降られたり追加取材が出た北海道・函館周辺や青森などにひとりで再撮影の旅をしてきた。ほかに休みを利用して何回か山形県・酒田や秋田県内の関係地をこまめに撮影しておき、3回目の取材負担をできるだけ少なくすることを心がけた。
今まで2回の取材旅行の反省から、取材グッツを効率良くする工夫もしてみた。一番の敵は雨である。台風シーズンなのでゴアテックスのレインウェアと防水靴、カメラ用の防雨カバーなどを新しく用意した。また今年の西日本は猛暑なのでポジフィルムの変質を避けるためクーラーボックス、直射日光から機材を守るためのシートも装備した。また今回の取材は約1ヶ月の長丁場になるため何度も洗濯しなければならない。できるだけ汗の吸収率が良いシャツやパンツを多めに持った。さらにパソコンとモバイルカードを持って、各地からメールや原稿のやり取りが今ひとつうまくいかなかった反省もあり、モバイル対策も万全にした。神社には蚊が多い事が経験上わかったため防虫スプレー、腰に下げる蚊取り線香、さらに虫刺されの薬もたくさん持った。
ホテルの予約や佐渡島のフェリーなどの交通機関の予約なども以前に比べてスムースに出きるようになり、このへんの準備はもうみんなベテランの域に達している。
最大の悩みは「時間」が足らないことだけである。私の立場上、北前船の仕事だけに集中できるないのである。現在、私が担当して制作中の本は『あきた羽州街道』、『羽州浜街道』、『奥州街道を歩く』、『とうほく歌枕紀行』など約10冊ほどある。これらの取材や編集を北前船のために中断することはできない。そのため取材旅行に出る前にそれぞれの担当ライターやカメラマン、会社の人たちと綿密な打ち合わせが必要であり、この準備も結構ハードなのである。こうした準備をすべて終えたのは出発の直前だった。
8月18日(土)
千葉県房総半島の先端の町に住むライターの加藤さんを迎えに行かなければならないが、ちょうどお盆の帰省シーズン。東北自動車道が混むため一日早く出発することにした。車に取材道具や着替えなどを積み込み、秋田を出発したのは午後2時。今日は不足のフィルムや秋田では売ってない身の回り品を買うため仙台泊。夜、知り合いの店に行くがお盆休み中で休業中。カワハギ料理専門の「かつら」が開いていたのでカウンターに座る。魚市場に材料がないらしくメニューはわずか。店の主人の腕はなかなかのもので世間話をしているうちに限られた材料でおいしい料理を堪能させてくれた。
8月19日(日)
仙台を9時に出発。千葉の加藤さんの家に向かう。今日は夕方までに到着し泊めてもらうだけ。のんびりと車を走らせる。福島市あたりから東北自動車道が東京に向かう車で混み始め走りにくくなってきた。郡山で常磐自動車道に乗り換え、水戸で一般道に降り九十九里海岸沿いの国道を走ってゆく。海岸は台風11号が近づいて来たため波が高い。サーファーたちがひまそうに砂浜でぶらぶらしている。
夕方、予定通り加藤さんの家に到着。翌朝出発のさい車に積む荷物や資料を確認し合う。夜は加藤家の家庭菜園で取れた夏野菜をふんだんに使った料理と、私が手土産に持っていった秋田の酒で、今回が最後となる北前船取材の成功を祈って乾杯。
8月20日(月)
予定どおりに朝8時出発。今日は途中の静岡県で数ヶ所取材をして滋賀県まで。東京湾アクアラインで東京湾を一跨ぎし、東名自動車道に乗る。静岡県に入った最初のICで早めの昼食を食べ清水市と静岡市に向かう。これは北前船の次に刊行を予定している戊辰戦争の続編『箱館戦争』の取材のためだ。清水港は幕府軍と反幕府軍の戦場になった所で、咸臨丸が拿捕されたり、清水の次郎長が海戦の犠牲者たちを哀れに思いこっそりと葬った、などの逸話があり取材地は多い。宿泊地の滋賀県彦根市には夜8時ころ到着。途中のICで夕食を食べたのでまっすぐホテルの部屋に入る。台風がかなり近づいて来たため風が強くなってきた。部屋では今回の取材に持ってきた今までの北前船写真の整理に没頭する。 いよいよ明日から本格的な取材の開始。台風の動きが気になって窓から見える外の様子やテレビの気象予報からも目が離せない。
8月21日(火)
台風はどうなったか外を見ると今のところ雨がパラパラ程度だが、四国や紀伊半島の一部で大雨を降らせているとテレビのニュースが伝えている。これは台風の直撃を受けるな、と覚悟をした。本降りになる前に少しでも早めの取材をしようと慌ててホテルを出る。今日の取材の主目的は「近江商人」。近江商人が蝦夷地に渡り商売を始めなければ、もしかしたら北前船は成立しなかったかもしれない、という重要な位置を占めているためだ。
大宮神社の船絵馬、琵琶湖柳川の港、隣町の豊郷町に残る豪商・藤野家の「又十屋敷」などを訪ねる。偶然にもすぐ近くに「丸紅・伊藤忠」の創始者、伊藤忠兵衛の旧邸がありそちらも見学。このあたりから急に大雨が降り始める。しかし10分降って10分止むという降りかたなので、雨の合間に何とか撮影は強行した。近江八幡市の日牟礼八幡宮には昼ころ到着。雨がひどいので門前にある大きな和菓子屋さんの食事処で京都風のうどんを食べる。夏の関西で好んで食べられる魚、ハモの竜田揚げと漬物各種、自家製の水羊羹が付いて800円はお得。雨の中、買ったばかりのレインウェアを着込んで日牟礼八幡宮に行く。事前に連絡しておいたので宮司さんが親切にも撮影する船絵馬を出して待っててくれた。 この絵馬は地元出身の商人が安南(ベトナム)にまで出て商売をしたが鎖国令のために帰国できなくなったがその後財を築き、故郷を思い長崎の出島より八幡神社に奉納したというもの。近江市立郷土資料館では、一枚の大型船絵馬に六艘の北前船が描かれた珍しい絵馬の写真を借用することができた。ほかにも「ふとんの西川」の創始者・西川甚五郎の屋敷、町なかを流れる八幡掘の写真などを、雨が降り休むのを待ちながら写した。思いのほか撮影が順調に終了したので、翌日のことを考え近江八幡市に宿泊するのを止め神戸まで移動する。台風の進路に逆行する移動なので、これで台風不安からも解消されたのではないかと勝手に考える。神戸では4月の取材でも泊まった元町駅前の神戸プラザホテルに宿泊。ここは一泊6500円と安いが駐車場がないのが不満。夜はこれも前回も行き大いに堪能したホルモン焼の「岩崎塾」で、牛のどこの肉かわからない各種ごった盛りホルモン焼とビールを楽しむ。
8月22日(水)
夜のうち台風は関西から東海地方に移動したため朝から絶好の取材日和。しかし、紀伊半島を中心にかなりの雨量で、各地に大分被害が出ているようだ。昨日のうち高速道路で200kmほど、今日の移動分を走っておいたので予定を少し変更して、兵庫県揖保郡御津町室津に行く。ここは「海の本陣」で西国大名たちが参勤交代で盛んに利用した港だったが、北前船とは縁が薄いため前回の取材では迷った末に割愛した所。しかし港としての重要度から今回取材対象に再浮上したもの。このように取り上げるかどうか迷う所はいくつもある。本のページ数と北前船としての密度の濃さ、地域バランスを考えライターの加藤さんと相談し決定するのだが、簡単に決まらない所はいくつもある。ここ室津港は海にせり出したような岬に囲まれた典型的な自然の良港で、決して大きくはない港と古い町並みはとても美しく、資料館も2ヶ所あり訪問者に親切に説明してくれる。港の一角には、大阪城築城の際の石垣用大石が、輸送中ここの港に転落したままだったものを引き上げて記念に展示している。次は岡山県をとび越え、一挙に広島県福山市鞆の浦へ。ここも再取材。前回ひどい雨に降られたのと、取材に行けなかったところが数ヶ所残ったためだ。今回再訪問し、雨降りと晴天では港の印象があまりにも違うことに驚かされてしまう。この港町は瀬戸内を代表する江戸時代の重要な港のひとつで、古い港や町並みの保存状態も良く、町の有志によるユネスコの世界遺産登録運動が行われている。町の人に接すると自分たちの港町に対する愛着やプライドが伝わってくる所だ。最後に時間に余裕があったので広島県境に近い、岡山県倉敷市玉島まで戻り再撮影。ここも前回大雨に降られ、撮影を強行したものの現像したフィルムには雨が無数の線になって写ってしまっていた。さらに前回撮影できなかった北前舟の錨も撮影でき一安心。これで今日の取材は終了。宿泊先の広島県福山市のホテルに入る。仕事があり部屋で3時間ほど仕事をする。私は以前から夕食を食べないで晩酌をする習慣になっているので、仕事があるとこうしてしまう。仕事に区切りがついたのでホテルのとなりにある焼き鳥屋に一人で入る。秋田とは呼び方が違う焼き鳥の名前がメニューに並んでいて、店の親父に説明してもらうのが楽しい。この先取材行程は長いので、食べ過ぎ飲みすぎに注意をして早めに切り上げる。
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来なきゃ、わからないことばかり
8月23日(木)
