中城湾と喜納昌吉さん

 青く輝く沖縄の海は美しい。島全体が珊瑚礁にかこまれ、沖合いのリーフ(暗礁)でたえず白波を立てている。遠浅で砂浜もきれいだ。東北では、こんなに明るい海を見ることはできない。
 宿泊した恩納村のリゾートホテルからレンタカーで南部の摩文仁へ向かう途中、沖縄の海の素晴らしさを絶賛していた仲間の意向で、海中道路を通って伊計島へ寄り道することにしたが、沖縄市郊外で道に迷ってしまった。曲がりくねった起伏の多い道路で右往左往しているうちに、見覚えのある一画にでた。
 まぎれもない中城村島袋である。十三年前の夏、私はミュージシャンの喜納昌吉さんを訪ね、喜納さんの世話で一か月間ここに滞在させてもらった。喜納さんのメンバーの若い人たちが飲み食いの面倒を見てくれたうえ、沖縄民謡の大御所であるお父さんの喜名昌永さんの家に呼ばれてときどき御馳走になった。お母さんの千代さんは「おなかすいていないかい」といって、沖縄料理を山のようにテーブルに並べてくれたものだ。
 「戦争のときに親と三人の兄弟を亡くした十二の戦争孤児をつれて摩文仁まで逃げた。私は捕虜としてハワイに送られ、『連れていってくれ』と泣いていたその子とは別れわかれになったが、名前だけ覚えていて戦後十七年ぶりに再会した。あの戦争ではたくさんの人が悲惨な死に方をしました」昌永さんの話が今も印象に残っている。
 滞在中は喜納昌吉さんはじめ昌永さん、千代さんなどに親切にしていただき、元琉球立法院議員の山城善光さんや、人口二百人ほどの久高島の西銘徳夫さんの家で酒を飲ませてもらったりした。
 喜納昌吉さんの音楽の熱烈なファンだった私は、昼間はバンドの仲間の運転で島巡りをしたり、中城湾が見える丘を散歩したりした。透き通るような青い海が広がり、道路ぎわに赤や黄色のハイビスカスが咲き誇っていた。夜は庭で若者たちと泡盛やビールを飲み、音楽を聴いて過した。リハーサルでやる『東崎(あがりざち)』『花』『島小(しまーぐわー)』などの演奏を聴きながら、感動で涙があふれてくることもあった。
 喜納昌吉さんたちの親切と、南国的なさわやかな海辺の光景が「沖縄の人と風土」として、私の心に終生忘れないような強烈な思い出となって残っている。
 あれから十三年経つ。長期間にわたって居候させてもらった元米軍住宅の前にさしかかり、車窓から中城湾や、見覚えのある町並みが見えてきたときは、何ともいえぬ懐かしさを覚えた。
中城湾から与那原町、佐敷町、知念町と海沿いの国道で南部へ向かったが、知念崎で遊覧船に乗りたいという者がいて、ひと休みした。知念崎の沖合に久高島が見えるが、喜納昌吉さんと佐敷町の黒天港から二十トンほどの定期船で久高島へ渡り、星空を眺めながら海辺でビールを飲んだことなど思い出す。
 この夜は那覇のホテルで泊まることになっていて、夜、私たち一行八人に那覇の出版社の六、七人が加わり、居酒屋でにぎやかな酒宴が開かれた。二次会では沖縄民謡を聴かせてもらい、カチャーシで盛り上がった。沖縄の忘れ難い思い出がもう一つ増えた思いだ。
 私は、「旅をするなら沖縄がいい」と回りの人たちに言いふらしている。
(青木健作)

