福島県内
◇貝田から福島へ
 (三月十七日、越河(こすごう)から)十六丁の貝田(かいだ)(注1)へ。仙台領は越河までで、貝田村から幕府の代官領になると聞いた。
 この間に、義経の腰掛(こしかけ)松(まつ)(注2)があった。太さは一丈四尺(4.2b)、高さ一丈五尺(4.5b)、地面に近い枝が十三間(23.6b)ほどもある不思議な形の銘木だ。そばに石碑があって、歌が刻まれている。
 義経の誉れは爰(ここ)に腰かけの松に名残りの末ぞ久しき

 作者は美作(みまさか)(注3)の住人、黒田氏とあった。
 その向こうには、弁慶の硯石(すずりいし)(注4)というのもあった。(石があるのは)小高い山で、良いところだ。松の木などもある。
 伊達の大木戸(注5)の二重堀があって、古城の形をとどめている。
 十七日は(貝田から)一里十二丁の桑折(こおり)(注6)まで行き、泊りは桐屋庄蔵という木賃宿にした。この町はずれの山の上に、佐藤庄司の旧跡(注7)がある。

 三月十八日、(桑折から)一里二十五丁の瀬上(せのうえ)(注8)へ向かった。
 鎌田村(注9)の西の方に古城が見える。国境の北は仙台藩領で、陸奥の国の信夫郡本内村までだ。早瀬を渡る川(注10)の南は福島藩(注11)領である。仙台藩領は大きな川(注12)の向かいにもある。
 瀬上から福島までは一里二十八丁。ここは板倉内膳頭様のご城下だ。三万石の地領で、これを信夫郡という。信夫の文字石(注13)は城下から一里ほどの村にあり、石に字が彫られているそうだ。
 城下から根子町(注14)まで十一丁。
若宮(注15)まで一里十二丁。
そこから一里半の八丁目(はっちょうのめ)(注16)まで行き、柏屋庄右衛門の旅籠に泊まった。
 八丁目は家の造りの良い屋並みである。

 ◇二本松から郡山へ
 三月十九日はそこから三十一丁の二本柳(注17)へ向かった。安達太良山寺があり、(鬼女がいたという)黒塚(注18)とともに、安達ケ原(注19)が左手に見える。
 二本柳から一里八丁で二本松(注20)に着いた。ここは丹羽若狭様(加賀頭様)十万七千石の城下である。
 次の杉田宿(注21)までは一里十一丁。薬師堂があり、接待の茶屋があり、温石(おんじゃく)(体を温める石)を産する場所でもある。
 次の本宮(注22)へは一里十丁、その次の高倉(注23)までは一里八丁だ。高倉は安積山(注24)日和田村(注25)にあり、ここには松浦作世姫(まつらさよひめ)(注26)の像がある。この像には詳しい縁起がある。
 日和田の本村まで一里、さらに福原(注27)まで一里、それから二里半の郡山(注28)まで行って、薄井屋小七郎の宿に泊まった。この先は小さな村ばかりだ。

 ◇郡山から白河を経て下野へ
 三月二十日、郡山宿から日出山(注29)までは二十八丁。左の方に三春城(注30)が見える。ここに国境の川が流れていて、北は二本松領、南は長沼領(注31)である。
 そこから笹川(注32)まで十八丁で、その北側は長沼領、南は越後高田領(注33)だ。それを過ぎると坂道があり、須賀川まで一里二十丁。須賀川(注34)は、家の数が千五百ほどあると言われている。
 さらに一里半行くと笠石(注35)で、また一里行くと矢吹の宿(注36)になる。この間に中畑新田村があって、次々に土居(注37)があったが、今回は新庄のご家中が一緒なので通行するのに銭は払わなくてもよかった。
 次の踏ミ瀬(注38)までは一里二丁で、この間に大田川村(注39)があり、左手に矢吹の地蔵がある。昔はにぎわったと言い、「切られ菩薩」と呼ばれている。
 踏ミ瀬から大田川までは二十一丁で、この間の坂道を上ると領境の杭がある。北は越後高田領、南は白河領である。この間に大清水があって、清水の上に行く石段を上がると、その先に左は会津、右は奥州道の追分がある。
 大田川から一里二十五丁の白河は、松平越前守様(注40)のご城下だ。十一万石のご城下である。家の数(とあるだけで、五郎兵衛は家数を書いていない)。(歌枕として知られる)白河の関(注41)は城下の(南)入口にあって、左の方にその山が見える。松の山で、観音堂があるという。
 宿は荒木屋源右衛門方にした。
 次の白坂までの途中の皮篭(かわご)村への入り口から右の方に、金売吉次(かねうりきちじ)をまつる小さなお堂(注42)がある。

