(1)南陀楼について
南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)という名前を使いだしてから、八年ほどになります。
その頃、ぼくは個人で「物数奇」(ものずき)というミニコミを発行していました。いま読み返すと、企画も編集も稚拙そのもので恥ずかしいのですが、書物で読んだり体験した雑多なエピソードを紹介するコトを目的としていました。当時、「雑楽の帝王」なんてキャッチフレーズを付けてましたっけ。
ミニコミではありがちですが、一人で複数の記事を書いていると、目次に自分の名前ばかり並ぶことになってしまいます。それを避けるために、いくつかのペンネームを用意したのですが、結局この名前が最後まで残ったのです。
じつはこの名前、ぼくが発案したモノではありません。調べ物のために国会図書館に行ったとき、参考資料室でふと手に取った『狂歌人名辞書』(狩野快庵編、横尾文行堂、昭和三)をパラパラめくって見つけたのです。
狂歌師や戯作者を集成したこの本には、教科書にも出てくる朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやめしもり)をはじめ、元杢網(もとのもくあみ)、出久廼坊画安(でくのぼうかきやす)、大飯食人(おおめしくらんど)、門限面倒、芝うんこ、酒上あたゝ丸といった珍名・奇名のオンパレードでした。
その中で、「コレはいい」と思ったのは、南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ)と南陀伽紫蘭(なんだかしらん)という二つの名前でした。いかめしく漢字が並んでいるのに、読み方を知ると脱力するというトコロが気に入って、でも、どっちかといえば前者の方が積極的に遊びの姿勢を打ち出しているので、ペンネームとすることにしました。だから、ぼくは正確には「二代目南陀楼綾繁」なのです。
この辞書の記述を見ると、初代の南陀楼綾繁さんは武州青梅の人で、本名は小林重郎左衛門。「言葉綾繁」「戯笑歌林」などの別号もあります。別の人名事典によれば、太田南畝の門人として、同門の高弟にも一目置かれた存在だったようです。亡くなったのは天保十二年(一八四一)で、中根ケ布村(現・青梅市根ケ布)の天寧寺にお墓があるとのこと。まだお墓参りはしていませんが、いずれ襲名のお願いに伺うつもりです。
この由緒ある(?)名前は、はじめは「物数奇」のためだけのモノだったのですが、「日曜研究家」をはじめとするミニコミにもその名前で書くようになって、自然とそれがぼくのライターとしてのペンネームになってしまいました。
「読めない」「ふざけすぎている」など、いまだに周囲の評判はよくありません。韓国の友人からは「非常に深い意味があるのでしょうね」と由来を聞かれましたが、まさかたんなる駄洒落だとは答えかねています。商業雑誌でも「ちょっとその名前では……」と本名で書くよう要求されたりします。
でも、ぼくは今後も南陀楼綾繁という妙なペンネームを使うつもりでいます。どちらかといえば鈍重な性格だと自覚しているので、カタカナ混じりや美麗な漢字のペンネームは似合いません。
さて、では南陀楼綾繁は何者なのか? ナニをやっているのか? と聞かれると、自分でもよく判らないのです。
古本や新刊書店、ミニコミについて、雑誌やウェブサイト、メールマガジンなどに文章を書いているから、「ライター」と云えば云えないこともないでしょうが、ミニコミ時代と姿勢が変わってないので、プロのライターだという自覚はありません。書いた原稿が収入に結びつくことは少ないので、たわむれに自分のことを「非営利ライター」と呼んでいます。生活を支えているのは、本名での『季刊・本とコンピュータ』などの編集の仕事です。
文章を書くことは、ぼくにとって「仕事」ではなく「私事」です。好きなことを書くことに終わりはありません。それに、ミニコミを取材すればそこに連載することになり、ヒトに会えば自分のミニコミに書いてもらうというように、「私事」の範囲は無限に拡大していきます。もちろん、それらの「私事」が、編集の「仕事」に結びつくことも多く、その逆もあります。「私事」が「仕事」が溶けあって、なんだかよく判らない状態になることが、ぼくの理想なのです。
文章を書くこと、編集をすること、ミニコミやメールマガジンを出すこと、ヒトとヒトを結びつけること……。これが、いま南陀楼綾繁がやっていることです。まだナンにもカタチになっていないのですが、いちばん素朴な形態の「ひとり出版」なのではないか、とぼくは考えています。
(2)ぼくはモクローくん
ここ数年、毎日のように古書目録が届くようになった。べつにぼくが古本屋さんに顔が売れているからではない。基本的に誰にでもタダで送ってくれるものだから、請求のハガキをせっせと書いているウチにこうなったのだ。
古書目録は、本のカタチをしているのに書店では買えない不思議な「出版物」だ。本のタイトルや著者など最低限の情報と値段が記された冊子で、興味のないヒトには無味乾燥な代物だろうが、古本好きにとってコレぐらいオモシロイものはない。もちろん欲しい本がないかと鵜の目鷹の目で探すのだが、目的の本が見つからなくても、本の並べ方に感じ入ったり、ちょっとしたコメントにニヤリとする楽しみがある。こんなヘンなタイトルがあるのかとか、この誤植は笑えるなどとやっていると、たちまち時間が経ってしまう。本を読むよりも目録を読んでいる時間を愛する、本末転倒の目録愛好者はけっこう多いハズだ。
店の棚の本をそっくり載せた在庫目録、複数の店が出品するデパートや古書展の目録、目録よりも読み物が多い古本雑誌など、目録にはいろんなスタイルがある。毎号力の入った特集を組んでいる〈月の輪書林〉の目録などは、年末のアンケートで「いちばん面白かった本」に挙げられたコトがあるほどだ。サイズも印刷の方式もさまざまだが、カラー図版を多く掲載した印刷目録よりも、怪文書を思わせる手書きのコピー目録にキラリと光る一冊が見つかることもある。
「目録読書」の喜びを憶えてしまうと、用済みになった目録も簡単には捨てられない。といっても、山のように溜まってくると捨てるしかない。ビンボー性のぼくは「コレらを使ってナニかできないだろうか?」と考えはじめてしまった。こうなったら、バカな考えは止まらない。「古書目録をテーマにしたミニコミをつくろう!」と決めてしまったのだ。こういう時に「ヤメとけば」「誰が読むのそんなの」とさとすのが、ヨメたる者の役目だろうが、あいにくその頃には彼女も目録のおもしろさを理解するようになっていたので、止めてくれるヒトはいなかった。かくして二〇〇三年一月に、ヨメ(イラストルポライターの内澤旬子)と共同で、「世界初の古書目録愛好フリーペーパー」を自称する「月刊モクローくん通信」を創刊した。「モクローくん」というのは「目録」に引っかけた洒落なのだが、それとともに、四六時中、寝ころんでは目録ばかり眺めているぼくの姿を、カワウソを思わせる動物に見立てたキャラクターでもある。
ミニコミを始めるのは簡単だが、続けるのは難しい。ぼく自身、これまで何度も失敗してきたので、今回は始める前に考えた。一、なるべく続けやすいシンプルなスタイルにすること。二、委託販売をせず無料で配布すること。三、内部で原稿からデザイン、コピーまでをやってしまう。もっとも小さなかたちでの「ひとり出版」、おっと内澤と二人の「家内制出版」というワケだ。半分はコレでうまく行き、もう半分は自らの首を絞めることになった。
できあがった創刊号は、「イラストレーター」で途中までつくった版下に図版類を切り貼りで、B5サイズ裏表コピーというものだった。古書目録や古本についてのエッセイと日記、優れた目録を紹介する「今月の目録大賞」はぼくが、四コママンガや書き文字は内澤が担当する。古本についての文章は往々にして「私だけが持っている」的な自慢話に陥りがちだが、マニアックな部分は入れつつも判りやすい記事にするよう心がけている。早稲田古書店街についての連載だけは外部(「古書現世」の向井透史くん)に頼んだ。
版下ができあがると、コンビニエンス・ストアに行ってコピーする。大量だし両面コピーはどこでも嫌われるので、人目を避けて夜中にコピーに行く。そのあと、封筒に宛名ラベルと切手を貼り、折った通信を封入して、ポストに投函する。ここまで終えると、もう朝になっている。「家内制出版」だから気楽につくれるのだが、その反面、作業量が厖大なのだ。
ささやかなミニコミだから、はじめは知り合いだけに配ろうと思っていた。しかし、メールマガジンや雑誌などで告知したトコロ、意外に多くのヒトから申し込みがあった。何軒かの古書店や新刊書店でも配布してくれている。結局、毎号三百部ずつコピーするようになっている。直接送付者からは送料として切手を送ってもらっているが、コピー代、宛名ラベル代などを考えると、毎号結構なカネが掛かってしまう。モノズキだと云われても仕方ないだろう。