まだほかの客がいないホテルのレストンで和朝食を手早く食べ出発。いい天気だ。高速道路は使わないで国道2号バイパスで尾道に向かう。非常に良く整備されたバイパスで、まるで高速道路のように快適な走行。尾道からは通称「しまなみ海道」と呼ばれるルートで、10数本の橋が島々の間に連続し本州と四国の今治を結んでいる。橋を2本渡り因島へ。島の裏側にある椋浦に行き歴史民族資料館や神社で、千石船や船大工道具など撮影。近くで偶然、幕府の軍船「美嘉保丸」船将・青木忠佐衛門の慰霊碑を見つける。これは北前船ではなく『函館戦争』用の撮影。その足で村上水軍の水軍城を小高い山の上に再現した資料館に。ちょうど広島県内に残されている兜の展示会が開かれていて、その質の良さに目を引かれる。さらにもう一本、生口橋を渡り生口島の瀬戸田町に渡る。ちょうどお昼になったので道路沿いの食堂に入りアナゴ丼を食べる。小ぶりのアナゴを甘すぎない醤油たれにつけ柔らかく蒸していて、とても香ばしくおいしい。アナゴを食べ元気になり午後の取材に。瀬戸田町民会館で千石船の模型、瀬戸田港沿いに残る豪商「三原屋」の屋敷跡や、今は歴史民俗資料館になっている塩蔵などを訪ねる。ここの港も真っ青な空と海を背景に小島が点々と浮かぶ光景で、いかにも瀬戸内海という風情をかもし出している。秋田の海では絶対に見ることのできない独特の美しい景色に、思わずため息が出てしまう。
これで瀬戸内の島の撮影は終了し尾道に向かう。尾道駅前の尾道ウォーターフロントビルのロビーに展示されている千石船の模型を撮影。船の大きさを見せるため、ロビーで遊んでいた子供たちに船と並んでモデルになってもらう。あまりの暑さに尾道名物「からさわ」のアイスクリームをつい買ってしまう。牛乳の味が伝わってくるおいしいアイスだ。今日最後の撮影は、前回夕方に訪問し撮影条件が悪かった兵庫県の赤穂市砂越。岡山県を越え一気に兵庫県の赤穂ICまで走り砂越で数カット撮影。今日の宿泊先、姫路市の姫路キャッスルホテルに入る。ホテルに着くと会社から道路情報誌「ラルート」の校正が届いていた。2時間ほど部屋にこもり校正作業をし今日の仕事を終える。寝酒を飲もうと少し離れた飲食街に行き、「小HANA」という変わった名前の居酒屋に入る。アナゴの湯葉まき揚げもなど気の利いた料理を若い料理人たちが作ってくれ、焼酎の「百年の孤独」や地酒を少し呑み一日を終える。
8月24日(金)
姫路市から舞鶴自動車道を使って兵庫県を南から北へ縦断し京都府宮津市に向かう。自動車道を降りたところが京都府大江町。酒呑童子伝説で有名な町で「日本の鬼の交流博物館」がある。かつて若狭湾からこの町まで由良川の川舟が上ってきていたので川港の撮影が目的。時間がないため鬼の博物館は見学できず。山越えをして日本海沿いの町岩滝に行き文化ホールで北前船模型の撮影を終了し、宮津市にある日本三景のひとつ「天橋立」近くの京都府立丹後郷土資料館を訪ねる。慶応3年に作られた北前船の模型撮影が主目的だが、行ってみると船模型の精密さや造作の良さに感激する。ここでは他にも取材したいものがある。日本海の沿岸各地や青森県の南部地方で昔から織られていた「裂き織」で、古着を紐状にばらばらにして、再度、布に織りなおしたもの。貴重な木綿布を最後まで利用しようとの工夫から生まれた織物で、北前船が運んだ京都の古着も盛んに利用されている。
この資料館には井之本さんという学芸員がいて「裂き織展」を開催した実績がある。無明舎の本のファンだという彼は温泉とマラソン大好き人間で、この二つを組み合わせて全国各地を訪ね、民俗資料館に足を運んでいるという。秋田にも時々来ているらしく話がはずむ。最後は船宿の町として知られた伊根町。ちょうど1年前にも訪れ、民宿でおいしい魚料理を楽しんだ所で懐かしい。伊根はまた浦島太郎を祀る宇良神社や、中国の徐福上陸の地と伝えられ徐福を祀った新井崎神社があるなど伝説の多い土地だ。浦島、徐福伝説はここだけでなく日本各地や、北前船の寄港地周辺にも残されているための取材。予定を終了し宿泊先に向かう。今日の泊まりは商人宿として300年の歴史を持つという宮津市の茶六本館。久しぶりの純日本風旅館で夕食付きなので楽だ。25センチぐらいのハマチの煮魚や、小さな魚介類の鍋などが付く。食後、畳敷きの部屋のおかげで、いつもとは違った新鮮な気分で一仕事。
8月25日(土)
宮津の海岸に面白い石造物がある。「知恵の輪」と呼ばれ300年程前からあるらしい輪灯篭で、以前はロウソクを灯して船に航路を示していたもの。石の角棒の上に大きな輪をせたような形で高さが3メートルほど。「天橋立」とともに観光名物として人気がある。これも船に関係があり今日最初の撮影となる。
宮津の高台にある宮津中学校校庭の一部は、かつて日和山だった所。現在は校庭造成切り崩され面影はないが訪ねてみる。土曜日なので学校は休み。校庭では陸上部が練習に励んでいる。女子生徒の写真を撮る不審者だと思われると大変なので先生に挨拶するが、日和山の撮影という意味を理解してもらうのに時間がかかる。最近は変態カメラマンが少なくないため学校周辺の撮影には気を使う。
次は森鴎外の『山椒太夫』で有名な安寿と厨子王の舞台のひとつ「安寿の塩汲み浜」行く。これも北前船の重要ポイントとなる佐渡島などにも関連史跡があるためだ。早めの昼食を道路沿いのドライブインで済ます。「カツの卵とじ皿定食」はボリュームも味も合格。昼食後は、山椒太夫屋敷跡、安寿姫塚などを写し伝説取材は一段落。昨日、大江町で川港を撮った由良川はこのあたりで若狭湾に注いでいる。その由良川河口近くにある湊十二社という神社に寄ってみると、思いがけず2隻の奉納船模型や廻船問屋が寄進した常夜灯などがあった。事前調査だけではわからないものが、現地に行ってみるといろいろある。こんなときは加藤さんと「来て見なければ分からないもんだな」といつも会話している。
その後はいくつかの神社に立ち寄りながら舞鶴市に入る。舞鶴は北前船の寄港地としてはそれほど重要な港ではなかったが、明治時代に入ってから軍港として、また太平洋戦争後はシベリア抑留兵などの引き揚げ港として有名になった町だ。それでも古い港周辺には廻船問屋として栄えた家々が数軒残っている。舞鶴市歴史資料館、赤レンガ博物館などを訪れ一日の取材を終える。東舞鶴駅前のホテルに宿泊。フロントマンの客あしらいがつっけんどんでちょっと不快になる。へとへとに疲れてホテルに着きこんな接客をされると、「ああ運悪くひどいホルをとってしまったな」と後悔してさらに疲れがひどくなる。
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鯖街道をまたいで北陸を行く
8月26日(日)
今日は朝から雨が降っているが午後からは回復するという予報。ホテルの最上階にあレストランで朝食。フロントマンの対応が悪く昨夜は不快だったが、和朝食はとてもおいしかった。これで昨日のことは帳消しにしてあげよう。レストランの窓から舞鶴の町を見ると、背後を山に囲まれ開けているのは海の方角だけ。なんとなく昔から港を中心に町が発展していったことが理解できる。
今日最初は「舞鶴市引き揚げ記念館」。舞鶴港は戦後、シベリアなどから日本に引き揚げてきた抑留兵が最も多く帰国した港だ。北前船とは直接関係ないが、舞鶴港のイメージを伝えるには引き揚げのことに触れるのが一番のため。二葉百合子が歌ったヒット曲「岸壁の母」もこの港が舞台だ。館長さんが親切に対応してくれ写真の複写などさせてもらう。
舞鶴港からさらに海に突き出た半島にある小さな大丹港に行き神社や港、福井市で掘り出される笏谷石(しゃくだにいし)で作られた狛犬などの撮影をする。この笏谷石はとても加工がしやすく美しい石のため、北前船によって大阪から北海道までの各地に大量に運ばれた。今も狛犬、石段、墓石、常夜灯などとしてあちこちの港周辺に残されていて、北前船その港を訪れたことを教えてくれる証人だ。
雨の中、福井県小浜市にむかう。古代の製塩跡などに寄りながら小浜八幡神社に到着。最初は廻船問屋が寄進した常夜灯でもないかと軽い気持ちで寄ったのだが、事前調査では分からなかった多くの貴重な遺物があることが分かった。各地の廻船問屋衆が寄進した北前船の模型、狛犬、玉垣、石鳥居、石畳などわんさかある。さすがは北前船の重要港だけのことはある。神社から撮影許可をいただき次々と撮影する。腹がすいたので海岸沿いの魚料理の店で焼き魚定食を食べたが、値段が高い割にたいしたことがなくここははずれ。 食後は古い町並みが残る通りや、小浜から京都へサバを運んだ「鯖街道の起点」などを写す。ここではとてもおいしいサバ寿司が入手できたので、家に一本クール宅急便で送る。小浜の海商・古河屋五代目の別邸を公開している「千石荘」、や2ヶ所の神社などに行き取材を終了する。今日はホテルの部屋で二人でビールを飲もうと、焼サバ、から揚げ、冷やっこなどを買って海辺のアーバンポートというホテルに投宿。ところがフロントでチェックインして驚いた。忘れていたがここは食事つきだった。そういえば2食付きで1万円というのを8千円に値切ったのを思い出した。買い込んだ食糧は明日食べることにして早速テーブルにつく。値切った割に料理はとてもよく、かなり本格的な魚を中心にした和食が次々と運ばれてくる。仕事が控えているのでビールと日本酒を少しだけもらい若狭湾の魚料理を堪能する。新しいホテルなので部屋もとてもきれいだし、サービスも申し分ない。小浜に行く人にはこのホテルはお奨めです。
