1.Jinbocho(東京・神田神保町)
鐙さんから「藤原優太郎さんが都合で参加できなくなったので、代わりに行かない?」と、電話があった時、正直驚いた。昨年に台湾旅行を経験済みだし、それほど無明舎に貢献しているわけでもないフリーの人間が、2年続けて社員旅行(それもアイルランド!)に連れて行ってもらえるなんて、普通はアリエナイ話だから。
目の前に突然現れたアイルランド…。ヨーロッパで一番行きたかった久恋の国(ちなみにアジアでは台湾だった)。二つ返事でOKのはずだが、実はちょっと躊躇した。このところ男性更年期障害の症状が顕著で、心身ともに不調が続き、持病(前立腺肥大)の具合も思わしくない。長時間の飛行機や慣れない異国での移動に耐えられるかどうか。そして何よりも、心(感性)がすり減った靴底のようになっていて、何事にも興味や関心を持てなくなっている今の不可解な自分に、アイルランドに出かけて行ってまで出会いたくない。
でも、この機会を逃したら、私の経済力では一生かの国に行くことはないだろうとの結論に達し、気力をふりしぼって(?)旅立つことにした。
7月5日朝、無明舎から鐙さんの車で出発。途中、大曲駅で富山さん、島田さんの女性陣を乗せ、高速道路を東京へ。総勢4人(そのうち社員は2人)、舎長も参加しない。日本広しといえども、こんな社員旅行をする会社、ほかにないのでは。
日ごろから貧乏を吹聴しているのにヨーロッパへ行くというので、友人たちは私を嘘つきよばわり。無明舎の社員旅行だと言っても信じない。アイルランドへの社員旅行といえば、最近は日本でも増えつつあるパブの店員さんたちが、研修旅行として行くのがせいぜいだろうから、無理もない。
成田(東京国際空港)から飛ぶのは7日朝の便なので、前日は空港近くのホテルに宿泊するが、前々日は各自自由行動。鐙さんが神田神保町の書肆アクセスの人たちと飲食を共にするというので、私も参加させてもらうことにした。
神保町は学生時代に通ったのはもちろんだが、隣接した小川町の喫茶店で1年ほどアルバイトをしていたので、東京でも特に懐かしい街のひとつ。妻の仕事場が近くにあり(妻は東京で働いている)、東京に赴いた時にはこの界隈の蕎麦屋で落ち合って飲むことが多いので、今も親しい場所となっている。
三省堂でダブリンの絵地図を買い、喫茶店で一休み。隣に本を読んでいる暗めの男がいるな、と思ったら、坪内祐三だった。さすが神保町。
書肆アクセスへは何度か足を運んでいるが、店長の畠中さんにちゃんと挨拶するのは初めて。『東北の湯治場 湯めぐりの旅』が目立つところに平積みされているのでうれしくなる。この本は東北のひとたちよりも、東京などに住む都市生活者を読者に想定して書いた。彼らにとって自炊の湯治場は、全くの未知の世界(真の意味での秘湯)であるはず。だから、この本はほかのどこよりも書肆アクセスで売れてほしいと願う。
畠中さんのほか、地方・小出版流通センターの幾志さん、書肆アクセスで働いていた黒沢(旧姓)さん、鐙さんの娘さんの麻樹ちゃんたちと一緒に岩波ホール地下のタイ料理の店へ。こうして外で楽しく飲むのは久しぶりだが、胃の調子が今ひとつなうえ持病にビールはよくないので酒は控えることに。途中から加わった私の妻は大のビール好きなので、隣でおかまいなしにゴクゴク。本場のギネスを飲むことが長年の夢だったのに、これでは何のためのアイルランド行きか…。ったく情けない。
2.Heathrow Airport(ロンドン・ヒースロー空港)
午前11時発のバージン・アトランティック航空で成田を飛び立つ。急遽アイルランド行きが決まった私だけ別便。日本からアイルランドへは直行便がないので、他の3人はKLMオランダ航空でアムステルダム経由、私はロンドン経由でダブリンへ向かう。
機内でアイルランドの案内書を読み、この国の波乱に富んだ歴史のおさらいをする。
出発前に司馬遼太郎の『愛蘭土紀行』を読もうと思っていたが、時間がなくてかなわなかった。でも、そのほうがいいのかも。この人の紀行文はサービス精神旺盛でくすぐりのツボを心得ているので、読んだだけで行ったこともない国(土地)をわかったような気にさせるのだが、内容がすぐれているぶん読者自身が旅した際にかえってその眼を曇らせてしまうようなところがある(もちろんそれは読み手の側に問題があるのだが)。
昨年は台湾旅行を終えた後にこの人の『台湾紀行』を読み、再び台湾を旅している心持ちになった。私の短い旅の記憶が、より深い読書体験へと導いてくれたように思えた。司馬遼太郎の「街道をゆくシリーズ」は、旅から帰って読むのが正解かもしれない。
ロンドンまでは約12時間のフライト。初めての本格的な海外旅行で緊張しているせいか眠れないが、睡眠誘導剤は持病によくないので飲めない。予想通りやたらおしっこが近い。到着まで7回もトイレに立つ。チェックインの時に通路側の席をリクエストしておいてよかった。先が思いやられる…。
ヒースロー空港は、広大でわかりずらいことで悪名が高いようだ。うまくトランスファー(乗り換え)ができるか心配だったが、その不安が的中。空港内をウロウロするはめになった。
到着した国際線ターミナル3から国内線のターミナル1へ行かなければならないのだが、Flight Connectionのサインを見落として、イギリスへの入国審査場まで来てしまい逆戻り。どうにか乗り継ぎ連絡用シャトルバスに乗りターミナル1へ移動。そこでモニターを見ても、搭乗便がなかなか表示されない。おかしいと思って案内カウンターに聞いたら、アイルランド行きゲートは3階とのことで、チケットにゲートb書いてくれた。ここは2階だった!