夕飯を食べているとき、どこかに出かけたとき、どちらかが「次の『モクローくん』のネタ、どうしようか?」と云えば、すぐに家庭内編集会議が始まる。そうやって楽しみながらつくっているのが伝わるのか、読者からの反響はとても多い。ぼくも内澤も商業雑誌に連載を持っているが、比べものにならないぐらい多くのメールや手紙が、「モクローくん通信」宛に送られてくる。
月に三十冊以上の古書目録が届く、本で部屋が完全に埋まっている、しばしば同じ本を買ってしまうなどといった、モクローくんつまりぼくの生態に、読者は呆れつつもどこかで共感してくれているらしい。会った人から「マンガのモクローくんそのままですね」と云われるコトも多くなった。南陀楼綾繁という奇妙な名前がやっと身についたところなのに、今度はまた「モクローくん」と呼ばれるようになるのか。どこまで行っても、ミニコミと珍名がつきまとう人生なのであった。
(3)大学でも「ミニコミ専攻」だった
早稲田大学に入ってしばらくした頃、大学近辺の電柱や構内の掲示板で、妙な貼り紙を見つけた。「乱調社」と名乗る団体による、荒俣宏の講演会だった。数日後、早稲田奉仕園での講演を聴いたあと、会場を去る荒俣さんを追いかけていって、穴八幡の交差点のトコロで、刊行中だった『帝都物語』(角川ノベルス)にサインをもらった。
そのとき、荒俣さんの横にいた武井さんという女性に誘われて、乱調社に顔を出すようになった。顔を出すといっても特定の場所を持っているわけではなく、奉仕園の部屋を借りて月例会をおこなったり、そのあと喫茶店(高田馬場の「白ゆり」が多かった)に集まった。現在は評論家として活躍している浅羽通明さんを中心に、学生、編集者、研究者、フリーター、神主その他、いろんな人たちが出入りして、南方熊楠の粘菌学から、マンガの話、はたまたナチスドイツのプロパガンダについての話が乱れ飛んだ。おそらく最年少として末席に座っていたぼくが、この集まりで独学することの楽しさを知ったのだと思う。
この乱調社(「見えない大学本舗」という別名もあった)の活動については、いずれ誰かが書いてくれるだろう。ぼくは下っ端の立場で、雑多なお手伝いをしていただけだ。浅羽さんが発行していた(現在も続いている)「流行神(はやりがみ)」というペーパーを、大学近辺のコピー屋で両面コピーし、それを折ったり、封入したりした。ときには、それを生協の書店で本のあいだに勝手に挟み込んだ。小松和彦・鎌田東二・山折哲雄・宮田登らによる連続講演会(のちに『異界が覗く市街図』青弓社、として刊行)をやったときには、ポスターを電柱に貼って回り、警官に不審尋問されそうにもなった。学生運動を知らない世代のぼくには、そんな小さい作業のひとつひとつが、とてもオモシロかったのだ。
その秋、ぼくは大学のサークルである「民俗学研究会」に入る。同級生が入りたいからというのでついてきたら、そいつが逃げてしまって、ぼくだけ残ったのだ。入った翌週から合宿調査が始まったが、その場所は実家に近い村(島根県大原郡)だったコトもあり、途中入会のワリにはなじむことができた。結局、卒業まで居着くことになる。
このサークルは毎年数回、機関誌を出していたが、「流行神」のようなミニコミを知っていたぼくは、生意気にも、とても幼稚なつまらないモノだと思った。それで先輩のSさんが「別の雑誌を出したい」と云ったとき、諸手を挙げて賛成した。
とはいえ、二人とも雑誌のつくりかたを知っているワケではない。ワープロもなく手書き原稿をコピーし、ホチキスで不器用に止めるだけしかできず、表紙にマンガや単行本の図版をコラージュしたりして、どうにか体裁を整えた。B5サイズで五十ページほどあった。誌名は最初、民間信仰の研究班のメンバーが中心だったので「信仰班誌」、のちに「裏機関誌」となった。どっちにしろ、ナンのひねりもないタイトルだ。
三年生になると、ぼくはこの「裏機関誌」の編集長となった。その頃のバックナンバーを見ると、毎号「旅行」「読書」などの特集を組んでいて、座談会やインタビューもある。内容はとてつもなく稚拙だが、なんとか「雑誌っぽく」しようとする努力がうかがわれる。笑えるのは、毎号八ページも「読むに値する日々」という読書日記を載せているコトで、ぼくの書くものなんて、この頃からゼンゼン進歩してないんだなと思える。
冊子スタイルだけでは飽きたらず、この他にB4サイズ一枚(両面コピー)の個人通信「裏機関誌号外」を、毎週のように出していた。確認してないが、二年間で五十号ぐらい出したんじゃないだろうか。
惜しむらくは、ぼくにデザインセンスとか絵心が皆無だったコトだ。それがあったら、サークルの外に向けたミニコミをつくっていたかもしれない。約三十人のサークルのメンバーに向けて書くだけで満足していたのだから、志が小さいと云うべきか、それとも元来、読者を限定したミニコミ体質だったのだろうか。
もっとも、どんな稚拙なモノであっても、自分で書き、編集し、発行するという過程を体験したことは、決して無駄にはならなかった。毎日のように文章を書いていたから、卒論は二週間で三百五十枚も書けた。卒業してからも、ミニコミをつくることでいろんなジャンルへの好奇心が維持できた。そして、なによりも、編集者・ライターとなる道を開いてくれたのだ。
その意味では、ぼくの大学での専攻は民俗学や歴史学などではなく、「ミニコミ」だったのかもしれない。
(4)本の世界の「野次馬」でいたい
ビレッジプレスの雑誌『雲遊天下』33号(2003年6月発行)が送られてきた。表紙をめくると、「春一番2003」の広告が載っていた。春一番コンサートは、1970年代を通じて大阪でおこなわれた一大フォークイベントで、1990年代半ばに復活していまに到るという。そのままページをめくっていくと、北村和哉という人の「春の風が吹いていたら 春一番物語番外篇」という記事が目に入った。冒頭に「わたしは二〇〇三年も春一番コンサートへは行かない。否、行けない」とある。お、なんだ、どうした。野次馬根性で読みはじめて、そのまま文章に引き込まれていった。
北村さんは、1970年代の春一番コンサートの体験者で、復活後には、春一番のTシャツをつくったり、70年代の音源をまとめてCDとして販売したり、ミニコミを発行したりして、「いわゆる『スタッフ』でもない。もっとあやふやでいい加減な『傍観者』という第三者」として、このコンサートに関わっていた。その北村さんが春一番コンサートに行かなくなったのは、自分が「スタッフ」として扱われないという不満からではない。むしろ、その逆に、いつの間にか、決まった仕事を分担する「スタッフ」という「確固たる」立場に追いやられたコトに不満を感じているのだ。
世間一般から見れば、コレはなんともおかしな理屈に思えるだろう。コンサートの開催に関わるということは、必然的に各自の義務をともなう。「やりたいこと」よりも「やらねばならないこと」を先にやらなければならない。だったら、あやふやでいい加減な「傍観者」よりも、「確固たる」立場になったことを喜ぶべきではないかと云われるだろう。
だけど、ぼくには北村さんの気持ちが判る気がする。そもそも、彼は仕事として春一番コンサートに従事しているワケではない。やむにやまれない思いがあって、自分に出来ることをやっただけだ。そして、そういういい加減な「傍観者」を受け入れるだけの度量が、復活後しばらくの春一番コンサートにはあったのだろう。それが、いつの間にか「スタッフ」に組み入れられてしまった。「スタッフ」であることをこばむことは、そのままその場から出ていくことにつながる。あやふやな立場の連中が一緒になってつくるからオモシロイんじゃないかという北村さんの70年代的感性と、ボランティアでさえ「スタッフ」として管理してしまう(そうせざるを得ない面もあるが)現在のシステムとのズレが、ここには見える。
ぼくが1960年代、70年代のサブカルチャー・シーン(音楽、映画、ミニコミなどの)に憧れを感じるのは、それらのイベントやメディアが、北村さんが云うようなあやふやでいい加減な「傍観者」たちの手によって、奇跡のように成立していたからではないか。
たとえば、ビレッジプレスの村元武さんが1970-80年代に発行していた情報誌『プレイガイド・ジャーナル』(『ぷがじゃ』)には、関西でうごめいていた得体の知れないヒトたちが登場し、ゴッタ煮のような誌面になっていた。編集部の「スタッフ」だけが雑誌をつくるのではない。肩書きを持たない、ナニも仕事をしない、そういう無責任な「傍観者」たち(それは「読者」の代表でもある)をどれだけほっておけるかが、この時期の雑誌のオモシロさを決定していたのではないだろうか?