 ◇下野への国境
三月二十一日、白河から白坂(注43)までは一里半。ここから八丁行くと国境の村がある。ここが奥州と下野の国境で、国津島大明神の宮がある。社は小さいがきれいな所で、茶屋に「境の里餅」もある。ここにある「風流のはじめや奥ノ田植唄」の石碑は、芭蕉の句(注44)である。天満宮のお堂もある。ただし、下野へ越えた国境にも大日如来堂があって、両方ともに「境の明神」(注45)という。


注1 貝田=仙台藩領から天領・伊達郡に入って最初の、旧奥州街道の宿場(福島県伊達郡国見町貝田)。現在は、JR東北本線の福島県最北の貝田駅がある。駅から少し南へ行き、「奥州街道貝田宿」の表示板のある辺りが江戸から来た宿場の入口で、宿場を過ぎ、最善寺(曹洞宗)の近くに「貝田番所跡」がある。

注2 義経の腰掛松=源義経が、金売吉の誘いで平泉の藤原秀衡を頼って行く旅の途中、横に伸びた枝に腰を下ろして休んだという伝説の松の木。五郎兵衛の日記では「越河から貝田までの間」のように書かれているが、実際は、貝田宿を過ぎ、国見町石母田(いしもだ)から国道4号の下をくぐる道を西に入った国見神社の少し先だ。ただし、五郎兵衛が見た松の木は、文政4年(1821)、蜂の巣を取り払おうとした火が誤って燃え移り、枯れてしまった。その後、新しい木が植えられて現在に至り、古い松の焼け残りの根幹とともに、義経神社が祀られている。

注3 美作(みまさか)=旧国名。現在の岡山県の北部地域。略称は「作州」。

注4 弁慶の硯石=兄の源頼朝が平家打倒の兵をあげたと聞いた義経が、平泉から頼朝のもとへ向かう途中、涸れたことがないという石のくぼみの水で弁慶が墨をすり、義経に従うという奥州の武士の名を書き記したと伝えられる。この石は、国道4号から国見町立藤田小学校へ向かう分かれ道を入ってすぐ、右側に見える小高い丘(硯石山)の頂上にある。ここからは東に視界が開けていて、阿武隈川を見下ろすことができる。

注5 伊達の大木戸=文治5年(1189)8月、奥州征討を目指す源頼朝軍を迎え撃つ奥州藤原氏の軍が築いた長大な防塁を「大木戸」と言った。それは標高289メートルの厚樫山(あつかしやま)(阿津賀志山)を中心に、東は阿武隈川まで総延長4キロにも及ぶ防御線で、奥州藤原氏は2万騎を超える軍勢が布陣した。対する頼朝軍は17万騎と数では圧倒したが、強固な「大木戸」に拠る奥州軍は容易に屈せず、3日間にわたる大激戦となった。しかし、頼朝軍の別動隊が大木戸の西側を迂回して奥州軍の背後を襲い、奥州軍は敗退した。頼朝軍の追撃は急で、平泉も陥落して奥州藤原氏はほろんだ。
「大木戸」は今も福島県伊達郡国国見町の地名にある。また、国見町西大枝地区には、昭和54年に発掘調査された防塁跡があり、3列の土塁に挟まれた二重堀を見ることができる。ただしここは、五郎兵衛たちが歩いた当時の奥州街道からは少し離れている。五郎兵衛が「二重堀があって、古城の形をとどめている」と記録した場所は、当時の街道近くにあったのだろう。

注6 桑折=仙台へ向かう奥州街道と、奥羽山脈を越えて山形へ向かう羽州街道の分岐点に位置する宿場町。近くに半田銀山があったこともあり、延享4年(1747))に近隣が天領となり、桑折に幕府代官所が置かれた。その陣屋跡には明治になって伊達郡役所が建てられた。いかにも明治の洋館らしい旧郡役所は国の重要文化財に指定されて現存している。

