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『別号録』の、松平定信の序文について

 これは、もしかするとちょっとした"発見"かもしれない。いま、必要があって、公文書館で写真本として公開されている「介川東馬日記」を読んでいるのだが、そこで面白い記事をみつけた。内容は、佐竹義和が編著者として知られる『如不及斎別号録じょふきゅうさいべつごうろく』によせられた序文について述べたものである。前にも書いたが、同書は、中国の学者たちの人名事典といった内容で、完成した時には義和はすでにこの世のひとではなかった。その序文に、幕府の寛政改革の実行者として著名な、老中松平定信の序文がよせられているのであるが、"発見"といったのは、そのことについて述べた部分である。「介川東馬日記」文政10年6月26日にある記述である。少し読みにくいかもしれないが、原文を読み下しにして引用する。

 天樹院てんじゅいん様御著述別号録べつごうろく此度出来しゅったいニ付、元来拙者も右ニ付品々心配もいたし候事ニ付早々拝見申度、江戸において奥山九平・岡部新吾等申ニ付持参いたし候趣、拝見いたし候所至極宜出来ニ候、楽翁らくおう様之序も出来ニ候、是ハ 天樹院様御繁昌中楽翁様へ御恃おたのみも成され置かれ候よしニ候へとも御出来これなく、長々ニも相成ニ付、拙者八年以前江戸ニ居候時ニ楽翁様段々御老年ニなさせられ候得ハ早く御もらひ置候様仕度つかまつりたく、いつれ近世の英傑ニ付是非御序これあるものニ候段申候て、田代新右衛門[故也]より谷文晁たにぶんちょう江相頼申上候所御承知ニ候、其節奥羽軍記御覧なされたき御望の趣ニ付、夫は御国へ申送候所書写出来相達直々御贈ニ相成候、尚御序ノ事追々御才足なされ候へともとかく延々ニ相成、此度いよいよ御出来ニ候、大慶之事ニ候、是を書ハ詩仏ニ候、外ニ栲亭之序これあり、是ハ大田権之丞書き候、詩仏申候ハ権之丞此節故人ニ相成、右之序認置これある所本の閑よりハ少し大きく、其内へ納り申さず、しかしかき候事ニ付一字ツヽたちはなし少し縮候てよふよふ間ニ合候よしニ候、いつれ楽翁様の御序ハ別段、右の外ハ惣而御家中ばかりニて出来候ニ付別しておもしろく候、北山の序も出来の分これあり候、至極おもしろく候へとも余り御賞挙り過候にて 天樹院様思召ニ叶わせられず候様、其頃御意もこれあるニ不除き可然との事ニて載せ申さざる義ニ候、 御本丸 西丸江も御献上ニ被成候積ニて、白線すり・鳴桐箱紫帙江入れ立派ニ御出来、御老中様江も進められ候積のよし、詩仏申候、追々役々へも拝領ニ相成候はつのよし也