もっとさかのぼれば、昭和初期の文学同人誌などにも、アナキストや大陸浪人、雑文家や自称詩人など、ワケの分からない連中がたくさん入り込んでいて、それが予定調和をぶちこわしていた。もちろん、なんでもいい加減にやればいいというもんじゃないけれど……。
「あやふやでいい加減な傍観者」という表現を、ぼくなりに敷衍すれば、積極的な「野次馬」として参加する、という云い方になるだろう。「当事者」としての責任は負わないが、勝手に参加してやりたいことをやり、その企て全体にちょっとだけ寄与しているというような存在だ。
ぼくは自分のことを、本の世界の「野次馬」だと思っている。編集者として出版業界に属している、という意識はさらさらない。だって、出版社と取次と書店で構成される「商業出版」だけが本の世界のすべてじゃないんだから。
古本屋さんからイベントを手伝ってくれと云われれば顔を出し、メルマガでは頼まれもしないのにマイナーな本や書き手を賞揚し、ミニコミを出している連中を出会わせて楽しむ。コレは「仕事」から「私事」の領域にはみだして、あるいは「仕事」の領域に「私事」が浸食しているからこそ、できるのだと思う。だから、ぼくはプロでもなくシロウトでもない、積極的な「野次馬」でいたいのだ。
*「書評のメルマガ」115号(2003年5月4日発行)掲載分を改稿
(5)「BOOKMANの会」はじめました
今年三月頃、突然思い立って、以下のようなメールを知り合いに送りつけた。
* * *
最近、ウェブを通じて知り合ったり、じっさいに会ったりして、いろんなテーマでの「調べごと」をしている方に多く会いました。とくに、ぼくよりも年下のヒトたちが意外な人物のことを調べていることや、プロの物書き・研究者ではない在野のヒトたちがサイトで発信している質が高いことに驚くことが多くありました。こういうヒトの話をもっと聞きたい。そして、ユニークなテーマを追いかけているヒトたちが互いに興味を持ってつながるようになればオモシロイと思いました。
そのために、自分の追っているテーマがどんなことか伝えたり、相互に情報を提供しあったりできる「場」をつくりたいのです。それも、かたくるしい「研究会」や「読書会」ではなく、「座学」というか「談話会」というカンジで、自然に続いていくのがイイと思います。
(略)
日々の忙しい暮しの中で、なかなか落ち着いて物事が考えられないことが多いのですが、こういう会を一つのくぎりとして、そこに向けて考えをまとめてみる、あるいは、その会で話したことをもとに、ヒトと一緒になにかをやってみる、というような、アクションが生まれる場になってほしいのです。
* * *
この呼びかけに反応した人々が参加して、「BOOKMANの会」がはじまった。参加者は現在十五人。編集者、書店員、古書店員、ライターなど本に関わる仕事のヒトが多いが、いわゆる出版業界のハナシはここではほとんど出ない。そんなハナシよりも、各自が追いかけていたり、気になっているコトを話し合うほうがよっぽど楽しいし、刺激的だからだ。
「BOOKMAN」という名前は、一九八〇年代にトパーズプレス(ミステリ・映画評論家の瀬戸川猛資の出版社)から出ていた同題の雑誌から拝借した。「本の探検マガジン」というコピーどおり、この雑誌には本に関することすべてを貪欲に扱う姿勢があった。それに倣って、「本」と「人」についてならナンでもやっていこうと、こういう名前にしたのだ。
二ヵ月に一度、春日にある「寿和苑」という貸座敷(もと養老院だったとか)に集まる。そこで毎回、二人の話者に三十分ずつ、自由に話をしてもらっている。
たとえば八月の会では、前半にライターの荻原魚雷さんが、藤子不二雄の『まんが道』を取り上げ、この作品が田舎で育った少年(つまり自分)にどんな影響を与えたかを話してくれた。そして後半では、出版社に勤める佐藤健太さんが、日本に亡命してきた白系ロシア人の子孫であるコンスタンチン・トロチェフについて話した。この耳慣れない人物はハンセン病者として群馬県草津の療養所で現在も暮らしていて、詩人でもあるという。二人の話は、テーマも話し方も違っていたが、それぞれとても興味深く、またたく間に二時間が過ぎてしまった。
ぼくはその場では「座長」というコトになっているが、知識も教養もないので、もっぱらハナシの合間に質問したりツッコミを入れたりする役である。
終ってからは茗荷谷まで歩き、駅近くの飲み屋に入る。この飲み会がまた楽しく、さっきの発表についての意見や情報交換があったり、次回の発表は誰にしようかと相談したり、はたまた古本屋で買った本の自慢話をしたりしているウチに、すぐに終電の時間になってしまう。発表は聞かずに、飲み会だけ参加するヤツまでいる始末だ。最近では、メーリング・リストも設置し、そこでも連絡や雑談を交わしている。
そもそもナンでこんなコトをやろうと考えたかといえば、年齢や立場の違いをこえた集まりへの憧れみたいなものがあったからだ。
かつて、喫茶店や酒場に、あるいはサークルに、趣味のグループには、自然発生的な人と人との付き合いがあった。いや、あったように見える。たとえばぼくは、新宿のバー「ジャックの豆の木」のある夜、タモリという異才が突如として「発見」される瞬間を、山下洋輔のエッセイで読んだとき、その瞬間その場に立ちあえなかったことをくやしく思った。もしタイムマシンがあったらその夜の「ジャックの豆の木」に行くだろうに。
そういった「場」の磁力がいつ頃から薄れていったのか。少なくとも、ぼくが大学生になった頃には、そういう人間関係を経験することはとても少なくなっていた。だから、戦前や一九六〇年代にあった「場」がどのようなものだったか、当時の記録や回想を読んで勝手に想像するしかなかった。
この数年で知り合いになった二十代の若いヒトたちと話していると、ぼくの二十代のときよりも、さらに出会いの機会は減っているようだ。「出会い系」なるコトバが流行っているように、インターネットではヒトとヒトとは易々と出会える。しかし、その出会いの多くはすぐに消えてしまうものだろう。ユニークなことを考えたり、独自のテーマを追いかけたりしているヒトたちを結びつけるような、もっと濃密な出会いの「場」をつくることができないか。そんなコトを夢想した。
飲み会やパーティーでは、どうしてもそのとき限りで終わってしまって、発展性がない。だいたい、ぼく自身が飲みながら自己紹介しなければいけないような場は、あんまり好きではない。だからといって、読書会や研究会にはしたくなかった。「この会では◎◎をテーマにします」と決めたとたん、じゃあナニをやるのか、どのようにやるのかという「定義」が先に立って、窮屈な集まりになってしまう。
それで、一人一人が追っている具体的なテーマについて、短いハナシを聴き、そのあと飲み会に流れる、というスタイルに落ち着いた。いまのところ、参加者諸氏の反応は上々で、次は誰がどんなハナシをするのか楽しみにしてくれている。また、ココで出会ったヒトたちが、共通するテーマについて情報交換をしはじめたり、いっしょに雑誌の仕事をしたりというように個別の付き合いが生まれつつあり、しだいに毎回の集まりの「外」へと人間関係がはみ出しつつある。仕掛け人のぼくはそういう動きを眺めてにんまりしている。
話はいきなり古くなるが、昭和十一年に、大阪毎日新聞学芸部編で『変り学読本』(河原書店)という本が出ている。コレは、「らくがきの研究」「ゴルフ文献研究」「「アダ名分類」「甲賀流忍術研究」「スクラップ整理術」などのユニークな研究を紹介する本で、新聞連載時には「だいがくいがいのがくもん」とルビが振ってあったという。
「BOOKMANの会」が続いていけば、いずれはこの『変り学読本』や『BOOKMAN』を引き継ぐような本や雑誌がいっしょにつくれるかもしれない。そうなったら、イイなぁ……。いや、はじまったばかりなのに、つい大げさなコトを考えてしまうのがぼくの悪いクセだ。ともかく、ゆっくり楽しく続けていきたい。
次回は、どんなハナシが聞けるのだろうか?
(6)もっと紙モノに光あれ!