8月27日(月)
昨晩の夕食はおいしかったが朝食も楽しませてくれる。本当にこれで一人8千円なのか心配になるが、間違いなくその料金だった。今日は昨日起点を撮影した「鯖街道」の取材が中心になる。昨日までの天気とは打って変わって朝から青空が広がっている。鯖街道は昨日も書いたが若狭海岸から京都まで山越えをして、鯖を始めとした海産物などを人力で運んだ道をいう。実際は鯖街道とは決まった一本の道ではなく、小浜や敦賀などを起点とした3本ぐらいの山道をまとめて鯖街道と呼んでいる。「京は遠ても17里」といい、塩をしたサバを背に担ぎ一昼夜で京都まで運んだようだ。この道に琵琶湖の湖上交通を加えた輸送路は、北前船が活躍する以前の日本海側北部と京都大阪を結ぶ物資輸送の中心だった。その中間地点に近江商人と呼ばれる人たちがいて利益を得たのだ。まずは宿場町歩きの人気スポットになった福井県熊川宿。ここ2年程で江戸時代の宿場そのもののようだった山間のひなびた集落も、見違えるように整備された。私は3回目の訪問だが行くたびに町は美しくなり、これはきれいにし過ぎではと思ってしまうほど。ここから山越えして滋賀県に入り朽木村に行く。道端に柳の樹が植えられ、たおやかな情緒をかもし出す町並みになっている。一般的な鯖街道はこのまま山中の道を進み京都大原あたりに出ていたようだが、我々はここで鯖街道から離れ琵琶湖岸まで進み高畠町に行く。この町を出身地とする村井一族は、今の岩手県と青森県の一部となっている南部地方に渡り、その際立った商才で南部の殿様から農民までを相手に莫大な利益を手にした近江商人。村井家跡を取材をしていて偶然「鮒寿司」の製造販売の看板を目にした。聞くとこのあたりの鮒寿司は臭いと有名な「熟れ寿司」ではなく、鮒を一度佃煮にしてからつけたもので匂いがしなくて食べやすいという。でも一匹1万円前後と高くちょっと買えない。琵琶湖畔で今津港跡、マキノ町の江戸時代の問屋場をしのぶ湖岸に石垣が並ぶ風景、西浅井町大浦でかつての湖上輸送に活躍した丸子船を展示している「北淡海・丸子船の館」、塩津浜の町並みや塩津神社などを撮影し滋賀県を終え、山越えをして福井県敦賀市に入る。ホテルは明日の取材に行く気比神社の真向い。まだ少し明るさが残っていたので下見に行き、夜は久しぶりに加藤さんと二人でホテル近くの居酒屋に呑みに行く。鯖のひしこ、タコ団子揚げ、串カツ、などを肴にして楽しむ。今日はホテルでの仕事はお休みにする。
8月28日(火)
始めにホテル向かいの気比神社を訪ねる。常夜灯、狛犬、鳥居など撮影し、明治時代初期に「川渡甚太夫一代記」という廻船問屋の奮闘記を書き残した川渡甚太夫の取材に、敦賀市の隣町三方町に行く。この男は阪神タイガースの選手だった川藤の先祖で、地元の宇波西神社に船模型を寄進するなどしている。神社の神主さんの好意でふだんは拝殿の奥深くに奉納されている船模型を撮影させてもらい、さらに神主さんの案内で川藤選手の実家など、甚太夫ゆかりの場所を手際よく案内してもらうことができた。その後、景勝地として有名な三方五湖や若狭湾を見下ろす山の上まで車で上り港を撮影する。
昼食は楽しみにしていた「ヨーロッパ軒」敦賀店のソースカツ丼。ソースカツ丼はこの店の創業者が戦前、東京で始めたもので元祖といわれている。薄めの豚肉をカリカリに揚げ、特性のウスターソースにたっぷりとつけたもので、くどくない味は地元の人々や観光客に大人気。二人でこの他にちょっと奮発しカツにデミグラソースがたっぷりかかったエスカロップも一人前注文し半分ずつ食べてみた。
食べ過ぎの腹を抱えヤマトタカハシの昆布館に行く。敦賀は江戸時代から蝦夷地の昆布が大量に運び込まれた町で、現在もおぼろ昆布などの加工職人が300人もいる。次は鶴賀半島の東岸にある常宮神社。ここには国宝指定の朝鮮鐘が収められていて、古くから朝鮮半島との交流を表す貴重な証拠。神社には玉垣という社の周りを囲う石の垣根があるが、玉垣には寄進した人の名前を刻むことが多い。そこで常宮神社の玉垣の刻名を一本ずつ確認していたら、青森県鰺ヶ沢港にあった廻船問屋の名が見つかった。秋田のすぐ近くなのでうれしくなってしまう。
「函館戦争」の関わりで水戸から敦賀まで逃げてきたものの、明治政府軍に捕らえられ3百人以上が惨殺された「水戸天狗党」の墓が敦賀にあるので撮影し、最後に鶴賀港を写して今日の取材を終える。ホテルは昨日今日と連泊なのでとても楽。急ぎの仕事があったので十時ころまで部屋で仕事をする。その後は一人で昨夜も行ったホテル横の居酒屋に呑みに行く。店の奥さんは台湾人で昨日とは打って変わって台湾料理を中心に出してくれる。豚の耳や水餃子、にら饅頭などにとっておきの招興酒まで呑ませてくれた。店の親父は五木ひろしといとこで、さらに今日実家を訪ねた阪神の川藤選手と同級生という。ふたりの思い出話をいろいろ聞かせてもらい、楽しい一夜を過ごすことができた。
8月29日(水)
ホテルで朝食を頼んだら見慣れない7センチぐらい小魚の開きが並んでいる。名前を聞くと「温泉カレイ」という。小さいカレイを開いて一夜干しにしたただけらしいが、なかなかいける味。さあ、きりっとしたおいしい朝食を食べ終え今日の取材に出発。
最初は今回取材の目玉のひとつ福井県河野村にある北前船主の館・右近家。北前船で大成功した豪商の一人で、明治末期の北前船衰退期にも上手に近代的経営に移行し、多くの蒸気船を保有する会社や船舶保険会社を起こし、現在も日本海上火災の経営に携わっている。その右近家の本宅は明治時代に建てられ現在も完全な姿で保存、公開されている。 役場の担当者山岸さん、村史編纂委員の右近さんなどが丹念に案内してくれる。広大だが贅を抑えたとても品のある屋敷にはため息が出てしまった。本宅のすぐ背後の丘には明治時代に、大林組がスペイン風の設計で建築した離れまである。窓から芝生の庭越しに見る海の景色は日本離れした雰囲気だ。
村内の神社に奉納された主な船絵馬は、ほとんど右近家の蔵作りの絵馬堂に展示されているのでまとめて撮影でき大助かり。磯前神社に寄りこの村の取材を終える。海岸通りにある母さん一人でやっている食堂で昼食。私が頼んだカツ丼の上には山椒の粉がかけられ、たっっぷりの汁でご飯がずぶずぶ。食堂の母さんに聞くと「京都で料理修行したので京都風よ」という。一杯550円のカツ丼、これが京都風なのかと思わず微笑んでしまう。
峠越えをして宮崎村へ。北前船が各地に運んだ陶器、越前焼の展示をしている「福井県陶芸館」へ。展示館には中世から現代まで越前焼の逸品がずらりと並べられている。そのあまりの見事な焼き物にただただ驚くばかり。船で運搬の際、越前浜沖で沈没した船から最近引き揚げられた「海揚がり」のすり鉢などを撮影する。
途中朝日町の天王八坂神社に寄り、一時間ほど離れた内陸の町越前大野市へ。大野藩は江戸時代末期、西洋式帆船「大野丸」を建造し商売を始め、各地に「大野商店」を出店し成功、大変な商才を発揮した。その「大野丸」や大野城跡などの撮影をして予定を終了、ホテルに入る。ホテルは新築で驚いたことに部屋の大きさがスイートルームほどもある。浴室も大変広く豪華。これで一泊6000円は安すぎる。いろいろ考えたが分譲マンションが売れずホテルにしたのではないかと勝手に結論づける。広い部屋でゆっくり原稿を書く。
8月30日(木)
朝早いためホテルの朝食は食べずに出発。福井県大野市から石川県境に近い海岸の町、三国町に向かう。移動には2時間近くかかりそうだ。今日の取材はほとんどが三国町となる予定。途中から福井市に向かう朝の出勤ラッシュにぶつかり車の流れが悪い。途中のコンビニで弁当を食べる。9時ころ三国町に到着。最初に川崎船発祥の地といわれる川崎集落に行く。川崎船は主に漁船や荷物運搬船として日本海沿岸各地で活用された船で、最近各地で川崎船の研究が盛んになってきている。三国港、日和山などを撮影し、明治時代の小学校校舎を復元し歴史資料館とした「龍翔館」を訪ねる。龍翔館には三国の町に多大な利益をもたらし、町を発展させた北前船の資料を始め、さまざまな歴史資料が展示されている。1階ロビーには大型の北前船模型、船絵馬、2階には三国港のジオラマ、珍しい北前船の帆など北前船関連資料がたくさん並べられている。昼食は龍翔館の学芸員お奨めの蕎麦屋「盛安」。よほどの人気店なのか駐車場も店内も超満員。ガイドブックを手にした観光客もちらほら見える。私は福井名物の「おろし蕎麦」加藤さんはミニカツ丼が付く「蕎麦セット」を食べる。味はなかなかだったが、忙しさのためか店員が怒ったような顔をして客あしらいをしているのがいただけない。食後、近くの和菓子屋で「酒饅頭」をつまむ。事実かどうか確認できないが、酒饅頭は北前船で日本各地に伝わったともいわれている。食べてみると秋田の酒饅頭とはだいぶ味が違う。午後は町内の神社やお寺の撮影をして観光名所の東尋坊に向かう。東尋坊は海の難所で船乗りに恐れられた岬だった。途中、三国港の防波堤に寄る。ここは日本で最初に防波堤が築かれた所で、工事のため外国から招かれた技術士は画家のエッシャーのお父さんだった。その後、幕末にロシアの南下政策に備えた台場跡などに行き取材を終える。今日の宿泊は福井市のワシントンホテル。部屋がきれいでありがたい。10時半までパソコンに向かい仕事をし、一人で近くの居酒屋に行く。ホテルの斜め向かいにある「あんぶん春」という店で、春さんという女性がアルバイトを使い切り盛りしている。カウンターの大鉢にはイワシの煮魚や、牛筋の煮込み、ナスの煮物などおいしそうな肴が並び、黒龍、天狗舞など私が好きな酒もそろっている。春さんの福井弁も耳に心地良く、いい店にめぐりあうことができて、ぼんやりしたイメージだった福井県の印象が俄然良くなった。