3階でセキュリティチェックと入国審査を受ける。アイルランドとイギリスは協定を結んでおり、ここで審査を済ませるとアイルランドでは簡単なパスポートチェックで入国できる仕組み。
ヒースローの入国審査は厳しいと聞いていたが滞在目的、日数などの質問に答えるだけで難なくパス。そのままチケットに書かれたゲートbノ行ったのだが、何か変。よく見るとここはエア・リンガス航空の出発ロビーではないか。私が乗るのはブリティッシュ・ミッドランド航空(BML)だ。カウンターのお兄さん、嘘を教えちゃダメだよ(ディスプレイをよく見ていない私にも責任はあるのだが)。
BMLのゲートは正反対にあり、15分も歩くはめに。ようやくダブリン行きのゲートに着くと、ボーディング・タイムが迫っていた。
3.Dublin(ダブリン)
ダブリンへはIrish Sea(アイリッシュ海)をひとっ飛び、1時間30分で到着。他の3人は2時間前にはダブリンのホテルに着いて、私が来るのを待っているはず。飛行機が遅れたので、タクシーで行くことにした。
運転手はバックミラーをちらちら見ながら、「フライトは順調だった?」「どこから来たんだい?」「ダブリンは初めてかい?」「何日いるの?」と、話しかけてくる。この程度の質問なら私のカタコト英語でも答えることはできるが、続けて会話をするのはとても無理。それを悟った運転手氏、途中からはおしゃべりも途切れがち。
車はダブリン市内に入る。「これがダブリンか…」
私がアイルランドに興味を持ったきっかけは、多くの人がそうであるように音楽からだった。70年代からチーフタンズなどのトラディショナルなアイリッシュ・ミュージックを耳にしてはいたが、80年代初めにデビューし、世界的成功をおさめたダブリン出身のU2というロックバンドが、この国をもっと身近なものにした。
彼らの2枚目となる「OCTOBER」(邦題「アイリッシュ・オクトーバー」)は、曇り空の下、さびれた港湾のような場所を背景に、4人のメンバーがたたずんでいるアルバムジャケットだった。硬質でありながらリリカルなバンドの音と、陰鬱そうな写真の印象が、10月のダブリンの風景に重なった。
戯れに「ウェールズ・オクトーバー」という曲をつくり、「ウェールズのホリーヘッドの丘にたたずめば、アイリッシュシーの向こうにダブリンの街が見えるかもしれない」と歌った。空想の世界で遊んでいた街に、今、私はいる。何だか現実感が伴わない。自分の見ているもの、自分の眼が信じられない。
タクシーがTemple Bar(テンプル・バー)にあるフィッツシモンズ・ホテルに着くと、鐙さんがホテルのロビーから出てきた。空港からの運賃は2.3ユーロ。某ガイドブックには1.5ユーロと書いてあったので、ぼられた? ダブリンは初めてと言ったのがいけなかったのかなぁ。とにもかくにも他の3人と無事再会できてひと安心。
部屋に荷物を置いて、一休みする間もなくパブに繰り出すことに。ホテルのあるテンプルバーは、80年代末から90年代にかけて再開発されたところで、バーやレストラン、ギャラリー、ショップなどが軒を並べるアイリッシュ・カルチャーの発信基地だ。
緯度が高いので、この時期の日没は午後10時ころ。8時を過ぎているのにまだ明るく、通りには大勢の人たちがあふれている。人種は様々。私たちも含めて明らかに観光客とわかる人が多い。弾き語りの生演奏をやっているパブの前の広場には、若者たちが所在なさげに腰をおろし、修学旅行(?)らしいイタリアの高校生(たぶん)たちがたむろしている。
テンプルバーの一角。黄色のバッグの一団はイタリアの高校生(?) |
鐙さんは2年前にアイルランドを旅しているので、この界隈は探訪済み。あとにくっついて生演奏をやっているパブに入る。客たちのざわめきがワンワン響くパブの熱気に面喰らいつつ、とりあえずギネスを1パイント(0.57リットル、中ジョッキくらいの量)注文し、演奏しているコーナーへ。
音楽はちょっとカントリー色が強すぎて乗れないうえ、相変わらす体調がすぐれずギネスもすすまない。初めての本場のパブ体験なのに、今ひとつ盛り上がらない自分がいる。今日に限らず、このところ物事にあまり心を動かさなくなった。それは自分でも不可解なこと。疲れているせいだろう。早めに休むことにして、ひと足先にホテルへ戻る。
翌朝、時差ボケのせいか身体が重く動くのが億劫なので、鐙さんが持ってきた藤原新也の『ディングルの入江』をめくりながら、お昼までホテルの部屋でぐずぐずしていると、街をひとめぐりしてきた鐙さんに「もったいない」とあきれられてしまう。
鐙さんはとにかくエネルギッシュだ。昨晩は私と別れてからパブをハシゴして随分遅く帰還したのに、早朝に近辺の散歩を済ませている。どこにあれだけの好奇心と体力が潜んでいるのだろう。怠け者の私は、ただただ驚嘆するのみ。
全員でお昼を食べるというので、アイルランドまできて“ひやみこぎ”をしているわけにもいかず、外に出る。
近くにある別のホテルのレストランで「Fresh Cod Fish Cake」という日替わりランチを注文したのだが、出てきたのはタラのすり身コロッケ2個に缶詰グリーンピースとぺらぺらのサニーレタス。これにコーヒーがついて10ユーロはちょっと高いんじゃない?ウェイトレスも気取っているし、バーの写真撮影もNO。あとで某ガイドブックを見たら、U2のメンバーが経営者という五つ星ホテルだった。なるほど…。でも、ダブリンに英国風な気取りは似合わない(と勝手に決めつける)。
これが10ユーロ(約1350円)のランチ |
