秋田の近世史に興味をお持ちの方であれば、「御亀鑑(ごきかん)」という史料はご存知だろう。秋田県公文書館が所蔵する史料で、昭和63年(1988)から、秋田県立秋田図書館の編集で刊行が開始され、その後平成6年(1994)から秋田県公文書館の編集となり、全7巻で刊行を終了している(途中で編集担当の部署が変更されているのは、県公文書館の設置にともなって、図書館の所蔵していた古文書史料が移管されたためである)。内容は、秋田藩の9代藩主佐竹義和(よしまさ)の事績に関する史料をさまざまな史料から抄出し、それを編年的にまとめたものである。したがって、近世後期、とりわけ秋田藩の寛政改革といわれる義和の政治を研究する上では基礎的な史料といえるものである。「亀鑑」とは、後世の判例というような意味である。図書館などで利用された方も多いことと思う。
ところで、この刊本には不思議な点がある。実は、「御亀鑑」の原本には、その冒頭部分に次の一文がある。 天樹公御譜引証御亀鑑附録 但御日記之外諸家日記より抄出候は必其出所を出 意味は、「天樹院公(佐竹義和)の御家譜の編纂に用いた引証本として御亀鑑を本文につけ加える。ただし、御日記のほかの諸家の日記から引用した場合は、かならずその出典を記した」という程度のことになろうか。ここから、「御亀鑑」が、義和の家譜を編集する際に用いられた引証本をもとにしたものであることがわかる。 まさに出だしの部分にある文である。ところが、刊本の『御亀鑑』には、この一文がないのである。何度もくりかえして恐縮であるが、冒頭部分である。大部の史料であるから、その中の一文が抜けていても、脱文、校正ミスと考えることもできるが、ほんとうに、最初の部分である。教職員の移動で、私も秋田図書館に異動となり、第2巻から第3巻の編集にかかわったから知っているが、当時、校正は念校(最終点検)を除いて、3回、のべ6人の職員で行われた。したがって、最初に「うっかり」があったとしても、そのあとの校正で6人全員が見逃すということは、ほとんどありえない。どう考えても、当時編集にかかわった職員の判断で、意図的にこの一文を入れなかったとしか考えられないのである。 なぜ、そのような判断をしたのか。私が同史料の編集にかかわったのは2巻からであるから、その事情は残念ながらわからない。というよりも、2年間在職した間に、私も原本を一度も見なかったのである。県北の高校で採用され、ようやく市内の母校に赴任できたわずか2年後にこの職場に異動になった私は、正直に言うと古文書室という密室の中で鬱々とした日々を過ごしており、ほとんど歴史研究には意欲をもたなかった。もし原本を見て、そのことに気づいていれば、先輩諸氏に聞いてその意図を確認できていたのだが、今となってはあとの祭りである。 しかし、ことは「御亀鑑」という史料の性格自体に深くかかわる問題である。原資料の編者自身が、これは家譜の編纂に用いた引証本だといっているのである。このことについては、発足当初に公文書館に赴任した伊藤勝美氏が、『秋田県公文書館研究紀要』創刊号でとりあげ、問題点を指摘している(「『佐竹家譜』編纂に関わる若干の史料」)。しかし、刊本『御亀鑑』の解題は、とうぜんこのことにふれていない。 それでは、解題は「御亀鑑」をどのような史料だと説明しているのか。そう思いながら『御亀鑑』第一巻を開いてみると、解題はわずかに1頁である(以下、解題に対し批判的な内容になるが、これは公的な刊行物として作成されたものであるから、職場の起案と決済を通して実現したものである。したがって執筆者個人を批判するものでないことをお断りしておく)。これから、「国典類抄」についての説明と、原稿執筆・校正者の紹介文を除くと、わずか数行となる。そのなかで、「御亀鑑」の性格について述べた内容は、次の部分のみである。 本書は、藩政期十二代の藩主中、名君の筆頭にあげられる第九代義和公の一代記であるが、題名に示されるように後代の亀鑑とする意図を以て藩庁で編さんされたものであり、故実典礼を重んじた当時の藩治・藩情を知る上で欠くことのできない第一等史料である。(中略)義和公の没後、藩主の公式行事や事蹟の記録である歴代御家譜の一つとして『義和公譜』(十冊)が編まれたが、これとは別に『御亀鑑』が編さんされたことは、『国典類抄』の続編としての意図を示すものと考えざるを得ない。 この引用部分だけでも、個人的には気になる部分がいくつかある。義和を名君の筆頭とするのは何を根拠としているのか、歴史上の人物に「公」をつけてよぶ必要があるのか、第一等史料とは何か、「御亀鑑」を「国典類抄」の続編とする根拠は何か、等々。