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改革派官僚の肖像(2)−野上国佐−

 前回の金易右衛門に続き、改革派官僚の代表的な1人として、今回は野上国佐のがみくにすけを取り上げる。前に、「門閥VS下級官僚」のところでも、渋江和光と対立した、藩校の祭酒として紹介した人物である。安永3年(1774)生、弘化3年(1850)没。簡単に履歴をみておくと、寛政5年(1793)学館勤番、同7年〜10年まで江戸留学で、折衷学派の山本北山のもとに寄宿。帰国後、享和元年(1801)学館教授、文化6年(1809)財用吟味役として能代詰、その後、銅山吟味役・副役を経て、同12年には評定奉行となる。また、文政5年には、藩校の紀要職員である文学、天保4年(1833)にはその最高職である祭酒となる。なお、この時には、表方での経験をかわれて、評定奉行格として、評定奉行らとともに会議の場に出席することを求められている。なお、文化8年の分限帳では49石余である。
 このように見ただけでも、野上が、藩校を中心として頭角をあらわした下級能吏であることがはっきりとわかる。刈和野郷校設立をめぐる対立の中で、門閥の渋江和光をやり込めた弁舌の鋭さは、長い藩校職員としての学業でつちかわれたものであったといえる。しかし、彼の、生真面目ともいえる性格にも起因しているかもしれない。たとえば、野上の残した史料としては比較的初期の頃のものに「能代方御用日記」というものがある。この史料の冒頭部分に、次のようなことが書かれている。能代方片付を仰せつかった野上は、その直後、上役から「小羽こば代不納帳」という帳簿を預けられる。これは、前任者が上役らの依頼に応じて私的に融通してやった小羽の代金の不納分をまとめたものであったが、野上は、公用としてなされたものでないから、能代片付としての自分が処理すべきものではないとして、前任者にこの帳簿を突き返している(『能代市史』資料編近世一)。
 また、先にも述べたように、寛政7年から同10年まで江戸に留学しているが、同8年に一度帰国している。その間の暮らしぶりを一部、「御学館勤番日記」から引用してみよう。

 10/17 雨、夕過学へ入、一宿
 10/18 晴、学より直々東海林順泰へ罷出、又々学へ入、日暮罷帰候
 10/19 雨、九ツ過学へ入、一宿
 10/20 晴、八ツ以前学より罷下候、日暮学へ入宿
 10/21 晴、朝霜、八ツ以前学より罷下候、日暮学へ入宿
 10/22 晴、霜、八ツ時罷下、日暮又入学宿
 10/23 晴、霜、早朝罷下、則墓参仕候、暮以前又入ル
 10/24 雨、直々学ニ罷在(まかりあり)、一宿仕候
 10/25 風雨、小雪、朝罷下、直々又入ル
 10/26 雨、直々学ニ罷在候
 10/27 陰、朝学より罷下候、夕過大縄新蔵所へ見舞、直々文学先生へ罷出、薄井村庄吉へ逢候
 10/28 晴、四ツ過学へ入宿
 10/29 陰、直々学ニ罷在候、夕飯ニ新六所へ罷出候

といった感じである。文中の「学」は学館、すなわち藩校をさしている。ほとんど野上は、藩校に寝泊まりしているようなものである。このあとも同じような記述が続く。藩校には武芸所もあったが、野上が入り浸ったのはもちろんそちらではない。野上は、学問を深めることに佐竹家家臣としての自分の生き方を見い出している。ここに、私たちは、まったく新しいタイプの武士像を見ることができるだろう。野上は、表方(役方ともいう。行政にたずさわる職務一般をさす)においても重用されたが、やがてその力量は藩校の運営に注がれていく。野上は、藩校の最高位である祭酒を務めると同時に、10代藩主佐竹義厚よしひろ侍講じこう(家庭教師)も兼務した。そこで彼はどのようなことを語ったのか。
 侍講としての日常は、『論語』や『孟子』を講義するものであった。「祭酒御用日記」には、その様子が「(本日の講義は)伯夷非其君(伯夷その君にあらざれば)ヨリ君子不由也(君子よらざるなり)マテ」というように、淡々と綴られている。ところが、ある時点で野上は、この定例の講義とは別に、藩主義厚に対して、学問の意義について申し述べたいから、特別に時間をさいてくれるようにと、家老たちを通して申し入れしている。天保5年8月16日の条に、「私は、(藩主の)御入国以来10か年にわたって陰の間において講釈を申し上げてまいりましたが、学問に取り組む姿勢などについてはなにも申し上げてきませんでした。学問をすることなくしては政治にお差支えが生じるものであり、学問に励まれるよう申し上げたい」として、やはり義和の人材登用のなかで家老職まで出世した中安主典に申し入れしている。そしてその翌日、義厚との面談がかなった。御側方の役人3人を残して人払いをし、義厚とのマンツーマンの指導が始まった。この時野上は、次のようなことを述べている。