注7 佐藤庄司の旧跡=「庄司」は本来、荘園の管理者のこと。奥州平泉の藤原氏が現在の福島県中通り北部地域を支配していた時代、庄司を兼ねて信夫郡司に任じられていたのが佐藤氏。しかし五郎兵衛のいう「旧跡」が何を指すのか、よくわからない。桑折宿から西方には、戦国武将伊達氏の居城だった西山城跡があるので、あるいはこの城跡のことかもしれない。桑折は伊達氏発症の地で、始祖・伊達朝宗の墓がある。政宗の祖父、15代晴宗は天文17年(1548)、西山城を廃して本拠地を米沢(山形県米沢市)へ移した。

注8 瀬上(せのうえ)=奥州街道の宿場。阿武隈川の川港でもあり、舟運の船頭たちが遊ぶ歓楽街でもあった。蛇足だが、五郎兵衛たちが通過して17年後の寛政12年(1800)、幕府は突然、備中足守藩2万5千石(岡山県、木下氏)のうち2万2千石の領地をこの付近に移し替え、瀬上に陣屋が置かれ、明治まで存続した。

注9 鎌田村=瀬上宿と福島城下の中間にあった村(現在は福島市鎌田)。東側を流れる阿武隈川に沿った広い平野部にあり、西方には信夫郡司・佐藤氏の居城だった大鳥城跡(福島市飯坂町平野、今は公園)の高台が望まれる。平氏追討の兵をあげた兄・頼朝の陣に源義経が平泉から駆けつける際、当時の信夫郡司・佐藤基治は2人の子、継信、忠信兄弟を義経に従わせた。2人とも戦死したが、その様子は「平家物語」や「吾妻鏡」など多くの史料に紹介されて広く知られていたので、五郎兵衛も感慨深く眺めたのだろう。

注10 早瀬を渡る川=阿武隈川の支流、松川。

注11 福島藩=板倉氏、3万石。藩祖・重寛(しげひろ)は、島原の乱で壮烈な戦死を遂げた板倉重昌の曾孫。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟したが、廃藩置県の際、ここに県庁が置かれて福島県が誕生した。福島県庁は板倉氏の城跡にある。福島城下は奥州街道の宿場でもある。

注12 大きな川=阿武隈川。福島県白河市の西方、栃木県境に端を発して、福島県中通り地方を北上し、宮城県亘理町で太平洋にそそぐ、延長234キロメートル(日本第6位)の大河。

注13 信夫の文字石=五郎兵衛は「文字石」と書いているが、地元では「文知摺(もちずり)石」と呼んでいる巨石。百人一首の「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(源融(みなもとのとおる))で知られる歌枕の地。瀬上宿から福島城下に入る手前で東の阿武隈川を渡り、突き当りの山のふもと(福島市山口)にある文知摺観音の境内にその石がある。ねじれ乱れた模様を染色する際に用いられたという古い伝承や、源融と恋に落ちたこの地の乙女が石の表面を麦の穂でこすると、都へ帰った源融の面影が浮かび上がったとの悲恋物語も伝えられている。芭蕉もここを訪ねたが、石は半ば土に埋もれていた。石はもともと山の上にあったのだが、麦の穂で石をこすってみようという人が多くいて、麦畑を荒らすので、村人が石を下に突き落としてしまったと『奥の細道』に記されている。石は明治になって掘り出された。

注14 根子町=奥州街道の宿場で、清水橋宿が正式名だが、根子(ねっこ)宿とか根子町宿とも呼ばれた。ここに宿場が作られたのは江戸時代の直前で、町づくりの工事の際に木の根が多くて難儀したことから、伊達政宗が根子町と命名したとの言い伝えがある。現在の地名は福島市清水町。

注15 若宮=奥州街道浅川新町宿(福島市松川町浅川)。若宮八幡宮を祀っていることから、若宮宿とも呼ばれた。

注16 八丁目(はっちょうのめ)=福島市松川町の中心部。旧信夫郡(現福島市)と旧安達郡(現二本松市)の境界から8丁目にあたることから地名になったという。ここを流れる松川から明治初期、松川村という名ができた。奥州街道八丁目宿は、歓楽街として知られていた。それで五郎兵衛一行も、城下町の福島を素通りしてここまで足を伸ばしたのかもしれない。