所沢尋常高等学校・榎本てうちゃんの「暑中日記」(明治四十三年)や、映画女優のブロマイドを扱う「東京蔵前 辻勝太郎商店タイムス仕入案内」(昭和十五年)、浅丘ルリ子が表紙の「異性恋愛結婚 モダン占い」(「小説サロン」昭和三十四年二月号付録)、「受験案内の要を握る」と豪語する「高等専門学校入学試験要項総覧表」(昭和十八年)、『男女交合無上の快楽』『快楽秘密女殺し』などの本が並ぶ東雲堂の「愉絶快絶 粋書案内」、森永キャラメルの外箱を使っての工作法を説く「キャラメル藝術 子供テキスト」(昭和九年)……。
ぼくの本棚には、こういった謎の小冊子がずらりと並ぶコーナーがあります。この他、絵葉書、チラシ、双六、広告、しおり、ポスター、酒の帯封ラベル、印刷見本帖、入場券、切符など、およそオモシロそうな「紙モノ」ならなんでも手が出てしまいます。べつに目的があって買うわけじゃないのです。世の中にこんなヘンなモノが存在していたというコトがオドロキで、嬉しくて、そういう気持ちにさせてもらったことのお礼代わりに買っているようなところがあります(だから、あまり高い値段なら買いません)。
正しいコレクターなら、買ったあとできちんと分類して整理するのでしょうが、ぼくの場合、コレクションが目的ではなく、たんに紙モノが好きなだけなので、一通り眺めたあとはその辺の箱や、本と本の隙間に突っ込んでしまいます。ですから、たまに「あのチラシのことを文章に書こう」と思っても、絶対すぐには出てきません。自分の整理の仕方が悪いとはいえ、書いている時間よりも探している時間の方が長いということがしょっちゅう起こります。
部屋が「紙モノの迷宮」と化すほど、ぼくが紙モノ愛好家になってしまったのにはもともとの性格や嗜好もあるのでしょうが、古本屋さんの存在が大きく関わっていると思います。
ぼくは大学に入るために上京して中央線沿線に住むようになってから、毎日のように古本屋を歩いて回りました。もちろんカネなんてなかったので、最初は安い文庫本や漫画を買うだけで満足していましたが、そのうち、高円寺や五反田の古書展におそるおそる足を運ぶようになりました(神保町の古書会館はナゼかシロートが入ってはいけないように思い込んでいて、通うようになったのはかなりあとになります)。七十歳を過ぎたような老人が、割り込むなとか、その本はオレのだとか、本気でののしりあい、殴りあう光景を目にして、トンデモないところに来てしまったなァと思ったものです。
で、古書展に通うようになって、古本屋が扱っているのは本や雑誌だけではないということに気づきました。会場では平台の下にも本が置いてあり、そこに人が座り込んでいろいろ見ています。ぼくも真似をしてしゃがみこむと、そこには昔の雑誌のバックナンバーやら全集のパンフやら束になった絵葉書やらが、ビックリするほど安い値段で出ているのです。仕入のルートも販売方法も決まり切っているいまの新刊書店と違って、古書店は本以外にも骨董的価値のあるブツや、テレカ、トレーディングカードなどのグッズまで、古いものならナンでも扱える。それを知ったときに、本の世界がちょっと広がったような気分になりました。
その後、古本屋に行くと、棚の前に積まれた古雑誌や、レジのヨコにある絵葉書などが入った箱を引っかきまわすようになりました。コレが欲しいとか、コレを集めようという目的があってではなく、紙モノに触れている時間がとても愉しかったのです。ちなみに、この辺りの機微については、ジャンルは違いますがレコード屋のエサ箱好きの生態を描いた、本秀康『レコスケくん』(ミュージック・マガジン)という傑作漫画があります。古本屋さんからすると、こういう客がいちばんイヤなのでしょう。棚の前に置いてある本の山を触ろうとして怒鳴られたこともあります(触られたくないのなら、ちゃんと未整理と書いておいてほしいんですが……)。
古本屋という空間のメインの場所ではなく、その脇やヨコでオモシロイものに出会えるんだという期待もしくは思い込みは、いまだにずっと続いています。まァ、地方を旅行していて何気なく入った古本屋さんの片隅で、戦前の映画パンフレットを大量に見つけて大喜びした体験もあるので、「脇見のススメ」もまんざら効果がないワケでもないのでしょうが。
さて、そうやって紙モノの世界と戯れているうちに、大げさに云えば、商業出版という大きな世界からでなく、紙モノからでないと見えてこない文化史があるのではないかと思えてきました。
ぼくはこの五年ほど、マッチのラベルを集めています。初めは戦前のマッチラベルのデザインが気に入って、一枚ずつバラで買っていただけですが、そのうち、「喫茶店」とか「百貨店」などと題された貼込帖(スクラップブック)を入手するようになりました。これはあるコレクターが、蒐集したマッチラベルを自分の観点で貼り込んだものです。そうなると、一枚一枚のデザインへの興味とはまたべつに、このコレクターがどういう行動範囲を持ち、なにを考えてコレクションしていたかが気になってきます。たとえば、ほとんどが福岡のカフェー・居酒屋のマッチラベルだけど一部に京都のものが混じっている場合、この人はたぶん出張などでよく京都に行ったのだろう、というふうに推測してみるのが愉しいのです。
ときどき、箱に貼られた形跡のないまっさらなマッチラベルがテーマ別にきれいに整理されている貼込帖があります。多くの場合、「燐票家」と呼ばれるマニアックなコレクターたちの手によるもので、彼らは印刷所から未貼付のマッチラベルを大量にもらってきて、それを交換し合って、コレクションを増やしていくのです。集めたマッチラベルが千枚などの区切りに達すると、それを記念したマッチラベルを自分で発注してつくったり、コレクター仲間がお祝いのマッチラベルを寄付したり、じつにコドモっぽいのですが、粋な遊びをやっています。
そういう人たちが集まって、マッチラベルの専門趣味誌を発行することもよくありました。ぼくの手元には、日本燐枝錦集会が大正九年に創刊した「錦」という趣味誌がありますが、コレは斎藤昌三の『変態蒐癖志』(文藝資料収集会、昭和三年)にも、「マッチ・ペーパー蒐集家として日本一」として登場する福山碧翠が中心となっています。この雑誌では、同時代のコレクターによる蒐集報告や研究が発表され、現物のマッチラベルもしばしば貼付されています。この「錦」以外にも、名古屋、大阪、京都、神戸などでマッチラベルの専門誌は多く出されています。また、畸人として知られる三田平凡寺が主宰したコレクターの交流団体「日本我楽他(がらくた)宗」にも、マッチラベル・コレクターが多く参加しています。マッチラベルに関するこういった紙モノを見ていけば、戦前の「燐票家」群像が、少しずつ姿を現すのではないかと思っています。
もう一つ例を挙げましょうか。最近、一九七〇年代から八〇年代にかけて、関西で出されたミニコミ的な「チビ雑誌」、すなわち、情報誌「プレイガイドジャーナル」(通称「ぷがじゃ」)をはじめとして、マンガ誌「漫金超(まんがゴールデンスーパーデラックス)」、マンガ専門店のミニコミ「わんだーらんど通信」、京都で出ていた「ペリカンクラブ」などを集めています。さっきのマッチラベルと違って、こういうものを集めるのは、田舎にいたために当時の雰囲気をリアルタイムで体験できなかった、間にあわなかったという恨みがあるからです。そういった欠落感を埋めるために、いまになって買いまくっているのです。オモシロイのは、そういうぼくを見て「哀れな奴っちゃ」と同情してくれるのか、年上で関西にいる知人が、自分が以前に買っていたミニコミやチラシなどをタダでくれたり、いくら調べても判らない当時の人間関係などを親切に教えてくれることです。ありがたや。
紙モノは、古書展や古本屋のほか、骨董市やガラクタ市でも手に入ります。ぼくは以前から「美濃」という入札誌の会員になっていて、ここではじつに雑多な紙モノを入手しました(前は月刊でしたが、主宰者の体調不良により最近は隔月発行になっています)。「ヤフー・オークション」などのネットオークションでも、紙モノは大量に出品されています。先日などは、植草甚一が読売新聞に連載した「それでも自分が見つかった」というエッセイ(晶文社の『植草甚一自伝』に収録)の全回の切り抜きが安く手に入って嬉しかったですねえ。
だけど、できることなら紙モノはネットよりも古本屋さんの店先で買いたいです。雑多な本の隙間から紙モノを引っぱり出し、価値をきちんと見抜いて売るのは、古本屋さんならではの仕事だと思うからです。これから先、古い紙モノが出ることはますます少なくなっていくでしょうが、その一方で新しいけどレアな価値を持つ紙モノも増えていくでしょう。古本屋さんには、ぼくたちにもっともっと紙モノのオモシロさを教えてほしいのです。
インターネットによって多くの情報がウェブ上で見られる時代が実現しました。マニアックなコレクターのサイトは、世界中で生まれています。これまで不可能だった「物質感」がある程度モニタで感じられるようになる日も、近いかもしれません。しかし、ウェブのデータは誰かがアップし、残そうとしなければ、消えてしまいます。一方、紙モノはべつに残そうとしなくても、いつか必ずどこかから現われてくる。そこが紙モノの素晴らしさだと思うのです。
そういえば、吉村智樹、嶽本野ばら、松沢呉一、米澤嘉博という方々がエッセイを寄せているこの「大阪古書月報」(*初出紙)も、百年後ぐらいにどこかでまとまって見つかって、古本屋さんで売られるかもしれませんね。そのときに、この号を手にする誰かさん、あなたに向けて、この文章を書きました。
*「大阪古書月報」273号(2003年1月発行)掲載分を改稿