8月31日(金)
私も加藤さんも大の納豆好きで毎朝納豆がないと物足りない。そのため前日必ずスーパーで地元産の納豆を買い込んでおき、ホテルの朝食に持参し食べるのが習慣になっている。今朝の納豆は福井市で作られている「東京納豆」。大粒の大豆が使われ納豆本来の味がするおいしい納豆だ。納豆のおかげで元気をつけ福井市内の取材に張り切って出発。
現在の天皇家の先祖となる継体天皇はここ福井の出身。継体天皇はまた、笏谷石を加工することを人々に伝授した恩人という言い伝えもある。その天皇像が福井市内の足羽山にあるので撮影。次は北前船に積み込まれた独特の構造をもつ船箪笥を、おそらく現在日本で唯一製造している「匠工芸」社を訪問。博物館に展示されている船箪笥をいくら見ても正確な構造がわからないため、社長さんから現物を前にしてレクチャーを受ける。また、北前船が福井から日本各地に運び現在も石造物が大量に残る笏谷石は、昨年から安い中国石の輸入に負け切り出しが中止されているが、周辺の石材屋さんに取材をする。
これで福井市を終え北陸自動車道で石川県加賀市に向かう。途中のICで昨日に引き続きおろし蕎麦を食べる。加賀ICを降り大聖寺川河口の塩屋港と瀬越港へ。瀬越はわずかな戸数の村だが北前船で大変な財を築いた廻船問屋を何人も輩出し、隣りの橋立とともに明治時代の新聞で「日本一の富豪村」と紹介されたほど。現在は没落した家がほとんどだが、広大な屋敷跡がいくつも残されていて往時を物語っている。
次に訪れたのは先の「日本一の富豪村」のもうひとつ橋立。現在も「北前船の里資料館」や北前船主屋敷「蔵六園」など、かつての豪商の屋敷が公開されている。北前船の里資料館は豪壮な屋敷内に、北前船に関する資料が数多く並べられ訪れる人も多い。ここで秋田県能代の廻船問屋が発行した「引き札」という、現在の宣伝チラシを見つける。
最後に「加賀百万石時代村」に寄る。ここは「日光江戸村」などと同じ経営の江戸時代テーマパーク。巨大な北前船を模した建造物があり、中では「激戦北前船」などの迫力映画が見られるしくみ。参考のため見せてもらったがこれがなかなか面白い。
今日のホテルは加賀市役所のある大聖寺駅前のアパホテル。このホテルは各地でホテルチェーンなどを展開している。建物はまだ新しく、部屋も広めで値段が安いので大いに満足。ただ駅前がまだ夜の7時というのにすでに店がほとんど閉まっていてさびしい。今夜は外に出ず部屋で仕事に専念し、持っているウィスキーを飲むことにする。
9月1日(土)
昨日も行った橋立を再訪問。逆光で撮影できなかった「北前船の里資料館」の外観を写し、豪商の家が立ち並んでいた町並みを回る。かつての面影を残す家は数件のみで、今は荒れ果てた庭を塀が囲んでいるだけの家が多い。現在も豪華な日本庭園が残る北前船主の屋敷だった「蔵六園」を訪ね、すぐ近くにある出水神社に寄り橋立を終える。
加賀市の隣にある小松市では「安宅関跡」へ。海の神様・住吉神社の境内に残っているので訪ねたが、境内の金毘羅神社に珍しい船絵馬があったので撮影させてもらい昼食にする。小松駅前のアーケード街に行くが、駅前とはいっても寂れていてシャッターが下りている店が多い。一軒の蕎麦屋を見つけ入るが、麺と汁のバランスが悪くあまりおいしくない。すぐそばの八百屋さんの店頭でゴーヤチャンプルーの惣菜を見つけて思わず買ってしまう。パックに大盛りで200円。味も良くさっき食べた蕎麦への不満を補ってくれる。 小松市の博物館で北前船の模型を撮影し、すぐ近くの美川町へ。ここは手取川の河口に中世から開けた港町で、石川県最初の県庁所在地。始めに「フグの糠漬け」を作る「あら与」へ。ここの専務はインターネットで北前船を始め、美川町をさまざま紹介しているので情報収集のため。ついでにブリカマやカワハギの糠付けを買う。ここで製造したフグの卵巣糠漬けは先日、うちの社長のあんばいが取り寄せおすそ分けをもらったばかり。
町並みや廻船問屋「熊源」の熊田家分家が開いた「呉竹文庫」などを撮影し、藤塚神社へ。「あら与」情報で船模型があると聞いての訪問。若い神主さんは薄く透けたガーゼのような生地の上衣にステテコのような衣装で気軽に応対してくれる。涼しそうでうらやましい。境内の金毘羅神社には思いがけず江戸時代のすばらしい船模型が奉納されており大感激。また、神輿蔵には江戸時代の廻船問屋が寄進した豪華絢爛な神輿が収納されていてこちらも大感激。予想外の連続収穫に驚きの藤塚神社だった。
これで本日の取材は終了。宿泊地の金沢市に向かう。金沢は3連泊で金沢駅西口の「ホテルR&B」を予約。ここは1泊朝食付きで5250円と超格安。設備は最低限のものしかないが、できたばかりできれいだし駅前なので文句はない。部屋で9時ころまでかかり仕事を終え片町という繁華街に一人で呑みに行く。前から行ってみたいと思っていた「一合半」という居酒屋で鯨料理をいろいろ食べさせてくれる店。鯨のコロ(脂身)の味噌漬、富山湾で捕れたという(本当かな?)鯨の刺身、マグロの心臓から揚げ、鴨のじぶ煮などを肴に大好きな天狗舞を呑み満足満足の夜だった。
9月2日(日)
朝食付き5250円の食事はどんなものなのか?一階のレストランに行くとセルフサービスで自由に焼きたてのパン、コーヒー、ジュースが食べ放題。残念ながらバター、ジャムは付かないがこの値段では文句は言えない。このホテル名のR&BとはRoom&Breakfastの略で、B&Bをもじったネーミングのようだ。低料金できれいな部屋とモーニングサービスを提供するシステムでワシントンホテルの経営。今のところ日本橋や神戸、博多など全国に12店あるらしい。これからこのようなシステムのホテルは増えていくことだろう。外に出てみると昨夜からの雨はやんで太陽が出始めている。今日は一日中金沢の郊外と町なかを回る計画だ。金沢の海に沿った地区、金石(かないわ)は北前船の豪商として有名な銭屋五兵衛、通称・銭五の本拠地だった所。北前船取材の重要ポイントのひとつだが、銭屋は金沢藩による策略で取り潰し、息子は打ち首になるなどしたため関連するものはほとんど残っていない。最近は「銭屋五兵衛記念館」ができ、巨大な銅像も建てられるなど観光に一役買い人気者になっているようだ。
午前中かけ銭屋関連個所を回り、午後からは江戸時代の天才からくり師・大野弁吉のからくり記念館に行く。弁吉が次々と新しいアイデアを実現できた背景には、銭五の多大な援助があったからといわれている。記念館には弁吉が作ったからくり人形を始め、さまざまなからくり作品が展示されている。金沢の町なかに戻り長町の武家屋敷跡を訪れる。野村家の武家屋敷として公開されてる屋敷の一部は、昨日訪れた橋立の北前船主・久保彦兵衛屋敷の一部を移築したもの。観光客でごった返す屋敷内を撮影するのは一苦労だった。館長さんは以前、材木問屋をしていたそうで、昭和30年代から40年代にかけ秋田にも秋田杉の買い付けでずいぶん来ていたという話を聞かせてくれた。
最後に石川県立歴史博物館で写真借用の打ち合わせをする。学芸員の本谷さんは秋田にも調査で来ることがあるらしくなかなか詳しい。無明舎の本も何冊も持っているとのこと いつもより少し早く5時前に取材を終えたので、歴史博物館近くの繁華街・香林坊に行き九谷焼の皿や、金沢名物の麩などを探す。久々に本屋やCDショップにも寄り、ワインなどを買い込む。ホテルでおいしいチーズとチリワインで気分転換する。
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いい居酒屋の見つけ方
9月3日(月)
今日は秋田を出発してから16日目。始めての休日となる予定だったが、富山県高岡市伏木の棚田記念館から、どうしても今日取材に来てほしという要望が入り、午前中を取材時間に当てることにする。
