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ある研究会に参加して

 先日、筑波大学で教鞭をとっている知人から案内をもらって、ある研究会に参加してきた。その研究会は、「『書物・出版と社会変容』研究会」という、やや変わった名前の会である。通称を「書物研」という(らしい)。一橋大学の若尾政希氏が"呼びかけ人"(代表でも会長でもない)となって、東京を中心として行なっている会である。会費も、参加時の資料代もない。私が参加させてもらった時点で、すでに106回であった。単行本といってもよいような厚さの会誌もすでに20号を超えている。
 退職してから、預金通帳の数字の減少を睨みつつ、通帳の数字の消滅する日が自分の人生の最期の日と覚悟して毎日を過ごしている私は、週3日のアルバイト以外は、ほとんど自宅に籠りきりである。それでもときどき魔がさしたように出かけることがある。今回は、筑波大に足を入れたことがなかったことと、この会には以前から興味を覚えていたことが遠因となって、出かけることにした。金曜(6/3)は、大学図書館(人文系)の見学であったが、他に予定があってこれはパス。翌日、秋葉原から"つくばエクスプレス"でつくば駅に到着。そこからバスで目的地に移動。到着してその構内の広さに驚いた。まさに"大草原の巨大な何か"である。本当は"何か"の部分を"建物群"とでもしたいが、隣のエリアの建物が見えないので"群"という印象ではない。木陰の多さは気持ちよいが、雑草が伸び放題で、いささかうっとうしい。夏になると、歩道は蝉の脱け殻だらけになるという。当日は大学が休みであるから、人影がほとんど見えない。キャンパス内だけでバス停が20もあるという。事前にある程度の知識がないと、とんでもない所で降りて迷子である。私にしても、事前に教えられてはいたが、バス停を降りても、警備員さんがいる案内所もなく、図面を書いた案内板もない。あとで聞いたが、構内には学生寮が何棟もあって、自転車は彼らの必需品だという。いや、国はとんでもないものをつくるものだと思った次第である。
 さて、当日の報告は2本で、どちらも若い女性。根本みなみ氏「書物から見る萩藩藩主・毛利重就の御家認識」と、山下須美礼氏「地方知行給人の給地における役割と人的ネットワークの形成」である。おふたりとも、秋田にこられた際にお会いしたことがある。今回参加した理由の一つに、どちらも藩についての研究であり、それが書物とのかかわりのなかでもどのように展開されるのかというところに関心があったこともある。参加者は30人ぐらいであろうか。若い人が多かったが、私とそう違わない大学人もいた。会場も不通の教室で、会の名前や発表者を記した仰々しい垂れ幕もない。こういう気負いのなさが、研究会の息の長さの大きい要素だと私は思う。
 根本氏の報告は、萩藩7代藩主毛利重就しげたか御家おいえ認識とその理想とした藩政像を具体的に明らかにするところにねらいがあった。重就は、孫分家の出身で、系統的な弱点をもった藩主であったという。その重就が中期藩政改革を実施し、中興の祖とされるようになった一つの要因として、「御国政御再興記」という書物が編さんされたことに注目。「自画自賛の書」と批判される場合もある史料だが、根本氏は、逆にその点に「客観性には大きな問題を抱えているが、一方で重就の抱いていた理想の藩主像や御家に対する理念を読み取ることができないか」という関心を寄せる。史料の扱い方で、新たな側面を切り開くことができる可能性を示した点で、聞くべきところの多い報告であった。報告の本質からはずれるが、重就が古法として敬ったのが、毛利元就であるというのも興味深かった。
 山下氏の報告は、仙台藩士小野荘五郎の給地支配の分析を通して、給人の書物の貸借の実態やそのネットワークを追跡し、農村への知的影響力を明らかにしようとしたものであった。同じ地方知行制といっても、秋田の場合と印象がかなり異なる。この方面の研究で多くの実績を残しているジョン‐モリス氏が、給人こそ領主とみる見方の拠って立つところがわかった。仙台藩の場合、給地の「散りがかり」といっても、数十石単位で分散しているケースが多い。これだと、給地に田家を設けて、給人自身が現地に逗留することも可能である。
