増田から山形県内へ
◇14人で出立
 三月五日、横堀(注1)の岡山半左衛門殿宅へ、私、小泉久太郎、嘉瀬谷庄吉、樋場幸之助(勘之助のこと)、横山庄太郎とお供、三井七五郎と共七人の、計十四人が宿泊した。
 三月六日、山越えして院内(注2)に入ると、斎藤治左衛門殿が酒と吸い物を出してくださり、岡山半兵衛と半助、治左衛門、西村利吉らがここを杉峠(注3)の前まと見なし、酒、飯などもあって、一緒ににぎやかな見送りとなった。

◇山形県に入る
 峠から及位(のぞき)(注4)まで三里、そこから金山(注5)まで三里半で、西田茂兵衛方に泊まった。金山は新庄(注6)から三里半ある。
 七日は夜中から雨で、朝も雨が降り続いたので、新庄の北本丁の井ノ上市兵衛方に泊まった。新庄は戸沢主計(かずえ)様(注7)、六万八千石のご城下で、ここで手判(通行証明書)をもらわなければならない。
 三月八日、新庄から三里の蝉ノ湯本(注8)へ。
 ここは湯治客が多く、にぎやかで、大きな川べりにある温泉だ。弁慶が岩を割って温泉を掘り当てたという滝湯が、ずいぶんと具合が良い。ここで昼食にした。
 新庄から蝉ノ湯の間に、一里半ほど松の山を越えた。松の木は数万本もあった。それを行き過ぎ、栗の木の山も越えたが、松山の道はとても良かった。
 それから一里十八丁で、向町(注9)の菅三郎兵衛方に一泊した。道中は雨風が強く、難儀した。
 三月九日、向町から四里の笹森(注10)には番所があり、新庄の関所でいただいた手判を納めて番所を通った。
御関所を通り過ぎて行くと、東の方に三角形の大きな山があり、道の前方には笹の森山の笹原の中に、あちらこちら松の木が見え、枯れススキが見え、南の方は道のわきに松林があり、その前には沢が流れ、巨大な岩(注11)が高く突き出ていて、沢の南の両面とも絶景と言わねばならない。
 笹森や鶯の音(ね)のきくこころ(保紅)
 それから一里ほど行けば、新庄領と仙台領の境界(注12)となる。そこからは少し山で、道の両側は笹原だ。それでこの街道を「笹越え」とも言うのである。
 中山村が仙台領の入口である。尿前(しとまえ)(注13)には関所があり、鳴子に入る川を越えるための入国許可証をいただいた。


注1 横堀=湯沢市横堀。旧雄勝町の中心地。JR奥羽本線横堀駅がある。国道13号と108号の分岐点。国道108号は、西へ向かうと松の木峠を経て由利本荘市へ、東は鬼首峠を経て宮城県大崎市へ至る。

注2 院内=湯沢市院内(旧雄勝町)。江戸時代初期に採掘の始まった院内銀山は、天保元年(1830)から明治元年(1968)の39年間で103トンもの銀を産出した記録があり、島根県の石見銀山、兵庫県の生野銀山と並ぶ三大銀山として知られた。最盛期であるこの時代には、院内銀山町の人口は1万5千人に達し、久保田城下(秋田市)をしのぐ繁栄ぶりだった。院内銀山は昭和29年(1954)に閉山した。安倍五郎兵衛たちが伊勢を目指して院内を通った頃は、やや振るわない時期だったが、さびれた山村ではなかったはずだ。銀山町は、横堀から国道108号を西へ4キロほど行った所で、銀山に運び入れる物資に1割の税を徴収した御番所跡がある。また、奥羽本線秋田県最南端の院内駅には、明治初期に政府から派遣されたドイツ人技師の住居を再現した「院内銀山異人館」が併設されている。

注3 杉峠=秋田と山形の県境、雄勝峠の別名。今はそれほどでもないが、かつてはうっそうたる杉林に覆われていた。院内峠とも言う。江戸時代以前は、もう少し南の金山町有屋から秋田県側の役内(湯沢市)へ至る有屋峠が主要路だったが、険路だったため、常陸(茨城県)から秋田に移封された佐竹氏が参勤交代路として雄勝峠の道を整備した。以後、この道筋が羽州街道となり、国道13号、JR奥羽本線に引き継がれている。JR奥羽本線院内駅から西へ1キロほどの所に、番所を復元した「院内関所跡」がある。

注4 及位=「のぞき」と読む。全国でも代表的な難読地名のひとつ。現在の山形県最上郡真室川町及位で、雄勝峠を越える羽州街道が整備された後に新しくできた宿駅。

注5 金山=山形県最上郡金山町。羽州街道の宿駅。戦国時代末期、現在の秋田県南部(雄勝、平鹿、仙北の3郡)を支配していた小野寺氏への備えとして、山形の戦国大名・最上義光が城を築いた。金山町の中心部はこの時代に城下町として作られた。元和8年(1622)に最上氏が改易され、金山の城も廃されたが、その後は羽州街道の宿場として繁栄した。津軽藩、秋田藩の参勤交代のための本陣が置かれた。

注6 新庄=山形県新庄市。新庄藩6万8千石の城下町。羽州街道の宿場としても栄えた。

注7 戸沢主計様=新庄藩7代藩主、戸沢正良(まさすけ)、官位は主計頭(かずえのかみ)。戸沢氏の祖は雫石(岩手県)の豪族だったが、南部氏に追われて秋田県仙北市角館に移り、戦国武将の地位を築いた。戸沢政盛の時、急速に徳川家康に近づき、関ケ原の合戦に際しては、最上義光とともに会津の上杉景勝と戦った。その戦功によって常陸の松岡(茨城県高萩市)で4万石を与えられ、最上家が改易されると、戸沢政盛は2万石を加増されて新庄に移った。政盛は、徳川家重臣鳥居忠政(山形藩22万石)の妹婿だったこともあって、譜代大名の格式だった。新庄藩戸沢家は後に8千石を加増され、明治維新の11代正実(まさざね)まで続く。