昨日から3連泊になっている「ホテルR&B金沢西口」でモーニングサービスを食べ、そそくさと伏木に向かって車を走らせる。北陸自動車道から能越自動車道と乗り継ぎ、能登半島の付け根、日本海側の港町に到着したのは9時だった。現在の当主で6代となる棚田家の屋敷は北前船主・塩田家から買い取ったもので、見上げるような高さに組まれた梁の玄関や、侘び寂びのたたずまいが魅力的な茶室などがある。
撮影を終え途中のSAで食事をとり金沢に戻ると早くも午後の2時。雨も降り始めたが久しぶりの休息に心は弾む。加藤さんは部屋で寝てすごすというので、これ幸いと一人で町に繰り出す。前から一度行ってみたかった金沢の台所・近江町市場に足が向く。珍しい「加
賀の太きゅうり」や「金時草」などの金沢野菜や北陸の魚介類をひやかし、金沢名物の竹串に刺した「ドジョウの蒲焼」を立ち食いする。昨日も買ったが九谷焼の専門店・順風堂や鏑木商舗などをまわり、皿や鉢、箸置きなどの小物をいろいろ買い込む。
酒を呑みに出かけるのはいつもは夜の10時過ぎだが、今日は早めに飲み屋に一人で向かう。友人から教えてもらった金沢市役所近くの「いたる柿木畠」というおいしい肴と日本酒が揃った店で、まだ40代なかばくらいと思われる主人と若い料理人2人で切り盛りしている居酒屋。カウンターでその包丁捌きを見ているとなかなかの腕前。富山出身という主人は富山湾に上がった魚を中心に、北陸の生きの良いところをそろえている。酒は「天狗舞」から秋田の「刈穂」「天の戸」まで種類は決して多くはないが厳選した酒が並ぶ。天の戸に対する興味がかなり強いらしく、無明舎で天の戸の杜氏・森谷君が書いた本『夏田冬蔵』の話などで大いに盛り上がり、すっかり仲良くなってしまった。
9月4日(火)
ホテルのモーニングサービスも3日間も同じメニューが続くとさすがに飽きてくる。今日は金沢を離れ能登半島の西海岸沿いに北上し志賀町まで行く予定。
朝一番は金沢市内最後の取材先となる金沢市粟崎町へ。江戸時代から河北潟を抱える大野川河口に港町として発達した所で、木屋家という北前船の豪商の屋敷などがあった。粟崎八幡神社に木屋藤四郎が奉納した船絵馬が多数残されている。八幡神社社殿と奉納された貴重な船絵馬などを火災や盗難から守るため、町の人たちは並々ならない努力をしており、前々から出していた無明舎からの取材要請に対しても慎重で、協議を重ねようやくOKが出たほど。最近はほとんどの取材を断っているようだ。神社内の船絵馬を無事撮影することができ、銭屋五兵衛記念館に貸し出し中の船絵馬の撮影許可もいただく。
銭屋後兵衛が莫大な金をつぎ込み失敗した河北潟干拓。その後、明治、大正、昭和と公共事業として工事が続けられようやく完成した。その間宅地の中央付近に「銭五橋」と名づけられた橋があると聞き訪れてみる。秋田の干拓地・大潟村の小型版というイメージだ。
食堂を探すのが面倒になりコンビニ弁当で簡単に昼食を済ませる。途中の七塚町で日和山の撮影をし、長々と続く砂浜の海岸沿いに走る能登道路にのり快適なドライブ、ではなく取材地への移動をする。食後の満ちたりた腹で単調な海岸道路を走っていると眠気に襲われ、助手席を見ると加藤さんはすでに気持ちよさそうに昼寝中。何とか次の目的地、羽咋郡志賀町に到着。加藤さんをたたき起こし取材開始。志賀町は松前の豪商・山田文衛門や村山伝兵衛の出身地なので、その生家跡や港などの痕跡を訪ねる。白山神社に多くの絵馬が奉納されていたが、区長さんが不在のため夜の8時に再訪することにする。この町には北陸の一宮・気多神社があるが、町なかに気多神社の神主を非難する看板がいくつも立てられている。後から聞いたのだが神社の利権を巡り対立があるらしい。とりあえず羽咋市内のホテルに行くが、このホテルがなかなか大変で、一泊5000円と安いこともありサービス、部屋の汚さ、古さでは今回の取材中最悪のホテルだった。あまりのホテルのひどさに暗くなる気持ちを奮い立たせ志賀町に戻る。神社境内ではお祭りが近いため、子供たちがお囃子の稽古に余念がない。快く絵馬の撮影をさせてもらいホテルに戻る。町にも活気があまりなく外に出る気も起きないため、部屋にこもりたまり気味の仕事に専念する。
9月5日(水)
今日は快晴。輪島市まで行く計画だが取材先が多いので7時ジャストにホテルの食堂に行くと、「えー、朝ご飯食べるんですか」と言われる。予約がないから準備してないとのこと。食堂の様子を見て、これ幸いとチェックアウトしてコンビニに走り弁当を買う。
羽咋市から能登道路、国道249号と乗り継ぎ富来町(とぎまち)福浦へ。明治9年建築の木造灯台が残る港町で、小さな港だが河村瑞賢が西回り航路の寄港地に指定した所で、朝鮮半島との繋がりがあり、金毘羅神社にはさまざまな船絵馬や船模型が奉納されている。
他にも方角石や日和山、遊女と船乗りの伝説がある腰巻地蔵、船乗りの無縁墓が200基も残っていて、さらには民謡や歌謡曲の舞台になったりと話題には事欠かない。
富来港の撮影をするため富来町風無の高台にある西海小学校の屋上に上がらせてもらう。偶然この学校は中日にいた小松投手の出身校。玄関ロビーにはいろいろな記念品が飾られ、小松投手コーナーが作られている。これを見て野球好きの加藤さんは大喜び。 午後一番の取材約束は門前町の劒地八幡神社。町内には食堂がないようなので手前の観光名所・関野鼻にある観光レストランで昼食。久しぶりに二人でカツカレーを食べるが、甘くてカレーらしくないので七味唐辛子をガバガバ入れたらぐっといける味になった。
少し時間があるため予定を早め町内取材をする。門前町の名は今は横浜にある総持寺がかつて存在した町のため付いたもの。この町にある本誓寺は北前船で結ばれていた越後の大工が作ったもので、天を覆うようなかやぶき屋根の大伽藍には圧倒されてしまった。
約束の劒地八幡神社を訪ねると7人ほどの神社関係者の人たちが集まってくれ、親切に説明してくれる。何枚もの船絵馬などを撮影し世間話をしていると、明治初期に秋田の石脇(本荘市)の廻船問屋と門前町の船とのトラブル話があったことを聞かされる。興味深い話なのでいつか調べてみたいものだ。また、近くの金毘羅神社に取材に行くと、秋田県金浦町の中津七右衛門という船持ちが寄進した玉垣があり秋田との縁を感じてしまった。「天領北前船資料館」の展示品を撮影し、廻船問屋で財を築き現在も子孫が住んでいる角南家の広大な屋敷を見学させてもらい、山越えをして門前町五十州(いぎす)に向かう。五十州神社には岡山県下津井の濱屋文蔵が寄進した常夜灯があり、また下津井にはここの船持ちが寄進した常夜灯がある。そんな縁を確認したくて立ち寄ってみたのだ。
だんだん夕方が近づいてきた。急いで残りの鵜入(うにゅう)と光浦の港に回る。途中にあった輪島市上大沢は「間垣の村」として知られた所で、集落全体をそんなに太くない竹で垣根を作り囲んでいる珍しい景観。輪島市までは断崖絶壁が続く海岸線で、すばらしい日没を見ることができた。輪島駅前のホテルに入るともうとっぷりと日が暮れている。疲れたので夕食は各自別々にし、部屋でビールを飲みながらパソコンのキーを打つ。
9月6日(木)
何日ぶりかでホテルで普通の和朝食を食べることができた。今日は輪島から能登半島の先端を回り富山湾側の内浦町までの行程。最初は朝市通りなどで手広く輪島塗の店を経営している柳川昭平さんに会うことになっている。柳川さんは無明舎の著者の一人、弘前の青木さんと親しい人で、家は明治時代には回漕業を商いとしていた。昔の輪島の様子を話してもらい、北前船が佐渡、東北、北海道方面に大量に運んだ輪島塗の撮影をする。その後、輪島の町なかにある住吉神社、奥津媛神社、日和山などを回る。奥津媛神社本宮のある舳倉島に奉納されていると聞き、撮影は不可能と思っていた弁財船模型と板図が輪島の海士町集会所に移され、大事に保存されていることを教えてもらい撮影できたのは大収穫だった。輪島港全景の撮影をするため丘に上り輪島の町を終え、輪島市曽々木のドライブインで昼食を食べるが値段の高さにちょっとびっくり。外に出ると雨が落ちてきた。午後からは源頼朝により奥能登に流された平時忠の子孫で豪農、北前船船主などだった上・下の両時国家を訪れる。両家とも本日は不在という連絡を受けていたが留守の方たちが親切に応対してくれる。時国家の分家・下時国家を先に訪れその豪壮な家のたたずまいに驚かされたが、次に訪れた本家となる上時国家の屋敷のさらなる大きさには圧倒されてしまった。家の中や展示品の撮影にも大変協力的でありがたかった。時国家近くの神社の船絵馬を撮影し曽々木地区を終え、珠洲市仁江町海岸で揚浜式製塩を行っている角花菊太郎さんの家を訪れる。角花さん家族は専売公社による塩の専売中も、塩にワカメを混ぜ、ワカメを販売しているという理屈で製造販売を続けた気骨の一家だ。あいにくの雨で塩田作業は中止になってしまったが、塩炊き作業などを見せてもらう。