あとは夜まで各自自由行動なので、ひとまずテンプルバーにあるアイルランド伝統音楽専門のCDショップに寄ってみる。慢性の貧乏病に罹患していて、今回の旅行はおみやげと飲食代以外はお金を使わないことに決めていたので、ひやかすだけにするつもりが、CDを見ているうちに購買欲がどんどん高まって、3枚も買ってしまった。
U2の次に世界的成功(特に日本で)をおさめたのがエンヤだが、本国では彼女のような音楽がもちろん主流ではない。アイルランドの歌手で私が一番好きなのはドロレス・ケーンというトラディショナル・シンガーで、この人が若いころ録音したシャーン・ノスと呼ばれるゲール語伝統歌のCDをまず一枚。ゲール語(アイルランド語)はケルト人=ゲール人の言語で、アイルランドの第一公用語となっている(ただし日常的に使っているのは国民の一割弱)。彼女のゲール語による独唱は、魂を奥深くゆさぶるような独特な響きがあり、本当に素晴らしい。
あとの2枚はデ・ダナンという伝統音楽バンドと、アイルランド南部ウォーターフォード出身の女性歌手カレン・ケーシーの最新作。クラナド、アルタンなどにも手が伸びたがぐっとガマン。
次に同じテンプルバーにあるアイリッシュ・フィルム・センターへ行ってみる。ここは世界中の映画を紹介するシネマテークのようなところで、特集を組んで特定の国や映画作家の作品を上映している。
館内にはカフェバーもあり、学生風の男女が昼からギネスを飲んでいる。映画関係の書籍やポスターも売っていたので、日本の映画監督の本を探したら、黒澤明しかなかったのはちょっと残念。依然としてヨーロッパでは北野武人気が続いているらしく、最新作の「Dolls」がComing Soonのよう。ただ、私見を述べさせてもらえば、最高傑作の「ソナチネ」以降、特に最近の北野作品はどれも駄作ばかりだと思う。ヨーロッパのコアな映画ファンは、北野ブランドにそろそろ見切りをつける時期では。
近日上映の「Dolls」 |
ところで、肝心のアイルランドの映画はというと、文学、音楽などと比べてはるかに注目度は低い。世界的に知られている監督はニール・ジョーダンくらいなもので、「静かなる男」(ジョン・フォード)、「邪魔者は消せ」(キャロル・リード)、「ライアンの娘」(デビッド・リーン)などの古典的名作から、90年代の「ザ・コミットメンツ」(アラン・パーカー)、「フィオナの海」(ジョン・セイルズ)まで、アイルランドを舞台にした有名作品のほとんどは英米監督の手によるものだ。
それでも、ソウルバンドを結成しようとする若者たちの物語「The Commitments(ザ・コミットメンツ)(1991年)は、原作・脚本がダブリン在住の作家(ロディ・ドイル)ということもあって、これぞIRISH CINEMAと呼びたくなるほどアイリッシュ・テイストに満ちていた。この映画に登場するダブリンの街と若者たちの存在感は圧倒的で、中でも「ソウル・ミュージックをやるには、俺たちシロすぎないか?」と問いかけられた主人公が、「The Irish are the blacks of Europe. Dubliners are the blacks of Ireland. North Dubliners are the blacks of Dublin.(アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。 ダブリナーズ(ダブリンっ子)はアイルランドの黒人だ。ダブリン北部に住んでる奴はダブリンの黒人だ)」と答える場面が強烈だった。
ダブリン市街は東西に流れるリフィー川をはさんで南北に分かれ、北部は貧しい人々が住み治安が悪く、南部が豊かで治安もよいとされる。バンドを組む若者たちは北部に住むワーキング・クラスで、メンバーを集める際にも「サウスサイダーズ(南部住民)はお断り」というのだから、この街の南北問題(?)は結構深刻なのがわかる。
「The Commitments」はIRISH CINEMAとして切手にもなった |
南のテンプルバーからリフィー川を渡って北のヘンリー・ストリートを行くと、青空市場の一角があった。売られている野菜や果物の種類は日本とほとんど変わらないが、ジャガイモが山と積まれているのが、いかにもアイルランドの市場らしい。
19世紀なかごろ、ジャガイモの胴枯れ病による不作が続いて大飢饉へと発展し、飢えと熱病のためおよそ100人が餓死、100万人が海外移住したといわれているが、今もジャガイモはこの国の主食だ(アイルランドの人口は現在約360万人だから、この時の大飢饉がいかにすさまじかったかわかる)。
ダブリンの青空市場 |
このあたり、中国人のコミュニティがあるらしく、中国語が耳に飛び込んでくる。街を歩いていると東洋系の人々が少なからず目につくが、そのほとんどは中国人で、観光客ではなくダブリンに移住してきた人たちのようだ。
カトリック解放の指導者ダニエル・オコンネルの名を冠したオコンネル・ストリートからリフィー川に架かるオコンネル橋を渡る途中、DART(ダート)と呼ぶダブリン近郊を走る電車の鉄橋が見えた。「ザ・コミットメンツ」でバンドのメンバーがDARTに乗ってこの橋を渡るシーンがあった。電車に乗ってみたいと思ったが、午前中に“ひやみこぎ”していたせいで時間がなく、あきらめる。
オコンネル橋から望むリフィー川。DARTの鉄橋が見える |
再びリフィー川南岸に戻り、アイルランド一の名門大学、トリニティ・カレッジへ。ここの旧図書館に保管展示されている「ケルズの書」(ケルティックな紋様が施された4つの福音書の装飾写本)を見てから、アイルランド国立博物館、アイルランド国立美術館をめぐる。