注8 蝉ノ湯本=安倍五郎兵衛は当て字で「蝉」と書いたのだろうが、正しくは山形県最上郡最上町の瀬見(せみ)温泉。最上川の支流、小国川の左岸にある。文治3年(1187)、源義経が兄頼朝に追われて平泉へ向かう途中、ここで北の方が産気づき、弁慶が産湯を求めて川まで下りたところ、雲のような気を吐き出す大岩があったので、なぎなたで岩を突き破ると温泉が噴出したという伝説がある。『義経記』には、ここで義経の男子が誕生したことが記されているが、温泉については触れられていない。しかし温泉街には、弁慶が墨をすったという「弁慶の硯石」など、伝説にまつわる遺物がいろいろある。
江戸時代は、宮城県の鳴子温泉郷へ通じる最上小国街道(宮城県では中山越出羽街道と呼んでいる)の道筋であり、往来も多く、新庄の奥座敷と言われた瀬見温泉も湯治客でにぎわった。現在も国道47号とJR陸羽東線が通っているが、江戸時代は酒田で陸揚げした北前船の商品が、最上川とこの街道を経由して、仙台藩領まで運ばれた重要な往還だった。運ばれた物資で多かったのは身欠き鰊、塩鱈、古着、木綿だったという。

注9 向町=現在の最上町向町で、町役場がある。向町の東を流れる絹出川(すぐ下流で小国川に合流)を越えた段丘の上に戦国時代末期、土豪の細川氏が小国城を築き、向町は小さな城下町だった。城から見て川向にあるので向町と言った。

注10 笹森=最上町富沢笹森。向町から9キロほど行った集落。新庄藩の番所があった。『奥のほそみち』の旅で現在は宮城県大崎市の鳴子から山道を下って来た芭蕉は、ここを通り、笹森の親集落である富沢から左へ折れて、尾花沢を目指した。

注11 巨大な岩=「巨大な岩」と訳した部分の原文は「岩尾」で、原書には「岩に岩尾を重ねて山とし……奥の細道」と注釈がある。『奥のほそみち』でこの文言のあるのは、松尾芭蕉が「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」の名句を残した立石寺の一節で、大きな岩が重なって山となっている光景だ。安倍五郎兵衛が「岩尾」と書いたのは、芭蕉の紀行文を意識したからと、原書の注釈者は感じたのだろう。

注12 一里ほど行けば、新庄領と仙台領の境界=JR陸羽東線・堺田駅のあたりが、新庄藩最後の集落。芭蕉は『奥のほそみち』で、「封人の家」(番人の家)に泊まったと記しているが、それは堺田村の庄屋を代々務めた有路家で、旧有路家住宅が国の重要文化財として保存されている。折からの梅雨の風雨で芭蕉はここに2泊し、「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」の句を残した。
ところで、堺田は全国でも非常に珍しい、分水嶺の真上にある集落だ。JR堺田駅前にはそれを示す水路があり、水が自然に分かれて日本海側と太平洋側に流れている。

注13 尿前(しとまえ)=宮城県大崎市鳴子温泉尿前。仙台藩の関所があった。藩境の中山峠からは8キロほどある。

≪解説≫
 いよいよ「道中記」の始まりである。旧増田町の中心部から横堀までは、直線距離で18キロほど、実際の道のりは24キロ(約6里)ぐらいだろう。天明3年3月5日は、新暦では1783年4月6日だから、たぶん、まだ街道の周囲には雪が残っていただろうが、一行は最初に記した「道中心得ノ事」に従って朝早く出発し、横堀には明るいうちに到着したと思われる。そして、ここで、この旅の総勢が14人だったことがわかる。これだけの人数が一緒なら、長旅でも心強かったに違いない。
 ちょっと気になるのは、三井七五郎という人が、7人も「共」を連れていることだ。伊勢詣での資金を積み立てる講仲間であればきちんと氏名を記すはずで、単に「共」というのは、「従者」という意味だろう。お供が1人の横山庄太郎は驚かないが、7人も引き連れて来た三井七五郎とはどんな人なのだろうか。しかし、直接的な史料が見つからない。かろうじて『増田町郷土史』の「増田の酒屋」の項に、文政11年(1828)の「増田村の酒屋八軒」という記録があり、その中に「七五郎」の名があった。確証はないが、これが三井七五郎だとすると、造り酒屋を営むほどの有力者であれば、7人もお共を連れていたことがうなずける。
 一行は、現在のJR奥羽本線、国道13号にほぼ重なる羽州街道を通り、金山、新庄と泊りを重ねる。そのまま進めば、山形、米沢を経て福島に至り、奥州街道を江戸へ向かうのが順当だ。しかし一行は新庄から道を東へ折れて、仙台藩領の鳴子へと向かった。これは安倍五郎兵衛が導いた道筋だと思われる。と言うのは、この道筋を逆にたどったのが、『奥のほそみち』の芭蕉だったからだ。
 安倍五郎兵衛は、「保紅」と号する俳人でもある。和歌にも通じている教養人だ。伊勢への長旅という絶好の機会を得て、五郎兵衛は芭蕉の歩いた道、そして数々の歌枕の地を訪ねたいと考えたに違いない。それは、次の宮城県内に入って一層はっきりする。
 なお、今回の現代語訳では、現在の都府県単位に道中記を紹介することにした。旧国名や、大名領、天領で区分けすると、現代人にはとてもわかりにくいと思われるからだ。


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