はじめに
【どんな日記なのか】
  この旅日記は、秋田県平鹿郡増田村(後に増田町、現在は横手市)の安倍五郎兵衛という人が、天明3年3月5日(新暦では1783年4月6日)から、村の仲間と連れ立って伊勢神宮へ参拝した記録である。
 底本は、旧増田町文化財協会が平成10年に刊行した「道中記」(中田繁翻刻)だが、それには5月2日に伊勢神宮を参拝した後、5月14日に那智熊野大社を訪れたところまでしか記されていない。それから五郎兵衛は和歌山県の紀三井寺と高野山、奈良、京都などを巡り、中山道を経て長野の善光寺から越後へ抜け、山形県の羽黒山にも登り、再び日本海を見て平沢(現にかほ市)から山を越えて9月16日に帰郷した。保紅との号を持つ俳人でもあった五郎兵衛は、往路、帰路とも「旅の道草」という句日記を残しているので、この記録も加味して全行程を現代語に訳し、注釈をつけて紹介する。
 なお、原文の文語表記でわかりにくい部分には、句読点、濁点、半濁点を適宜書き加えたことをお断りしておく。

【道中記の安倍五郎兵衛は9代目】
 旧増田町文化財協会の横山孝一会長による「道中記発刊のことば」によると、安倍五郎兵衛家(増田本町)は中世には増田城主の土肥家に仕え、佐竹氏入部後の慶長20年(1615)には藩から増田城回りの開田を許され、地域の開発に尽力した。また増田村の肝煎りを代々務めるなど、旧増田町の中・近世史には欠くことのできない由緒ある名家だとしている。
 そしてこの家の当主は、代々「五郎兵衛」を襲名した。
しかし、「道中記」の五郎兵衛は生没年がわからない。伊勢詣でをした天明3年に何歳だったかも不明だ。解明の手がかりは、安政3年(1856)12月12日に生まれ、昭和13年(1938)12月21日に82歳で死去した五郎兵衛である。
 こちらの五郎兵衛は博覧強記の人で、郷土史に造詣が深く、口述筆記による「安倍五郎兵衛翁・郷土史」が昭和10年頃に編纂されたものの刊行せず、原稿のまま保存されていたのを平成11年12月、旧増田町文化財協会が刊行した。この本の「発刊のことば」(増田町文化財協会・横山孝一会長)によると、五郎兵衛翁は増田の安倍家12代だという。
 また、同書の「安倍五郎兵衛翁の略伝」(昭和13年2月23日記)には、「先代五郎兵衛の長男」であり、殖産興業に努め、特に養蚕業を得意として「一時全国を風靡した秋田式桑樹栽培法の端緒を開いた」という先代の五郎兵衛の業を継承して、「郷土史」の五郎兵衛翁も養蚕業に貢献し、桑樹栽培や蚕種製造の指導教師として各地に招かれたと紹介されている。
 そして「安倍五郎兵衛翁の略伝」よると、安倍家の始祖は、第8代孝元天皇の孫といわれる武内宿祢(たけのうちすくね)だという。武内宿祢は、飛鳥時代に権勢を誇った蘇我氏の始祖とされていて、蘇我氏から安倍氏が分かれた。安倍氏はその後、大和朝廷の時代に奥羽地方の鎮撫を命じられたとされている。
 もっと詳しいことは、『増田町郷土史』(昭和47年8月、増田町郷土史編纂委員会)に記載されている五郎兵衛家の系図が手がかりだ。その遠祖は貞日(さだてる)という人で、南北朝が統一された応永年中(1394〜1428)、将軍足利義満の命を受け、羽州最上郡山家(やんべ)を拝領して山家氏を称したという。
 この「山家」という地名は山形市にある。市の中心部から東方、国道13号バイパスと、その東の山形自動車道の間の野伏山(標高234メートル)の東側に城跡がある。この山家氏の分家が、現在の山形県天童市の中心部から東方の山、若松寺のある辺りに小山家(こやんべ)城を築いて城主となった。それは山家師時(もろとき)で、山形の山家城の師兼(もろかね)の弟だが、在城20年の後、慶長8年(1603)、増田村に移って帰農したと、小山家城跡の案内板に記されている。
 しかし、『増田町郷土史』の系図では、山形・山家城の師兼の2代後の師重(もろしげ)が増田に移り、その子である師道(もろみち)が安倍姓に復したと記述されている。「郷土物語」の五郎兵衛を12代目として数えると、初代は山形の山家師兼にたどり着く。
 この辺りは、増田町の史料と、山形県内の史料に食い違いが多々ある。武内宿祢から貞日までのつながりもはっきりしない。今後の研究が待たれるところだが、いずれにしても、増田の安倍五郎兵衛家の祖先が一時期、山形県内にいたことは間違いないようだ。
 では、「伊勢詣で」の五郎兵衛は、何代目なのだろうか。
 『増田町郷土史』の系図では五郎兵衛という世襲名だけでなく、本名も記されている。「郷土物語」を残した五郎兵衛翁の名は日彦(てるひこ)で、その父(11代目)は貞重と言い、文化11年(1815)2月に生まれた。すると12代日彦は、11代貞重が41歳の時に生まれた長男ということになる。同じように見てみると、11代貞重の誕生は、伊勢詣での天明3年(1783)から32年後である。村の人たちをまとめて長旅に出た時の五郎兵衛が20歳以下とは考えられないから、仮に30歳だとすると11代貞重は62歳の時の子供になってしまう。これは子供ではなく、孫の代だろう。つまり、貞重の前には10代貞則がいて、その父、9代貞福が「伊勢詣道中記」を残した、俳人保紅と考えるべきだ。そのひ孫が、昭和まで生きた12代五郎兵衛の日彦と結論したい。
 以上、安倍五郎兵衛について長々と紹介したが、五郎兵衛家はかなり古くまで家系をたどることができる名家であり、代々増田村の肝煎りだったからこそ、村人をまとめて資金を積み立て、経費のかかる伊勢詣での旅もできたことがわかるのである。