国立博物館では、入って左側の工芸展示室が圧巻。「タラ・ブローチ」をはじめ、「ブロイター・ホード」、「コングの十字架」など、本やTVの特集番組でしか知らなかったケルト美術の宝の数々が展示されている。
日本では一部の人たちの間ではあるが、80年代から今日に至るまでアイルランドは深く静かなブームを呼んでいる。その中心をなすのはアイリッシュ・ミュージックであり、ケルティック・アートであるといってもいい。渦巻き、螺旋の紋様が施された装飾品は、何か人を吸い寄せるような眩惑的な魅力がある。そして何より私を引き付けるのは−強い自然崇拝と不滅の霊魂の存在を信ずる円環的死生観を持ち、西方の海に神々が住みたもう地、英雄だけが訪問を許される歓喜の他界があるという−キリスト教とは全く異質なケルト人の他界観、霊魂観だ。それは日本人の神観念、中でも沖縄など南西諸島の死生観(ニライカナイ信仰)とも通ずるところがある。
80年代の中ごろ、NHKTVでイギリスBBC放送制作のケルト文化に関連した特集番組が数回に渡って放映され、90年代にはNHK教育でケルト美術の講座が組まれた。私は熱心なケルト(美術)信奉者ではないが、それらの番組に親しんだせいだろうか、博物館の展示物を見ながら、NHK講座を担当した日本におけるケルト文化研究の第一人者、鶴岡真弓先生のお顔を思い浮かべてしまった。
あまり見るべきものがない(と勝手に決めつける)国立美術館を出てダブリン一の繁華街、グラフトン・ストリートを歩く。車は入れず、ほぼ一日中歩行者天国。バスカーズと呼ばれるストリート・ミュージシャンが集まる場所でもある。平日なのにものすごい混雑、人通りが途絶えない。その半分、いやほとんどが観光客かもしれない。
アール・ストリートのジェイムス・ジョイス像 |
グラフトン・ストリートを抜けるとスティーブンス・グリーンがある。ここは東京でいえば日比谷公園のようなところだろうか。市街地の真ん中にあるので、老若男女が芝生に寝ころんでくつろいでいる。私もコンビニで買ったサンドウィッチを食べながら、一休み。
ダブリンを半日歩いた印象は、街全体に活気があるということ。昨年1月からユーロを導入したこともあるのだろう、EU諸国(特に南欧)からの観光客が押しかけているようだ。この公園やストリートで目にする様々な国籍を持つ人々、そしてダブリン市民の表情は明るく、おだやかだ。
「ザ・コミットメンツ」では主人公が失業中で、職安通いをする場面が出てくる。この映画が製作された90年代初めころまでは、慢性的な経済不況にあえぎ、失業率は14%と高かった。それが10年ほどで4〜5%まで低下、かつてEUのお荷物といわれたのが嘘のような好景気となった。「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ」という「ザ・コミットメンツ」のセリフには、イギリスから差別と迫害を受け、ヨーロッパの最貧国と呼ばれたことへの反発心が底に潜んでいるのだろうが、今のダブリンを見ると、そのセリフが現実離れしたものに聞こえてくる。
午後6時近いのに、陽はまだ高く、雲の切れ間から差し込む日ざしは思いのほか強い。私のダブリン観光はこれで終わり。観光コースをめぐるより、こうして公園でボーッとしているのが、今の私に一番似合っているようだ。
ダブリン・ツアーの観光バス |
ダブリン2日目の夜は、全員でオコンネル・ストリートのレストランでの夕食からスタート。私はサーモンを頼んだが、富山さんのアイリッシュ・シチューがおいしそう。一部では悪評高いアイルランド料理、結構イケるんじゃない?
テンプル・バーに戻り、昨日のパブで生演奏を聞く。ギネスすすまず、演奏にも乗れず。どうしてだろう? これからパブを数軒ハシゴする態勢を整えている鐙さん、島田さんと別れ外に出る。富山さんはお酒を飲めない体質なうえ、アイルランド音楽にも興味がなさそうなので、パブは無縁の場所。すでにホテルに帰っている。どうやら、今回の旅は、積極行動派の鐙・島田組と、ひやみこぎ派の永井・富山組に2分しそう。
いったんホテルに戻ったものの、心の中がなんだかざわついている。再び外に出て、街をあてもなくふらつく。テンプル・バーからリフィー川に沿ってオコンネル・ストリートへ。通りの西側はいわゆるノースサイダーズ(北部住民)の地域で治安が悪いと某ガイドブックに書いてあるのだが、ヒューズという地元の音楽好きが集まるパブがあるらしい。行きたいと思ったが、地図も持たず観光客が避ける夜の街をウロウロする勇気はさすがに持てない。
友人がホームページに「東北の湯治場湯めぐりの旅・掲示板」を開設してくれたので、それにアイルランド旅行の報告をしようと思いつき、通りに面したインターネット・カフェに入る。日本語変換ソフトがインストールされているので、わけなく書き込むことができた。便利なものだ。ついでに無明舎のホームページも覗く。料金は1時間2.4ユーロ。国際電話をかけるよりはるかに安い。アイルランドくんだりまでやって来て、パブにも入らずインターネットをしているなんて、予想しなかったなあ。ここにも不可解な自分がいる。
4.Drogheda(ドロヘダ)
アイルランド3日目の朝、私が眠っている時にパブのハシゴから帰ってきた鐙さんだが、目を覚ますとすでに出かける準備を整えている。飛行機の中でもほとんど眠らなかったというから、この数日間、睡眠は3〜4時間ではないだろうか。それでも私より数倍元気だ。超人!?
