茨城県内
 ◇筑波山に登る
 (三月二十六日、真岡から)小栗(注1)まで二里半。ここは小栗判官公(注2)の古跡で、問屋(注3)の松谷清七に40文払った。
 ここから、初めて富士山を見た(注4)。

 三月二十七日、金敷(注5)まで二里十丁。
 真壁(注6)まで一里半。
 椎尾(注7)まで一里十丁。ここには薬師堂(注8)があり、三重塔と常に念仏を唱えている寺があった。
 筑波山(注9)へ向かう。登り五十丁の道のりだ。
 (筑波山の)男体山にはイザナギノミコト社の末社があり、女体山にはイザナミノミコト社の末社(注10)がある。どちらも険しい岩山で、峰の上にお宮があるほか、末社が数多くあり、所々に鉄の鎖を伝って登り、また下る場所があり、竹梯子で下る所もあった。頂上にある社の周囲には木が見えず、そこから下にトドマツ(注11)が生えている山だった。
 一の鳥居には勅額(注1)があった。
 ふもとのつく波町(注12)へは下り五十丁の道のりで、宿は稲葉太郎兵衛の木賃宿で、四十五文だった。
 林麓(りんろく)(注13)に、公方様がお建てになった観音堂(注14)は十三間四方あって、そのほかに末社も数多い。どれもがよい建築で、家光公様が再建なさったものだ。
 筑波山は千五百石が社領地で、この山の内に「ミなの川」(注15)がある。すべて山続きだ。

  ◇鹿島大明神へ
 二十八日。十三塚(注16)まで一里半。
 小幡(注17)まで十一丁。
 片野(注18)まで一里半。
 府中(注19)まで二里。
 小川(注20)まで二里。ここから鹿島(注21)へ行く舟便がある。ここまでの間に小さな村が数カ所あった。
 三月二十八日。玉造(注22)まで二里。宿は大黒屋利兵衛の木賃宿で四十文。〆て百六文だった。

 二十九日。手賀(注23)まで一里。
 麻生(注24)まで三里。
 牛堀(注25)まで一里。牛堀から鹿島までの三里は舟に乗るのが良い。船賃は一人三十八文で、十八人の乗り合いだった。
 (船を降りて)潮来(いたこ)(注26)までは一里。
 洲崎(注27)まで一里。ここに地蔵堂があるのが見えた。
 ここからは、横切って渡るのに二十八丁(約3百メートル)もある大きな川(注28)だ。一人三十文ずつの船賃で川を越えるという。

 二十九日は着泊まりで、鹿島まで一里。宿は膳田屋義兵衛で三十八文。

 四月朔日の朝、鹿島大明神(注29)の御社に参詣した。この神社は大同二年(注30)開基という。三笠山と号す社領は二千石。社の奥に御手洗要石(注31)があり、そこから十八丁の所に御高天が原という場所がある。ただしそれは鳥井川の中だ。
 息栖(注32)まで三里。鳥井が川の中にあり、わきに御かめが鳥居のわきにある。
 息栖大明神(注33)の社領は千石。ただし鹿島から舟でお参りに来た。
 ここから先は下総領(注34)だ。


注1 小栗=茨城県筑西市(旧真壁郡協和町)小栗(おぐり)。栃木県真岡市からは、ほぼまっすぐ南下した位置になる。旧協和町内には、奈良時代の郡役所跡が発掘されていて、古代の新治郡の中心地だったとされている。

注2 小栗判官公=鎌倉幕府成立とともに、常陸平氏一族の小栗重成が地頭職となり、世襲されたのが史実だが、江戸時代に「小栗判官」と言えば、説教節や歌舞伎で人気を博した演目だった。妻・照手姫の一族に殺された小栗判官が、閻魔大王の計らいでよみがえり、復讐を果たすという物語だ。平成になっても、新たにスーパー歌舞伎、宝塚歌劇団公演、オペラとして脚色されて演じられている。
茨城県筑西市では平成元年(1989)から、同市協和地区に伝わる小栗判官伝説を再現する祭りも行われている。

注3 問屋=「といや」。江戸時代の宿場町で、運輸や宿泊の事務をつかさどる宿役人の長。

注4 初めて富士山を見た=茨城県筑西市の平野部から、南西方向に富士山が見える。しかし、すぐ気づくほどの大きさではないので、誰か地元の人が五郎兵衛に「あれが富士山」と教えてくれたのだろう。
 ちなみに富士山が見える北限は、福島県の伊達郡川俣町と相馬郡飯舘村の境界にある花塚山(標高919m)で、2016年に写真撮影に成功して知られるようになった。富士山までの直線距離は308q。