(7)ミイラ取りがミイラになる
このあいだ、友人と話していて、「南陀楼くんって、いま何本ぐらい連載やってるの?」と聞かれた。アレとコレとソレと、と指折り数えて云うと、「で、そのウチどれぐらいがノーギャラなの?」と聞かれて、答えにつまってしまった。
なにしろ、十本以上ある連載(不定期なのも含めて)で原稿料が発生しているモノは三、四本だけ。あとは、書いても書いても一銭にもならないのだ。ライターとは名乗っているが、それで生計を立てることなど不可能で、最近では「非営利ライター」を自称している。コレは卑下しているのではない。ほかに生活のための仕事を持っていようが、「詩人」が「詩人」であるように、収入に直結せずに好きなことを書いている「ライター」がいてもいいんじゃないかと思うからだ。
だから、ノーギャラのミニコミやウェブサイトの原稿だからといって、適当な流し方をしたことはない。むしろ、あまり大声では云えないのだが、メジャーな商業雑誌に書くよりも、リトルマガジンやノーギャラの媒体に書くときのほうが、明らかに「燃える」のだ。なんだか、そっちのほうでこそ自分が必要とされているような気がして。
これらの「非営利」連載は、ヒトとの出会いからはじまる。
ぼくは一九九七年から九九年にかけて、『文化通信』でミニコミの紹介欄を担当し、じつに多くのヒトに会った。取材とはいえ、こちらはもともとそのミニコミを愛読しているし、主宰者がどんなヒトかが気になっているので、取材の範囲を超えて熱心にハナシを聞くことになる。そして、雑談まじりに適当な提案をすると、「それを書いてくれ」と云われ、別れるころには連載が決まっていたりする。
メールマガジン「[本]のメルマガ」で、もう三年以上続いている「全点報告 この店で買った本」も、『文化通信』で主宰者の二人に会ったことがきっかけではじまった。その後も、アレが足りないコレが足りないと文句を云うたびに「じゃあ、お前がやれ」というコトになり、最近では姉妹紙「[書評]のメルマガ」の編集も担当している。
また、『レモンクラブ』というエロマンガ雑誌でも、五年近く本の紹介を書かせてもらっているが、これも編集者の塩山芳明さん(『嫌われ者の記』という日記本の著者)と、ぼくがつくったミニコミ『日記日和』で対談したのがきっかけだった。
取材で会ったのがきっかけで、相手のメディアに書くようになった例はほかにも多い。取材の対象だったはずなのに、いつの間にか、こちらが向こうに取り込まれている。「ミイラ取りがミイラになった」気分だ。取り込まれてしまったら、もう書くしかない。
普通、こういうことは「公私混同」として嫌われがちだ。たしかに、「仕事」と「私事のあいだに一線が引けないぼくは、プロとは云えないかもしれない。だけど、好きでやってる仕事だったら、その場限りで終らずに、必ず後をひく要素を持っているハズだと思う。ぼく自身もときどき取材を受けることがあるが、「ああこのヒトは、個人的にはまったくコチラに興味を持ってないのだなあ」というときは、一発で判ってしまう。
取材する側とされる側が、お互いの立場を決めて動かなければ、後をひく関係にはならない。それよりは、両者の立場が入れ替わり、ごっちゃになっていくほうが、オモシロイ関係になっていくのではないか。ぼくがミニコミやウェブサイトで書くことに「燃える」のは、そこではつくり手と読み手の距離が、息がかかるほどに近く、ときどき両者が入れ替わるという意外性があるからだ。好きなメディアのつくり手が、自分の文章の最初の読者になってくれるなんて最高じゃないか。
さて今夜は、いまいちばん気に入っている(同時に売れている)ミニコミである「酒とつまみ」の大竹聡さんと、浅草橋で飲むことになっている。大竹さんには「[書評]のメルマガ」で連載してもらっているが、今度はぼくが「酒とつまみ」で連載をはじめることになったのだ。初期の「本の雑誌」を思わせるようなイキオイがあるこのお座敷に上がって、ナニを書いたらオモシロイだろう? ま、ホッピーでも飲みながら相談するとしようか。
*「定有堂ジャーナル」連載「私事しながら仕事する」第4回を改稿
(8)スムースな本読みたち
月に一度、ぼくは五反田に足を運ぶ。ココにある古書会館で古書展(古本の即売会)が開かれるからだ。古書会館での即売会はほかに神保町、高円寺があるが、五反田では珍しい本・変わった本がとんでもなく安く手に入る。一階ではガレージが会場になっていて、路上からそのまま山と積まれた古本にアクセスできる。ココに来たら、子どもが駄菓子屋に放り込まれたようなもの。百円、二百円の雑誌や文庫を求めて、会場のあちこちをさまようことになる。
古書展の会場ではいろんなヒトに出会う。かならず同日同刻に姿を見かける常連客や、売り場にいる古本屋さん。いちいち挨拶したりしないけど、みんな顔なじみというカンジだ。
この日もまず自分の欲しい本を探して棚を凝視し、何冊か抱え込んだところで、林哲夫さんがいるのに気づいた。林さんは京都に住んでいる画家で、東京で個展を開くために上京していた。みんなの目が血走っているのに、林さんはいつも通り飄々としている。聞けば、朝早く来ていたのに、人ごみを嫌って喫茶店に入っていたらしい。古本好きにとっての宝の山を目の前に、悠々とコーヒーをすするとはいかにもこのヒトらしい。
林さんは、そろそろ人が少なくなってきた会場で、本を見はじめる。これがクセモノで、何人もの目が通り過ぎた場所から、林さんはスッとおもしろい本を釣りあげてくる。それがかならず、誰もが見逃していたのに、見せられるとみんなが唸るような本なのだ。古本好きの目だけでなく、冷静に観察する画家の目でも見ているからなのか。
会場を見渡すと、ライターの岡崎武志さんもいた。百円均一のコーナーから珍しい本を探し出す名人なので、「均一小僧」の異名をとる。この日も、文庫や新書を山ほど抱え込んでいた。「どうもどうも、どうやこの本、見たことある? こんなのが百円、やっすいなあ」という岡崎さんの声がいまにも聞こえてきそうだ。
林さんを「重役出勤」型とすれば、岡崎さんは「現場百遍」型だろうか。たかが古本なんだけど、人それぞれの買いかた、集めかたがあって、本当におもしろい。
林さんも岡崎さんも、そしてぼくも、「sumus」(スムース)という書物同人誌のメンバーだ。林哲夫さんはその発行人。企画のとりまとめから、原稿集め、レイアウト、入稿、そして発送まで、ほとんど一人でこなしている。
「sumus」は一九九九年に創刊された。誌名はラテン語のsum(在る)の一人称複数形だという。創刊号では、小さい店ながら本好きの拠り所となっている京都の「三月書房」を特集し、話題を呼んだ。その後も、「関西モダニズム」「洲之内徹気まぐれ美術館」「新書の昭和三十年代」などの特集を組んでいる。
書物同人誌というと、マニアックな蒐集家が延々とコレクション自慢をしているか、書誌学的な研究論文ばかりというイメージがあった。しかし、「sumus」はそのどちらでもなく、古本を入り口にしたエッセイ雑誌の趣がある。戦前に「書窓」(アオイ書房)や「書物」(三笠書房)などの小さくて品のいい書物雑誌がいくつか出されているが、その雰囲気を受け継いでいるところもある。権威によりかからずに、そして権威にならずに、「本を散歩する雑誌」である。
そういう誌風に惹かれてか、「sumus」の熱心な読者は数多い。わずか八十ページの小冊子で、発行部数も千部以下、書店にもあまり置いていないのに、どこからか手に入れて隅から隅まで読んでしまう。じつは、ぼくもその一人だった。
四年ほど前、京都に住んでいる扉野良人さんに、「ARE」という素敵なリトルマガジンの存在を教えてもらった。
扉野さんとはその前の年に、筑摩書房の松田哲夫さんに連れられて行った京都の徳正寺(「ガロ」の長井勝一さんのお墓がある)で出会った。そのときは本名の井上迅くんとして。彼はこの寺の長男で、自分も僧籍をもっている。中学生からの古本好きだという彼は、その夜、お寺の二階にある本棚から見たこともない本を何冊も取り出して見せてくれた。ぼくよりずっと年下なのに、本のコトにとても詳しい。参りました、という感じだった。彼が十代から「思想の科学」に文章を書いていたことは、あとで知った。
その場には扉野さんの奥さんもいて、静かにハナシを聞いていた。彼女は近代ナリコと名乗っていて、この数ヵ月後に「モダンジュース」というミニコミを創刊し、話題を呼んだ(水森亜土や宇野亜喜良の特集がスゴイ)。
その後、串間努さんといっしょに、全国のミニコミ・フリーペーパーを紹介する『ミニコミ魂』(晶文社)という本をつくることになったとき、扉野・近代夫妻は執筆者として参加し、ぼくが知らなかった関西のミニコミを次々に紹介してくれた。「ARE」のハナシは、この本の打ち合わせの席で聞いたのだ。
「ARE」は「アレ」ではなく「アー」と読む。ようやく読み方を覚えたころに、この雑誌の発行人である林哲夫さんに連絡を取り、バックナンバーを購入した。全部で十号あり、これで終刊だった。表紙には、一冊一冊に林さんの手彩色が施されている。内容は大ざっぱに分けて、半分が詩、半分が本についての雑誌だった。私小説や中公文庫、洲之内徹、喫茶店などを特集し、「月の輪書林」「古書日月堂」などの古本屋さんへのインタビューなども載せている。
「ARE」の同人の中に岡崎武志さんと、岡崎さんの友人の山本善行さんがいて、この二人が林さんに「書物に関する雑誌をつくろう」と誘ったことで、「sumus」が生れた。そこに、先の扉野良人さんや、新聞記者で現在は絵葉書収集家として知られる生田誠さん、私小説を愛するライターの荻原魚雷さん、小部数の文芸出版を手がける出版社「EDI」を興したエディトリアルデザイナーの松本八郎さんが加わって、「sumus」は魅力的な雑誌になっていった。