 秋田しか研究していない者にとっては、十分な理解に達することは困難だが、ときおりこうした研究に接していないと、視野がどんどん狭くなっていく(それでなくても高齢者はそうした傾向が強いのだから)。若い人の研究は、細かいことを言えば突っ込みどころは少なくないが、そうであるからこそ、新しい方法論や視点の持ち方を学ぶことができる。そして、たまに秋田を離れて学ぶ場所に自分を置いてみると、自分の小ささがよくわかるのである(要するに謙虚になれる)。私があまり市民講座などの講師を引き受けてこなかったのは、人前で語ることの自分に対する胡散臭さを感じるからである。研究会は別である。そこは、批判されることが前提とされている場所であるから。
 ところで、この会の"呼びかけ人"である若尾政希氏は、安藤昌益研究を新たなステージに引上げた研究者としてよく知られている。私も、以前同氏の昌益研究に関して、「秋田魁新報」の文化欄で紹介させていただいたことがあったが、氏の研究を読まずして、今後安藤昌益に関するコメントはできないと私は思っている。「ある時は農本主義者に、また共産主義の革命家になったかと思えば、近年はエコロジストの先駆者にと、昌益はその相貌をころころと変えてきた」。これは、若尾政希氏(一橋大学教授)が、従来の昌益研究に対して示した批判である(若尾「近世の政治思想論」、校倉書房)。よく昌益の思想は、封建社会にあって画期的であり、そのような思想が当時の社会に生れたことが奇跡であるかのように喧伝されてきた。しかし、一人の人間の思想が、突然変異的に誕生することはありえない(と私は思う)。その思想が誕生するためには、既存の思想の学習や批判の蓄積があったはずである。では、昌益は何を読み、そこからどのような思想を紡ぎ出していったのか。昌益自身はそのことにはほとんど触れていない。とすれば、さまざまな書を読み、その中に昌益の思想内容、表現と共鳴するものがないかを探っていくしかない。若尾氏は、このほとんど気が遠くなるような課題に取り組んだ。そして、近世初期に活躍した「太平記読み」という人びと(「平家物語」の語りを専門とした琵琶法師のように、「太平記」を語ることをなりわいとした人びと)が、そのタネ本とした「太平記評判秘伝理尽鈔りじんしょう」という書物が、近世初期の名君といわれた大名と同じく、昌益もそこから大きく影響を受けていたことをつきとめたのである。この「太平記評判秘伝理尽鈔」という本は、「太平記」の忠実な注釈書ではなく、実は君主として民を治める者の理想的ありようを、楠木正成を中心に説き明かそうとしているところに特徴がある。重要なポイントは、昌益はただちにこれを批判するのではなく、一時期においてこれを幕藩領主の理想的な「仁政」のありようとして受容していたという論点である。昌益は、八戸時代に「確龍堂かくりゅうどう正信まさのぶ」のペンネームで「博聞抜粋はくぶんばっすい」という書を表しているが、この書において、「理尽鈔」が説く領主=仁政の施行者という論をほとんど全面的に受け入れ、むしろ君・臣・庶民の身分秩序を積極的に合理化・正当化していたのである。つまり、驚くべきことにこの段階の昌益は、領主の立場を代弁するイデオローグ(理論家)であったということになる。
 この若尾氏の研究は、近世史研究に大きな衝撃をあたえた。単に安藤昌益という思想家の研究にとどまるものではない。近世の幕藩領主に共有されていた「仁政」という政策の基本理念が、「太平記読み」という、いわば大道芸人的な人びとの語りによって伝播されていたという「事実」は、それまでの研究にかかわった人たちからみれば、「なるほど面白いが、ただちにそうだと認めるわけにはいかない」というものであった。しかし、若尾氏の研究がもたらしたさらに大きな意義は、史料というものの価値の見直しである。氏が目をとめた「太平記評判秘伝理尽鈔」などという著作物は、従来の歴史研究者が史料整理するさいには、ほとんど「雑」として分類(かたちだけ分類、実は用なしの意)してきたものなのである。氏の研究は、そのような「雑本」とされたものの中にも、歴史資料としての価値を見出したのである。だから、「書物研」なのである。私は、まだ秋田で若尾氏の研究についてのコメントを目にしたことがない。安藤昌益に関する研究をイベント化せず、若尾氏の研究成果を批判的に受け継ぎながら、地道に研究をすすめていくことが大切だと思うのだが。