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佐竹義和=「明君」論を考える

 佐竹義和よしまさが、近世中期以降の藩政改革を実施した「明君」であることは、現行の高校日本史教科書ではたいていふれられている。だいたい、米沢藩の上杉治憲はるのり(鷹山)と、熊本藩の細川重賢しげかたといっしょにまとめられることが多い。しかし、最近、この二人と佐竹義和では、同一の藩中としてくくれないのではないかという指摘がなされている。千葉大学准教授である小関悠一郎氏が発表された『〈明君〉の近世』(吉川弘文館)という著作がそのことにふれている。
 どういうことかというと、簡単に言えば、上杉治憲と細川重賢は、江戸時代から、地元をこえて「明君」と認識されていたが、佐竹義和の「明君」像は、近代に入って創り出されたものだというのである。この著書の中で、小関氏は、天野真志氏(当時東北大学大学院後期課程在籍)によるご教示だとことわって、次のような事実を紹介されている。明治の元勲伊藤博文は、当初徳川頼宣よりのぶ・池田光政みつまさ・上杉治憲・細川重賢の4人を「四名君」と唱えていたが、秋田市長大久保鉄作が「天樹公政績一班」などを伊藤に献呈し、それが「聖帝に献上」されて後は、これに義和を加えて「五名君」と称した、というのである。ここから、小関氏は、義和を「明君」とする評価は、近代に入って定着・浸透したもの、と推論している。なお、この伊藤博文の認識にかんすることは、無明舎出版から刊行された、後藤ふゆ氏の『筐底拾遺―平元謹斎と後藤毅・秋田県士族四代の記録』でふれられているという。恥ずかしいことに、私は小関氏のこの著作にふれるまで、この事実を知らなかった。
 なお、小関氏の著作は、上杉治憲の政策とその背景にある政治認識がどのように形成され、また変化していったのかということを、周辺の家臣団の認識とともに考察し、同時に、江戸時代に「明君」像が形成されていく過程とその意義を、豊富な史料を駆使して論証された好著である。とくに、江戸時代に形成された「明君」像が、「明君録」という形をとって世間一般に流布することで、地域をこえて広く浸透していき、そのイメージは、武士だけではなく民衆にも受容されていったことを論証した部分は、歴史研究の醍醐味を感じさせてくれる。いわゆる研究書なのでけっして読みやすい本ではないが、郷土史に興味をお持ちの方には一読をおすすめしたい(県立図書館にあると思います)。
 さて、それでは、義和=「明君」論は、どう評価されるべきかということが、あらためて問い直される。歴史を学ぶ視点からは、所詮江戸時代の大名などというものは封建領主であり、ある殿様が名君かどうかなどということは、本質的な問題ではないし関心もない、という人もおられるだろう。先の小関氏の著作も、誤解をさけるためにあえて記しておけば、上杉治憲や細川重賢が立派な殿様でしたということを述べようとしたものではなく、「明君」という概念が形成され、受容されていく社会的背景を明らかにし、そり影響を考察するところに力点がある。しかし、反面、市民講座などに参加し、地域の歴史を学びたいという人たちのなかには、それでは義和は名君ではないのか、といった、反論に近い疑問をもたれる方も少なくないだろう。これはこれで大切である。そこでこの問題について考えてみたい。
 結論からいえば、義和が、歴代の藩主のなかではすぐれた為政者であったということはできるだろう。「明君」と評したとしても、それはそれで大きく的をはずしてはいないと思う。ただし、ここで肝に銘じておかなければならないのは、彼らは封建領主だということである。名君であれば、何をするか? 困窮した財政を立て直す、政治の仕組みをかえる(藩政改革の実施)、国産品を奨励して国を富ます(殖産興業)、優秀な人材を抜擢する、領民をいたわる政治を実践する、等など…。しかし、これらは、あくまでも藩体制を維持する、または立て直すことを目的として行われるのだということを忘れてはならない。民をいたわるにしても、それは藩体制を立て直す限りにおいてである。額に汗しない我々武士が、民を苦しめているのだから、我々の存在が否定されるべきだ、とはならない。むしろ、江戸時代後期に「明君」とされる人たちは、動揺する藩体制を立て直そうと努力した人たちなのであるから、本質的には反動的な側面をもつ。しかし、反動的だ、で終わってしまうと、これは一時代も二時代も逆行した研究で終わってしまう。そうならないためには、本質的には反動的であっても、そのなかに、改革を断行している為政者も気づかない、あたらしい時代へのほころびのようなもの、あるいは萌芽のようなものはないかを探る必要がある。「自民党をぶっ潰す」といったあの方も、自民党政治を立て直すための改革を推進したはずであるが、その後政治は混迷し、自民党は野に下った。まさかそこまで見通して党の総裁選に出たわけではなかったろう。