この雑誌をなめるように読みながら、ぼくは「いつかこういう雑誌に書きたい」と思った。また、ココでだったら自分に書けることがあるように思った。その妄想は、あるとき突然実現する。八号(特集は「パリ本の魅力」)に、なぜかぼくのインタビューが掲載されることになり、京都で林さんや扉野さんに会った。そのあとで林さんに「同人にしてくれませんか」と頼んだのだ。
あとで聞いたら、ほかの人からも同人になりたいと申し込まれて、断ったこともあるらしい。冷や汗ものだ。扉野さんや岡崎さんと知り合いだったことが幸いしてか、同人に加えてもらうことができ、毎号なんらかの文章を書かせてもらっている。十一号の「実用を超えた実用本」では特集の企画も担当した。
「sumus」のヒトたちと話すのはとても楽しい。それは、誌面のカンジそのままに、彼らの本の集めかたや読みかたが、誰の真似でもなく、その人だけのオリジナルなものだからだ。林哲夫さんは図書館の本や古本から「喫茶店」に関する記事や図版を集めて、膨大なファイルをつくった。それをもとに「ARE」「sumus」で書きついだ文章を『喫茶店の時代』(編集工房ノア)としてまとめている。山本善行さんも「古本泣き笑い日記」で、古本マニアの情けない日常を描いているが、その向こうに本への真摯な愛情が見えてくる(青弓社で単行本化された)。読むたびに、かなわないなあと思う。
岡崎武志さんの新刊『古本極楽ガイド』(ちくま文庫)の冒頭に、「わたしはわたしの風邪をひく」というコトバが出てくる。ほかのことはともかく、古本に関しては、世の中の流れや他人の評価に耳を貸さず、自分の買いたい本だけを買おう。だから、「わたしはわたしの風邪をひく」という力強い宣言だ。これは岡崎さんの宣言でもあると同時に、「sumus」という雑誌のテーゼ(大げさだけど)でもあるだろう。
いろんなヒトや本に影響されまくってフラフラしているぼくなどは、まだ「わたしの風邪」を引いてないのだろう。でも、「sumus」に書くことを通じて、いつかはそうなりたいなと思っている。
(9)小沢信男さんとぼく
そこは、いかにも「作家の書斎」だった。
玄関から上がって、廊下を数歩進むと、すぐ奥に六畳ほどの部屋がある。大きめの机、応接セット、右側には天井までの本棚。机の上には書きかけの原稿と辞書が置かれ、本棚には全集や文学書がきちんと収められている。あとで判るのだが、この本棚の構成はいつも少しずつ変化している。小沢さんの興味の広がりを示すように息をしているのだ。その部屋で小沢信男さんは椅子に座って、ぼくを迎えてくれた。
たしか、一九九三年のコトだ。小さな出版社で編集の仕事をはじめたばかりのぼくは、まだ大学院生で、アルバイトに毛が生えたような立場だったけど、宮武外骨が編集・発行した雑誌を全部復刻するという大胆な企画が思いがけず実現して、各巻の解説をいろいろな書き手に頼んで回っているトコロだった。「作家」という肩書きをもつ人にお目にかかるのは、今日が初めて。だから緊張していた。
小沢さんは一九二七年、新橋生まれで、実家が自動車屋(いまでいうハイヤー)だったという正真正銘の江戸っ子。戦後、新日本文学会に属して、雑誌『新日本文学』の編集長もつとめた。小説、ルポルタージュ、評論、戯曲、詩、俳句など、ひとつところに留まらない執筆活動を続けており、『犯罪紳士録』などの犯罪ルポルタージュや『車夫と書生の東京』、『あの人と歩く東京』などの東京モノなどで知られている。
……なんてことを、当時のぼくはホトンド知らなかった。河出書房新社から出た『宮武外骨著作集』のある巻に小沢さんが解説を寄せているのを読み、「このヒトに書いてほしい!」と思った。そして、いきなり手紙を書いたのだ。そして、初対面の無知な若僧を相手に、小沢さんはいろいろなハナシをしてくれた。鶴のようにやせて物静かな雰囲気だが、興が乗ってくるとしだいに声が大きくなり、突然カン高く「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」と笑いだす。その様子を見ているだけで楽しくて、この日、たしか二時間近くもお邪魔したのではなかったか。
小沢さんの原稿を受け取りに谷中に何度か通ったことでこの辺の風景が気に入って、ぼくは一年後に谷中に住むようになる。結婚してからもご近所の西日暮里にいるので、散歩の途中で小沢さんのお宅に押しかけるコトがある。
一九九七年に『季刊・本とコンピュータ』が創刊され、ぼくはその編集スタッフになった。雑誌の編集なんて初めてで、皆目見当がつかなかった。そこで、信頼できる書き手として、小沢さんに何度も原稿をお願いした。書評やCD-ROM評、エッセイ、アンケート、その他もろもろ。パソコンを買えばその体験記を連載してもらい、「eメール小説」にもチャレンジしてもらった。
ナンに対しても好奇心をもち、「じゃあ、やってみようか」と気軽に引き受けてくれる。締め切りまでの時間がないときも、こちらの恐縮ぶりを見越して、「おれはピンチヒッターが好きだから。そういうときの方が力が出せるみたいなんだ」と云ってくれる。そして届いた原稿は、一字一句が選び抜かれており、それでいて自然にわきでてくるような闊達さに満ちている。
その闊達さは、きっと小沢さんの人生そのものから生まれているのだろう。戦時中の旧制中学時代に友人たちと同人誌をつくって以来、小沢さんはずっと運動的なものに関わってきた。各地の文学運動を手弁当で支援し、「中野重治の会」の代表もつとめる。タウン誌「うえの」では長年にわたり「影の編集者」だし、詩人による「余白句会」では宗匠だ。亡くなった詩人・菅原克巳を偲んで毎年春に開かれる「げんげ忌」の世話役でもある。多くの人が面倒くさいと避けるコトを積極的に引き受け、それを楽しんでいるのだ。
さまざまな運動の「場」に関わりながら、その中で自分の仕事をおこなっていくのが、小沢さんのスタイルなのだろう。その小沢さんが近年、五十年以上関わってきた新日本文学会の解散を主張し、結果としてそれが実現した(二〇〇五年までに解散予定)のも、この会がいつの間にか「運動」を忘れてしまったことへの怒りと自省の念からのようだ。そういう生き方に、ぼくは尊敬と憧れを感じる。
小沢さんのお宅に通うようになってから、そろそろ十年が経つ。その間に、初の書き下ろし長編『裸の大将一代記――山下清の見た夢』(筑摩書房)や全句集『んの字』(トランスアート)が出た。後者はぼくが編集した本だが、オン・デマンドという新しい少部数出版の方法を小沢さんがおもしろがってくれて、実現した。
打ち合わせという口実で、夕方からビールを飲みながら何時間も居座った。その書斎で聴いたハナシは、子どものときに見た銀座の街並み、新日本文学会で出会った花田清輝や長谷川四郎のこと、イランのキアロスタミ映画の感動、いま取り組んでいる仕事について、などなど。それらのハナシに共通しているのは、ディティールがきわめて詳細なことで、臨場感にあふれている。
この座談をひとりで聴いているだけではもったいない。そこで、生まれてからこれまでのことを改めて話してもらい、その口調を生かして聞き書き風にまとめることにした。EDIの文学同人誌「サンパン」で連載中の、「聞き書き 作家・小沢信男一代記」がそれだ。社主の松本八郎さんは、小沢さんとの付き合いが長く、その座談のおもしろさをよく知っているひとり。幸い、読者の反応も上々だ。
考えてみれば、小沢さんとぼくは四十歳近くも年が離れている。小沢さんからすれば孫みたいなものだろう。周囲の人によれば、「小沢さんが怒るとコワイ」らしいが、生意気な孫を相手にしてもしかたないと思われているのか、まだコワイ目にはあっていない。この先何年か聞き書きをつづけていくうちに、少しは一人前に見られるようになって、叱られることもあるのだろうか。それは、まだ判らない。
(10)わが手にすべての「本づくりツール」を
――漫画同人誌『跋折羅』と小さな印刷機――
いまから三十年以上前、一九七一年の冬に、『跋折羅』(バサラ)という同人雑誌の「創刊準備号」が生まれた。異様に字画の多い誌名は、サンスクリット語で金剛、つまりダイアモンドという意味を持つ。創作マンガと批評を中心とするこの雑誌は、十代の終わりから二十代はじめの青年たちによって創刊され、その後、八一年に七号を出すまで、年間に一冊というスローペースで刊行された。
中を開くと、緻密で繊細なマンガ作品(後期には鈴木翁二、安部慎一、畑中純などプロ作家も寄稿)を中心に、評論、映画評、詩・小説、読者の手紙などで構成されている。文章モノの多くに使われている学生運動のアジビラ風の手書き文字や、「一周おくれのトップランナーが君におくるこの悪しき時代の生活のバイブル」などというアジテーション的な惹句は、同人が最後の全共闘世代だったことを感じさせる。熱いよなあ、でも、ちょっとついていけないなあと、敬して遠ざける感じがあった。
ところが、この雑誌の同人であるマンガ家の勝川克志から、『跋折羅』を発行するために同人が金を出し合ってオフセット印刷機を購入したという話を聞いて、がぜん興味が湧いた。パソコンのDTPからコンビニでカラーコピーまで、手軽な版下製作・印刷の手段を誰もが持てるようになり、ホームページでカンタンに情報発信が可能な現在からは想像するのが難しいのだが、三十年前には、貧乏人はガリ版印刷で手づくりし、お金があれば活版印刷所に発注するというように、両極端の手段しかなかったのだ。そのような時代に自前の印刷手段を持つことで、『跋折羅』は何をめざそうとしたのだろうか?