名君論については、他の機会に述べようと思う。藩主に「公」を付すのは、そのまま執筆者(刊行にかかわった当時の古文書室の職員)の歴史認識のあり方を示している。「第一等史料」という呼び方もそうである。第一級史料ということで用いていると思われるが、第一級史料とは、ある事項を明らかにするうえで、本来史料的に歴史的事実を語るものとして疑いをさしはさむ余地がないものをさす言葉であって、権力による編さん物は該当しないことが多い。なぜならば、そこには編纂者の意図が入り込む余地があるからである。解題が、「御亀鑑」を「第一等史料」と位置づけたのは、これが、「明君義和」の「事蹟」を語る、藩権力によって制作された「国典類抄」の続編だからと考えた故であろう。ここには、歴史的存在にすぎない藩主に「公」を付して表現する認識のあり方と共通するものがある。 ところで、刊本『御亀鑑』には、もう一つ問題がある。それは、二年間の編纂事業にかかわった経験から指摘できることなのであるが、闕次の用い方に関することである。通常、藩の編さん物などでは、藩主に対して敬意を表すために闕(けつ)字(じ)を用いるのであるが、原本「御亀鑑」では、用いてはいるものの、かならずしも一貫していない。ところが、刊本編さん時に、藩主とその後継者を示す「御曹司(おんぞうし)様」にはかならず闕字をいれること、それ以外の人物に闕字が用いられていても、そこには用いないこと、というルールが編さん職員の間で作られていたのである。闕字を用いるか否かは、その文が書かれた状況、あるいは書き手の意識によっておそらく異なる。長文の中で何度も闕字が出でくる場合、その執筆者の判断で、最初の一か所にとどめる場合もあるかもしれないし、不注意で用いなかったのかもしれない。それを、刊本編集者たちは、藩主(「屋形(やかた)様(さま)」)「御曹司様」にはかならず闕字を用いることに仕様を統一した。さらに、誤字の扱いについても独自のルールを設けている。通常、史料の翻刻では、誤字はそのままとし、その右ヨコにカタカナで「マヽ」あるいは「ママ」とルビをふる。史料の原型をなるべく保ったかたちで利用者に供するためである。『御亀鑑』の編集者たちはその原則を用いず、誤字を正字に改めている。つまり、原型保存よりも、正しい形でのあり方を重視したのである。闕字にも同様の認識がはたらいたのであろう。つまり、本来用いられるべきところには、原本にはなくとも闕字を入れるべき、という考え方をとったのである。 このように見てくると、『御亀鑑』編集者たちには、史料の正確な翻刻という以上に、本来あるべきかたち(体裁)をより重視していたように思われてくる。このことを頭のすみにおいておき、当時(近世)編さんにあたった人びとの認識をみてみよう。次は、「御亀鑑」の編さんにかかわった御記録方役人の記述である。 一 御伝記 十冊 一 御亀鑑〔江戸表七十九冊、秋田表三十六冊〕 百十五冊 右御亀鑑之(の)儀ハ、文化年中御改正之砌(みぎり)より、平同役共追々記載仕(つかまつり)候分、此度精細ニ修補仕出来(しゅったい)仕候、専ら 御伝記之御引証ニ相成申候故指添差上申候(〔 〕内は割注)つまり、「御亀鑑」とは、佐竹義和の家譜編さんにかかわった役人たちが同事進行的に書き連ねていったものを精細に修正・補足して再編集したものであること、それは家譜の論拠として用いられた文書であると述べている。これを冒頭の一文と関連させて考えてみると、冒頭にある問題の一文は、「御亀鑑」編纂者の注記であり、「御亀鑑」の本文そのものではない、という考え方が導かれることになる。刊本『御亀鑑』編さん者たちは、本来あるべき体裁をもって復元することを第一と考えたために、この「注記」を削除したのではないかという可能性が考えられるのである。 以上述べたことは、推測をまじえたことであるので、厳密な批判にはならないものである。しかし、原本にある冒頭の一文が刊本の中で削除されたことは、じつは重要な問題であり、歴史を好んで学習する人びとの認識を問われることであると私は考える。本来のかたちを重視する考え方も、一つの歴史認識のあり方ではあろう。しかし、私はその立場をとらないし、歴史を好んで学習する人びとに翻刻文を提供する場合は、原型を優先すべきだと思うのである(ただし、難字を常用漢字などに置き換えて利用者に提供することは、歴史認識とは異なる問題である。これは、凡例などであらかじめ示しておけばよい)。 |