 長年、学館の職員たちが編集にたずさわってきた『別号録』がようやくできあがった、というところからこの文章ははじまっている。私が今回注意をうながしたいのは、特に前半の部分である。前に紹介したが、定信の序文で特によく知られているのは、「つねに予と言論反復せるは、道を修め義を明らかにし、民をやすんじ俗をよくすることにあらざるはなし」(原漢文)という一節である。これだけを見ると、いかにも義和と定信がふだんから政治を論じ、親しくつきあっていたかのように見える。しかし、介川の上記の部分をみると、やはりそう簡単にはいかなかったようである。3行目、「天樹院様御繁昌中楽翁様へ御恃も成され置かれ候よしニ候へとも御出来これなく、長々ニも相成ニ付」というのは、実際に義和公の存命中からお願いしていたが、なかなかいただくことができなかった、という意味である。しかし、完成したのが義和の没後なのであるから、実際に義和が、いまこのような事業をしておりますから、完成の折にはぜひ御序文を、と願い出ていたとしても、現物が完成していない以上、定信にしても書きようがなかったであろう。8年以前に介川が江戸詰であったとき、介川にいわせれば定信は「段々御老年ニなさせられ候得ハ」、早く序文をもらっておいたほうがよいと言ったというのである。この記事は文政10年(1829)であるから、8年前頃には、定信は60歳ぐらいである。今ならば「御老年」ということもなかろうが、当時としては老境にさしかかっていたといわれても仕方がない年齢である。ちなみに、「楽翁」と出てくるのが、松平定信である。政治からはすでに退いていたが、いずれ「近世の英傑」であるから、この著名人の序文は、なんとしても手に入れたかったのであろう。しかし、当の義和はすでにこの世を去っていた。このままでは、絵に描いた餅に終わるかもしれない、というので、田代新右衛門という人物が動いたことを、介川の日記は記す。
 引用部分の6行目に注目すべき記述がある。田代は、谷文晁に依頼して(何度目の催促であったのかわからないが)、定信自身に催促したところ、定信は「奥羽軍記」(「奥羽永慶軍記」のことか)をご所望だったので、それならば、ということで国元に連絡し、書写したものを定信に贈ったというのである。それでも「尚御序ノ事追々御才足なされ候へともとかく延々ニ相成」というのであるから、著名人から一筆いただくというのは、まったく大変である。しかし、このことをきっかけとして、依頼が具体的になり、現実のものとなったということらしい。谷文晁は、江戸後期の画人として、高校の教科書にも出てくるほどよく知られた人で、その名前がここに出てくるのは唐突のように思えるが、実はそうではない。文晁の父親は、谷麓谷といい、定信の実家、田安たやす家の家臣だった人である。また文晁は、定信自身の命を受けて各地をめぐり、古文化財の調査を行なってもいる。したがって、ここに文晁の名前が出てくることは、『別号録』に定信の序文があることの不思議さを払拭してくれる事実である。
 さて、後半も面白いのであるが、介川の筆がなかなか難物で、正直に言って正しく読めていないところがあるかもしれない。文章をそのまま解釈すれば、定信の序文を書写したのは大窪詩仏おおくぼしぶつであるらしい。また、「栲亭」とあるのは、江戸在中のころから義和の学問の師であった村瀬栲亭むらせこうていで、この人がよせた序文は、太田権之丞という人物が書いたという。しかし、その文字がうまく紙面に収まらなかったため文字を一字ずつ切り離して枠内に収まるように工夫したと読める。しかし、『別号録』は版木本であるから、詩仏の筆跡が生かされているわけではない。原稿として大切にするというのであれば、定信の自筆がもっとも価値があるはずで、そこのところの意味がよくわからない。推測すれば、版木を作成する以前に、編者たちの肉筆による稿本のようなものが作られたことが考えられ、そのことを言っているのかもしれない。なお、内容に関して介川に言わせれば、やはり定信の序文のすばらしさは他を抜いているということになる。面白いのはそのあとで、山本北山やまもとほくざんの序文もよくできていたが、あまりに美辞麗句に過ぎ、義和の好みにはあわずよせられたとある点である。引用部分にみえる「北山」とは、山本北山、儒学の折衷学派せっちゅうがくはの第一人者であり、秋田に招かれて藩校の在り方の指導にもあたった人物である。村瀬栲亭とならんで、義和の師匠ともいえる人物だが、「思召ニ叶わせられず候様、其頃御意もこれあるニ不除き可然との事ニて載せ申さざる義ニ候」というのだから、事実だとすれば、義和も案外人が悪い。
 いずれにしても、この部分の内容は、「別号録」の成り立ちに、新しい要点をつけ加えてくれるものである。とりわけ、幕府老中松平定信の序文が採録されるにいたる過程にふれられている点がみのがせない。実態は、定信と義和の距離感を感じさせるものであることが若干皮肉であるが、いつの時代も著名人の推薦や言葉をもらうというのはこうしたものかもしれない。なお、谷文晁と連絡をとったとされる田代新右衛門という人物については詳しいことはわからない。秋田魁新報社から出ている『秋田人名大事典』によれば、秋田藩の役人であると同時に、詩や俳句をよくする文人であったらしい。実は、いろいろな史料を読んでいるとしばしば目にする名前である。藩政の中でどんな役割をはたしていたか、もういちど見直してみる必要がありそうである。