女性陣にかこまれご機嫌の青木さん

海南極小記・沖縄本島

 沖縄本島南部の太平洋を望む知念半島の沖合いに久高島という周囲約8キロメートルの小さな島が浮かんでいます。神々しい琉球神話の舞台として知られるところです。エメラルドの海の向こうにはコマカ島という小さな無人島もあり、なんとかそこへ行ってみたいと思わせるようなところです。
 11月、無明舎出版からのお誘いで予期せぬ沖縄旅行をしました。その旅で目にした久高島はとても気になるところでした。
柳田國男『海南小記』は奄美から沖縄列島にかけた名ガイドブックとしても使えますが、その中に面白い文章があります。「久高の屁」という項目です。屁に特別関心があるわけではありませんけど、とにかく「へェー!」というような面白い話があります。
……昔、久高島に住んでいたある巫女が首里の王城に召され、お役を勤めているうちに国王の御心にかない、やがて内宮の人となりました。美しい貞女であったため王の寵愛を一身に受けるいっぽうで、まわりからは幾多の恨みや嫉妬もかってしまいます。ある時、彼女はどうした不調のはずみか大勢の中で不調法なおならをしてしまいます。
 喜んだのは宮中の官女たち、よってさわってこの噂を吹聴したため、御前に仕えることをあきらめ故郷の島に帰ってしまいました。その後、彼女は島で王子を産みます。やがて成長した王子は両親のほんとうのことを知り、抑えがたい父への思慕から浜に出て首里への帰還を神々に祈ります。その祈祷の甲斐あってか、7日目の夜明け方、沖の方から流れてくる黄金の瓜を掬い上げました。
 王子は首里城を訪れ黄金の瓜を王に差し出しながら母の不遇のもとになった屁の顛末、国家の宝となるこの黄金の瓜のことなど仔細に話しました。王は喜び、やがて王子は晴れて王の位に昇って百の果報を受けました。以来、久高島は神々の島として年ごとに国王が島渡りして御拝みされたものといいます。

 知念崎にある知念海上レジャーセンターは観光などのマリンスポット、ドライブの途中、ちょっと立ち寄ってみました。季節外れのせいか訪れる人はほとんどいませんでしたが、久高島や無人島のコマカ島に行くには時間がない。ただ立ち去るのも残念ですので、30分ほどグラスボートに乗りました。船底のガラス越しに海底を覗く小さな観察船です。
 ドライブは5人でしたが、船酔いしそうだからと3人が敬遠し、結局乗船したのは出版社の若い女性編集員とぼくだけです。風のせいか波がけっこううねっていました。機関士さんが珊瑚礁の数ポイントで船を停め、見たことのないような綺麗な熱帯魚や貝、珊瑚など一つひとつ説明してくれましたが、憶えきれるものではありません。しかし、丁寧に教えてくれるものですから聞かないわけにもいきません。同行のTさんに少し船酔いの兆候が見えてきました。海底見物はわずか30分で終わりました。

ドライブの途中小船に乗って

伊江島のとんがり山

 琉球は歴史も民俗も自然もすべて、ぼくの興味の対象となります。しかし、残念ながら時間が限られ、あれもこれもというとみな中途半端になりますので、今回は沖縄の概略だけでも知ることができたらいいなという程度の旅でした。
 沖縄本島ももちろん島ですが、気が引かれるのはやはり離島です。本部半島から伊江島の中央にそびえるタッチュウという姿のいいとんがり山を見たときは胸がときめきました。アイルランド島で出会ったセントパトリック山の時と同じような感動をおぼえました。島からも人からも離れていないその密着度がいい、しかも中心的居座り様なのです。そんなに高くはないけれども、ほどよい頃合で周りを見下ろすその存在感がたまりません。そんな感想を持つのは、海上の島にあっても、ぼくはやはり山の魂を保持しているのでしょうか。
 ところが、この山の民は地上からの高く目立つところだけを問題にはしません。地上からの深さも気にします。つまり地底です。玉泉洞という東洋一の鍾乳洞にも潜りました。乳のように垂れ下がる無数の鐘乳石と立ち並ぶ石筍群、そしてキガキガたい透明な地下水。珊瑚礁に囲まれた沖縄は、考えてみたら全島石灰岩の島なんですね。気の遠くなるような長い時間で出来上がった造形物を目にすると、戦争などしている現代のタイムラグなどいったい何なんでしょう。地の底で考えてしまいました。
 地下というと、もうひとつ潜ったところがあります。これは自然のものではありませんけど、自然を超越した凄い穴倉です。沖縄は太平洋戦争の激戦地として悲惨な歴史の跡を至るところに残しています。「旧海軍司令部壕」に入ってみました。那覇市の南方、小高い丘陵地にそれはあります。この地下壕は敗戦2ヶ月前、最後の抵抗と自決の歴史を地底に封印したところです。花束や千羽鶴が飾られた入口から長い階段を下って迷路のように掘り進められた地下通路や司令部作戦室などを見ました。線香の香りがただよう地下壕に戦中生れのぼくとしては他人事ではない無常、非情な人間の軋轢のようなものを痛感してしまいます。
 美しい沖縄の海、美味しい料理、哀愁をおびた音楽、そして純朴ながらも一徹な人柄など、わずかな時間の中で接した沖縄は、あまりに素晴らしく、これまで沖縄にあまり関心を持たなかった自分の怠慢を反省するいい機会となりました。誘っていただいた無明舎出版にはほんとうに感謝しながら、沖縄日記をしたためました。
(藤原優太郎)