注17 二本柳=旧安達町(現二本松市)の宿場。

注18 黒塚=鬼婆が住んでいたとの伝説があり、平兼盛の歌「みちのくの安達ケ原の黒塚におにこもれりといふはまことか」(拾遺集)で知られ、謡曲「黒塚」が作られた。

注19 安達ケ原=二本松市安達ケ原。二本松の市街地から東へ向かい、阿武隈川を渡った対岸の丘陵地帯。

注20 二本松=丹羽氏10万石の城下町。丹羽氏の祖は、織田信長の腹心の1人、一時は所領123万石を誇った長秀。その子・長重の代に没落したものの、紆余曲折を経て長重は江戸初期、白河藩10万石の大名に復帰し、その子・光重が寛永20年(1643)、二本松に移って明治を迎えるまでこの地を治めた。

注21 杉田=奥州街道の宿場(二本松市杉田)。街道を東西に横切る杉田川をはさんで宿場町があり、五郎兵衛は単に「杉田」と記録しているが、北杉田宿と南杉田宿と区別するのが普通だった。

注22 本宮=東の磐城・平へ向かう磐城街道、西の若松城下へ向かう会津街道(二本松街道)への分岐点で、二本松藩内の重要な宿場。現在の福島県内では屈指の賑わいだったと言われ、五郎兵衛一行から少し後の天保9年(1838)の記録では、旅籠30軒、茶屋12軒、銭湯6軒があり、飯盛女も70人いたという。現在は本宮市。

注23 高倉=郡山市日和田町高倉。戦国時代に畠山氏の山城があったと言われているが、宿場町なった経緯はよくわからない。人形浄瑠璃座があったという。

注24 安積山=『万葉集』にある「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思はなくに」で知られる歌枕。
現在の郡山市日和田町の中心部から少し北方の、五郎兵衛たちが歩いた奥州街道の東側にある丘陵で、今は安積山公園が整備されている。

注25 日和田村=南北朝時代の記録にもある古い村で、奥州街道の宿場。現在の郡山市日和田町。

注26 松浦作世姫=秋田県の旧増田町文化財協会が翻刻した五郎兵衛の道中記には、「肥前(佐賀県)松浦の東方に住んでいたという美女」との注釈がある。確かに万葉集や肥前風土記には、古代朝鮮半島南端にあった任那(みまな)を救援に向かう大伴狭手比古(さでひこ)と「松浦佐用姫」が恋仲になり、別れに際して、海の見える山の上で姫が布を振ったという伝説がある。しかしこれは、日和田村に伝えられる「松浦作世姫」とは、まったく違う話だ。
旧日和田宿に「蛇骨(じゃこつ)地蔵」という、恐ろしい名前のお堂がある。その昔、この地域の支配者夫婦が殺され、娘の菖蒲姫は安積沼に投げ込まれたが、姫は大蛇に変身して、父母を殺した一族を滅ぼした。姫の恨みは深く、成仏できずに里人に祟り続けた。里人は大蛇を神として祀ることにしたが、大蛇は「毎年、十六歳の娘を人身御供に差し出せ」という。それから三十三年後、くじで娘を差し出さなければならなくなった金持ちが、都で人買いから身代わりの娘を買うことにした。その「身代わり」となったのが松浦という大和の長者の娘、作世姫で、姫の唱える法華経の功徳により、大蛇は成仏できた。作世姫が大蛇の骨を削って作った小さな地蔵尊を祀ったのが蛇骨地蔵で、作世姫の前に生贄となった三十二人の娘たちと、作世姫自身を合わせた三十三体の観音像が並ぶことになった。五郎兵衛が「この像には詳しい縁起がある」と言うように、蛇骨地蔵にまつわる物語は大長編で、道中記には書ききれなかったのだろう。

