

湊には、他国から入ってくる廻船やその乗組員たちを相手に商売をする廻船問屋、小宿、導船(附船)たちが多数存在していた。時期によってその数には異動があるようだが、文政11年(1828)段階の土崎湊の場合、問屋が12軒、小宿が18軒(文化10年では20軒)あったことが、「御用記先例書」(県公文書館)という史料で確認できる。導船は、文化10年の段階で17軒であった。なお、一般にもよく知られている『東講商人鑑』(安政2年版。東山文庫、県公文書館)の土崎湊の項では、「廻船問屋」が10軒、「廻船小問屋」が16軒を確認できる。この「廻船小問屋」と表記されているのが小宿であろう。「御用記先例書」の記載と、数においてもほぼ一致する。『東講商人鑑』では、このほか、「附船」が9軒、「導舟」が9軒とあり、別途記載しているが違いはよくわからない。その実態から考えれば、「御用記先例書」が一律に「導船」と記載しているものに「附船」も含まれるものと思われる。そのように考えれば、数についても両者の記載はほぼ一致する。
問屋は主に入湊する船の揚荷・積荷の売買や斡旋に携わり、その仲介の手数料を口銭として受け取っていた。ある廻船が、特定の問屋の世話になると、その関係は固定し、次に湊に入航した際もその問屋の世話になるという慣行が全国的に成立していた。小宿は、それぞれの廻船の水主(船頭以外の乗組員)らに宿を提供することをなりわいとしていた。以上は、問屋と小宿についての一般的な説明であるが、土崎の場合、『秋田県の地名』(平凡社)は、「問屋は商人・仲買との直取引を禁止されている保管機関で、小宿は予約注文品や地方商人の委託商品などを船手輸送に頼み、水揚げの時、船手と商人・仲買との取引を媒介するものであった」と説明している。この説明はたいへんわかりやすいが、しかし本当にそれで説明がつくのかどうか、疑問がないわけではない。それは、以下の通達にみるように、小宿の商売にも制限があり、問屋の商品に関わることがかならずしも禁止されていたとはいえない様子がうかがわれるからである。また、この二つはまったく別種の業者であったわけではない。立場的には、小宿は、自分たちの仲間をつくっていたが、問屋の支配下にあり、その許可がなければ勝手に株(かぶ)立(だて)はできなかった。また、小宿の業務は、子細に見るとその土地々々で異なっていたようであり、土崎湊では、ある程度の積荷の売買も許可されていたようである。それは、導船も同様である。
この問屋と小宿がどのようにして成立し、いかにしてそのような力関係になったのかを具体的に示す史料はない。ただ、能代についてはわずかだが、その成立事情を推測させる史料がある。それは「木山方以来覚追加」という史料に採録された、天保2年の「能代問屋共より往古以来御材木捌方書上之事」と題された史料で、『能代市史・資料編近世二』にも収録されている。これによると、能代では材木を主とする他国との交易は慶長9年(1604)以来行われていたが、元和5年(1619)に藩の指示で、交易にかかわっていた者のうちの有力な者2名が「仲立役」という役に就任したという。17世紀の前半には、他国との交易にかかわる業者は23人ほどいたが、藩は、御直山から伐り出された材木の販売をすべて「仲立役」に独占させることにした。このころには、おそらく「仲立役」もその数を増していたと思われる。さらに寛文6年(1666)には、藩は、御材木だけでなくすべての出入商品の販売を「仲立役」に独占させることにした。さらに元禄元年から、この「仲立役」を問屋と称することにしたという。簡単に記せば以上だが、当然そこには同業者の中での力関係の綱引きがあっただろう。このことから推測すると、土崎湊においても同様のことが考えられる。すなわち、まずは他国船との交易に携わる業者がいて、湊を維持する役割をはたしているが、次第にその数が増えてくると、当然同業者のあいだで利害の対立が起こる。その際、力関係で優位の者が藩と結びつき、利権の独占を図る。藩も、運上金などなにがしかの収入を見込み、また流通機構の整備のためにそれを認可する。こうして、利権を持つ者とそこから排除されつつも、それに依存して従来の営業を続けていくものとに分かれていく。そして、結果的には、業務を分担することによって、海運業にかかわる存在としてその営業を続けていく、ということになったものと考えられる。