山の中の藍染工房で

総勢8人の舎員旅行

 ここ数年、仙台までの高速道が整備されたので仙台空港から海外(アジア)に行くパターンが舎員旅行の定番だったのだが、今年は「なんとなく」沖縄に行こう、ということに決まりました。決まってから同時テロなどがおき、基地のある沖縄の県民感情のようなものを心配してGOサインを出せなかったのですが、那覇にある出版社ボーダーインクから「こんなときだからこそ、ぜひ来て下さい」とアドバイスをいただき総勢8人で(舎外から青木健作さん、藤原優太郎さんの両長老が参加)11月17日から3泊4日の日程で秋田空港を飛び立ちました。一日目は、那覇から40キロほど離れた恩納村のリゾートホテル泊。夜はホテルのそばにある郷土料理の居酒屋でたらふく琉球料理を食べることからスタートしました。2日目は、レンタカー2台に分乗し、1台は本島の北部の田舎をツーリング、もう1台は那覇市内を探検しました。3日目、1台目はマングローブの森を行くカヌーツーリング、別のグループは南部の海岸線をツーリングするコースです。夜はボーダーインクの方々と那覇市内の居酒屋で合コン、2次会も民謡酒場で飲んで歌って大騒ぎでした。4日目も那覇市内の首里城を見学したり、本屋さんの視察に出たり、ホテルで長老組はぐったりしたり、それぞれ自由行動で出発時間ぎりぎりまで旅を楽しみました。那覇を去るときに24度もあった気温も秋田に着くと11度まで下がり、半そでで闊歩する私たちは奇異な視線を浴びてしまいました。やはり日本語の通じる場所の旅は行動半径が格段に広がり、いいもんですね。
(あ)

ボーダーインクと合コン

泊まった恩納村のリゾートホテル

沖縄のババヘラアイス

 秋田名物として名をはせるババヘラアイスのルーツは沖縄、というのはほぼ間違いないようだ。今回の旅でも国道58号線を2時間ぐらい走っただけで五人の「アイスクリン売りの少女」に出会った。そのほとんどが10代のかわいい女の子たちである。アメリカではハイウエイわきにワゴン車をとめて売るアイスクリーム屋が今も健在で、それが原型のようだ。戦後すぐにアメリカ軍がはいってきた沖縄では路上にワゴンを止め、そこでアイスを売るアメリカ式の商売が早くからあったという。その日本的バージョンが道路横でパラソルを張りアイスクリンを売る少女たちなのである。写真の少女は平良さん16歳で、朝の9時から夜6時まで働いて日給4600円、アイスは150円で秋田のざらざらした味覚よりもなめらかミルキーで、うまい。アイス缶には「ビッグアイス」と商品名(会社名)が書かれていたが、どうもこのメーカーが一番の大手らしく、いたるところで目に付いた。少女たちのアイスがなぜ秋田で「婆」にばけ定着したのか、そのへんはこれからの課題だが、平良さんに「秋田ではババアが売ってるんですよ」と教えたら大笑いしていた。沖縄ではアイスはかわいい少女たちが売って何ぼのもの、なのである。
(あ)

平良さんが売るアイスクリン

市場食材めぐり

 毎年楽しみな社員旅行。なかでも私が好きなのは地元料理を食べることと市場めぐり。この二つについてはいままでの旅行で香港、ソウル、グァム、上海と各地で思いっきり楽しんで来ましたが、沖縄もなかなかのものでした。
 市場の代表はなんと言っても国際通りに隣接した牧志第一公設市場とその周辺。一般向けの市場としては日本有数の規模で、沖縄の食材があふれんばかりに並んでいます。グルクンを始めとした熱帯魚のようにカラフルな魚やエビたち。また、沖縄の人には欠かせな い豚肉売り場の豊穣な景色。豚の顔がお面のようになった肉には笑ってしまいました。もちろん野菜や漬物、調味料なども山のように積まれています。ここは観光客も多いのですが客の主役はやはり地元の人たち。ですから店頭に並ぶ食材は普段テーブルに並ぶものが 中心で沖縄の人たちの生活が垣間見られます。
 2階は大食堂街で沖縄料理のオンパレード。一階で買った食材を持ち込めば三品までは五百円で調理してくれます。ここで昼から沖縄料理でジョッキを傾けたのは言うまでもありません。一緒だったフリーライターの青木さんは楽しい楽しいと大はしゃぎした。
(鐙)