きょうからはダブリンを離れ、北アイルランドをぐるりとまわって西部のゴールウェイへ向かう。移動手段はレンタカー。ホテルの手配、チェックイン・アウトなどは英語ができる島田さん、車の運転は鐙さんにまかせっきりなので、随分気楽な旅になりそう。でもこれではほとんど大名旅行?
レンタカー会社からボルボのステーション・ワゴンで出発。最初の目的地はダブリンの北西40キロほどのところにあるタラの丘。ここはケルト人の聖地であり、祝祭の都、政治・文化の中心だったといわれているところ。とはいっても、なだらかな丘に広々とした草原が広がっているだけで、円状の土塁と高さ1mくらいの男根状の石のほかは“何もない”。
見事なまでの何もなさに、私は少なからず心を動かされた。あるアイルランドの案内書に「この国は、“ない”というものがある国、なのである。緑の草原とその根を支える大地のほかは何もない」と書いてあったのを思い出した。
この何もなさに似ているものといったら、そうだ、沖縄の御嶽(ウタキ)だ…。またしてもケルトと沖縄か。
次に向かったのは世界遺産に登録されているニューグレンジ古墳。紀元前3000年ころ(約5000年以上前)の巨大な墳墓で、ケルト以前の先住民族のものと考えられている。見学はグループごとにまとまって、墓の中心まで1本の狭い通路を通って入る。1年に1度冬至の日に、この通路から太陽の光がまっすぐ墓室(埋葬室)に届くように設計されており、レンジャーによってその様子が再現される。
まるで母親の胎内だな、というのが第一の感想。それと墓室の入口に置かれた石の渦巻模様の線刻とケルトの装飾は似ているな、というのが第二の感想。観光コースに組み入れられ、年代的にも日本の縄文時代後期〜晩期と同じだから、ここはアイルランドの三内丸山遺跡のようなものかな、というのが第三の感想。
謎の渦巻き模様を刻んだニューグレンジの石 |
車はボイン渓谷に沿った起伏の激しい丘を越え、ボイン川を渡ってドロヘダという街に入る。ヴァイキング、ノルマン人、イギリス人、様々な支配者によって統治された経緯を持つ城砦都市というが、時間がないのでメインストリートにある聖ピーター・ローマカトリック教会だけ見学。
私はキリスト教がどうもニガ手(偏見覚悟)。とはいっても、国民の95%がローマンカトリック教徒で、避妊が認められるようになったのがここ10年ほどのことというキリスト教(カトリック)文化の国を訪問したのだから、教会に少しはなじみ、理解につとめなければならないのだが。
通りの横断幕には「サンバ・フェスティバル」の文字が踊る。たくさんの人が行き交うショッピング・モールもあり、坂が多くとてもにぎやかな街。教会の前の階段に、暇をもてあました10代後半とおぼしき若者たちがたむろしている。これはアイルランドに限らずどこの国のどこの街でも見られる普遍的な光景。「日本人の女の子だ!」と、島田さんがナンパ(?)されたらしい。
ドロヘダの街並 |
ここからは寄り道せず、まっすぐ北アイルランドの首都、ベルファストに向かう。途中、名前もわからない小さな街のコンビニで昼食用のサンドウィッチを買う。ポテトやハムなどの具を注文すると店の人がその場でパンにはさんで作ってくれる。これ、添加物いっぱいでメチャクチャまずいサンドウィッチを売っている日本のコンビニでもやってほしい。
街はずれでちょうどパブの屋根の葺き替えをしていたので、写真を撮る。パブはその名も「THE THATCH(わら葺屋根)」。ダブリンのテンプル・バーよりも、こんなところで一杯やりたいものだなぁ。ここでつげ義春のマンガ『もっきり屋の少女』を連想してしまうのは、いくらつげファンでもやっぱりヘンか。
アイルランドのもっきり屋(?)「わら葺屋根」という名のパブ |
5.Belfast(ベルファスト)
車は平坦な道を高速道路でもないのに時速100キロ以上で飛ばす。交通量が少ないのと、日本と同じ左側通行なので、走行に不安は感じない。ただ、市街地を除いて交差点に信号のあるところは少なく、ほとんどラウンドアバウトと呼ぶロータリー式となっているのが、珍しい点。時計回りに周回しながら行き先の道へ進むのだが、表示を見落としてももう一周すればいいし、信号でいちいち停止しなくて済むので、交差点ではこの方法が合理的だと思える(慣れるまでちょっと時間がかかるが)。
そろそろ北アイルランドへ入るころだと沿道を注意して見ていたのだが、どこで国境を越えたか誰もわからなかった。監視所のようなものはおろか、看板さえなかったからだ(見落としたのかもしれない)。ただ、いつの間にか速度表示がキロからマイルに、距離がヤードになっており、何よりもイギリス国旗(ユニオンジャック)がはためいているので、ここはイギリス領だと理解する。
地図を見て、国家としてのアイルランド(共和国)というより、島全体を総体としてのアイルランドとらえていたせいか、イギリス国旗にとても違和感を覚える。共和国の緑、白、オレンジの三色旗と比べると、ユニオンジャックはなんとなく威圧的なのだ(と勝手に決めつける)。
北アイルランドの街角にひるがえる英国旗 |
車はラウンドアバウトをいくつか通り抜けて、ベルファスト市街に入る。
ベルファスト…。かつてはリネン工業、そしてあのタイタニック号が建造された造船業を中心として発展した工業都市。そして近年は北アイルランド紛争の象徴的都市…。
