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老農関喜内のこと

 関喜内せききないは、雄勝郡川連かわつら村の肝煎を務めた農民である。生きた時代は19世紀前半、数年にわたって藩に養蚕の殖産を進言し、ついに藩を動かして、それを政策として実現に導いた人物である。もちろん、彼一人の力でなしえたわけではない。また、当初の思惑通りに事が運んだわけでもないし、彼のイメージにあった殖産政策は短期間で幕を閉じたともいえる。殖産興業といえば、9代藩主義和の施策とイメージされがちであるが、以前にも書いたと思うが、殖産政策としては、義和の代にはあまり見るべきものがない。関喜内の進言が藩によって採用されたのは、義和の死後である。ただし、彼の献策が実現するうえで大きな役割をはたしたのが、義和の人材登用で頭角をあらわした「改革派官僚」の一人、金易右衛門こんやすえもんという人物であったことは注目してよい。金は、勘定奉行や郡奉行を務めた能吏であり、下の意見を上層部に持ち込んで働きかける積極性を持っていた。おそらく、金と関喜内を結びついたのは、金が郡方吟味役などに勤務した時期であったと思われる。殖産政策というと、なにか国益論や経済論と結びついてしまうが、私はむしろ、政策論を持つ農民と、それを評価して実現させようと動く武士(藩の下級官僚)が行動をともにする、そのような時代性にこそ、まず注目すべきなのだと思う。
 私が、関喜内を研究対象にとりあげたのは、まだ大学院生の頃であった。だから、その頃は、課題設定の在り方が短絡的であり、面白みに欠けていたとも思う。そこで、退職を目前にしてまとめ直すさい、もう少し関喜内という人物の人となりに踏みこんだ描き方をしたいと思った。もちろん、小説ではないからあくまでも史料が前提である。そこで、直接殖産策にはかかわらないが、喜内が肝煎を務めていたさいに遭遇した事件において、彼がどのような行動をとったのか、という点に焦点をあてた一節を設けた。このことに少しふれてみたい。
 事件がおきたのは、享和2年(1802)8月である。前年、喜内は川連村肝煎に就任し、同村の七郎右衛門と二人肝煎役であった。この七郎右衛門が、藩の不興をかって肝煎役を罷免されたのである。理由ははっきりしないが、これ以前から七郎右衛門は酒造業に手を出しており、その株の取得をめぐってトラブルがおきたようである。ただ、七郎右衛門は人望があり、村内の農民たちからはただちに留任の歎願が出されている。喜内にしても肝煎に就任したばかりであったから、心細いということもあったであろう、留任運動の先頭に立って動いたようである。喜内はまず、親郷おやごうを含め、近郷4か村の肝煎に対して協力を求め、寄合を開いた。当初は他村の問題に積極的ではなかった村も嘆願書を提出することとなった。ところが、このとき、村役人とは別に平百姓たちからも連名で願書が出されたことが問題となったのである。平百姓が意志を統一して訴願書を提出するということ自体が問題であった。9月5日、岩崎村役屋に召喚された喜内は、その場で郡方役人たちの尋問を受けることになった。役人たちの言い分は、「小百姓たちが連印などして願書を出すようなことは天下の御法度」であり、「上を恐れざる行為」だというのである。そして、小百姓たちの意思の伝達を行なったのは誰か、寄合は誰のところで行ったのか、喜内はこれにどのように関与しているのか、を執拗に追及した。これに対する喜内の回答はつぎのようなものであった。
 小百姓たちが連印して願書を出すように指示したことなどありません。小百姓たちが寄合を行なったことも存じませんし、そのような連絡が回っていたことも知りません。自分はその願書を長百姓たちから受け取っており、おそらく小百姓たちは、長百姓に提出したのでしょう。
 この点を、おとな百姓に役人が尋ねると、長百姓たちは、「おそらく小百姓たちが各組ごとにとりまとめたのだ」と回答した。これに対して役人方は、組ごとにまとめたのであれば数冊になるはずなのに願書は一冊にまとまっていて全員の印がある、お前たちが押させたのではないか、と追及した。これに対しては、「各組から申し出があったので、誰が賛成で誰が反対か、その点を書付にして提出せよと指示したら、このようになったのです」と回答している。つまり、農民側が留意しているのは、リーダーがだれかということを特定できないように説明するところにある。しかし、役人側は納得せず、一冊にまとめられている以上、寄合の場所がなければそのようなまとまり方はできないはずだとして、その点について明確な説明をするよう求めた。