注5 金敷=桜川市(旧真壁郡大和村)金敷。

注6 真壁=桜川市(旧真壁郡真壁町)真壁。

注7 椎尾=桜川市(旧真壁町)椎尾。標高256mの椎尾山は、筑波山へ登る道筋のひとつ。

注8 薬師堂=椎尾山の中腹に薬王院(天台宗)がある。本尊の青銅薬師瑠璃光如来坐像(茨城県指定文化財)を安置する本堂が「薬師堂」で、現在は一般に椎尾薬師と呼ばれている。開基は8世紀末と言われているが、天文19年(1550)に全山焼失し、江戸時代になって寺領100石をあたえられ、延宝年間(1673〜81)建立の本堂、貞享2年(1685)建立の仁王門、宝永元年(1704)建立の三重塔(茨城県指定文化財)がある。

注9 筑波山=関東平野の孤峰。標高は876mと、それほど高くないが、東北新幹線の車窓など広い地域から見ることができ、古来「西の富士、東の筑波」と親しまれて来た。山頂は西側の男体山(871m)と東側の女体山(877m)に分かれる。

注10 イザナギノミコト社の末社、イザナミノミコト社の末社=筑波山の中腹(海抜250m)にある筑波山神社の御神体がふたつの頂上で、祭神は西峰(男体山)がイザナギノミコト(筑波男大神=つくばおのおおかみ)、東峰(女体山)がイザナミノミコト(筑波女大神=つくばめのおおかみ)。延喜式にも「筑波山二座」と記されている。並び立つ男女の峰は古来、神霊の宿る聖地とされ、頂上にそれぞれ男体山神社、女体山神社の本殿が置かれ、中腹の神社は拝殿だけである。

注11 そこから下にトドマツ=五郎兵衛は椴(たん)という難しい漢字を書いているが、これはトドマツのこと。「そこから下」に木があって、上の方には樹木がないということを、現在の自然科学では「森林限界」という。

注12 つく波町=現在のつくば市中心部。

注13 林麓(りんろく)=山のふもとの林のある場所を指すと思われるが、一般的な言葉ではない。五郎兵衛の造語かもしれない。

注14 観音堂=千手観音を本尊とする大御堂(おおみどう)。8世紀末に創建された法相宗の寺院が、後に空海によって真言密教の霊場、知足院中禅寺と姿を変え、さらに天台宗の寺となったが、江戸時代に真言宗に改宗したという。江戸時代には坂東(関東地方)三十三観音の25番札所となった。

注15 ミなの川=筑波山の東西2峰の間から南麓に流れ下る渓流が男女川(みなのかわ)。『百人一首』に「筑波嶺の峰より落つる男女(みな)の川恋ぞつもりて淵となりたる」(陽成院)があるように、古くから恋を詠う歌枕の地として知られていた。

注16 十三塚=筑波山の南東の尾根に位置する、標高412mの十三塚峠のこと。南東からの筑波山への登山道として古くから開けた峠道だ。現在の石岡市小幡十三塚とつくば市筑波を分ける峠だが、今は「風返し峠」と呼ばれる方が多い。 太平洋からの強い風が、筑波山からの風を吹き返したことに由来するという。

注17 小幡=石岡市小幡(おばた)。旧八郷町。十三塚峠から東へ下る道筋。

注18 片野=石岡市片野(旧八郷町)。小幡からはほぼ真東あたる。

注19 府中=石岡市府中。聖武天皇の時代に常陸国分寺が置かれた、歴史ある土地。江戸時代は、元禄13年(1700)以降、水戸徳川家の分家である松平氏2万石の陣屋が置かれた。しかし、府中藩松平家の領地の大部分は飛び地の長沼(福島県須賀川市)にあった。
 蛇足だが、手塚治虫の名作『陽だまりの樹』の2人の主人公の片方、伊武谷万二郎はこの府中藩士という設定だ。もう1人の主人公、蘭方医・手塚良仙は実在の人物で、手塚治虫の先祖だそうだ。対して、架空の人物である伊武谷をなぜ府中藩士としたか、何の説明もない。