「御国入以来これまで10か年講義をつとめてまいりましたが、これまで御前(藩主義厚−注金森)より特別ご質問もなく、私よりも学問へ取組む姿勢などについて申し上げることもなく、通常通りの講義をしてまいりました。よって本日は特別に御目通りを願いました。人君というものは、学問がなくては目の前の政治に支障が生じるものです。よってこれからは、私に限らず、文学や教授たちも御前に聖人の道を説いてさしあげるつもりでおります。
 さて、学問というものは歴代の聖人天地の理を極め、君臣・父子・夫婦・兄弟・友人の道をたて、天下国家を治める事業でございます。これは人びと皆がわきまえなければならないことですが、とりわけ人の上にたつ者はことさら必要なことです。況や御人君として一国の上に立たせられる立場であれば、わずかの間であったもこのことをお忘れになるべきではありません。天はこの世に民を生みましたが、主がなければ世は乱れます。そこで天は、聡明な者を生み、これに世を治めさせたとあります。聖人は天子となり、それに次ぐ賢者は諸侯となり、その次は大夫士となりました。ゆえに、天子が聖者でなければよく天下を治めることはできず、諸侯が賢明でなければよく一国を治めることができません。― 中略 ― 人臣は、そのあるじが、堯・舜(中国における伝説の聖人君主)のような君であればこそよく仕えるものです。ですから、私どもも堯・舜のような主君に使えるのが念願なのです。したがって、御前におかれましても、堯・舜を目標として励まれることが大切と存じます。時に批判して困難な聖人の道を主君に求めるのは、表面上は逆らうようであるが実は真実の恭ということであり、よい意見を述べて邪悪を防ぎとめることこそまことの敬であり、我が主君は能力がないと見限って善政を勧めない者を逆臣というのです」

 ここで述べていることは、儒学の聖書の一つである『中庸』の中に述べられていることを基にしており、儒学としては初歩的な論理である。これを、特に時間をとって義厚に説こうとしているところを見ると、野上にとって義厚は、期待からは遠い主であったようである。
 この野上の論を聞いた義厚は、「よく考えてみる」と答えたが、これに対して野上は、「学問をするのに悩まれる必要はありません」と言葉を返している。しかし、義厚の再度の答は、「もっともなことだとは思うが、やはりよく考えてみる」というものであった。
 天保11年2月にも、野上は、再度義厚に進言する機会を得、君主と政治の関係を進講している。今度は『孟子』の論をひき、「人君がよく国家を治めれば、臣下や庶民もそれぞれの職分に務め、国は安穏に治まるのです」と述べているが、これに対する義厚は、「よくわからないので、わかりやすいように箇条書きで提出してほしい」と答えている。何か、野上がドンキホーテのようにも思えてくる場面である。
 野上は、他のところで、「堯・舜こそ主君の理想であり、主を堯・舜たらしめるのは、われわれ学問をする者の務めなのだ」とも述べている。これは、とりようによってはかなり過激な論である。なぜなら、よい主君をつくるのは、自分たち家臣なのだと言っているに等しいのだから。
 野上が、これほどまで義厚の指導にこだわったのは、天保4年の飢饉への対応が尾を引いていたと思われる。この時、野上は領内の不穏な情勢を感じとり、義厚に再三領内の巡行を促したが、義厚はなかなか腰をあげなかった。ようやくそれが実行に移されたのは、翌年になって奥北浦一揆が起きてからであった。門閥の雄、渋江和光を論理で黙らせ、藩主に対して諌言をいとわない野上のラジカルさは、学問の力に裏打ちされたものであったといえよう。