 これに対する農民側の回答がふるっている。村では当時「赤腹あかはら」が大流行したため、病の流行を鎮めるための祈祷を八幡神社で行ったが、そこで自然に七郎右衛門の退役の話となって、誰からともなく今回の歎願の話になったのだ、というのである。中世以来、「一味神水」(いちみしんすい)といって、農民が意志を統一する際には、神仏を前にして誓いを立てる。だから、八幡神社で寄合を行なったなどということになればただではすまないが、「赤腹」(赤痢)が流行したため、それを鎮めるための集合だとなれば、何とも言いようがない。それでも役人は、押印をどのようにして集めたのか、あるいは願書の文は誰が書いたのかなどと追及したが、農民たちは、「誰という事もなく集り、できあがった」などと、人を食ったような説明をしている。最後は、役人たちも呆れ果てて、「皆嘘ばかり話している」と言いながらも、喜内たちに帰村を許している。
 喜内はといえば、上意に背いてまで七郎右衛門の留任運動を起したことについて責められると、次のように説明している。
 たしかに上意ではありますが、七郎右衛門の酒造開始は4年前のこと。それ以来なんの御沙汰もなく現在に至っているのですから、もはやなんの問題もないものと了解しておりました。このたび、お上の文面を拝見して、初めてまだその一件に決着がついていないことを知った次第です。
 物言いは丁寧であるが、4年もたってから当時の問題をむしかえすなど、考えてもおりませんでしたという内容で、暗に役人側に嫌味を言っているようにも受け取られる。小百姓たちの歎願の作成過程にしても、その説明のありようにしても、当時一人肝煎であった喜内がまったく様子を知らなかったということはありえず、「赤腹」沈静化の祈願の説明など、かなり周到な根回しの様子も感じられる。もしそうだとすれば、喜内は、郡方吟味役たちからみれば、かなりしたたかな農民であったと言えよう。そうした側面があったからこそ、藩の下級役人とともに、養蚕振興の青写真を作成してみせたりできたのである。
 私は、大学院生時代に、関宇内氏(当時のご当主)のご自宅でこの史料を拝見している。当時は、今のようにデジカメなどなかったから、大装備である。三脚、照明器具、切れたときのための替えの照明、ミニコピーとよばれていた感度の悪い(白黒のコントラストが明解)フィルムなどを大きなカバンに入れて出かけたことを覚えている。当時県立博物館の学芸課長であった国安寛氏から紹介をいただいて、近くの旅館(一軒だけあった)に一泊し、朝握り飯を用意してもらって、川連の関氏のご自宅におじゃました。問題は、フィルムで、史料がどれくらいあるかわからないから、途中でなくなればそれで終わりである。たしか、37枚撮り100本ほど準備していったかと思う。天気がよく、照明器具をつかわなくても現在のデジカメなら十分な明るさであった。窓をあけると、周りはすべてリンゴ畑で、奥様が「以前は全部桑畑でした」と教えて下さった。
 お昼になって、旅館でつくってもらった握り飯を食べようとしていると、御膳が二つ運ばれてきた。上には味噌汁と漬物、小鉢がのっていた。一つは私用の膳で、もう一つはご当主宇内氏の膳であった。それが間をあまりあけず、向い合せて置かれている。私は人見知りがひどいので、このような展開は得意ではなかったが、宇内氏は気軽に腰を下し、大学院での研究の話などを巧みに引き出して下さった。そのとき、私が何を話したのかはもう覚えていない。ただ、このような応対はけっしてその場限りのものではなく、どのような目的であれ自宅を訪れる訪問者に対する対応の仕方、それこそ江戸時代のころより伝わった、訪問者に対する作法なのではないかと、今では考えている。
 現在は、ネットやデジタルデータの時代で、居ながらにして遠く離れたところにある史料でも目にすることができるようになりつつある。それはそれでありがたいことである。しかし、関家での経験で得られたような思いは、ネット社会では得られない。物の整理が苦手で、一つの仕事が終わってしまえばどんなに重要な資料でも見えなくしてしまう私だが、このとき撮影させていただいた関家史料だけは、すべて冊子に製本して、今も私の手元にある。