ますますひどくなる雨の中、能登半島先端にある禄剛崎(ろくごうさき)にたどり着くが雨と夕方のため薄暗く、とても岬の風景を撮影できない。強引に撮影したが期待できる写真は無理だろう。この後予定では、珠洲焼資料館と高屋港日和山の2ヶ所があったが時間不足と暗さのため中止。宿泊先の内浦町九十九湾の「能登勤労者プラザ」に向かう。朝夕の2食付きなので楽だ。到着したら8時近い。急いで風呂に入りテーブルに並ぶ海の幸に舌鼓を打つ。いびきのひどい加藤さんとは相部屋は無理なので別々にしてもらった部屋は畳敷きで10畳ぐらいあり広い。久しぶりの畳と布団でくつろぐことができた。
9月7日(金)
朝5時前に起きて少し仕事を片付ける。外を見ると昨日からの雨が降り止んでいない。7時からの朝食は焼き魚などが並びとてもおいしいが、天気のことを考えると気が晴れない。天気予報では一日中雨とのこと。いったい撮影はどうなることやら。
朝一番に内浦町小木の日和山に上る。靄がかかった港の撮影もどうにか済ませ、能登町にある民俗館で能登内浦地方の漁船「ドブネ」を撮影。長さが17メートルほどもある大きな木造船だ。後は海岸沿いの曲がりくねった県道や能登道路を1時間以上走って七尾西
湾に面した中島町まで行き、高句麗からの渡来人を祀る「久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社」を訪ねる。日本海をはさんで能登と朝鮮との行き来があったことを表すためだ。すぐ近くの祭り会館では、この町で繰り広げられる枠旗祭の様子をビデオなどで見せてくれ、朝鮮や海との結びつきを感じさせてくれ興味深い。
七尾市に入るとちょうどお昼。港で魚料理を食べさせるフィッシャマンズワーフがあったので焼き魚定食でも食べようかと入るが値段が高いので安いラーメンで簡単に済ませる。港や七尾軍艦所跡を撮影し、海岸線を走り富山市に向かう。途中、寒ブリや氷見うどんで有名な氷見市、鋳物の町高岡市、新湊市などを通り越し約束の4時までに富山県民会館に到着。会館の片隅にしまわれている最後の北前船といわれる「神通丸」の模型を撮影する。これで取材は終了。今日明日と連泊する「富山マンテンホテル」にチェックインする。今
日は雨の中の移動が多く、撮影が少ない割に疲れた一日だった。
一人でぶらぶらと富山駅前に歩いて行き、おいしそうなサンドイッチを買いホテルでしばらく仕事をする。10時近くになり飲みに行くが飲み屋街は客引きが多いのでホテル近くの居酒屋に入る。隣り合った初対面の親父と話をしていると、富山で一番いい居酒屋に案内するからと誘われる。主人夫婦と娘でやっている店でとてもいい雰囲気。カウンターの前の冷蔵ケースには新鮮な魚。目の前の大鉢にはさまざまな料理がズラリ。すでにお腹が一杯なのが残念。親父さんから秋田の「ハタハタのしょっつる鍋」とはどんなものか聞かれ詳しく教えて仲良くなり、明日もまた来る約束をしてしまう。
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18都道府県170市町村を踏破!
9月8日(土)
昨夜はうまい酒を適度に飲んだので快適な朝を迎えることができた。ホテルの部屋は禁煙ルームを取ったので室内が嫌な匂いがしないし、最上階のレストランの窓からは朝食を食べながら、富山平野を囲む壁のような立山連峰を一望することができいい気分だ。今日は富山市内を中心に近隣を回る予定となっている。天気も上がりよい取材ができそうだ。
朝一番に富山市内の長慶寺境内にある佐渡島から運ばれた五百羅漢像を撮影し、郊外にある富山県農林漁業生活センターで「ニシン切り」という干しニシンを肥料用に砕く道具の撮影。この道具は干しニシンを肥料に使った各地に残ってそうだが、以外なことにここでしかお目にかかれなかった。
次に富山市の隣り町・新湊市の新湊市博物館では北前船模型を写した後、近くの大楽寺に行くと北前船に積み込み、蕎麦の殻を砕いた珍しい道具があった。船頭がよほどの蕎麦好きだったのだろう。ほかにもいくつかの神社や寺を回り高岡市に向かう。
高岡市では遣唐使船の模型がある「高岡市万葉歴史館」や、北前船主の持ち家を改修し公開している「伏木北前船資料館」を訪ねる。これで午前中の取材を終え、おいしい氷見うどんの昼食に舌鼓を打ち富山市に戻る。富山市では海岸を西から順に走りながら取材を重ねる。気比住吉社、放生津八幡宮、西岩瀬の諏訪神社、西岩瀬港、東岩瀬の「北前船廻船問屋・森家」、東岩瀬の金毘羅神社、岩瀬諏訪神社などを回る。それぞれ、常夜灯、石鳥居、狛犬、船絵馬、玉垣、社殿などで、北前船に関わりの深い遺物の撮影ができた。
6時に昨夜から連泊となっている「富山マンテンホテル」にチェックイン。このホテルは従業員の接客態度が丁寧なので気持ち良く利用できる。加藤さんと富山駅周辺にちょっと買い物に行きお土産などを買う。今夜は加藤さんも久しぶりに酒を呑みに出たいというので、私が昨夜行った居酒屋に連れて行く。イカの黒作り、白エビのから揚げ、しっかりとした美味い出し汁で煮込んだおでん、富山湾から上がったばかりの“キトキトの魚”の刺身などを肴に、立山、満寿泉などのうまい日本酒が並ぶ。すっかり仲良くなった店の親父さんと「いしる」「へしこ」「さばの飯寿司」「イワシの糠漬け」「鮒寿司」「しょっつる」などの臭い食べ物話に話題は尽きない。
この店も今回の北前船取材行で出会った「私の好きな居酒屋」のひとつに入りそうだ。
9月9日(日)
ここのところ雨が多く涼しい日が続いていたが、今日は朝からぐんぐん温度が上がり始め、湿度も高いので汗まみれの一日になりそうだ。今日は富山市から新潟県の上越市までの行程。移動距離が長いので無駄のない取材をしなければならない。
取りあえず富山市内の残り一ヶ所、白岩川河口近くにある水橋町の郷土資料館を訪ねる。ここには北前船に積み込まれていた船道具各種が展示されている。また、水橋神社には貴重な船絵馬や、額に入れられた船模型などがあり感激する。神社の総代を勤める相山さんの商売は「富山の薬売り」で秋田にも何十年も通ったらしい。特に秋田市の隣りの河辺郡にお客さんが多かったそうだ。水橋港の撮影をし富山県の取材を終え新潟県糸魚川市に向かう。途中、国道8号沿いで昼食を食べようとするがうまく見つからない。しょうがないので全国チェーンのラーメン屋に入るとこれがひどい味。
魚津ICから北陸自動車道にのり、「親知らず・子知らず」などの日本海岸沿いを走り、午後の2時に糸魚川市に到着。古代から日本海を走る船で各地に運ばれた糸魚川特産のヒスイや、塩の道、天津神社などを訪ね歩く。次の新潟県能生町では道の駅のミュージアムにさまざまな和船が30艘近くも展示されていた。最後に明朝撮影に訪れることになっている白山神社の下見をして今日の予定終了。車に戻ってふと海のほうを見ると夕日がすばらしいので、高台に上り能生港沖に沈む夕日の写真を撮影する。
ここから上越市までは高速道を使って30分ぐらい。ホテルは越後高田駅前の「上越マンテンホテル」。富山で泊まったホテルと同じチェーンだ。オープンしてまだ間もないのかどこもぴかぴかだ。ホテルには無明舎から「ラルート」の校正ゲラが届いていたので早速部屋にこもり校正を始める。校正作業を2時間弱で終わらせ、車を出し高田市内を少し走ってみる。9時前なのにほとんどの店は閉まっていて非常にさびしい印象。町並みが古く北陸名物「がんぎ」が延々と続き、昼に散歩でもしたら楽しそうだ。ここは夜が似合わない町のようだ。駅前にある“おふくろの手料理”を看板にしている「味の蔵」という居酒屋に入り、煮魚などを肴に八海山や久保田などの新潟の酒を静かに呑む。
9月10日(月)
時間がないのでホテルの朝食は食べず7時前にチェックアウト。ふと気づくと駐車券が見つからない。部屋に戻ってみてもどこにもなくフロントの女性に再発行を頼むととても面倒くさそうにされてしまう。今までマンテンホテルチェーンスタッフたちの親切さのおかげで、とても快適に宿泊できていたがこの一人の女性のために少しイメージダウン。
空腹の腹をなだめながら上越市の直江津海岸で安寿姫と厨子王丸の供養塔を撮影。北陸自動車道で昨日も行った能生町に向かう。途中の名立谷浜ICで豚汁定食に持参の納豆をかけ満足の行く朝食を食べる。能生町の白山神社には約束の9時前に到着。ここに奉納された97点の船絵馬は国の重要民俗文化財指定。絵馬や神社の歴史に詳しい寺崎さんが応対してくれ、貴重な「ハガセ船」などの絵馬を撮影。
また北陸自動車道にのり出雲崎市に向かう。このあたりから台風15号の影響で雨が降り始める。この台風にはこの先3日間ほど影響を受け予定変更する羽目となる。道の駅にもなっている「越後出雲崎天領の里」には11時頃到着。いよいよ雨が本降りとなってきた。佐渡には金山があったため幕府の直轄地であった。その佐渡奉行が本土と佐渡島の赤泊と行き来するとき乗船した「御奉行船」を再現した船や、北前船の模型などが館内に展示されている。ここのレストランで「イシモチの焼き魚定食」を食べ、奉行所跡や町並みや善宝寺の船絵馬などを撮影し次の寺泊に向かう。