マングローブをカヌーツーリング

 沖縄本島の北部は「ヤンバル」と呼ばれ、山がちで緑が多い地域です。この「ヤンバル」南部に位置する東村に本島一の規模を持つ大きなマングローブ林があり、カヤックでツーリングをしてきました。参加したのは岩城、鐙、私(柴田)の3人。みんなカヌーは初めてではないので、何の苦労もなくフネに乗り込み、いざ出発。
 マングローブが生えているのは河口の汽水域で、川の水と海の水が混ざっているのでなめるとしょっぱい味がしました。塩分がある水でも生きていける植物は珍しいそうです。少しでも多く水分を吸収しようと、根っこをたくさん伸ばしている姿がとてもけなげに映りました。ここに生えているのはオヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギの3種類。そしてマングローブの根元には、高さ50センチくらいでてっぺんに穴のあいた土の山がありました。これは、オキナワアナジャコのすみかだそうです。
 カヌーを降りて遊歩道を歩くと、シオマネキ(カニ)やトビハゼがちょこちょこと活動していて、オキナワアナジャコの塚も無数にありました。
 普段は接することがない熱帯の大自然を、肌で感じることのできた一日でした。
(柴)

沖縄の「宝物」

 沖縄旅行は楽しかったようで舎員の評判はすこぶるいい。日本語が話せ、レンタカーでどこにでも行くことが出来たのが勝因のようだ。いろんな関係者にお土産を配り終わり、もう日常業務に戻って久しいのだが机上の2つのものがしきりに沖縄を思い出させる。一つは羽田空港で買ったミッキーの腕時計(780円)と、もう一つは初日の恩納村で入った居酒屋の琉球料理のメニューである。ミッキーのほうは時計をするのを忘れたので使い捨てのつもりで買ったのだが、これが予想以上に使いにくく、使いにくいために逆に気になって旅のあいだ気になり、そのうち愛着がでて手放せなくなってしまった。琉球料理のメニューのほうは、沖縄を思いだす際の「資料」としては最高で、なにせこのメニューにある料理を2人前ずつ全部みんなで食ったのである。お店の人は目を丸くしていたが、これはうちではよくやる注文方法で、おいしい店に入るととにかく小皿で全部とって試食をしてみるのである。ここの店はあてずっぽうで入ったのに本当においしく、この印象が後の旅の快適さを決定したといっても過言ではない。このメニューはお店の人に無理を言ってコピーをしてもらった。大切なお土産である。
(富)

ミッキーの時計

メニュー

戦跡公園を訪ねて

 今回の沖縄旅行の目的は太平洋戦争の跡を訪れることでした。最初に向かったのは那覇市の南隣り、豊見城村の豊見城公園前というバス停から歩いて10分ほどのところにある旧海軍司令部壕です。日本海軍が持久戦を続けるために掘ったもので、昭和19年に完成し、約4000人の兵士がこの地下要塞にいたそうです。入口からは105段あるという長い階段が地下に続いていて、薄暗く湿った空気はどこか違う時代にいるような感覚にさせられ、なかなか足を踏み出すことができませんでした。階段を降りるとコンクリートで固められた通路が迷路のようになっていて、司令官室、作戦室、医療室、発電室などの部屋とつながっています。幕僚室の壁には幕僚が自決したときの手榴弾の跡が、司令官室の壁には少将の愛唱歌がそのまま残っていて、戦争の痕跡を生々しく伝えてきます。公開されている部分は275mで、立ち入り禁止になっている区域も含めると450mもあったそうです。出入り口の隣りには資料室があり、実際に壕を掘るのに使ったつるはしや、壕に残っていた遺品、家族に宛てた手紙など、さまざまな資料が展示されています。それほど広い場所ではなかったのですが、なかなかその場所を離れることが出来ませんでした。反戦とか平和祈念といった言葉の意味を切実に感じた旅行でした。
(富)