アングラと運動の時代
『跋折羅』の創刊メンバーは、三宅秀典(朋杳二、宮岡蓮二などのペンネームを使用。山上たつひこのアシスタントもつとめた)、三宅政吉(片桐慎二)の兄弟、のちにプロのマンガ家になる伊藤重夫、勝川克志の四人。彼らは中学生の頃に、貸本マンガ誌の文通欄を通じて出会い、ガリ版印刷で発行する個人誌を交換するようになった。その頃、石森章太郎の『マンガ家入門』(秋田書店、六五)の影響で、「肉筆回覧誌」を一緒につくりはじめる。これは、全国の会員から届いた生原稿をそのまま編集して一冊だけの手づくり本に仕立てて、郵便小包で会員に回していくというものだ。「会則」を見ると、「受け取ってから七十二時間以内に次に回すこと」などと書かれている。なんとも気の長いハナシだ。
その後、四人は相次いで上京した。演劇、映画、音楽と「アングラ」カルチャー華やかなりし頃だった。「だから、これまでみたいにマンガだけやっていてもダメだ、あれもこれもみんなまとめてやるんだという感じだったね」(三宅秀典)。「マンガを閉ざされた空間から解き放とう」とうたい、マンガの創作誌・批評誌であると同時に、もっと大きな運動の「機関誌」たることをめざしていた。
創刊準備号はA5判、八十ページ。友人から安く買った青焼きコピー機で、百冊程度印刷した。トレーシングペーパーに描いた原稿を感光紙に焼き付け、アンモニア現像したもので、画像部分が青色になって現れるため「青焼き」と呼ばれた。表紙は活版印刷で、そこにガリ版で創刊のコトバを入れた。本文は袋状に折ってホチキスで綴じ、見返しを付けた上で、表紙を糊付けするという凝りようだった。
全工程を自分たちで
七二年秋には、『跋折羅』二号を発行(創刊号は出なかった)。B5判、百八十ページでオフセット印刷、部数は千五百部と、創刊準備号から比べると本格的な雑誌となった(定価二百五十円)。このときに活躍したのが、「リコーオフセット1000」という軽オフセット印刷機だ。四十万円の新品だったが、「金を払わないまま、うやむやになってしまった」と三宅秀典はいう(ホントかね?)。その後、製版機(リコーS1マスターペーパー)も購入した。また、印刷機を置くために、金を出し合って四畳半のアパートも借りた。
印刷所に印刷・製本を頼むのが普通の時代に、なぜ、自分たちで印刷機を買ったのかといえば、「作品を描くと同時にその発表の場も自分たちの手でつくってゆく」ために、編集・製版・印刷・製本・販売といった雑誌づくりの全工程をメンバーだけでやろうとしたからだという。
印刷の知識はあまりなかったが、三宅政吉がリコーで印刷機の教習を受けて、みんなにやり方を教えた。【注】アパートでまる一日かけて、片面ずつ二十ページ分ほど印刷して、インキを乾かし、翌日に裏を刷る。「そこで間違えて、裏を逆さまに刷っちゃって、みんなに怒られたことがあります」と勝川克志は笑う。印刷が終わったあとも、丁合い(ページを揃える)、断裁、背固め、見返し・表紙貼りと、気の遠くなるような作業がつづく。
「でも、けっこう楽しみながらやってました。同じ版を違うインキで二回刷ってみる。そうすると、ズレたところがおもしろいという風に、いろいろ実験ができた」と三宅政吉はいう。外注せずに自分たちで印刷したからこそ、何度も失敗しながら、納得のいくまで模索できたのだ。
「伊藤重夫くんが、自分の作品を全部白いインキで刷ってほしいといいだしたことがある。瀧口修造の詩集で、黒い紙に黒いインキで刷った本があるんです。平らにして見ないと読めないという。その影響らしいんだけど。でも、うちの印刷機は汚れているから絶対真っ白には出ない。グレーになっちゃう(笑)」(秀典)
できあがった雑誌は、書店、ミニコミ専門店、ロック喫茶などに直接納品した。
「本づくり」精神健在なり
その後『跋折羅』は、三号(七三年)、四号(七四年)と発行された。印刷・製本の技術は次第に上達し、二色印刷のページが増え、表紙はシルクスクリーン印刷となった。
そのあたりから「跋折羅社印刷局」を名乗り、外部の印刷物を引き受けはじめた。広告には「詩・小説・マンガ等の同人誌、機関誌、新聞、絵本、詩集、チラシ、パンフレット等の印刷、合法・非合法問わず、市価よりも安価で引き受けます」とある。いわば日本一小さな印刷所をめざしたのである。
跋折羅社では、雑誌だけでなく単行本も発行した。「跋折羅劇画叢書」というシリーズとして、つげ忠男の単行本『どぶ街』(七七年)、『無頼の街』(七八年)を刊行した。(その後、勝川克志『にこにこ影法師』(八二年)、『ぜんまい小僧』(八四年)、中村いくみ『オダマキ』(八三年)、伊藤重夫『チョコレートスフィンクス考』(八三年)と続刊された)
これらすべての印刷物を、たった四人でこなすことには限界があった。やむを得ず、『跋折羅』五号(七六年)からは、表紙の印刷や製本を外注することになった。その頃から、個人としての仕事が忙しくなったこともあり、『跋折羅』は七号(八一年)で休刊した。彼らが十年間使ってきたオフセット印刷機も、その後、ある運動のグループに譲られた。自分たちの手ですべての出版活動を行おうとした跋折羅社の志は、半ばにして潰えたかのように見える。
だが……。
九九年、三宅秀典・政吉兄弟は、自分たちの漫画体験のルーツをたどるべく、梶井純、権藤晋らと同人誌『貸本マンガ史研究』(シナプス発行)を創刊した。貸本マンガ家のインタビュー、作品評論、業界紙の分析など、「貸本マンガの時代」を執拗に掘り起こそうという姿勢が見える。現在、すでに十三号に達している。
また、勝川克志は、最近になってパソコンを購入し、カラープリンターとコピー機を使って、手製の豆本を発行している。二〇〇三年からは友人の漫画家といっしょに『のんき新聞』なるミニコミもはじめた。A5判で四ページ(カラープリンター出力)の小さなものだが、こういうのを見ると、「やってる、やってる」と嬉しくなる。彼らの「本づくり」精神(スピリツト)はいまだ健在なのである。
「『跋折羅』の連中は、マンガを描いたり文章を書くだけでなくて、それをどんな本にしていくかを考えるのが好きだったんだ。この歳になっても、そういう姿勢はずっと一貫しているね」(秀典)
【注】
このとき、同じ機種のオフセット印刷機を使っていたのが、「東考社」の桜井昌一だった。桜井はもともと貸本マンガ家で、実弟の辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあきらと「劇画工房」を結成していた。しかし、貸本業界の衰退に危機感を覚え、自ら出版活動をはじめる。しかし、本は売れず、一九七二年頃には印刷機を導入し、マンガ雑誌や同人誌の印刷をうけおうようになる。
三宅政吉は『ガロ』に掲載された「日本一小さな印刷会社」という広告を見て、東考社を訪れ、製版機の使い方などを桜井から教わった(のちに東考社でアルバイトもした)。このため、『跋折羅』や「跋折羅劇画叢書」の一部は東考社で印刷されている。
「桜井さんのもとで私は印刷機を回し、丁合し、背がためをやりと、印刷・製本の原理的な作業を学んでいった。その作業のすべてが手作業だったことは、印刷・製本の始元(ママ)を学ぶかのようで、印象的だった。どのような機械化−合理化とも無縁でしかありえない、零細な企業の裸の姿を目のあたりにできたことは、とても大切なことを学んだといえるかもしれない」(三宅政吉「『夕食、晩酌付き』のころ」、『貸本マンガ史研究』第十三号)
桜井昌一は十五年にわたる闘病の末、二〇〇三年四月四日亡くなった(七十歳)。その後に出た『貸本マンガ史研究』第十三号は、全ページを費やし「追悼・桜井昌一」特集を組んだ。
*『季刊・本とコンピュータ』第二期第2号掲載文に加筆
(11)本から人へ、人から本へ
昨日の午後、日本古書通信社の八木福次郎さんにインタビューをした。八木さんはことし八十八歳。一九三三年(昭和八)に上京し、その三年後に兄が発行する「日本古書通信」に入った。その後、ずっとこの雑誌の編集をしてきた。東京に来てから七十年。いまでも現役である。
ぼく以外に、若手の古本屋三人が聞き手となって、戦前の古書店のこと、印象深い執筆者のこと、戦後のデパート古書市のことなどを伺ううちに、たちまち五時間が経った。テープレコーダを止め、会議室を借りていた東京古書会館(今年の七月に新築された)を出る。そこから、靖国通りの途中にある日本古書通信社まで歩いていると、さきほどの八木さんのハナシに出た、神保町のあの店、この店のコトが思い出される。見慣れたいまの風景をぺろんとめくるとその下から昔の風景が現れてくるようだった。