私は子どものころから地図帖を見るのが大好きで、今でいう地図オタクだった。世界中の国や都市の名を覚え、頭の中に行ったこともない都市の姿を勝手につくりあげる。川が流れ、駅があり、公園があり、市場がある。それは(井上直久のイバラードのような)全くの空想の世界であり、地図帖は私にとっての夢の装置だった。
この街に、鉄道で、船で、どうやって行ったらいいのかな。そんな風にして覚えた都市の名前にベルファストがあった。以来、なぜかこの街が気になった。不思議だ。どうしてロンドンでも、ダブリンでもなく、ベルファストだったのだろう。
その空想の街に私はやって来た。
今夜泊まるホテルの場所がわからないというので、荘厳なシティ・ホール(市庁舎)前の通りにあるツーリスト・インフォメーションへ。ここでポンドに両替する。イギリスはなぜかユーロへ移行せず、今もかたくなに女王陛下のポンドだ。あとで感じたが、このポンドとユーロのやりとりは結構わずらわしくて混乱する。
ホテルはどうやら市街地から離れたベルファスト国際空港にあるようだ。鐙さんはこの街でのパブ探訪を楽しみにしていたようで、とりあえず生演奏をやっているパブの場所だけでも覚えておこうと、市街を回ってみる。
ベルファストのシティ・ホール |
シティ・ホール前の目抜き通り |
ヴィクトリア女王の統治時代に栄えたという街の雰囲気は、ダブリンなどと違ってすっきりした印象を受ける。が、裏通りにまわると、シャッターをおろした商店、路上に散乱するゴミ、人通りの少なさに驚く。観光客の姿が見えないこともあるのだろうが、にぎやかなダブリンを見てきたあとだけに、そのさびれ方は能代市の畠町通り状態(たとえがローカルだが)、異様に思えるほどだ。
4人とも街を観光する気もそがれ、ホテルが郊外にあることもあって、ひとまずここを離れることに。私の空想の中のベルファストは、人口50万人くらいのスコットランドのエジンバラ(もちろん行ったことはない)規模の港湾都市だったが、あとで調べてみたら人口は30万人を切るというから、それほど大きな都市でもなく、不況で工業も昔ほどふるわなくなっていたのだった。
ベルファスト国際空港は市街地から随分離れたところにあった。そのすぐそばにあるフィッツウィリアムズ・ホテルは、建てて間もないリゾート・ホテルのような雰囲気で、昨日のダブリンの喧騒とは別世界のようなところ。寝不足による疲れもあって、ベッドに入ったら1分もしないうちに寝息をたてていた(と鐙さん)。
6.Portrush(ポートラッシュ)
アイルランド4日目は、ベルファストから一気に北西部のスライゴーまで走らなければならないので、朝6時半出発という強行軍。
バリキャッスルという小さな港町から、最初の目的地ジャイアンツ・コーズウェイに向かう途中、海岸へ出るわき道に入ったら、海に突き出した小さな岬の上に、わずかにそれとわかる古城跡があった。この岬や付近の断崖に海食洞窟がみられ、海岸線の風景とあいまって、私の故郷、男鹿半島の西海岸を彷彿とさせる。低くたれこめた雲の切れ間から差し込む陽光が、鏡のような海面に反射して眩しい。細長く横たわる平たい島はラスリン島。かすかにイギリス本土(スコットランド)も見える。
体の不調もいっとき忘れるほど、この北の海の風景は心を解き放った。鐙さんに「永井さんは海が好きなんだね。顔が明るくなった」といわれる。
ジャイアンツ・コーズウェイは噴出したマグマが徐々に固まるときにできた六角形の石柱群で、日本でも見られる柱状節理の大規模なものと思ってもらえればいい。ここは北アイルランド最大の観光スポットのようで、シャトルバスも運行され、たくさんの観光客が訪れていた。
岬の付け根部分にわずかに古城の廃墟が残る。
海上に浮かぶのはラスリン島 |
海食洞窟が見られる断崖は、まるで男鹿半島(?) |
断崖につくられた古城ダンルース城、アイリッシュ・ウィスキーの有名ブランド、ブッシュミルズの世界最古といわれるウィスキー工場を見て(外からだけ)、ポートラッシュという海辺の街に立ち寄ってみる。ここは北アイルランドでは一番のリゾートタウンらしい。駅前を通ったら、メリーゴーラウンドやジェットコースターのある遊園地があったが、それはそれは可愛らしいもので、秋田市にあった仁別遊園地(古いなあ)よりもささやかな規模。それでも、子どもたちが楽しそうに遊んでいた。駅の先に港があり、その周辺にゲストハウスやホテル、ゲームセンター、レストランが並び、いかにもリゾート地といった明るく華やいだ雰囲気にあふれている。昨日のベルファストのすさんだ街の光景が、北アイルランドの印象を決定づけてしまいそうだったが、バリキャッスルの海岸やポートラッシュの活気に接して、好ましいものに変化した。
北アイルランドのリゾート地、ポートラッシュ |
7.Derry/Londonderry(デリー/ロンドンデリー)
ポートラッシュから1時間ほどで、デリー(ロンドンデリー)の街へ入る。
フォイル川の河口に沿った丘の上に街が伸びている。これまで見てきたダブリンやドロヘダ、ベルファストなどとは異なる美しく落ち着いた印象を受ける。しかし、その印象とはうらはらに、ここはプロテスタントとカトリックが、北アイルランド紛争でもっとも激しい対立と闘争の繰り広げたところだ。イギリス軍によるアイルランド人殺傷事件「血の日曜日事件」(1972年)の舞台となった街でもある。ただし、1998年、イギリスとアイルランドとの和平合意が成立し、2000年にはカトリック急進派の軍事組織IRAが武装解除を表明したため、現在は平穏を保ち、普通の観光なら全く問題はない。
