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大坂詰役人の正月

 今回が大坂編の最後である。介川東馬の日記によりながら、大坂詰役人の正月の忙しさを紹介したい。文政10年の正月を、介川は大坂で迎えた。前年の10月に、江戸から直接大坂に登っていたのである。
 元日から、館入と称する懇意の商人たちが、早朝から介川の在坂時の屋敷を年礼に訪れている。高岡吉右衛門・奥田仁兵衛など、十数名である。鶴の吸物のほか、料理を3品出して酒を振る舞っている。これらの商人に対しては台所で対応している。午前10時頃から、新しい面々が訪れる。こちらには、鴻池新十郎・塩屋惣十郎・加島屋作兵衛らがおり、20名近い人数である。こちらは書院に通して対応している。1人ひとりに対して鶴の吸物、他にも2種類の吸物を出し、料理は5品であるから、前段より対応が厚い。それぞれ酒を振る舞っている。午後4時頃、ようやくこの日の対応が終っている。鶴の吸物は高級品で、なかなか一藩士には手に入らないが、この時は、たまたま歳の暮に人からのいただき物があって振る舞うことができたのである。
 二日は、あさから3〜4人来客があったが、その程度であり、この日は、大坂詰の同僚の屋敷を回っている。ここに名前が出てくるのはわずか2名であり、いずれも介川からみると部下にあたる。夕後、彼らとともに神社に参拝している。三日は、来客が1人あっただけで、落ち着いた1日だったようである。
 四日は蔵開くらびらきである。したがって館入たちの訪問は多い。鴻池新十郎・塩屋惣十郎・加嶋屋作兵衛・鴻池清八・幸八・塩屋平蔵・かしまや孫市・孫十郎・辰巳屋長兵衛・山崎屋与七郎・鴻池太蔵らが集まり、役人たちもみな参加している。人数が多いために「座敷狭く敷居を取次之間も壱面ニいたし候」とある。また、その様子は「酒宴盛ニいつれも酩酊、謡なとまてにきにきしき事也」とあり、新年と御用始めを祝う様子が伝わってくる。例によって、茶屋"綿屋"で二次会である。
 五日も蔵開きの続きである。続きといっても、参加するメンバーがかわるだけで、することは同じである。介川の記録によると、以前は1日で終わっていたが、近年人数が多くなったために2日に分けて行うようになったとある。この日の二次会は"住吉屋"である。面白いのは、同じ茶屋で広島方面の大名の会が催されており、その会に前日秋田藩の蔵開きに参加した商人たちが数名参加していることである。そのうち、加嶋屋作兵衛や弥十郎は、そちらの会がはねると、秋田の会に飛び入り参加している。両日の蔵開きでも、館入の中には、他の大名家の蔵開きに招かれているため参加できないという者が何人かいた。つまり、彼らは1人で複数の大名家の館入を務めているわけである。
 六日は、今度は介川が館入たちの屋敷を廻り、年頭の挨拶をしている。午前7時頃屋敷を出ている。この日は、全部で29人の屋敷を回っている。その中には、弘前藩の大坂留守居や長州藩留主居、大坂町奉行の屋敷も含まれている。大坂町奉行は、東西2か所あるから、奉行も2人である。これに対しては、太刀一腰・御馬代白銀5枚ずつをそれぞれ献納している。館入への挨拶はさまざまで、玄関先だけの挨拶もあれば、屋敷内に通され、料理や酒などを振る舞われる場合もあった。宝暦年間以来の付き合いである長浜屋源左衛門家では、昼食として、酒・雑煮などが出された。山下平兵衛家でも酒を振る舞われた。辰巳屋久左衛門家は、この段階では秋田藩の館入ではなかったが、介川はこの人物に目を付けており、わざわざ年頭の礼に訪問している。高岡吉右衛門家と山下八郎右衛門家では、一家総出で挨拶に応じてくれ、酒も出された。なかなかのハードスケジュールだが、暮前に帰宅している。
 七日も前日の続きである。昨日と同時刻に屋敷を出、20家を回っている。加嶋屋作兵衛宅では、まず吸物と雑煮が出される。それから素焼きの盃で酒をいただく。また吸物が出され、料理もおいおい出される。主の作兵衛は裃着用、支配人は羽織袴である。しめに薄茶と菓子が出されたが、茶は主人の作兵衛自身がててくれた。終ると、主人は玄関まで、支配人らは門のところまで見送っている。塩屋孫左衛門家でも厚いもてなしをうけている。まずは儀礼的な盃事があり、それから三種の吸物と料理5品が出されている。儀礼的な盃事では「盃ハ壱ツ也」とあるから、盃を回し飲みしたのであろう。そのあと、料理とともに「追々猪口等多く出ス」とあるから、本当の意味での懇談の場となったのであろう。このあと、鴻池新十郎宅でも歓待をうけている。鴻池では主人の新十郎が玄関まで出迎え、支配人ともども裃を着用している。同じく館入の山崎屋与七郎も同席している。書院に通され、そこで雑煮を振る舞われている。吸物三種に料理が五種、訪問した館入中もっとも豪華であったようである。鮭汁が出され、焼き物は鯛であったと記している。そのあと、薄茶と餅菓子が出されている。新十郎は玄関まで、支配人の清八と幸八は門まで見送っている。昨年は1日の廻礼で済んでいたらしいが、これも人数が増えたので2日となったとある。1日だけの時は、鴻池新十郎宅での振る舞いが昼食がわりであったと介川自身が書いている。この日も暮前に帰宅している。
 介川は、屋敷へあがって挨拶した場合は、簡単にその旨を書いている。たとえば、山下八郎右衛門の場合は、「通ル。家内残らず。仁兵衛も出盃事」と簡潔に記している。したがって、この記載がない場合は、玄関での挨拶にとどまっていることを示している。料理の数まで記している家はそう多くはない。上記にあげた家ぐらいである。しかし、簡単にせよ、家にあがった場合は酒を振る舞われており、介川は記していないが、肴の一品ぐらいは出されたであろうから、酒・肴いずれにしても、一日がかりで相当な量を口にしている。精神的な気疲れもたいへんなものであったろう。しかし、何事も、この正月の儀礼から始まるのである。とくに初日、館入でもない辰巳屋久左衛門を訪問していることは注目される。介川は、「是迄参らず候へども、旧冬文通等いたし居候ニ付参候所、通候様取次之もの申ニ付通候」と記しているから、当初は玄関先での挨拶にとどめるつもりだったようである。辰巳屋は、天明3年の段階で幕府が公認していた融通貸付組合(11軒)の一人であり、しばしば幕府から御用金賦課の対象とされた豪商であった。のち、介川の懇願を入れて秋田藩の館入となるが、16回で書いたように、天保飢饉時に、加嶋屋とともに多額の調達金を提供し、秋田藩の窮地を救うのに一役かっている。介川が同家と距離を縮めようとしたのは、秋田藩にとっては正しい判断であったといってよい。このように、前回に続いて毎日酒席ばかりをめぐっている様子を紹介することになってしまったが、人を見る目と、そこから情報を引き出す能力が、大坂留守居役には要求されたのである。