注27 福原=奥州街道の宿場。郡山市富久山町福原。一里塚は現存していないが、その史跡の石柱がある。

注28 郡山=現在は福島県最大の都市である郡山も、江戸時代は二本松藩内の宿場に過ぎなかった。郡山が発展するのは明治以降で、猪苗代湖の水を農業用水として引き込む安積疎水が造られたことと、福島県を南北と東西に結ぶ鉄道路線の十字路になったことで、急速に人口が増えたからだ。

注29 日出山(ひのでやま)=奥州街道の宿場。郡山市安積町日出山。郡山宿から日出山宿の間には小原田(こはらだ)宿があるが、五郎兵衛の道中記では触れられていない。

注30 三春城=秋田氏(5万5千石)の居城。JR磐越東線で郡山から2つ目に三春駅があるという近距離で、五郎兵衛が旅した頃は、城山も城の御殿も遠望できたのだろう。しかしその2年後の天明5年(1785)、火災で城の多くの建築物が失われ、さらに明治初期、廃城となって建築物から石垣、敷石まで廃棄された。城跡は現在、田村郡三春町が城山公園として整備している。

注31 長沼領=旧岩瀬郡長沼町(現須賀川市)に1万5千石を領した藩。藩主は水戸徳川家の分家で、常陸(茨城県内)にも5千石の領地があった。長沼領を本拠としたが、藩主は江戸に常駐した。

注32 笹川=奥州街道の宿場。郡山市安積町笹川。

注33 越後高田領=越後高田藩(新潟県上越市)は、榊原氏15万石。そのうち3万石の飛び地が、旧東村(現白河市)釜子(かまのこ)にあった。

注34 須賀川=奥州街道の宿場。現須賀川市。南の岩瀬郡鏡石町との境界近くに、史跡「須賀川一里塚」が保存されている。江戸の日本橋から数えて59番目の一里塚であり「江戸と須賀川六十里」と言われていた。戦国時代には二階堂氏、次いで蒲生氏の城があったが、江戸時代には東へ向かう岩城街道、棚倉街道、三春街道、西へ向かう会津街道の分岐点となる要衝の宿場・商人町として発展した。五郎兵衛の道中記にも「家の数が千五百ほどある」と書かれているように、近隣では大きな町だった。
芭蕉の『奥の細道』では、須賀川の宿老で、俳人でもあった相楽等躬(さがらとうきゅう)に4、5日引き止められたと記されている。そして芭蕉の「風流の初(はじめ)や奥の田植うた」を発句として、連句3巻ができたという。

注35 笠石=奥州街道の宿場。現岩瀬郡鏡石町笠石。

注36 矢吹の宿=現西白河郡矢吹町。源義家が前九年の役の帰途(1062年)、戦勝を祝して、ここに屋根を弓の矢で葺いた八幡神社を建てたことから「矢葺」(やぶき)の地名ができたという古くからの集落で、街道の宿駅となったのは、江戸時代の前の天正6年(1578)と伝えられる。五郎兵衛が触れた「切られ菩薩」の由来はわからない。

注37 土居=元々は集落の周囲に設けた土塁のことだったが、ここでは集落の出入りの検問所の意味で記されている。一般の通行人からは通行料を取ったと思われる。五郎兵衛は「新庄のご家中が一緒なので、通行するのに銭は払わなくてもよかった」と書いているが、新庄藩士がいつ、どこから、なんのために同道しているのか道中記には記されていない。

注38 踏ミ瀬=奥州街道の宿場。現西白河郡泉崎村踏瀬。五郎兵衛は「ふみせ」と記しているが、現在の地名の読み方は「ふませ」。

注39 大田川村=奥州街道の宿場。現西白河郡泉崎村太田川。五郎兵衛の「大田川」は誤記。

注40 松平越前守様=奥州への関門である白河は、江戸幕府は北方への備えとして譜代大名を配置した。五郎兵衛が「越前守」と記したのは、松平定邦である。この松平家は、家康の母・伝通院が再嫁した久松家に始まる家系で、当時、男子のなかった定邦は御三卿のひとつ、田安家から養子を迎えた。それが、後に老中となり、寛政の改革を推進した松平定信だ。定邦が隠居して、定信が白河藩主となるのは天明3年(1783)10月で、この年の3月に白河を通過した安倍五郎兵衛の道中記に記録されないのは当然だ。