先に、小宿は廻船問屋の差配下にあったと書いたが、それは、たとえば藩の、小宿仲間への通達のなかに、「其方ども家業躰の義は、元来問屋どもより授与いたし置き候株形につき、万端差図を得、取扱来候趣に相聞え候」(文政8年)とか、「小宿家業の義は先年よりすべて問屋へ附属いたし候事」、あるいは「家業の儀についての諸願は、惣じて問屋をもって申し出ずべき事」などと表現されていることから了解できる(以上書き下し文。文政11年。「御用記先例書」8−51)。また、問屋と小宿が、それぞれ一定の積荷売買の斡旋にかかわっていることは、小宿仲間から藩に提出された願書のなかに、「御見聞あらせられ候通り、湊御町の義は問屋ならびに私共(小宿―注金森)諸品捌口銭をもって家内扶助つかまつり」とあり、また「下り荷諸品口銭の儀は、是まで荒物類は代銀高へ三歩、木綿・繰綿類は二歩」などとあることから指摘できる(文政8年。同上)。この段階では、小宿仲間は21軒存在していた。この文政8年の願書で小宿らが主張したことは、湊の積荷の売買やその斡旋は問屋や小宿にまかせられているはずなのに、「近年はなはだ不埒になり、仲買人や株をもたない者がわずかの口銭を取って積荷の売買を斡旋し、船を相手にすることはいうにおよばず、仙北や下筋の商人たちと勝手に商売を進めているため、自分たちの商いが不振となっている」という実態であった。仲買については、32人とあり、それ自体すべてが禁止対象であったわけではないが、無株(問屋の許可を得ない無権利)の者が多くかかわってくることによって、小宿の利権が侵害されているわけである。これは、一定の形をもって商品流通を統制しようとしてきた藩の体制がほころび始めていることを示してもいる。
導船業者も仲間を作り、その世話役である格年役もおかれていた(これは小宿も同様である)。導船(附船と同義で用いる)は、本来船舶が停泊している間、その積荷を陸まで運んだり、逆に陸から本船に売却する荷物を運んだりする役割をはたし、やはり問屋の差配下にあった。その賃銭は問屋から支払われた。導船仲間からは、その支払いの遅滞をめぐってしばしば問屋への苦情が出されている。文政5年の史料によれば、「付舟」が17人、「付舟頭」が50人と出てくるが(「御用記先例書」5−45)、これは、付船業者が17軒あり、それにかかわる船乗が多数いたということであろう。この付船業者もある程度の積荷の売買にかかわる権利をもっていたことは、「付舟の儀は下り物の内、荒物類売り捌かせ候節、浜中買と申候ものは付舟より買請候て諸品取捌候」とあることから指摘できる。これによると、取り扱う商品は荒物類に限られ、米や木綿・綿・古手など、大量に移出入される物にはかかわることができなかったことが推測できる。また、ここで中買が登場しており、これは、この文章による限り、付舟業者から買い取ることが定められていたようにも読みとれる。このほか、「穀物中買」という者もいて、これも「問屋手先家業」であるとされている(文政11年。「御用記先例書」8−47)。つまり、小宿や導船業者にも一定の積荷の売買にかかわる権利があたえられていて、そのほかに仲買という業者も認められていたということで、なかなか複雑である。
なお、導船会所は新城町におかれていた。そのため、穀保町から必要があって導船の要請があった場合などは時間を要し、そのため入湊した舟手に迷惑がかかるので、沖出しが必要な時期には穀保町にも会所を設置するよう、要請が出されている。導船数は80艘登録されていたが、そのうち30艘が稼働できない状態で放置されているとし、藩は、もしそれを使用しないのであれば、その焼印を引上げ、問屋を通して他の者に仰せつけるとしている(「御用記先例書」4−48)。株札をあたえられていた導船は、その具体的規模は不明だが、「大船」46艘、「中舟」26艘、「小舟」8艘となっている。稼働しない導船にはそれなりの理由があったろうが、一つはその作事料が1年間に1,000貫文もかかるということがあった。藩は、できるだけ本来の数に復帰させることを求めているが、それだけ導船の需要があったということであろう。
しかし、この導船に対して、19世紀に入ると、強力なライバルが登場してくる。川崎舟と呼ばれる漁船がそれである。「御用記先例書」には、「入船の節下り物取立の義、導舟・川崎共差し出し来候所、このたび相改め、導舟さし留められ漁舟川崎一ト通ニなし置かれ候」として、川崎船の導船活動を優先し、町奉行支配下であった川崎船を、勘定奉行支配下である沖口役所の支配下においた。川崎船とは、「カワサキ」と称され、蝦夷地の追鱈漁に活躍した漁船である。その全長はおよそ10m前後とされ、帆を用い、6人前後の乗組みが可能であった。導船の「大船」がどの程度の規模であったかわからないので断定はできないが、おそらくその収容量については通常の導船を上回ったのであろう。また、しばしば、藩が指摘しているように、導船仲間の対応が悪く、入港した廻船に多大な迷惑をかけているということもあった。このような藩の決定に導船仲間が素直にしたがったとは思われないが、この問題がどう展開したかは、筆者はまだ明らかにし得ていない。
以上、これまであまりふれられることがなかった土崎湊の様子について、知り得た史料を用いて書いてみた。自分でも不勉強な分野であり、不十分きわまりない一文であるが、これがきっかけとなって土崎湊の研究が進めばよいと思っている。いま、私の関心は大坂と藩との関係に注がれているので、土崎湊を集中的には検討できないが、覚書程度で書いてみた。今後、(時間が許せば)より深めていきたいと思っている。
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