No3
3.11以後の出版について
 東北大震災関連の本には、「印税は被災地に寄付します」という表記をしたものがけっこうある。うまく言えないが、こういうのにはちょっぴりインチキ臭を感じてしまうのは、私だけだろうか。生理的にどうにも「いや〜な気分」になってしまうのだ。被災地のようで、まったくと言っていいほど被害を受けなかった東北・秋田に居住するものの、これは「屈折」というか「偏屈」なのかもしれない。
 3.11以降、被災地である東北の片隅に住む編集者として、最初に思ったのは「できるだけこの震災関係の本を出すのは自重しよう」ということだった。持ち込まれる原稿は読むが、こちらから誰かに働きかけて震災企画本を出すのは控えよう、という気持ちだった。その根拠は? と訊かれると、自分自身もよくわからないのだが、まああまり人の不幸に乗じた本を出すのは「う〜ん」という感じかなあ。
 結果としては、友人である河北新報編集局解説委員Sさんからの依頼があり、同紙夕刊に震災直後から書きつづったコラムを『3.11を超えて――夕刊コラムのみた東北大震災』というブックレットで出版。同じく仙台に住む大学教師の『「東北再生」計画』という提言集をこれもブックレットで出した。この2冊のみ。
 これらが最初で最後の震災本ではないだろうが、出すとすればもっと時間がたってからだ。震災本ブームが過ぎたころを見計らって、逆にしつこく何度も震災本を出すようになるのかもしれない。
 それはそうと印税寄付問題である。昨日読んでいた『辺境ラジオ』(140B)という本で、著者の一人である内田樹は、編集者に「印税を寄付しましょう」と半強制的に言われ、「心の疾しさが消えるでしょ」といわんばかりのその物言いに気分が悪かった、と正直に書いている。自分たち編集者の取り分はそのままで、「オレがお前の代わりに送ってやるよ」的な編集者の態度は尊大極まりない。「顔に息を吹きかけられたよう」にいやな気分だった、そうだ。
 やっぱりそうか。半強制というのが曲者だし、編集者から言い出してるあたりが曲者だ。基本的にはどんなことでも「自分の本当にしたいことは、自分の金でやる」のがまっとうな生き方だよね。
 その3.11本で話題になった本といえば、毎日出版文化賞を受賞した関沼博『「フクシマ」論〉』だろう。原発を誘致した地域の現状を、震災前から取材したレポート(研究論文)である。さらに、この本に引き続いて散発的に書かれたエッセイや対談を編んだ同じ著者の『フクシマの正義』(幻冬舎)を読んだ。『「日本の変わらなさ」との戦い』と副題にある。中身はほぼ処女作と同じ。3・11以後、多くの知識人や文化人は一斉に「これで日本は変わる!」と言い出した。が、それらの言説の多くは、原発の福島を、ある時は都合のいいように他者表象し、ある時は自分のきれいに化粧した「善意」の顔を映す鏡にしただけではないのか、と関沼は問う。戦後、中央は地方に負担を押し付け、いわば植民地化することで発展したわけだから、福島原発事故は一過性のものではなく、日本の成長や地方が抱える問題とつながっている。というのが著者の主張トーンだ。3・11以前には自分自身であったはずの東電や与党政権(民主党)を、あたかも他者であるかのように扱いながら、原発をスケープゴートにし、ここぞとばかりに発言する人間たちの胡散臭さについての強烈なカウンターパンチである。
 敵や悲劇を見つけて満足し、ある視点からのみ分かりやすく問題を取り上げる。それでいいのか、声高に叫ばれる正義が、新たな犠牲を生んでいないか。悲劇にも希望にもグラデーションがあるのではないか。
 東北(福島)を沖縄と同じ線上にみる視線も、好感というかシンパシーを感じる。もしかすれば、震災に関する本は、この関沼の本だけで事足りたのではないのか。5年、10年後まで読み継がれる震災本は、どのくらいあるんだろう。

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●No.1 何かが終わったのだが何が始まっているのか、わからない
●No.2 書店が消えても、誰も困らない?

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