注41 白河の関=古代の陸奥への関門である白河の関は、能因法師の和歌「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(後拾遺集))によって、第1級の歌枕となり、数多くの名歌が詠まれた。芭蕉の『奥の細道』もみちのくの歌枕を訪ねる旅であった。しかし、蝦夷に対する防衛施設でもあった白河の関は、遅くとも13世紀には役割を終え、芭蕉が訪ねた頃には場所もわからなくなっていた。俳人でもある安倍五郎兵衛も「左の方にその山が見える」と言うだけで、そちらへ足を向けなかったのは、歌枕の地とは確信できなかったからだろう。
しかし現在、白河の関は国の史跡に指定されている。その場所は、白河城下から次の白坂宿へ向かう旧奥州街道(現在の国道294号にほぼ重なる)の途中で東へ5キロほど離れた、白河市旗宿にある。ここにあった式内社白河神社の地こそ、古代の白河の関だと認定したのは、白河藩主松平定信だった。寛政の改革が頓挫し、藩主の座も長男に譲って「楽翁」と号した定信の、郷土史研究の成果と言える。

注42 金売吉次をまつる小さなお堂=源頼朝の追討から逃れて、平泉の藤原氏を頼った義経を経済的に援助した人物と『義経記』や『源平盛衰記』には記されているが、実像は不明。奥州藤原氏に近い商人で、砂金を京の都へ運ぶ途中、ここに記された皮(かわ)籠(ご)(白河市白坂字皮籠)で群盗に襲われ、吉次ら3人兄弟が殺されたという。五郎兵衛は「小さなお堂」と書いているが、現在は吉次らの墓とされる3基の宝篋印塔がある。

注43 白坂=江戸への上り道では、陸奥の国の最後の宿場。白河城下から1里半、次の下野(栃木県)最初の宿場の芦野までは3里8丁ある。豊臣秀吉の小田原攻略の際、小田原から会津への街道整備を命じられた伊達政宗が、芦野から白河までが遠すぎるとして白坂に新たな宿場を設けたと伝えられる。
白河城下からはほぼ真南に位置し、後の戊辰戦争では、この間が激戦地となった。

注44 芭蕉の句=「風流のはじめや奥の田植うた」は、注34で紹介したように、須賀川の俳人相楽等躬宅で詠まれた発句。芭蕉は白河の関では句ができなかったのだが、等躬に「白河の関ではどんな句ができたのか、ぜひともお教えください」と強く乞われて、この田植うたの句をひねり出した。それで実際に作ったのは須賀川だが、白河の関に句碑が建てられたのである。

注45 「境の明神」=陸奥(福島県)と下野(栃木県)の境界に立つ2つの神社を総称して「境の明神」と呼んでいる。ところが、福島県では福島県側にあるのを玉津島神社といい、栃木県側にあるのを住吉神社としているのに対して、栃木県側では「こちらが玉津島神社で、福島県側にあるのは住吉神社」と主張している。さらに「どちらも玉津島神社」とする説もある。この名称混乱の原因はわからないが、2つの神社のちょうど中間が県境で、神社の方から見て道路向かいに、「従是(これより)北白川領」と刻まれた石柱がある。白河藩主松平定信が建てたと伝えられているから、安倍五郎兵衛は見ていないはずだ。
五郎兵衛が「国津島大明神」と書いているのは、誤記。「玉津島神社」は、紀州(和歌山県)和歌の浦にある神社で、11世紀にその分霊を「境の明神」に勧請したと伝えられている。
なお、五郎兵衛が「下野へ越えた国境にも大日如来堂があって」というのは、よくわからない。五郎兵衛の旅から50年ほど後の天保3年(1832)に社殿が焼失しており、それ以前に大日如来堂があったのかもしれない。