富山と渡部の珍しい2ショット

アイヤサッ!・あの日に戻りたい

 驚きました。
 沖縄の民謡酒場というのは「沖縄民謡ディスコ」だったのですね。
 「民謡酒場に行けば、沖縄の歌を聞くことができ、酒も飲むことができる。うたうことだってできる」。ここまでは、案内してくれた沖縄の  出版社のみなさんが確かに言いました。けれども「踊りを踊らなければいけない」なんて、一言も言ってません。
午後10時30分。酒場に入って座るなり、沖縄の出版社の社長夫人や編集長、元気そのものの女性営業員、それに学生時代をともに秋田で過ごした沖縄で書店を営む女性も異口同音に、私にこう言うのです。
 「酒場に人が集まり出すのは、深夜12時を過ぎてからです」
 「歌に合わせてみんなで、楽しく踊りましょう」。ワッ!うそでしょう!
 1時間後。徳島の阿波踊り(テレビでしか見たことないけど)のような乱舞が始まりました。「沖縄では、踊りの輪に誘われた時は必ず加わらなければならない。それが礼儀なんです」。と言われても、シラフの私には声上げて跳んだりはねたりすることはできません。
 あ〜あ、酒が体にあふれていたあの頃に戻りたい。そうすりゃ、先頭を切って踊れるのに、と心底思った刺激的な那覇の一夜でした。
(七)

民謡酒場で踊る阿呆たち

迷子になったオジサン

 旅の三日目、本日のスケジュール多し。朝一で、同僚三人組がマングローブの生い茂る慶佐次湾を、カヌーで楽しむ。
ここのヒルギ林に別れを告げてから南の太平洋で釣りを試すが、10分の時間しかなく、あたりあれどボーズ。さらに西へと横断し、東シナ海の風に吹かれる「道の駅」の食堂で、どんぶりいっぱいの味噌汁したて魚汁定食650円と山盛りの野菜炒め定食550円を食べる。青い空を眺めつつ魚汁で満腹し、一路高速道で、東洋一の鍾乳洞の洞窟「玉泉洞」へと駆け込んだ。
 入口あたりではよかった。「ホー」「オー」と鍾乳石の珍岩群に感動しておりました。段々と奥に入っていくと、なぜかしら呼吸が苦しくなってきた。洞窟の中は涼しいのに脂汗が出てくる。歩くのも段々早足になり、周りの景色の名石群もどうでもよくなってきた。ふと三十年前の、アルバイト学生の頃の出来事が脳裏に。新宿駅ビルの地下貯水槽の砂出し作業の事でした。セメント壁で仕切られた八部屋ぐらいの、穴が直径40センチしかない、通路1個だけの奥の最奥部屋で、水で濡れている砂をチリトリで掬っている最中に、作業灯の電気が消えてしまった……あの日のことを。
 ようやく息苦しい「玉泉洞」を出て、沖縄の真っ青な空を仰ぐ。
 同僚たちは、私がはぐれてしまったと心配し、受付で迷子のアナウンスをお願いする寸前だった。おじさんは、迷子でした。ごめんなさい。
(岩)

付記・秋田で琉球居酒屋を見つけた!

  沖縄旅行から帰ってきて3週間がたち、心の中に残っていた沖縄の余韻もうすくなってきたある日のこと。秋田市内に琉球居酒屋があるという情報を聞きつけ、鐙、富山、柴田の3人で行ってみることにしました。
 会社から車で30分ほどのところに、その琉球居酒屋「リトル沖縄」はありました。この店の事を教えてくれたNHKの記者・佐々さんとお店で合流し、ささやかな飲み会が始まりました。
 沖縄の写真が飾られ、沖縄民謡が流れる店内にいるうちに、旅行の時の感動が少しづつよみがえってきた私たち。ゴーヤチャンプル、ソーミンチャンプル、紅芋コロッケ、タコライスなどの沖縄料理を並べ、泡盛を飲みながら、旅行の思い出話で盛り上がりました。   久々に食べた琉球料理はやっぱりおいしくて、沖縄で生まれ育ったわけでもないのになぜか懐かしさを感じました。3泊4日の社員旅行はとっても充実していたけれど、次は今回行けなかった場所や島々に行ってみたいという気持ちが日増しに強くなっていきます。沖縄の出版社「ボーダーインク」の中村さんが「私は沖縄に行きたくてたまらなくなるという『沖縄病』にかかったから、沖縄に移住してしまったの」と言っていましたが、私も軽い『沖縄病』に感染したのかもしれません。治すには、もう一度沖縄に行くしかないのでしょうか…。
(柴)


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