 閑話休題。義和の政策で、真に改革的なものとして評価されるのは、人材の登用と、農政の刷新であると私は思う。殖産策にはそれほどみるべきものがない。人材の登用には、藩校および郷校の設置が不可分に結びついている。学問奨励や歴史書の編さんなどの文化政策は、為政者がまずとびつきやすい分野である。それ自体否定されるべき要素が直接的には見えないからである(現在であればスポーツ振興がそれにあたる)。しかし、江戸時代は、ことはそう単純ではない。なぜならば、はじめて国入りする藩主にとって、自分の領国は《異国》であり、自分は《異邦人》なのである。藩主は、初めての国入りまで江戸で成長する。身についた文化は中央の文化であり、国元についての知識は伝聞の域を出ない。それが、10代の若さで一国を預けられるのである。国元に人がいないわけではない。有能で包容力のある家老でもいればよい。一門や譜代重臣からみれば、新藩主は、無能であっては困るが、必要以上に有能でこれまでの政治の仕組みを一新するような人物でも困るのである。彼らは、まず既得権益を守るにかかる。そのような存在は、新藩主からみれば、姑・小姑のような存在に等しい。自分の手足になって動いてくれる、忠実で、しかも有能な家臣の存在、それがもっとも必要となる。今いる有力者が既得権益を守るのに傾くのであれば、忠実な家臣団をつくりあげるしかない。それを目的としたものが、藩校の設置であり、人材の登用であると私は考える。
 実際、義和が藩校を設置し、士官にさいして素読吟味そどくぎんみ(中国の古典などを音読する試験)を義務付けると、引渡ひきわたし回座まわりざとよばれる上級家臣からは、藩校への参会自体を拒否する者があいついだ。一門の一人である北家当主などは、学問奨励の通達に対して、「自分は非才であり、これまで藩の経済難に対処することばかりに専念してきたので、これからは隠居し、先祖の霊を弔って余生をおくりたい」などと、嫌味たっぷりな返答をしている。一方、諸士とよばれる下級家臣団の参加は、藩校の隆盛を出現させた。彼らの優秀なものは、下級ではあるが重要な役割をはたす役職にあいついで赴任していった。これは義和の思惑にそった展開であったともいえる。
 義和がいかに藩校に集う諸士たちを大切にしたかを物語るエピソードがある。ある日、義和は、藩校の職員を登城させて、霊泉台という眺望のよい場所から市中を眺めて詩作させ発表させるという趣向の会を設けた。その後簡単な酒肴や菓子で彼らをもてなしたのち、藩が所蔵する書画の名品を鑑賞させ、それらを自ら臨書して、藩校の職員たちに好みものを選ばせて各自に与えたのである。これは、後に藩校の祭酒(最高責任者)となる、野上国佐のがみくにすけの「御学館勤番日記」という役職上の日記に出てくるエピソードである。義和は、藩校を造っただけでなく、その職員に親密な態度を示すことによって、周囲に対して、藩校の重要性を認識させつつ、職員の自覚を促すことを忘れなかったのである。
 私は、『御亀鑑』の秋府編に出てくる人事異動の記事をすべて抜きだし、誰が何年にどのような役職に転進しているかを整理してみたことがある(『秋田県公文書館研究紀要』8号)。その結果、多くは100石前後からそれ以下の下級藩士が、民政上重要な役職に赴任していることを確認できた。そのなかで藩校と何らかの関係をもっていた人物を選別して示しているが、『御亀鑑』には、異動時に藩校との関係を記しているわけではないので、確認できた人数は最低限のものといえる。もし藩校の在籍名簿のようなものが残っていれば、おそらくはほぼ全員近くが藩校の経験をもっているはずである。こうして、義和の政策理念やその思惑を、具体的な政策として実現していく集団が形成されるのである。もし義和が「明君」であることの事例をあげろといわれれば、第一がこの人材の登用であると、私は思っている。