ゲール語で樫の木を意味するというデリーをロンドンデリー(現在の公式名称)と呼ぶようになったのは、イングランドとスコットランドの植民地時代の17世紀初め。以来、プロテスタントの人々はロンドンデリーと呼ぶが、地元のナショナリスト(北アイルランドから英国を排除して南北アイルランドの統一主張するカトリック系の人々。その反対に北アイルランドが英国に帰属することを主張する人々をユニオニストまたはロイヤリストという)たちは、意識的にデリーを用いるという。
このあとで立ち寄ったゴールウェイのB&Bで朝食のテーブルを供にしたご夫婦は、ロンドンデリーから来たとおっしゃっていた。プロテスタントだったからか、それとも、日本人にわかりやすいように、公式名称を使ったのだろうか。
城壁内のデリー(ロンドンデリー)の街並 |
旧市街は城壁によってぐるりと取り囲まれ、城門をくぐるとザ・ダイヤモンドと呼ぶ広場に出る。4つある城門のひとつブッチャーゲート付近に車を置き、城壁に上ってみる。
城壁のところどころに、IRAの落書き。中に「OUR DAY IS HERE」という文句も。全長は1・6km足らずなのでぐるりと一周したいが、先を急ぐのでその時間がないようだ。
なぜか私はこの街に惹かれるものがある。ブラブラ歩いてカフェでのんびりしていたいが、そうもいかない。後ろ髪を引かれるような思いでデリーをあとした。
これで北アイルランドともお別れだ。
IRAの落書きのある城壁の上から城壁外の街並を望む |
8.Donegal(ドネゴール)
全体を島としてみた場合のアイルランドは、Leinster(レンスター)、Munster(マンスター)、Conacht(コナハト)、Ulster(アルスター)の四地域(州)に大きく分類される。今、私たちがいるのは北部を占めるアルスター(州)で、この中に9つのカウンティ(県)があり、そのうちの6県は北アイルランドに、残りの3県はアイルランド(共和国)に属している。
車はデリー(ロンドンデリー)の市街地を抜けて10キロも走らないうちに、北アイルランドのロンドンデリー県からアイルランド(共和国)のドネゴール県に入る。ここでも国境線を示すようなものは見当たらず、いつの間にかマイルからキロになっていた。そして、アイルランドの最北端に位置するドネゴール県は、国内でも数少ないゲールタクト(ゲール語が日常的に使われている地域)ということもあるのだろう、英語とゲール語が併記されている道路標識が目につくようになった。
ここはまた、エンヤ、クラナド、アルタンなど、アイルランドを代表するミュージシャンを生み出した土地でもある。なんでも、Crolly(クローリー)という村にエンヤのお父さんが経営するパブがあるらしいが、私たちの観光ルートからは外れているので、訪ねることはかなわない。
カーステレオからは、クラナドのCDが流れている。と、鐙さんが沖縄を舞台にした映画『ナビィの恋』(監督・中江裕司)のサントラ盤をセットした。この映画には、なぜかフィドル(バイオリン)弾きが登場して唐突に演奏を始めるシーンがある。沖縄に響くアイリッシュな調べ。これが不思議なことに映画の中ではあまり違和感がなかった。
サントラ盤の最初の曲は、フィドルの演奏ではなく、『ナビィの恋』でその飄々とした存在感が際立っていた民謡歌手・登川誠仁の琉歌。アイルランドの牧歌的な風景の中に突然流れてきた三線(さんしん)のゆったりした調べ。ウーン、なんだかミスマッチ。でも最高! アイルランドのドネゴールを走りながら、沖縄民謡を聴く。なんという贅沢だろう。まるで夢を見ているみたいだなぁ。
アイルランドと沖縄は共通点が多い。歌好き、踊り好き(生活の中に音楽が溶け込んでいる)、加えて酒好き(ギネスと泡盛への偏愛)、テーゲー(おおまか、アバウト)な国民性(県民性)。伝統文化・民族的アイデンティティの復興(アイルランドのゲール語、沖縄のウチナーグチの復権)。妖精の国(キジムナーもある意味妖精)。前にも述べたように自然崇拝、理想郷(ティル・ナ・ノグとニライカナイ)、輪廻転生の死生観などケルト的な霊魂感、他界観。そして何より島国であること…。
車はぐんぐん飛ばして県名と同じドネゴールの街にはいる。人口2300人足らずの小さな街だが、オベリスク(方尖塔)のあるザ・ダイヤモンド(広場)のまわりを商店が取り囲み、人通りも多い。広場の横に駐車し、数分間だけ探索してみることに。雰囲気のよさそうなパブ、ホテル、骨董品屋などがあり、ツーリスト・インフォメーションの裏手を流れるエスケ川にはボートが浮かび、夏の観光シーズンを迎えて街全体が明るくウキウキしているような感じ。
ダブリンのような都会より、こうした田舎の小さな街のほうが落ち着けそう。一泊してのんびりしたいところだが、今日の目的地は50キロほど先のスライゴー。デリー(ロンドンデリー)と同じく心残りのまま、この可愛らしい街をあとにする。
街の中心となるドネゴールの広場(ザ・ダイヤモンド) |
9.Sligo(スライゴー)