場所を喫茶店の「さぼうる」(この店に八木さんは二十五年も通っているそうだ)に移し、さらに話は続いた。ビールが入ると八木さんの口調はなめらかになり、仕草も大きくなる。全員が笑いながら聞いた話のなかに、一九七八年(昭和五十三)に亡くなった山王書房の関口良雄をめぐるエピソードがあった。山王書房は大森にあった古本屋だった。関口は俳句をたしなみ、尾崎一雄、尾崎士郎、結城信一ら作家にその人柄を愛された。
関口は陽気な性格で、よく喋り、飲むと必ず歌を唄ったそうだ。ナニかというと「まいったなァ」と手で首のうしろをたたく仕草をした、と八木さんはそれを真似てみせた。尾崎一雄が関口をモデルに「口の滑り」という小説を書き、それがテレビドラマ化されたとき、関口を演じた加藤嘉がこの「まいったなァ」をやっていたという。加藤嘉はぼくのお気に入りの役者だから、たちまち嬉しくなった。このドラマ、ぜひ見てみたい。
そうこうしているウチに九時になった。まだ話し足りなそうな八木さんと御茶ノ水駅で別れ、自宅に帰る。集中して聞いたので体の芯が疲れたらしく、二時間ほど居眠りする。十二時過ぎに目が覚めて、奥の部屋から『尾崎一雄全集』(筑摩書房)の第七巻を引っ張り出してきた。「口の滑り」はこの巻に収録されていた(初出は「小説新潮」一九六三年十二月号)。
この小説では、尾崎士郎が怪我したことを骨折したと、大げさに騒いで尾崎一雄のところに電話してしまったり、仲人として披露宴で話すうちに自分の家庭の内幕をバラしてしまい奥さんになじられたりといった関口(作中では「関本」)の「口の滑り」ぶりが描かれている。尾崎が関口の人柄を愛していたことが、よく伝わってくる作品だ。
一時には読み終わったが、まだ眠くない。妻はとっくに眠っている。関口良雄のことをもう少し考えていたい。そこでまた奥に入り、以前に買った関口の『昔日の客』(三茶書房)というエッセイ集を出してきた。二百ページ程度の小さな本。正宗白鳥、上林暁、川端康成、そして一雄と士郎の両尾崎ら敬愛する作家や古本屋に来る客、近所の人たちとの付き合いが飾らない筆でつづられている。
たとえば、尾崎士郎との初対面は次のように書かれている。
私は時がたつほどに益々愉快になつてきて、次次運ばれるビールを空けて行つた。
私は先生に申上げた。
「自分は、酔ふと悪いくせが出て困るのです」
「どんなくせだ」
「唄をうたひたくなるのです」
「なんだ。いいくせではないか。なにか一つうたつてくれ」
私は声はり上げて唄つた。
しまひには、これも私のくせで起ち上つて唄ひ踊つた。すつかり酔つてしまつたのだ。
(「二人の尾崎先生」)
尾崎士郎は、これで関口のコトをすっかり気に入り、その後長く深く付き合っていく。尾崎は茶目っ気のあるヒトで、関口のところに室生犀星を騙ってハガキを寄こしたりしている(「偽筆の話」)。この文中に、「猶仄聞するところによれば尾崎士郎兄が、近々『筆の滑り』といふ小説を書くよし」とあるのは、さきの尾崎一雄の「口の滑り」にひっかけたのだろうか?
『昔日の客』を読み終えると三時になった。まだ眠れそうもないので、今度は『関口良雄さんを憶う』(一九七八年)という小冊子を引っぱり出してくる。関口ともっとも親しかった尾崎一雄、岡本功司(放送作家。尾崎らの同人誌『風報』の編集を担当し、関口を尾崎に引き合わせた人物)、山高登(版画家)が責任者となってつくった追悼文集だ。表紙には、神社の境内のベンチに座っている関口の写真が使われている。
追悼文を寄せているのは、二十六人。このウチ、三軒茶屋「三茶書房」の岩森亀一は関口のもっとも親しい同業者で、「口の滑り」に出てくる披露宴のエピソードはこの岩森の結婚のときだった。没後に出た『昔日の客』の発行元も三茶書房だ。
文芸評論家の保昌正夫は、近代文学館の創立時に山王書房で貴重な文学書を多く手に入れている。関口が「古本」という文章で「棚に根が生えた様に動かうともしない」と書いている、十年間まったく売れずにいた久米正雄の二十数冊の本は、保昌らの手で近代文学館に収まった。「山王書房というところ、ええ、あそこには、店の脇の小さなウインドにときおり草花なんか活けてありましてね、いまどきめずらしい、いい古本屋さんでした」という結びは、何度読み返してもイイ。
ココで、岡崎武志『古本極楽ガイド』(ちくま文庫)に岩森亀一インタビューが収録されていることを思い出す。また、保昌正夫は昨年(二〇〇二年)十一月に亡くなり、同人誌「サンパン」で追悼特集が組まれている(第三期第四号)。それらを取り出して読みふけりたいところだが、今夜はもう遅い。
最後に、関口良雄の小伝が収録されている青木正美『古本屋奇人伝』(東京堂出版)を読んでシメようと思ったが、この本はどうしても見つからなかった。本の山を崩して妻を起すワケにもいかず、あきらめる。
こんなふうに、ちょっとしたキッカケである本を読みはじめ、それが引き金になって別の本へ、さらに横道にそれて……というように、本が本を呼ぶコトが、よくある。そうやって、何冊も読んでいくうちに、自分のなかでナニかがつながっていく。そのあと、それらの本の著者や登場人物が身近な存在に思えてくる。
『関口良雄さんを憶う』は一年ほど前に入手して、一度読んでいる。でも、そのときと八木福次郎さんの話に続いての今夜の読書とでは、文章から伝わってくるものがまったく違った。神保町の風景からべつの風景が現れたように、再読し終わったときには、もう会うことのできない関口良雄を、自然に「関口さん」と呼んでいた。
本を読んで人に会いたくなり、人に会ってからまた本が読みたくなる。今後も別の人、別の本で同じコトが起こるだろう。
もう四時だ。
(12)バスにのったセンチメンタリスト
田中小実昌と「すずらん通り」
千駄木から道灌山方向に向かい、千駄木三丁目のバス停を過ぎた右側に、「すずらん通り」がある。
すずらん通りと聞けば、まず思い出すのは神保町のそれだが、東京には銀座、阿佐ヶ谷、荻窪、赤羽、成増、経堂、立川にも「すずらん通り」があるらしい。
千駄木のすずらん通りは、「通り」と呼ぶにはあまりにも図々しい、わずか三十メートルほどの横丁で、そのなかに居酒屋、喫茶店、釜めし屋(よく行く)、とんかつ屋、ラーメン屋(開店以来いちども客を見たことがない)など十数軒がひしめきあっている。
バス好きの田中小実昌は、池袋を出て白山、西日暮里経由で浅草寿町に行く都バス(「草63」系統)に乗っていて、この横丁を見つけたらしい。
「いつか一度は路地にはいって飲みたいとおもいながら、バスのなかから見てるだけだ。しかも、だれかをさそって、いっしょに飲みたい、とその相手まで、かってに、ちゃんときめてるのに……。」(「ヨーヨーをもった少年」、大庭萱朗編『田中小実昌エッセイ・コレクション2 旅』ちくま文庫)
ぼくがこの路線のバスに初めて乗ったのは、ずっと以前、駒込の染井霊園で宮武外骨の墓参りを終えて、浅草まで移動したときだ。なんて狭い道を走る、だらだらとしたルートだろうと思った。バスが団子坂をくだっているときに、南伸坊さんが「あっ、いまそこを吉本隆明さんが自転車で通っていったよ」と教えてくれた。
その後、西日暮里に住むようになって、「草63」のバスは、上野松坂屋前発・早稲田着(いまは「早稲田リーガロイヤルホテル前」と名前が変わった)の「上58」と並んで、よく乗る路線となった。両者は、まったく別の道を走るのだが、不忍通りにある団子坂下、千駄木三丁目の二つのバス停だけには共通して止まる。ちなみに、上記エッセイでコミさんは、バス停の名前を「千駄木二丁目」と誤記している。
ところで、すずらん通りを横目に見たコミさんは、そのあとバスが道灌山を西日暮里方向に右折するまで、視線を通りの右側に向けたままだったのだろうか? つまらないことだけど、ぼくにはそのことが気になって仕方がない。
千駄木三丁目のバス停の次は、道灌山下で、これはバス停の名前は同じだが、「草63」は右折してすぐのところに止まり、「上58」は右折せずに交差点の手前で止まる。そして、「上58」のバス停の並び(つまり道の左側)には、ぼくがしょっちゅう覗いている〈古書ほうろう〉という古本屋があるのだ。
ひょっとして、「草63」にのっているコミさんは、〈古書ほうろう〉にいるぼくを、すずらん通りと同じように、横目で眺めたコトがあるのではないか。コミさんは「バスにのるというのが、そもそもセンチメンタリストなのか」と書いているが、こんなことは、センチな妄想に過ぎないのかなあ。
*『田中小実昌の本』付録(古書音羽館、2003年12月発行)