≪解説≫
 3月17日に仙台藩領(宮城県)の越河(こすごう)から、現在の福島県伊達郡国見町貝田に入った安倍五郎兵衛の一行は、4泊5日の旅を重ねて21日に白坂(白河市)から下野(栃木県)へ抜けた。この間、直線距離で約100キロ(JR東北本線の貝田駅から白坂駅までは113km)を5日で歩いたことになる。単純計算では1日に20キロだから、大人なら1里=4キロを1時間で歩くのが普通とすれば、1日の歩行時間は5時間になる。江戸時代の人の脚力としては緩やかなペースだったと言える。
 ただ、前回紹介した宮城県内の旅が『奥の細道』をほとんどなぞるような道筋だったのに比べると、福島県内では、芭蕉が訪ねた有名な歌枕の地に全くと言っていいほど寄り道していない。そっけないほどに淡々とした旅日記だ。
 これは当時、奥州街道が天領、大名領に細分されていた影響かもしれないと考えた。
 福島県は太平洋岸の「浜通り」、現在の東北新幹線、東北自動車道の通る「中通り」、そして奥羽山脈から西側の「会津地方」と、大きく東西に地域が分けられる。3代将軍徳川家光の弟である保科正之を始祖とする会津藩、松平氏28万石が統治していた会津に比べて、中通り地方は領地も領主も頻?に変化した。
 中通り北部の福島市、伊達市、伊達郡は江戸時代当初は米沢藩30万石、上杉氏の領地だった。しかし寛文4年(1664)、米沢藩3代藩主上杉綱勝が跡継ぎを決めずに急死し、あの「忠臣蔵」の吉良上野介義央の長男を養子に迎えて4代藩主綱憲とした。これで家名は存続できたが、米沢藩は、現在の福島県内にあった15万石を没収されてしまった。
 その後、五郎兵衛たちが1泊した桑折宿に桑折藩が置かれたこともあったが、桑折宿の西側に昔から知られていた半田銀山で山で、新たに有望な鉱脈が見つかったことから延享4年(1747)、付近一帯は天領となった。そのほかにも大名の入れ替え、大名領の飛び地など、領地の変遷は数え上げればきりがないほどだ。
 五郎兵衛の道中記では、笠石宿と矢吹宿の間に検問所である「土居」(注37参照)が次々にあったとしか書かれていないが、街道の通行管理者が変われば、その都度なにかしらの手間がかかったに違いない。
 また、五郎兵衛は全く触れていないが、両替の手間もあったかもしれない。
 五郎兵衛の伊勢参りから60年ほど後の天保12年(1841)10月から始まる江戸の落語家の旅日記『奥のしをり』(現代語訳・加藤貞仁、無明舎出版)には、北上して盛岡藩領に入ると仙台藩の藩札に信用がなくて難儀したことが書かれている。
 仙台藩4代藩主・伊達綱村は、存亡の危機となった「伊達騒動」(寛文11年=1671)の後、藩内をとりまとめた名君と言われるが、多額の借金をこしらえ藩財政を窮地に追い込んだ人でもある。以後の仙台藩は財政難に悩まされ続けることになるが、5代藩主・吉村は赤字解消策として大量の藩札(藩内だけで流通させる紙幣)を発行し、享保13年(1728)からは石巻で、藩内で産する銅を原料に、正規の寛永通宝に似せた銭の鋳造を始めて多額の利益を得た。しかしその銭は次第に粗製乱造され、ついには粗悪な鉄銭まで作った。
 そして、五郎兵衛の旅の翌年、天明4年(1784)4月からは不換紙幣である銀札を発行、7月からは仙台藩内だけで通用する銭「仙台通宝」の鋳造を始めた。
『江戸のしをり』では、仙台領から北上して南部(盛岡藩領)に入った江戸の落語家が馬子への駄賃や、買い物などで、仙台の藩札は価値が低く、仙台通宝は受け取ってもらえなかったと嘆いている。
 不評の銀札や仙台通宝が登場する前に仙台藩領を通過して来た五郎兵衛たちの財布には、粗悪な仙台藩の銭は入っていなかったのだろうか。
 そんなトラブルはなくても、江戸時代の通貨は、小判を基本とした金貨、重さで価値を決める銀貨、それに日常に使う銅銭の3種類があって、互いにその日の相場で両替しなければならなかった。これは当時の人々にとっては「当たり前のこと」だったから、五郎兵衛は道中記に記録しなかったのかもしれない。けれども、福島や二本松、白河などの城下町には必ず両替商がいたから、そこで案外と時間がかかったのかもしれない。
 福島県内の道中が、寄り道もしないのに、意外とゆっくりしていることから、そんな状況も考えられた。


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