天気予報は明朝あたりから台風の影響で海が荒れる模様という。明朝、佐渡島に渡る予定になっているのでこれは大変。夕方のフェリーで今日中に島に渡ることに変更する。フェリー会社や新潟のホテル、佐渡の旅館に連絡を入れ予約変更やキャンセルを頼む。
残る寺泊町ではまず白山媛神社に行き国の重要民俗文化財に指定されている数々の船絵馬を撮影。ここで撮影に時間がかかりすぎたのと雨のため、残念ながら寺泊港や円福寺など他の撮影予定は中止。佐渡島と違い秋田と陸続きなので後で再撮影に訪れることにし、取材を切り上げ新潟のフェリー埠頭に向かう。他にもフィルムが不足気味になってきたので、新潟のヨドバシカメラで購入しなければならないので急ぐ。
どうにか時間に間に合い、フィルムもフェリーチケットも購入できた。港近くのローソンで中華弁当を買いフェリーに乗り込む。台風のためか船はすいている。中華弁当を肴に缶ビールを1本だけ呑む。加藤さんは運転がないので美味そうにウィスキーを飲んでいる。
佐渡島の両津港には8時半に到着。急遽予約した宿は両津の「おけさ」。生協組合員のための保養施設で、温泉付きなのでとてもリラックスできた。
9月11日(火)
朝、台風が気になりカーテンを開けて外を見るが、雨が少し降っているぐらいで風はたいしたことない。少し拍子抜けがした。ニュースでは台風は速度が遅いことと、進路が東にそれ始めたため、新潟県にはまだ影響が少ないと伝えている。
食事は大広間にお膳が並べられた典型的な旅館での朝食風景。焼き魚の塩鱒が油ものっていておいしい。他のお客さんは新潟から献血車とともにきた看護婦さんたちで、お膳を前に白衣やナースウェアでの食事風景はあまり見たことがない。
小雨の中、宿泊した両津から山越えして畑野町松ケ崎に向かう。御奉行船や北海道の松前と縁がある松前神社により赤泊村に向かう。赤泊港は佐渡奉行の渡海地だった所。相変わらずの小雨の中、港の横にある郷土資料館の4階に上がらせてもらい港の撮影。廻船問屋だった田部惣八家に寄る。役場に聞いても情報が無く困っていた両津市真皿川の山中にある光明仏寺のことが確認でき大収穫。この寺については後で詳しく伝えよう。
小木町小木港には昼近くに到着。港近くの食堂で昼食。「たれカツ丼」という聞いたことが無いメニューがあったので注文してみる。薄めの豚肉をかりっと揚げて味付けしたもので卵やタマネギなどは使わないシンプルなカツ丼。
昼からは海運資料館で撮影。船模型、板図という船の設計図、船絵馬、船箪笥、船大工道具、北前船が運んだ各地の交易品から、北前船内部を原寸で再現した船頭部屋まで、ありとあらゆる北前船関連グッズが揃っている。展示品の豊富さではトップクラスである。
次はいよいよ今回の取材で一番見たかった原寸で再現された700石積み北前船「白山丸」だ。宿根木にある「佐渡国小木民俗博物館」の巨大な船倉庫に収納されている。
特異な技術を持つ大工集団「気仙大工」たちを岩手県の大船渡周辺から呼び寄せ、半年あまりかかって建造した“本物”の北前船だ。実際に目の前にしてそのあまりの大きさにたじろいでしまった。10数年前、高田屋嘉兵衛の持ち船「辰悦丸」を再現し、日本海各地の港を巡った船は鋼鉄船に板を貼り付けたものだったが、この「白山丸」は当時の弁財船(北前船)を忠実に建造したもの。学芸員の高橋一郎平さんが再現の様子や、各部分の使い方を丁寧に説明してくれ、今まで理解できなかった点がするすると解決してゆく。
また、民俗博物館には佐渡のあらゆる民俗資料が大量に展示されていて、公開していない収蔵庫の中も資料の山だ。板図などは何十枚もあり、日本中にある板図よりここ一館のほうが多いだろう。各地の民俗博物館などを回って痛切に感じるのは、学芸員の思いが強烈だとおのずと資料も集まるのではないかということだ。予算だけの問題ではない。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている宿根木の町並みを撮影し、今日の取材を終える。一時間ほどかけ宿泊地となる相川の旅館に到着。夕食にはブリや、イカ、佐渡牛などの料理が並ぶ。部屋でのんびりパソコンに向かい原稿を書いていたら、突然テレビにニューヨークでのテロのニュースが飛び込んできた。訳がわからない混乱の画面が続く。世界中にリアルタイムで発生から同時に伝わる恐ろしい事件の始まりは、湾岸戦争の発生をテレビ画面が伝えた時と似ている。2時過ぎまで見つづけてしまう。
9月12日(水)
新潟は台風の直撃は免れたみたいで一安心。しかし、相変わらず雨は小ぶりだがやまない。旅館の朝食を食べながら見るテレビのニュースは、昨夜のテロによるアメリカの混乱を伝えている。もうブッシュは戦争だと口にするし、パウエルなどの湾岸戦争スタッフがいる今のブレーンはもうその気になっているようで、悪夢の再現が起き無ければよいが。
まず今日は最初に遠い所から取材開始しようと相川から海岸線を北上し、両津市真皿川の山奥にある光明仏寺に向かう。この寺は木喰上人が開いたもので、昨日訪ねた寺泊の廻船問屋・田部惣八が木喰を敬い寺泊から遥か離れた山中のこの寺に通ったというもの。ここには田部が立てた供養碑もあったとされているが、実はこの寺に現在も行くことができるのか、実際に供養塔があるのか事前に確認できず困っていた。それが昨日、田部家を訪れ車で行けること、供養碑が実際にあることが確認できたのだった。
海岸を真皿川まで行き山道に入る。この道は昨年やっと舗装が完成したばかりで、それまでは砂利道だったらしい。光明仏寺は峠からさらに山中に入った所にあった。訪れる人はほとんどいないようで荒れている。石碑も見つかり、さあ戻ろうと車をUターンさせたがスリップしてうまく車道に戻れない。降り続く雨のためヌルヌルの道になってしまっている。脱出のため加藤さんと努力するがどうにもならず、しょうがないので私が麓の集落まで歩いて行き、誰かの車で引っ張ってもらうことにする。歩いて2時間以上ありそうだし、山道は車の通行が期待できない。ところが歩き始めて10分、クロネコヤマトの配達車が偶然にも後ろから走ってきた。地獄に仏、のようなうれしさだった。しかしこの車では大きくて光明仏寺には入ってゆけそうもないので麓まで送ってもらう。幸い漁師の紹介で建設会社の人がジムニーで来てくれ、引っ張るといとも簡単に抜け出ることができた。
ようやく本来の取材に戻るがかなり時間を浪費してしまったし雨もやまない。これでは予定の取材は消化できそうに無い。おもいきってもう1日佐渡に泊まることにする。昨日の旅館に宿泊を頼み、またフェリーとホテル3泊分の予約を変更する。その辺の店でパンやハムでお腹を満たし、岩屋口の集落、安寿塚、相川の町並みなどを撮影し取材を終える。
他に客がいない旅館では我々がまた戻ってきて歓迎してくれる。急いで用意をしただろうが夕食にはおいしい魚などが並ぶ。部屋に戻り原稿を少し書き、近くの酒屋で買ってきたスペインワインを開ける。テレビはアメリカのテロのニュースを流しつづけている。
9月13日(木)
昨日までの雨はすっかり上がりすがすがしい朝を迎えることができた。今日は昨日大幅に狂ってしまった予定を消化して、夕方のフェリーで新潟に戻るという計画だ。
朝一番に佐渡金山で栄えた相川の町並みを撮影し、次に相川町技能伝承展示館を訪ねる。日本海沿岸各地に残る「裂き織」取材が目的だ。ちょうど町の女性たちが裂き織の作業に励んでいて写真を撮らせてもらうことができた。
相川町史編纂室に挨拶に行き、資料調査でお世話になったお礼を述べ、佐渡金山跡にある露天掘りの跡「道遊の割戸」を見に行く。数十メートルの高さがある大きな山が金を掘りつづけたため縦半分に割られたというもので、「金を求める人間の欲の表れ」と司馬遼太郎が何かの本に書いていたことが思い出された。
相川町の撮影を終え、峠越えをして真野湾側に向かう。真野湾沿いの佐和田もかつて北前船が立ち寄る港があった所。たまたま町内の神社に町文化財指定の船絵馬があるという表示を見つけ、区長さんにお願いして撮影させてもらう。珍しい船絵馬が数点あった。午前中にここらあたりの取材を終えてしまいたいため、さらに内陸寄りにある金井町の順徳天皇が流された「黒木御所」に回る。順徳天皇は「承久の乱」で隠岐に流された後鳥羽天皇の第三皇子で、5月に取材に行った隠岐の配所もここと同じく「黒木御所」といった。隠岐、佐渡ともにかつては流刑の島だったのが、今では観光地に変貌している。
郊外にあったラーメン屋で手早く昼食を済ませ真野町椿尾へ。この地区には昔から加工しやすい石が産出するため、石工を生業とする人が多かった。特にお地蔵さんの加工が盛んで、北前船により各地へ大量に運ばれたものだ。今では石工も一人しかいないらしいが、うまくその人に話を聞くことができ、いろいろ撮影させてもらう。
佐渡島の最南端に位置する小木町の沢崎、深浦などの港や、昨日も行った宿根木でいくつかの撮影をして佐渡の取材を終え、夕方のフェリーに間に合うよう両津港に向かう。フェリーのチケットを購入して、夕食用にJAのスーパーで弁当を買う。