スライゴーに着いたのは6時を過ぎていて、今夜の宿(B&B)を紹介してもらうつもりのツーリスト・インフォメーションは閉まっていた。結局、街のほぼ中心、ハイド橋のたもとにあるシルバースワンというホテルに飛び込みで宿泊することに。
まだ外が明るいので、チェックイン後に街をひとまわりしてみる。ショッピング・モールや映画館もあり、それなりににぎわっているが、さっき通ってきたばかりのドネゴールの明るさと比べると、全体に暗く煤けた感じがする。ただハイド橋上流の川沿いの散歩道だけは、なかなかいい雰囲気。
この地は詩人イエーツが愛した土地として知られ、イエーツ・カントリーと呼ばれる。川向いのアルスター銀行前になんともユニークなイエーツ像が立っているほか、ホテルのはす向かいにイエーツ記念館があるが、残念ながら閉館したあとだった。
フロントで生演奏をやっているパブの場所を聞き、鐙さん、島田さんと出かけてみる。
この日のライブは、ギター、フィドル、アコーディオンという小編成のユニット(ギター奏者はバウロンという打楽器も演奏)。アイルランドの伝統音楽を特徴づけるものに、Reel(リール)という4/4拍子のリズム・パターンがある。文字通り糸巻きの回転のように、ひとつのモチーフが何度もぐるぐると繰り返されては、微妙に変化していく。音の回転、音の渦巻きとでもいったらいいのだろうか。フィドルが奏でるこのリズムと旋律が心地よく、ダブリンのパブで聞いた演奏よりは、すんなり耳にはいってくる。
それほど広くない店内では、地元のおっとさん、おっかさんたちが、ギネスを片手におしゃべりに夢中。すでにできあがっている人も。演奏が始まっても、聞いている人は誰もいない。そうした客のざわめきを気にすることもなく、どことなくアマチュアっぽい彼らもマイペースで演奏し続ける。
それにしても、アイルランド人はおしゃべりだというが、大声で休むことなく何を話しているのだろう。つまみなしでひたすら話し、ギネスを飲む。というより、ギネスを食べるといったほうが、感覚的により近い。夜のパブにろくな食べ物がないことを知っている鐙さんは、日本から柿の種を持参。これがまたみごとにギネスにぴったり合う。これは大発見!?
ギネスとアコーディオンのある風景 |
アイルランドでのホテルやB&Bでの朝食は、いわゆるアイリッシュ・ブレックファースト。フレッシュ・ジュース、シリアル、ミルク、卵料理、ベーコンかソーセージ、焼きマッシュルームと焼きトマト、トースト、ブラウンブレッド(ソーダブレッド)、ティーorコーヒーといったところが定番。これで結構おなかいっぱいになるし、私はもともとパン好きの紅茶好き。だから朝食に関しては何の不満も感じない。ただ、これがアイルランドを代表する家庭料理だといわれれば、「?」。だってこれは料理じゃないでしょ。
ホテル・シルバースワンの朝食は典型的なアイリッシュ・ブレックファースト。席につく前にウェイトレスが私に問いかけるが、意味がわからない。どうやら卵の調理の仕方を聞いているらしい。ウーン、こんな簡単なヒヤリングもできないとは、情けない。
20代の初めに英会話学校に通ったり、とても仲のよかったカナダ人の友人から会話の言い回しなどを教わったのだが、身につかないまま、今はほとんど忘れてしまった。こうして初めて英語圏の国にやってきたからには、積極的に話そうと思うのだが、とっさにことばが出てこない。しばらくしてから、あの時はこういえばよかった、と思うことしきり。でも、こうやって生きた英語を聞き、話す機会をもてたのは、今の私にとってとても大きな刺激になったことは確か。
イエーツ・カントリー、スライゴーの街並 |
アイルランド5日目は、ほこりっぽく垢抜けない街の雰囲気にちょっぴり失望したスライゴーを発ち、コマネラ地方を通ってアイルランド第三の都市、ゴールウェイへ向かう。
スライゴーを出てすぐに道に迷い、たどり着いたところが運良くキャロウモア古代遺跡のある場所。2日前に訪ねたニューグレンジ古墳と同じく、ケルト以前、先史時代の先住民族の遺跡で、広大な丘陵地帯の草原におよそ5500年以上前のものとされる石組み墳墓やストーンサークルがある。
秋田に住むわれわれ4人は、一目見て、「これって大湯ストーンサークル、伊勢堂岱遺跡とそっくりじゃぁ…」
遺跡群の背後には、ベン・ブルベン山(526m)とノックナリー山(360m)という個性的な山容をした2つの山が見える。ベン・ブルベン山はホテルの部屋からも見えた横に長い台地状の奇怪な形をした山。スライゴーのシンボルという。対してノックナリー山は鏡餅を平たく伸ばしたような女性的な山容。頂上部に乳首のようにちょこんと突き出ているものが見える。後で調べたらこれは石塚(ケルン)で、コノハト(州)を支配した伝説の女王の墓と伝えられているそうだ。
この遺跡と山の風景が醸すアトモスフィアには、なにかしら神秘的なものがある。鐙さんの「Sさん(某放送局のアナウンサー)がここに来たら、あの山(ノックナリー山)を見てクロマンタみたいだと言うだろうな」とのことばに、一同笑いながらもうなずく。
この遺跡をつくった先住民族については、ほとんどわかっていないらしいが、それにしても縄文との共通項は、単なる偶然とは片付けられない。ヨーロッパから見て日本がFar Eeast(極東)なら、日本から見てアイルランドはまさにFar West(極西)。マージナルはマージナル同士、基層部分でつながっているのだろうか。