注20 小川=茨城県小美玉市小川(旧東茨城郡小川町)。

注21 鹿島=鹿嶋市(佐賀県鹿島市と区別するため、茨城県の方は「鹿嶋」と表記する)。

注22 玉造=行方(なめかた)市玉造(たまつくり。旧行方郡玉造町)。

注23 手賀=行方市手賀(旧玉造町手賀)。

注24 麻生=行方市麻生(旧行方郡麻生町)。

注25 牛堀=潮来(いたこ)市牛堀(旧行方郡牛堀町)。玉造から潮来・鹿島への道筋。

注26 潮来=潮来市。霞ケ浦、北浦、常陸利根川に囲まれた「水郷」で知られる地域。江戸時代は利根川水運の中継基地として栄えた。花村菊枝が歌った「潮来花嫁さん」(昭和35年4月)や、「潮来の伊太郎」と歌い出す橋幸夫のデビュー曲「潮来傘」(昭和35年7月)を思い出す人もいるだろう。

注27 洲崎=潮来市洲崎。

注28 大きな川=川ではなく、湖である北浦の一部。現在は国道51号の神宮橋が架かっている。

注29 鹿島大明神=常陸国一宮の鹿島神宮のこと。祭神は武壅槌神(タケミカヅチノカミ)。「古事記」で出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)に国譲りを迫ったとされる天照大神(アマテラスオオミカミ)の使者タケミカヅチは、古来軍神として武人の尊崇が厚い。平安中期に編纂された、律令の施行規則である「延喜式」には、朝廷と国司が認めた全国の神社一覧(神名帳)があるが、その中で「神宮」と表記されたのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社だけだ。それだけ格式の高い神社だったと言える。
 安倍五郎兵衛が、その鹿島神宮を「鹿島大明神」と書いているのは、間違いではない。江戸時代はそう呼ばれるのが一般的だったからだ。「延喜式」の時代、朝廷が定めた神社の格式のひとつに「名神」(みょうじん)があった。非常に霊験あらたかとされ、そのすべてが大きな神社だった。これに対して「明神」は、日本の民を救済するために現れた仏様の化身という、仏教由来の神様。10世紀には「大明神」という神号が広まり、「名神」と混同され、次第に「名神」が使われなくなったという。
 明治になって、廃仏毀釈など神道を優先した政策の中で「仏教由来の神号は排除するように」と指令され、鹿島神宮の呼称に統一された。

注30 大同二年=西暦807年。第50代桓武天皇の後を継いだ平城天皇が「大同」と改元。その翌年には、なぜか東北地方の数多くの神社、寺院が創設されたとされている。

注31 御手洗要石=鹿島神宮の東の林の中にある石。根は深く地中に広がる。鹿島神が天降りの時この石に坐したといい、地震のしずめともいう。

注32 息栖=神栖市息栖(いきす)。

注33 息栖大明神=神栖市にある息栖神社。創立は鹿島、香取の2神宮と同じとの伝えがあり、東国三社といわれ、江戸時代は「三社詣で」の人々でにぎわった。享保7年(1722)に豪壮な社殿が造営されたというから、五郎兵衛たちもここまで足を伸ばした甲斐があったことだろう。ところがこの社殿は昭和35年(1960)に火事で失われた。再建された現在の社殿は鉄筋コンクリート造りだ。

注34 下総領=今の千葉県北部と茨城県の一部。息栖神社からは、霞ケ浦から流れ出す常陸利根川を渡ると下総で、そこからは現在の千葉県。利根川の本流も下総(千葉県)に属する。



≪解説≫
 下野(栃木県)から常陸(茨城県)に入った安倍五郎兵衛の一行は、ほぼ南東方向に一直線に進み、筑波山に登った。関東平野に鎮座する孤峰は、五郎兵衛たちには「必見の場所」だったのだろう。今はケーブルカーでも山頂近くまで登れる筑波山だが、五郎兵衛たちは鉄の鎖を伝って山頂まで登るなど、苦労した様子がうかがえる。
 筑波山に北西から登った後は、そのまま南東方向に下り、おおよそ同じ方向に進んだ。次の目的地は鹿島神宮だ。
 鹿島神宮と、下総(千葉県)にある香取神宮は古来、一対の神社と認識され、これに息栖神社を加えた三社詣では、当時の旅人にとっては「必須のコース」だった。だから今回、香取神宮まで含めてもよかったが、現代人には茨城県と千葉県、それぞれに旅日記を紹介した方が、地理的にわかりやすいかと考えた。
 というわけで、次回は千葉県での五郎兵衛一行の足跡をたどることにする。


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