今日明日と連泊する新潟シティホテルに到着したのは夜の9時過ぎ。ホテルの周りはネオンがまぶしい繁華街だが疲れて呑みに行く気分になれず、部屋で本を読みながらビールと昨日の飲み残しのワインをチビチビと飲む。
9月14日(金)
今日は新潟市内と、もし時間があれば雨のため撮影が残っている寺泊町周辺に行く予定。朝食はホテルにレストランがないのか、同じビル2階にあるレストランで食べるようになっている。手間を省いた味気ない朝食でがっかりしてしまう。
新潟市内取材は日和山から。以前は信濃川河口近くの砂丘頂上にあったが、波による海岸侵食で砂丘は削り取られ面影は無い。次に行った緑町の湊稲荷神社には台座ごとぐるっと回る珍しい狛犬「願懸け高麗犬」があった。狛犬を回転させると願いがかなうというので、遊女が馴染みの船乗りが海が荒れて帰れないよう願掛けしたという。古い狛犬は回され過ぎて壊れたので現在あるのは2代目。また、西厩島町の金比羅神社には28点もの古い和船模型が奉納されていて感動してしまった。これは国の重要民俗文化財に指定。
次は郊外にある新潟県立自然科学館。ここには佐渡の小木町宿根木で復元した千石船「白山丸」の三分の一サイズの模型がある。同じ船から同じ大きさで作られた青森県深浦町の「津軽深浦・北前船の館」の和船模型と兄弟船ということになるようだ。
町なかに戻り市役所近くにある白山神社では、畳4枚分の大きさという巨大船絵馬や、鳥居、常夜灯、狛犬などを撮影する。午後から行くことになっている旧新潟税関庁舎を利用した新潟市郷土資料館に向かい、途中の中華料理屋で中華丼を食べる。夫婦でやっている店で、薄味だが中華料理の味付けがしっかりしているのかなかなかおいしい。
新潟市郷土資料館には新潟港に関する資料が各種展示されていて興味深い。さらに旧税関庁舎は明治の洋館造りで一見の価値がある建物。保税倉庫だった付属の石蔵もいい。最後に信濃川の対岸にある佐渡汽船のフェリーターミナルビル展望室から新潟港の写真を撮影して新潟市を終える。まだ3時と時間があるので北陸自動車道で寺泊に向かう。しかし、三条・燕ICまで行くとまた激しい雨になってしまい、観念して今日の取材は終了にする。
腹の調子が悪いという加藤さんをホテルに送って行き一人で買い物に行く。本屋、古本屋、デパートなどを回り久々の買い物。家族や無明舎の人たちへのお土産も買う。夜はホテルの近くに呑みに行く。最初、ホテルのすぐ裏にあるこぎれいな造りの居酒屋に入ったが失敗。店同様、料理もきれいにまとまっているがぜんぜんおいしくない。早々に退散して車を運転中に目をつけていた近くの玄徳という居酒屋に向かう。ここは大当たり。川エビ料理、のっぺい汁、鯨の赤身が脂身に変わる微妙な部分を味噌につけた「鯨の味噌漬」など。前の店で少し食べた後なのが残念でならない。また来たい店が一軒増えた。加藤さんにお土産にするため「鯨の味噌漬」を少し分けてもらう。
9月15日(土)
今日も朝食は昨日と同じまずいレストランなので、このために買ってきた鯖の塩焼きと納豆を持ち込む。夜通し降ったりやんだりだった雨はすっかり上がり久々の快晴だ。今日は新潟県から山形県の酒田市までの行程になっている。
ホテルを8時前に出て国道7号で中条町へ。山形県小国町から流れてくる荒川河口に港があった中条町桃崎浜。ここの荒川神社に奉納された、国の重要民俗文化財に指定されている船絵馬群を保存するための収蔵庫を訪ねる。運良く神社前に地区長さんと神社の氏子総代の方々がいてすぐ収蔵庫を開けてもらう。予想を上回る質の高い貴重な船絵馬群に興奮してしまう。ここには能生町の白山神社、寺泊町の白山神社と並び新潟県を代表する質と数が揃った船絵馬が大事に保存されている。
荒川河口、村上市の岩船港、高台にある石船(いわふね)神社と訪ね歩く。石船神社では船の帆を降ろした姿が描かれた珍しい船絵馬や、船大工たちが作ったという船の内部を思わせる造りの神社拝殿や鳥居を見ることができた。また、温泉で有名な村上市瀬波浜町の日和山と、和船模型が8艘奉納されている八坂神社も訪ね撮影する。
これでちょうど一週間かかった新潟県を終わることができ山形県に向かう。山形県は事前に撮影をしているため2日間の予定だ。昼ご飯に三面川の鮭で有名な村上の鮭料理を食べたかったが時間が無いため今回は我慢し、コンビニ弁当で腹を満たす。
山形県最初の取材地は県境の鼠ヶ関。ここのあたりは取材で時々訪れる所なので土地鑑もあり、自分の庭にでも戻ってきたような気分になる。事前情報が無かったが海上安全の神様・厳島神社を地図で見つけてよって見る。思いがけず3メートル以上の大きさがある大型の奉納船模型があり撮影させてもらう。今でもお祭りに使っているそうだ。有名な鼠ヶ関跡にも寄り、鶴岡市三瀬にある若狭敦賀から勧請した気比神社、由良海岸、加茂港の日和山、加茂の町並み、蝦夷地に運ぶ酒を大量に造っていた大山地区なども撮影する。そろそろ暗くなってきたが最後は善宝寺の五重塔。青森の下北・大畑から運ばれた青森ヒバで作られたものだ。他にも松前の廻船問屋の名が入った常夜灯なども見つかる。
宿泊は酒田でいつも泊まるホテルサンルート。あと一日で秋田に着き長かった取材は終了なので今夜は二人で打ち上げをすることになっている。庄内の朝日村に住み無明舎の仕事をしているフリーライターの長南さんも参加予定だったが、急な不幸があり参加できず。長南さん推薦の「魚一」という居酒屋に行く。ノドグロの塩焼き、メバルの煮魚、口細カレイのから揚げ、トゲウオと小さいコノシロを一度から揚げしてから佃煮にしたものなどあれこれ庄内の魚を食べる。置いている酒のほうはいまいちだったが満足の一夜だった。
9月16日(日)
このホテルの朝食はバイキングだが手作り惣菜の趣がありなかなかいけるので、食べ過ぎないよう注意。午前中に山形県を終えたいので酒田港へ向け急いで出発する。
酒田港は北前船寄港地の中でも東日本を代表する重要港だった。上流に天領が多い最上川では舟運が発達し、米や紅花を始めとした大量の物資が行き来した。それらの荷が北前船や、太平洋側を帆走する東回り航路の船に積み込まれ、また各地からさまざまな物資が運ばれてくる物流拠点だった。そうしたことを背景に酒田には本間家や鐙屋などの大地主、豪商が生まれたのだ。
河口近くにあり現在公園になっている日和山には、高田屋嘉兵衛の高田屋の名も彫られた常夜灯を始め、石鳥居、方角石、福井から運んだ笏谷石の石畳、狛犬、北前船の錨、船模型が奉納されている金刀羅神社などの遺物から、河村瑞賢像、池に設置された北前船の大型模型など関係するものは多い。本間家の米蔵だった三居倉庫、旧鐙屋、旧本間家などすでに写真は撮影しているので、今日はこれらを加藤さんが取材で確認するだけ。
酒田郊外にある白鳥神社には船絵馬があるため訪れると、酒田市資料館に貸し出し中という。そこで町なかに戻り資料館へ。船絵馬、船模型、御用船に立てた庄内藩の旗、船箪笥などを撮影。また、郊外にある船玉神社に寄ってみると20点ほどの船絵馬がありそれも写させてもらう。遊佐町では北海道に渡りニシン漁で財を築いた青山留吉の本邸による。小樽には青山家の別邸、札幌の北海道開拓村には漁家住宅が残されている。これで山形県が終了。昼食は遊佐町のドライブインで定食を食べ、いよいよ最後の秋田県に入る。
秋田県の撮影はほとんど8月中に終えているので、残りの撮影と確認作業が中心となる。まずは象潟町郷土資料館へ。ここに方角石が展示されている。他にも町内の神社にあった絵馬や北前船の錨などもありいっしょに撮影する。芭蕉が訪れた蚶満寺境内には方角石、現在は象潟海水浴場海岸の沖に残る船つなぎ石、日和山などにも回る。
金浦町では港の日和山、台場跡、方角石。仁賀保町では2個ある方角石、船魂大神碑、資料館に展示している船模型など見て歩き本荘市に到着。本荘はあまり残っているものが無く、古雪港と石脇港の跡、新山神社の石鳥居ぐらい。本荘は後日再調査が必要だ。
松ヶ崎の稲荷神社にある石鳥居を写し、最後となる岩城町御嶽神社による。ここの石鳥居に廻船問屋の名が彫られていると聞き訪ねたのだが間違い情報で、地元の講中名があるだけだった。これですべて終了。ようやく秋田市だ。
今回の取材行程はちょうど30日間。3回の取材期間を合計するとおよそ70日。18道府県で170市町村を回り取材個所は600ヶ所を超え、車の走行距離はおよそ2万kmとなった。これを『北前船みなと紀行』(上・下)にまとめ来春発行の予定で加藤さんは千葉の自宅で執筆する。また、撮影を担当した鐙が、このインターネットに連載した取材日記をリライトして『北前船取材日記』として本にする予定になっている。
少し休みたい気もするが、明日からはたまった仕事の整理、新たに開始する仕事、そして「北前船取材」の膨大な点数となった写真整理と原稿書きの仕事が待っている。今日は久々に家に戻り、風呂に入ってゆっくり酒を飲もう。