安倍 甲
自分より一回り年上のFさんから電話があり、何年ぶりかで会うことになった。Fさんは私が大学生だったころ毎日のように通った喫茶店のマスターである。年を追うごとにその喫茶店は大きくなり、チェーン店は県外にまで広がり、マスターは社長と呼ばれるようになり、無明舎を旗揚げした僕は次第にそこから足が遠のいた。学生運動崩れの仲間たちはそのマスターに拾われ、チェーン店の店長として彼の経営戦略の要になっていった。社員が200名を越えたころから内部の不協和音がささやかれ、学生運動組みがポツリポツリとやめていき、スカイラークや一部上場のファミレスの波に洗われるように、店は消えていってしまった。すべての店を処分しても残ったのは借金だけだった。Fさんは飛びきりあくの強い経営者で、毀誉褒貶の嵐の中を生き続けた人だが、なぜかすべてを失った60歳目前でアジア放浪の旅に出た。年金暮らしのバックパッカーになったのである。隆盛の絶頂にいたころ、ヨーロッパやアメリカの一流レストランを食べ歩き、自論の飲食店論を人や場所を選ばず大声で得意げに披瀝する鼻持ちならないスノッブな男だったが、無一文になり1年の3分の2をアジアで暮らすようになったいまも、彼の性格は昔と大して変わっていないのがおかしかった。しかし、顔つきは格段によくなっていた。穏やかで知的な顔になっていた。これで「年金でバックパッカーやってるのは日本広しといえども俺ぐらいだろう」という田舎もの特有の無知、強弁、ホラさえなければいうことがないのだが、これだけはもう直らないだろう。秋田という狭い世界しか知らない田舎ものなのだ。「本を書きたい」というのがFさんの用件だった。僕は「あなた程度の書く旅行記なんて誰も読まないよ」と協力をきっぱりと拒否した。若いころ、逆の立場でFさんにさんざん説教されていたので、10歳以上の年の差を越え、このときとばかり立場を逆転させ鼻っ柱を折るのは気持ちいいものだった。意趣返しである。ところがFさんは反論もせず「そうだろうな・・・」と素直に折れた。やはり長い何月といろんな出来事が彼を変えたのだろう。このリアクションに驚き、突然切ない気持ちがこみ上げてきた。僕自身は彼を好きになれなかったとはいえ、僕の友人や尊敬する先輩たちは例外なくマスターの世話になり、あの青春の一時代を過ごしてきたのだ。殊勝にも彼らに代わって僕がFさんにお礼をすべきときかもしれない、という考えが脳裏を掠めた。「うちのホームページに連載して、よかったら本にすることにしましょうか」と、ニュアンスを和らげて妥協案を出してみた。Fさんはうれしそうにうなづくと、丁寧に頭を下げた。そして「明日バンコクにたつから」とコーヒー代を僕に払わせ、そそくさと駅前の雑踏の中に消えていった。 |