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 本書は昭和30年、「譯萬葉刊行会」の手で予約限定出版されたものを復刻したものです。万葉集全20巻・4536首の全訳で、著者は大館市の旧制中学教師だった村木清一郎です。題字は会津八一、序文は佐々木信綱と五十嵐力、序歌を齋藤茂吉が寄せています。
 本書は昭和9年ごろから村木により企画、執筆が開始され、長く推敲を重ね、約20年の歳月を経て刊行されたものです。大館市では市議会の議決を経て、この刊行費を援助しています。
 『万葉集』は、大正5年、折口信夫博士(釋迢空)によって現代語訳が完成しました。その後、散文による訳はいくつかあったものの、村木による訳業は、音数、行数を違えず、韻律をそのまま踏んで口語に訳す、という、まさに前人未到のものでした。そのためB5判644ページ極美装本の、この『譯萬葉』は、刊行されるやいなや国文学界で話題となり、翌年には筑摩書房が一般向けに村木の『譯萬葉』を再刊、広く世に行き渡ることになりました。さらに同書は筑摩書房刊行の『古典日本文学全集・全36巻』にも収録され、その評価を不動のものにしました(いずれも入手不能)。
 学校教師のまま野の研究者としてその生涯を終えた村木でしたが「万葉作品の声調を、どうすれば一番よく現代に再現できるか」を考え続け、その訳に取り組みました。訳文の形を5音と7音の定型詩の形とみなし、訳文も5・7・5・7・7の31音の美しい短歌になっています。これは上田敏が『海潮音』などの訳詞のさい用いたのと同じで、欧州の詩歌を日本語に訳す場合、原詩と行数や語数を一致させたりする方法です。これを万葉全首に実行したのですから驚嘆に値します。
 初版本から半世紀たった今、ご子息の村木敏人氏(大館市在住)からご快諾をいただき、本書(刊行会発行版)の復刊が可能になりました。50年たった今もまったく色あせていない村木の斬新な訳業を存分にお楽しみいただき、座右の書にしていただければ、版元として望外の喜びです。

「譯萬葉」について  文学博士 佐々木信綱
 村木君の多年の勞作「譯萬葉」が、大きい形の、うるはしい本として世に出たことは、萬葉學に長くたづさはつてをるじぶんとして喜びに堪へない。
 この書の特色としては、三段に排列し、その譯のたくみなことであることが、それに次いで、枕詞と序詞の扱ひのおもしろいことである。
 注釋書ならばわけなく説明できる枕詞であるが、譯では説明がゆるされない。殊に意味の分からなくなつた枕詞では、扱ひやうがない。例へば「ひさかたの」などは、意味がわからなくなつてゐるから、困る。それをこの本では「大空を」としたり、他の意味に變へて「たえまなく」としたり、場合に應じて、たくみに扱つてゐる。
 序詞の扱ひは、更にむつかしい。枕詞とちがつて、意味をもつてゐるから、「場合に鷹じて」といふ扱ひはできない。例へば、
  道のべの草深百合のゆりにとふ
     いもが心をわれ知らめやも(二四六九)
 の「ゆり」が「後に」といふ意味で、それが、「百合」に掛かる。これも注釋書ならば、いくらでも説明できるが、ここでは序詞のひつかけを重大視せずに、三句以下の意味を表面に出して、それを強調して歌全體を構成させて、
  ともすると後に後にいふ君よ
     君はいつまで生きるつもりか
 と譯してゐる。これは序詞を無視した例で、譯し方に問題があるであらうが、そこにまた特殊な解釋の上に立つた獨自の譯がある。反對に序詞を忠實に譯したのも無論あつて、ともかく、譯は一様でない。時に應じ、場合によつて、よく扱つてゐる。
 在來ない、一新面を拓いたものである。

自序  村木清一郎
 文学は翻訳できないのかもしれない。単に意味だけ伝へて、他の何物をも望まないなら、或いは可能でもあろうが、多少でも、風韻・持味・語感などを云為するものでは、まづ不可能であらうか。
 殊に声調を生命とする詩歌にあっては、助詞・助動詞ひとつ置換へても、声調が変化し低落する。原作を味へば味ふほど、それに徹すれば徹するほど、詩歌の訳筆は折らねばならぬ。
 萬葉の訳にしても、ルーズに考へれば、それは散文にでも何にでも移し得る。しかし、古今集における宣長の「遠鏡」式のものは、「訳」ではない。五七音一二句の過不足によって、またその位置の転換によって、短歌は、俳句ともなり、混本歌ともなり、乃至、旋頭歌とも、佛足跡歌体とも、更に今様とも、都々逸さへもなる。音数・句数のなほざりにならないことは、瞭然として居る。
 古今調と萬葉調との区別は、句位の如何によって訳出できないこともないが、流麗柔軟な赤人、豪宕雄渾な人麻呂、それら個別的な微妙な歌調に至っては、潔癖に考へて、厳密に言って、原作に還元して味読するより外に手がない。「訳」と並べて「原」「訓」を挙げた所以である。

著者プロフィール
村木清一郎(むらきせいいちろう)
明治20年7月30日、秋田県鹿角郡七滝村大地(現鹿角郡小坂町)生まれ。
明治39年、秋田県立大館中学校を卒業後、早稲田大学英文科に進学。
明治44年、早稲田大学を卒業後、大正元年に帰郷、「秋田県史」の編纂に携わる。大正5年、小坂町立実科高等女学校(現県立小坂高校)の創立に伴い、教諭となる。大正7年、母校の大館中学の教壇に迎えられ、以来、昭和32年に退職するまで同校教諭として在職。
昭和25年、生涯唯一の歌集『朝月夜』を自費出版
昭和30年、畢生の大業『譯萬葉』を同書刊行会の手で予約限定出版(大館市も刊行費を援助)。昭和31年、『譯萬葉』の普及版が筑摩書房から刊行。同時に『古典日本文学全集』(現代語訳・全36巻)の第2巻、第3巻に『譯萬葉』が再録、配本された。
昭和31年、これらの業績により、第1回秋田県文化功労章を受章。翌年、教壇を去り、後年を地域の短歌指導に捧げる。
昭和32年、『萬葉以前』(筑摩書房)刊行。
昭和35年、『詩訳法華経』が地元有志の刊行会から限定出版。
昭和41年、東京・新樹社から函入美本『詩訳法華経』が刊行される。その年、上梓の姿を見ることなく、急逝。享年79。
昭和47年、大館市桂城公園に「わがまへにおほきみづうみよこたはり戸来の山の雲はうごかず」(昭和7年作)と刻んだ歌碑が建立された。